きみとグッデイ

森下千尋

娘へ

 潮風に吹かれる小高い丘の頂上に、トキばあと介護ロボットのグッデイは住んでいました。

 トキばあは数年前から認知症を患っていました。朝起きると、ここが何処だかわかりません。

 しかし、グッデイが毎朝開け放ってくれる、窓から入ってくる潮風が、訳もなくトキばあを安心させるのです。

 頃合いを見計らってグッデイが部屋へと入ってきます。彼はトキばあを安心させる為、幼い頃からおうちにあった熊のぬいぐるみの形をしています。

 「おはよう。今日もいい風が吹いているね」

 「あら、可愛い熊さんね。どちらさま?」

 「ぼくはグッデイ。時乃ちゃんのことは昔から知っているよ」

 「いやだねえ、時乃ちゃんだなんて。何だか随分歳を取った気がするわ」

 そうしてトキばあは遠くの海を眺めます。海に陽が差し込みきらきらと揺れていました。

 「変ね、グッデイ。今まで色んなことがあったはずなのに。良く思い出せないの」

 グッデイはベッドに腰掛けるトキばあの手を握ってあげます。

 「そっか、でも大丈夫だよ」

 トキばあはグッデイを抱き寄せます。そうすると懐かしい感じが胸に沸き起こりました。

 「何だろう。昔もこうしていた気がするわ」

 グッデイもトキばあも暖かい気持ちに包まれます。

 「そうだ。おなかがすいたでしょ。何か好きなものを作ろうか、何がいい?」と、グッデイが言います。

 ぬいぐるみにごはんが作れるのか果たして疑問でしたが、トキばあはひどくおなかがすいていたことに気がつきました。

 彼女は少し考えて答えます。

 「だったらハンバーグが良いわ。昔ママがよく作ってくれたの」

 ママ? トキばあはハッとします。

 窓際にある写真立て。貝殻で作られたフレームの中にある写真にトキばあの家族が写っていました。トキばあ、ママ、そしてパパ。ママとパパはどこへ行っちゃったのかしら、トキばあは少し寂しくなりました。

 グッデイはそんな気持ちを知ってか知らずか、オッケーと言い意気揚々とキッチンへ向かいました。

 一人になった部屋で、トキばあは潮風を全身に感じます。

 波音を聴きながらボーッとしていると、やがてキッチンから香ばしい匂いがしてきました。

 「あ、ハンバーグだ」

 トキばあはベッド脇に置いてあった杖を手に取り、ゆっくりと歩きだします。

 キッチンにはハンバーグに茹でた野菜、スープに少量のごはんが並べられていました。 

 「ママの味とは違うけど一生懸命つくったから。どうぞ召し上がれ」

 グッデイが作ったハンバーグは煮込み風でとても美味しくて、トキばあは満足しました。

 「これ、前にもあなたに作ってもらった? 食べたことある気がするわ」

 グッデイは頷き、何回かあるかもねとおどけました。

 その後、グッデイとトキばあは、ニュース番組を見たり絵を描いたりして、ゆったりとした午後を過ごしました。軽い夕食を取り、シャワーを浴びると寝室へと戻ります。

 「はあ、きょうはとっても良い一日だった。あなたのおかげね、グッデイ」

 トキばあにそう言われグッデイは誇らしい気持ちでした。

 ただ・・、しかし彼女は不安そうな顔をします。

 「明日になっても覚えていられるかしら」

 グッデイは言葉に詰まりましたが、仰向けに寝るトキばあのおなかをトントンと叩きます。

 トントン、トントン。

 記憶は零れて、時はチクタク。

 誰しも、その胸に抱えきれない大事な思い出を、長い人生の最中ポロポロと落としてしまいます。

 「ぼくが何度でも話してあげるよ。きみの、かけがいのない人生を、物語を」

 グッデイは泣いていました。ぬいぐるみなので涙は流れませんでしたが、トキばあには分かりました。

 「ありがとう、パパ・・」

 トキばあは微笑み、それからすぐに眠りました。穏やかな寝顔を見ながら、グッデイは頭を撫でてあげます。彼女が生まれて間もない頃から彼はそうしてあげていました。

 

 

 数年前、トキばあのパパは病院のベッドで寝たきりになっていました。

 「この年まで生きたんだから大往生でしょ」と周りの親戚が話しているのが聞こえます。

 トキばあのパパはある日、保険屋さんを病室に呼びます。

 彼は喋れない代わりに、震える手でスマホの画面に文字を打ちました。

 「新しい保険のシステムを利用したい」

 それは、現在の思考を保存し肉体は滅びる代わりにAI知能として自らを未来へ残す。画期的なプランでした。彼は貯めてきた保険料で、ぬいぐるみとして一人娘のそばにいることを選びました。

 人はなぜ生まれて死ぬのでしょう。

 「みんなねんね。みんなねんね。百年経ったらみんなねんね」

 子守うたを歌いながらトキばあのパパは娘の頬を撫でます。彼女は少し歳を取りました。でもそれだけです。

 娘はいつまでも娘で。愛してることに変わりはないのです。

小高い丘の頂上にあるおうちに、今夜も潮風がふきます。言葉は喋らなくても、風はそこにいて、ずっと優しいのです。

 トキばあのパパも安心して、まるで一瞬みたいな今を、ギュッと抱きしめて眠ります。

 少し歳を取った、愛する娘に抱きしめられて。

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きみとグッデイ 森下千尋 @chihiro_morishita

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