第2話 ナミダアメ

 あれは中学3年の秋だった。



 中3、受験生。

 少し遠い地域の私立高校に推薦が決まっていた智は、学力を保つためにだけ塾に通っていた。


 というのは口実で…


「今井くん聞いてる?」


「はい、聞いてますよ?」

 智はにっこり笑ってその講師の長いまつ毛を見つめた。

 その瞼が閃いて、光る瞳がこちらを向く。


「……」


 少しの沈黙の間、ほんの数秒、その瞳と見つめ合う。


「うん、だからね、この公式じゃなくてこっちの…」


 透明感のある綺麗な声が耳に心地いい。つややかな唇がつむぎ出す言葉は、説明されなくてもだいたい智には分かることばかりだった。


「うん、わかりやすい」


「じゃあちゃんと解く、気を抜かないの」


「はーい」


 返事すると、口角がキュッと上がった。智は、その顔がすごく好きだ。


 真宮ひかる。大学3回生。21歳。


 塾の講師としては二年目で、教え方が上手いと評判だ。

 柔らかそうなウェーブがかった髪は色素が元々うすいのか、染めてもいないのに茶色くて、ハッキリした目元を縁取るまつ毛も同様に少し色が薄かった。

 薄くも厚くもない唇は形が綺麗で、口角をあげると艶っとして綺麗だった。


 周りは受験で遊ぶ暇もないので、一緒につるむ同輩もおらず、智は時々1人で映画を観に出掛けた。


 隣町に小さな映画館があって、そこで昔の作品を割と安い値段で上映していたのだ。


「あれ?今井くん?」

 声をかけられて振り向くと、そこに居たのは真宮だった。


「先生、1人?」


「うん、あなたも?」


「みんな受験で構ってくれないから暇で」


「ここいい?私も1人なの」


 智は内心ガッツポーズを決めた。

 今でこそ受験で手一杯で話題にこそ上がらないが、真宮は同じ塾に通う男子生徒達の憧れだった。


 映画を隣合って観るなど、どんなにか羨ましがられるシチュエーションだろう。

 そんなことよりも、生徒としてでは無く、外の人間同士として、関わりを持つことが出来たことが嬉しかった。


 いつものスーツではなく、柔らかい印象の私服。淡い色のコットンセーターからは、身動ぎしたおりなどにフワリと優しい香りがして、智の鼻腔をくすぐった。


「ねえ、お茶でもしようか。奢ってあげる」


 真宮に誘われて、街中のビルの下に入っている喫茶店に入った。

 落ち着いた雰囲気の喫茶店は、木製のカウンターや床材がツヤっとしていて、照明や椅子と座面などの色がしぶかった。



「こういうところ良く来るんですか

 ?」


「うん、時々ね。映画の帰りによく来るんだけど」


 紅茶にミルクを入れて口にした真宮に習って智もミルクティーにした。


「映画、ちゃんと観てた?」


 真宮は意味ありげな目線で智を観た。

 ほんのりと赤くなったのが自分でわかる。

 始終、真宮の方を気にしていた。


 スクリーンの光に照らされた頬はいつもにも増して白くて綺麗だった。


「観てましたよ」


 口先だけの返答。

 真宮は、分かって言っている。


 真宮はポケットからチケットの半券を取り出した。

 店の店主が凝っていて、わざわざ半券を繋げると続き絵になるように作っているのだとか。

 残念ながら智と真宮の絵は続きではなかったらしい。


 そのまま智ははその半券を貰った。


「今井くんはモテそうね、彼女とかいないの?」


「いませんよ、いたら1人で映画なんか観てないでしょ」


「まあ、受験だからね、いた所で推薦組が受験を邪魔できないもんね」


 真宮が笑った。


 いつもの仕事用の上品な微笑みではなくて、年相応の笑顔だった。

 その笑顔に

 見入ってしまった。


「真宮さんこそ、そんな美人なのに彼氏居ないんですか?」


 かねてから気ななっていたことを聞き出すいい機会だった。


「うーん、居たけど。今はいないよ」


「別れたってことですか?」


「…うん、まあね」


「聞いちゃまずかったですか?」


「聞かれて困ることはこちらから聞いたりしないよ。全然平気」


 頬杖ついたままそう答えると、窓の外の街路樹に目をやった。


「今井くんはバレーボールやるんだっけ?」


「はい」


「ポジションは?」


「セッターです」


「おお、仕切り屋さんじゃない。頭もいいんだね。あ、これは勉強の頭じゃないよ?勘とか、切り替えとか、回転の良さとかの頭ね」


 真宮が言う。


「慣れだと思うんですけどね。鈍らないように週に2回ほど部活出てるんですけどね、後輩たちからは邪魔だろうなと思いますよ」


「目の上のたんこぶってやつね。」


 紅茶の残りを喉に流し込んだ。


「私の元彼もバレーやってた。同じセッターね。練習も見てきてる」


「だから詳しいんだ」


「まあね」


 ふと何を思ったのか、真宮が言った。


「ねえ、手、見せて?」


 智は何が始まるんだ?と怪訝そうに右手を差し出した。

 柔らかい指先が智の手を取った。

 その不意に触れられた柔らかさにドキドキし始めた。


「うーん、また違うんだね、同じスポーツやってても」


「彼氏さんと似てないですか?」


「うん、全く違うよ、君は繊細そうな指してるね」


「バレーやってる割には細いって言われます」


「もっと節が太くてね、皮がごつかった」


 その表情に少し切なさが見えた。

 智は旨がきゅう、と締め付けられた。


(まだ、好きなんだな)


