花のような

伊崎 夕風

第1話 根無し草

 気だるい暑さ、肌に触れる布団の熱が不愉快で足で跳ね除ける。


 幾分か涼しくなった足元に安心してまた眠りが深くなっていく。

 だが眠りは、直ぐに浅い所へ戻ってきて、閉じたまぶたにも、部屋がうっすら明るいことが分かる。


 今日は急いで起きなくてもいい日だったか?今日何曜日だろ?


 菜月は目を閉じたまま思い巡らせた。

 その時なにか爆音が聞こえた。


 バラバラバラバラ……


 その音は近づいてきてまるで頭上を通って行ったかのような音がした。

 ハッとして目を覚ます。カーテンを開けると、窓の半分に何か機械的なものが横切った。


 何!?ヘリ!?


 そう思った瞬間、昨日、作業場でおばさんから聞いた話を思い出した。


『朝から空中防除があるから、9時頃までは窓開けちゃダメだよ?外にも出ないでね』


 ああ、そうだった。部屋が異様に暑かったのはクーラーが止まってるからだし、寝るまではそれを覚えていて窓を閉めて眠ったからだ。


「なんの音だよ?」

 ベッドの下の布団で寝ていた拓海が、片膝を私のすぐ後ろについて、後ろから窓の外を片目を半目にして見る。眩しそうだ。自分も外に視線を戻すと、既に彼方へ飛び去ったヘリが薬剤を撒きながら空中で旋回しているのが遠くに見えた。


「空中防除だって」

「ああ、夏休み入って最初にやるやつか」

 と大きな欠伸をした。

「クーラーつけて、窓開けられないから」

「おう」

 台所で水を汲んで飲むと、同じグラスに汲み直した水を拓海にも渡す。


 黙ってそれを受け取って飲み干すと、タンクトップの裾から手を入れて腹をかきながらトイレへと入っていく。


 8畳1部屋にキッチン、バストイレ別の部屋。本間の間取りで作ってあるアパートで、体格のいい拓海でもそこまで狭苦しくなくて、ちょうどいい。自分が気に入って借りた部屋だ。さすが田舎。家賃は前にいた大阪のアパートの半分程度だ。


 古いが作りはしっかりしていて、1階なのが女の一人暮らしには少し物騒だったが、庭があって花が育てられる事がこの部屋を借りる決め手になった。


 ペットは飼えないが時々野良猫が餌を求めてやって来る。


 仕事は近くの農家の手伝いをしながら、道の駅でも働いている。


 ここに居着いた拓海とは道の駅で知り合った。自分とどこか似た空気を持っていたためか、2度3度会うか会わないかのうちに付き合い始めた。


 西側の掃き出し窓は昼から日差しが暑いのだが、そこにパーゴラが建ててあって、屋根のカーボンも乗ってるので、洗濯物は雨に濡れずに済んでいる。


 上には拓海が簾を渡して固定してくれたので、西日がキツく当たることもない。パーゴラの外には朝顔を植えて、カーテンにしてあるので、窓を開けていても道からの視線が気になることは無い。


「お前、昨日窓開けっぱで昼寝してたろ?」

 朝食に目玉焼きを焼いていたら、トイレから出てきた拓海に昨日の失態を指摘された。



「バレたか」



「お前なぁ、こんな田舎でさ、周り知り合いばっかりだからってタカくくってたら、偉い目にあうぞ?知り合いってことは女の一人暮らしだって知ってるわけだからな?誰がどんな気起こすか分からねーんだぞ?お前はよそ者だってことをもう少し自覚しないとダメだ」



 また始まった、とうんざりする。


 確かに窓を開けたまま眠ってしまってたのはまずかったと思ってる。


「これからはもっと気をつける」


 素直にそう言っておけば喧嘩にはならずに済む。


 だが今朝の拓海は何故かしつこかった。

「前もそうだったろ?この辺で若い女っつったらお前と売店のみきちゃんくらいなんだからさ、1回お願いしてみよう、なんて言ってる奴いっぱい居るんだぞ?もっと自覚しろよ」


 さては、昨日の飲み会でなんかあったな?


「うん、拓海いつも心配してくれるもんね、拓海が居てくれるから安心してしまうんだよ、一人の時は特に気をつけないとね」

 そう言ってご飯をよそいながら頷く。

 だがまだ不服なのかイライラしてる様子は消えない。



 どうしようかな。


 ちらりと時計を見る。

 9時まで外出られないし、今まだ七時過ぎだしな。仕事も昼からだし。

 菜月は先を読んで食事の用意をした後、自分のものにはラップをかけた。



「先食べてて、私汗臭いからシャワー浴びてくる」


 そう言って脱衣場に逃げた。

 シャワーを浴びている間は離れられる。

 髪の生え際も気持ち悪かったので思い切って髪も洗った。

 ここに来てから髪は伸ばしていない、かろうじてひとつに結べるくらいの長さで切ってもらってる。夏は朝の作業だけでも大汗をかく。1日に何度もシャワーする事があるので乾かすのがめんどくさいからだ。


 さっぱりすると気持ちがいい。拓海にもシャワーを勧めてみるか、少しは機嫌よくなるかもしれない。そう思いながら下着をつけて拓海の大きなTシャツだけを着ると脱衣場から出た。


