終章
秋の長雨は無事終わり、その日も夕日が世界を照らしていた。
織部千夏は薄緑のカーテンを開け、その太陽の光を病室へと取り込む。病室が一気に明るくなった。
千夏は微笑み、窓際のベッドに隣接してある丸いパイプ椅子に腰をかける。
今日も制服姿だ。ここ最近、学校帰りにここに来ることが多くなった。相変わらず両親は仕事の毎日で殆ど見舞に来る事は無い。
その方が良い。千夏は両親が大嫌いだし、正直顔を合わせたくはない。しかし大嫌いといっても、それを口に出したり、態度には出してはいない。小学校卒業時に進学コースを希望したのも、両親の元から離れるためだった。もちろん、それを両親は知らないだろうし、いまさら言うつもりもない。
兄を、『みえるひと』を変人扱いする人間はたとえ両親であっても許せない。むしろ親族なら信じてあげるべきなのだ、と千夏は考えていた。
「眩しいね、あ、そうそう。今日また告白されちゃった。今度は高等部のひと」
千夏はベッドで眠る人物に話しかける。けれど彼女が望む返事は帰って来ない。
「ちょっとカッコよかったかなー」
そのまま語り続ける。
病室はカーテンで仕切られてはいるものの四人部屋である。あまり大きな声は発せられない。千夏は少しだけ声のトーンを落とし、独り言のように小さく喋っていた。
「ま、誰かさんよりは劣るけど。ふふ」
千夏のそういうと窓を開けようと立ち上がる。あまり開けると同室の患者からクレームが入るため、少しだけ開けた。
ふわっと秋の風が入り込む。窓を開けた事により病室内の空気が少し変わった気がした。
そんなとき、病室を仕切っていたカーテンが開けられ、沢口里奈が顔を覗かせた。
「あら、千夏ちゃん」
「あ、里奈さん。来てくれていたんですか」
「うん、お花持ってきたから、花瓶に水を入れて来たの」
里奈はそう言うと両手に抱えた花瓶を、ベッドの脇に設置された床頭台に置いた。その床頭台の下には兄と同じ学校指定の鞄があった。どうやら里奈は千夏よりも先にお見舞いに来ていたらしい。千夏はそれに気づかずに一人話しかけていたことを、少し恥ずかしくなった。
また窓からやわらかな風が病室内に入り込む、里奈が差した花瓶からほのかな植物の匂いが無機質な病室を包んだ。
「いつもありがとうございます」
「ううん、こちらこそ」
里奈はそう言うと千夏とは反対方向にあるパイプ椅子に座った。ベッドを囲んで二人が彼を見つめている。
床頭台に添えられたピンク色のガーベラが窓から入って来た風によって少し動く。
「いつもピンクのガーベラですね」
「うん、花言葉にあやかって持ってきてるの」
「どんな花言葉なんですか?」
里奈は少し意地悪く笑い「内緒」と言った。
千夏はピンクのガーベラの花言葉を実は知っていた、ガーベラの花言葉は『希望』や『前進』と意味する。そしてピンクのガーベラは『感謝』や『崇高美』を意味していた。
つまり私はあなたに感謝している、だから早く元気になってほしいと願いを込めたのだろう。
ガーベラは花の香りが無い、あるのは植物特有の草の匂いだ。お見舞いに利用される花で病室内に花の香りが充満すると、それを不快に思う人も多いため、花の香りがないガーベラが適していると聞いたことがある。
何故、里奈がそれを言わないのかは謎だが、きっと直接本人に伝えたいからなのだろうと千夏は思っていた。
「良く眠ってる」
「うん」
「全く……美少女二人に囲まれるなんて、なかなかあることじゃありませんよ。なのにずっと寝てるって、一体どういう神経してるんでしょうか」
「ふふ、そうね」
里奈はそう言うとまた少し笑った。
「さ、私はそろそろ帰るわね」
「え、もうですか?」
「ふふ、可愛い妹さんと二人きりにしてあげた方がいいかな~と思ってね」
「あ、そういう感情ありませんよ?」
「わかってるわよ。冗談冗談」