 気がついて手を引っ込めた。


「真宮さんは綺麗だから、きっともっといい人現れますって」


 思わず言っていた。何言ってんだろ?俺、と焦った。


「やだ、慰めてくれてるの?ありがとうね」


 真宮は少しだけ顔を赤くした。

 その表情が可愛い、と智は思った。



 そんな出来事があってから、塾では冒頭のような視線が時々交わされた。

 からかわれているのか、少しは期待していいのか。

 経験の足りない智には判断がつかなかった。

 だがその辺にいる男子生徒と自分では、真宮の中では確実にポジションが違うという自身だけはあった。



 秋の連休時、午前に塾があって、午後からは部活に出ていたその日、夕方駅前に買い物があって塾の前を通った。


 すると仕事が終わったのか、間宮が出てきた。


「これから電車?どっちなの?松宮の方?」


 聞かれて頷くと


「方向一緒だね」


 言われて同じ電車に乗り込んだ。


「最近、駅からつけられてるのよ、時々」


 そう言って乗客に注意深く目をやる。


「親が地元に帰ってこいって言うのも何となく頷けるわ」


 ふと笑った。


「いや、笑ってる場合じゃないでしょ?暗いし送りますよ」


「ええ?中学生にそう言われてもなぁ」


「中坊でも男です、女ひとりよりはマシです」


 言い切った。有無を言わせてはダメだ。


「じゃあお願いしようかな?」


 その日は雨の予報が出ていた。

 駅から出た頃には軽く湿った匂いがした。


 間宮のアパートが近づくと、パラパラと降り出し、駆け足でアパートに着いた頃には頭から雫がポタポタと落ちるほど濡れてしまっていた。



「大変、タオル貸すからちゃんと拭いて!ちょっとだけそこで待ってて」


 鍵を開けて中に入った間宮はしばらくして、玄関に戻ってきた。


「散らかってるけど、上がって」


 フワリと柔らかいタオルを渡されて、智は真宮の部屋へ上がった。


 ダメだとわかっていた。


 女性の部屋に夜分に上がり込むなど。


 たとえ自分が中学生で、相手が成人した女性だとしても。

 親にはそう躾られた。たとえ妹の部屋だったとしても、勝手に入ってはいけないし、日が暮れてからは用事は戸口で済ませるように言われていた。


 思えばその先何か間違いが起こりそうになっても自分や関わる女性に間違いを起こさせないための言いつけだったのだろう。


 智はその日、そのいいつけを破った。




 向こうは完璧に子供扱いしていたが、智からみたら、自分よりも小柄で頼りなく、美しい女性であることに変わりなかった。


「ちゃんと拭いて、これ、あいつので悪いんだけど、浴室乾燥で服を乾かすからそれまで着てて、着替えたら呼んで?」


 あいつ。…元彼だろう。

 そのスウェットとトレーナーは腹が立つほど智の身の丈にピッタリだった。


「濡れたやつ、どうしたらいい?」


 脱衣所から出ると、一瞬、真宮の表情が固まった。

 瞳が揺れたのがわかった。


「ああ、貸して、やるから」


 すぐに気を取り直したのか、濡れた服を受け取ると、ハンガーにかけてかわいたタオルで水分を吸い取る。

 浴室乾燥に入れてボタンを押す。


「ココアと紅茶どっちがいい?」


「どっちでもいいですよ」


「じゃあ紅茶にしようかな」


 努めて明るくしているのが分かった。

 きっとまだ別れて日が浅いのだろう。


 紅茶を入れる手元が少し震えているのをみて、横顔を見つめると、目じりに涙が光っていた。

 智は切なくてたまらなくなった。


 気がついたらその手をつかんでいた。

 真宮が振り返る。

 どうしたらいいか分からなくて真宮の目を見つめる。

 真宮の目にみるみる涙が浮かんだ。


「背中、貸してくれない?」


「え?」


「ちょっとだけでいいの、背中向いて?」


 声が震えていた。智は迷った挙句、背を向けずに真宮をそのまま抱きしめた。


 肩を震わせて泣いている真宮の背中をずっとさすっていたけれど、真宮が濡れた目でこちらを見上げた瞬間、タガが外れた。


 ほんの子供のすることだ。慰めにもならないだろう。犬がじゃれてるのと同じようなものだ。


 口付けて、涙を拭ってやり、また口付けた時、不意に真宮の濡れたものが唇にあたり、思い切って口を開いて深く口付けた。


 見聞きしただけの知識で、どれだけ真宮が思うような行為が出来たか分からない。


 無我夢中で手探りに間宮を抱いた。


 真宮は途中からは、そっと導くように智を扱って。自分からも動いた。それを習うように動くと、お互いが達することが何とかできた。


 事の後、少し眠っていた智の横で、真宮も深く眠っていた。


 先に目覚めた智は、時計を見て8時半を過ぎてることに気がついて、親にメールを送る。


 友達の家に忘れ物を取りに来たらおお雨に降られて服を乾かしてもらってるから、もう少ししたら帰る、心配しないで欲しい、と。