里奈は可愛くウィンクをして病室を出て行った。千夏は里奈に感謝していた。最初は兄の話を信じられず、疑心暗鬼に陥っていたという話だが、あの件以来、兄の力について考えられるようになったと聞いている。
それが兄にとって、どれほど有難いことか。妹である千夏はそれが良く理解出来た。
理解者である精神科医の田沼も井上という刑事も、足しげくお見舞いに現れてくれるし、千夏はその二人にも支えられている。
里奈が去って三十分程が経過し、日が陰って来た。最近の日暮れは早い。病室に吹き込む風が急に冷えて来た。千夏は開けていた窓を閉め、再度パイプ椅子に座りなおした。
「ねえ、お兄ちゃん」
千夏は兄に話しかける。
返事はない。彼はずっと寝ている。
あの日以来起きることも、喋ることも無い。
兄が事故に遭ったと聞いたとき、心臓が飛び出そうになった。しかしその反面、ああやっぱりという思いが同時に押し寄せてきていた。
兄は選んだのだ。里奈の代わりに自らを差し出すことを。
「いい加減起きてよ」
千夏は兄に話しかける。
「もういいでしょ。私をひとりにしないでよ。それに里奈さんが待ってるよ」
反応はない。あの日以来、兄はずっと眠ったままだ。
「ごめんね、わたしずっとお兄ちゃんに黙っていたことがあるんだよ。それをちゃんと伝えたいの。だから起きてよ」
やはり反応は無い。兄はベッドの上で静かに寝息を立てていた。
「もしかしたら気づいていたのかな? でもお兄ちゃん鈍感だから……、そんなことないよね?」
千夏は兄の手にそっと触れ、優しく握った。残念ながら握り返してはくれない。それが千夏にはたまらなく悲しかった。
優しい兄の手、いつでも一人で悩んで、苦しんで、辛かっただろうと思う。もっと自分が理解してあげるべきだった。もっと兄に寄り添ってあげるべきだった。
いまは後悔だけが激しく募る。
「止まったよ、里奈さんのカウントダウン。あの日以来みえないよ。だからもう大丈夫。だからもう起きていいんだよ」
隔世遺伝、祖父の能力が受け継がれたのは直斗だけではない。千夏もその一人だったのだ。千夏は兄が阻害されていく様を怖く思い、誰にも言わずに今日まで生きて来た。
でもそれは間違いだった。兄にそれを打ち明け、二人で乗り越えるべきだったのだ。
千夏は顔を伏せ、兄の手をギュッと握る。何度握ってもそれは返ってこない。千夏は寂しくて、切なくて、大きな瞳に涙を溜めた。
「ねえ、返事してよ」
夕日が差し込む病室に静かな時間が流れる。いくら待っても返事は来ない。千夏は医者にも言われていることがあった。今の兄は生きているという表現が相応しくない。息をしているので、死んでいるわけではない。かといってそれが生きていると言えるべきものではない。ずっと寝ているだけだ。
秋の長雨が引き起こした悲しい事故は、生存者が重体という終わりを迎えた。これは助かったと言えるのか。これは生きていると言えるのか。
千夏にはその答えがわからなかった。
「お兄ちゃん……」
千夏の瞳から、涙が流れた。
もうみえない、里奈のカウントダウンはみえない。兄のカウントダウンもみえない。だから起きるべきなのだ。兄は死ぬ運命じゃない。里奈の運命も変え、自分の運命すら変えたのだ。
兄は起きて元気にほほ笑むべきなのだ。いつものように憎まれ口を自分に投げつけるべきなのだ。それに答えて千夏は言うだろう。
全くこれだからお兄ちゃんは、と。
それだけでいい、目を覚ましてそれを言って欲しい。妹の私が兄の手になろう、足になろう、何でもいい。兄が助かるならなんだってやる。
千夏は祈った、神に祈った。どうか兄をお救いくださいと。
みえるひと 〜命のカウントダウン〜 高樹シンヤ @shinya-takagi
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