 ふう、と息をついた智に、真宮の瞼が揺れて目を覚ました。


「あ…寝てたんだ」


「ん、そうみたい」


 智は照れくさくて短く答えた。


「ああ、犯罪だよね、私。未成年の義務教育期間のあなたとこんなこと」


 額を押さえた裸の腕の白さに、智はドキドキした。

 ついでの勢いでもう一度口付けようとしたら、間に手のひらを挟まれた。


「ダメだよ、これはやっぱり問題」


 冷静になった彼女は、中坊では経験不足で切り崩せないらしい。


「どうかしてたし、ちょっと私の方もメンタルがおかしかったし。もうダメよ?事故ってことにしときましょ」


 その声は淡々としていた。

 真宮は散らかった洋服を見つけてサッと身につけると、浴室乾燥で乾かしていた智の服を持って戻ってきた。


「乾いてるわ。送ってくれてありがとう。それと、慰めてくれてありがとう。もう大丈夫。だから、今日のことは絶対誰にも言わないで。私も仕事無くなるのは困るし」


「真宮さん」


「先生」


「……真宮先生、俺、……したかっただけじゃないよ」


 智は真剣に言った。


「先生のこと、好きだ」


 真宮は少しだけ瞳が揺れた。

 でもそれは戸惑いの感情だった。


「…ごめんなさい。分かって?あなたとは付き合えない。それははっきりしてる事なの」


「俺、避妊してないけど」


「私生理痛が酷いからずっとピル飲んでるの。だから平気」


 言い終わると、真宮はキッチンで、覚めて濃くなりすぎた紅茶を捨てた。

 それ以上話すことは無い、と言うように。背中が智を拒否していた。


 智は自分の服に着替えて、着ていたスウェットを軽く畳むとベッドの上に置いた。


「お邪魔しました」


「これ、飲んで?」


 真宮に水のペットボトルを渡された。


「ああ」


「秋冬も水分はちゃんと摂りなさい?」


「はい」


 智はそれを受け取ると、濡れた靴を履いて部屋を出ようとした。


「もう、ここには来ないでね?塾ではでは普通にしててね、お願いだから」


「はい」


 智は、ドアを開けて、1度だけ振り返った。真宮の目には後悔しか浮かんでいなかった。


 帰りに歩きながら、智はずっとさっきまで腕の中に居たのは幻だったのではないか?と思った。


 優しくするはずが優しくされて、自分の中の発散しきれていなかったものを爆発させた。


 とても安心したと同時に何か足りなくなるような感覚があって、彼女を抱きしめるとそれが埋まるような気がした。


「何やってんだろ、俺」


 童貞を捨てたとか、そういう感覚ではなかった。

 あの後味の悪さが全てを台無しにした。



 それから数ヶ月。真宮は智に対して妙なバリアを貼り続けた。余計なことを言わせない空気が張り詰めて、智はそれ以上踏み込むことが出来なかった。


 自分たちの学年の受験が終わるのを待って、間宮は塾を辞めたと聞いた。


 部屋に行ってみたが引き払った後で、思えばどこの大学に通っているのかも聞いたことがなく、真宮に繋がる手がかりはなくなってしまった。



 あの夜のことは、幻だったのではないか、と今でも思うことがある。

 間宮に手渡された映画の半券を見ると、それが2枚あって、やはりあれは幻ではなかったのだと、思い返せるのだ。



 ***



「あー、降られた!びしょびしょ!」


 部屋にやってきた彼女が玄関先で喚いた。さっき雷鳴が聞こえたかと思ったら急に降り出したのだ。まだこっちについて居ないから心配です外をみたら、思い出に連れ去られてしまっていた。



「迎えに来てって言えばいいのに」


 智は、洗面所からタオルを持って玄関にいた綾の頭から肩を拭いてやる。


 頭から被せたタオルからでてきた大きな目を覗き込むと、堪らなくなって身をかがめて小さな身体を抱きしめた。ちょっとだけ泣きたくなった。


「ちょっと、濡れるよ?どーしたのよ?」


 綾は濡れた腕で抱きしめる訳にもいかなくて、くちびるが届く首筋に軽く口付けた。


「まず上がらせて、シャワー貸して欲しいよ」


 しばらくして綾が言うと、


「一緒に入ろっか?」


「ヤダ」


 赤くなっ手口をとがらせた綾に、智は笑った。


 あの頃の間宮の年に近づく度、あの頃もっと大人だったらお互い傷つかずに居られたかな?と思う。


 だけどあの頃だったからあんなふうにお互いの心が重なる時がもてたのかもしれない。


 誰にも、綾にも話せないひとつの情事。


 綾にもきっとあるように、智の中にだけ潜む、内緒の物語である。

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花のような 伊崎 夕風 @kanoko_yi

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