「ごちそうさん、俺もシャワーするわ」

「うん、タオル出してあるから」

 髪を拭きながらすれ違う。


「髪、乾かしとけよ?」


 言われたことでその次の行動を読んだ。

 イライラの原因はやっぱりそれか。


 起きてからつけたクーラーがようやく効き始めて、足元にたまらないように天井のファンを回す。


 平成に入ってから、妙に夏が暑くなった気がする。


 テレビから流れてくるニュースは夏休みに全国的に入って、東北の方でも梅雨が明けたという情報だった。


 自分の地元の関西はもうすっかり梅雨が終わって、実家ではスイカの出荷が始まったとか何とか。


 時々かかってくる電話で母が話している。

 まだまだ元気だからいいが、早めに結婚して子供を産みなさいよ、と言われる。 高校を卒業してからとにかく生まれてからずっと住んでる田舎の家を出たくて、沖縄のリゾートホテルで働きながら南国の生活を楽しんでいた。


 それに飽きたらまた関西に戻ってきて、観光地のバイトで繋ぎながら資金を貯めて、また違う所へ就職した。


 だが正社員というものが肌に合わなかったので、またテーマパークのサービス員の仕事をして、寮のあるところの仕事を転々として、ある時、資金が尽きてにっちもさっちも行かなくなって、立ち寄った道の駅で、パートのおばさんに大きなおにぎりを恵んでもらった。


「うちの作業所手伝わない?雇ってた人が腰痛めて急に辞めちゃったから困ってたのよ。一応履歴書だけ書いてくれたらそれでいいから。とりあえず家にきたらいいから、その後のことはまた慣れてから考えたら?」


 そう言われて頷き、その夜からの寝床を得たのだった。まるで拾われた猫のようだった。


 おばさんの娘が使っていた部屋を使わせてもらってひと月生活して、初めて出たお給料でこの部屋に住むことを決めた。

 道の駅でバイトしながら、おばさんのところの作業も掛け持ちて手伝っていた。


 田舎でなんにも無いが、拓海と知り合って、付き合い始めてからは、拓海がここにいる間はここに住み着いてもいいなぁと思っていた。


 エコカーテンにしてある朝顔が日にあたってキラキラしている。それをぼんやり眺めながらドライヤーしていると、髪の中に熱が籠ってくる。が、拓海は後頭部や襟足が濡れていたりすると嫌な顔をするので、そこは重点的に乾かす。

 カチャリと音がしたのでもうこちらに出てくるだろう。


 さっきずっと向こうの方まで行ってしまったヘリがまた戻ってきたのか、また大きな音を立ててアパートの上をとおりすぎていく。


「うるせえな」

 拓海は顰め面しながら下着1枚で戻ってきた。隣にストンと座ると私の髪の乾き具合を確かめて、

「もういいんじゃない?」

 と言った。


 その声に、若干甘えのような音が混じる。目が合うと焦れたような微かな苛立ちを感じた。冷風に替えたドライヤーを地肌に当てていると、急かすように髪をひと房引っ張るので、ドライヤーの吹き出し口を拓海に向ける。

「やめろよ」

 ちょっと情けない顔をしたのが面白くてもう一度風を向けようとしたら、その手ごとドライヤーを握られて、スイッチを切られてしまった。


 バラバラバラバラ……


 1度戻ってきたヘリがまた頭上を行く。


 眉を上げながら頭上を睨んだ拓海の顔を両手ではさんでこちらに向けた。次の瞬間口付けようと近づいてきたその唇を指先で受け止めた。阻止された事にイラッとした拓海にふっと笑うと、諦めたのか拓海は眉を下げてため息をついた。


「拓海の仕事の任期はいつまでなの?」

 聞いた私に、拓海は軽く目を見開いて、今度は細めた。拓海は契約社員で土木関係の仕事をしている。


「それ聞いてどーすんの?」


「次はどこに行こうかな〜と思って」

 暗に、あなたとはここにいる間だけの関係だと伝えているつもりだった。じっと私を見た拓海は、ベッドの前で隣に座る私の肩を軽く抱いた。


「…新潟は、ここより田舎だけど、造り酒屋なんかには興味あるか?」


「は?」

胸に持たれた状態で拓海の顔を見上げた。


「実家がそうだ、そろそろ家業を継ぐのに帰ってこいって言われてる…お前も一緒に来ないか?」


 言われている意図はわかった。

 分かっているがこの男はどこまで本気なのだろう。


「それはどう言うつもりで言ってんの?」


「俺と一緒にならないか?」


 その声にいつもと違う緊張したものを感じ取った。本気だと気がついた。


そのとき、庭先から、カリカリという音が聞こえて、西の掃き出し窓を見ると、いつもやってくるキジ猫が網戸を開けようとしてる。


「……話の途中で悪いけど、キジ、入れてやってもいい?」



「はぁ、どうぞ」


 拓海が首の後ろをかきながら溜息をついた。慣れないことを言ってその空気に耐えられなかったのだろう。


「服、着て?クーラーで冷えると風邪ひくよ?」


 そっと窓を開けてキジ猫を入れて、濡れティッシュで足を拭いてやる。自分も突然でどうしていいか手に余る話題だったので、大人しく脚を拭かれているキジをほめてやりたくなった。


 グッジョブ、キジ猫。タイミング良かったぞ?


「私、ひとつのところに留まるのって性にあわないみたいなの」


 ウェットティッシュを捨ててキジを撫でながらゆっくりという。キジはゴロゴロと喉を鳴らして目を細める。


「それに私、跡継ぎとか産めないからさ」

「え?」

「若い時から言われてんの、妊娠しにくい体質だって。そのくせ毎月ちゃんと生理はあるんだから損だよね」


 キジを膝に乗せてやると、丸まって更に喉を鳴らした。


「だからごめんね、もし別れたいなら今でもいいよ?」


 ここから出られないあと2時間足らず、猫が居なかったらすごく気まずかっただろう。


 何も言わない拓海を横目に、猫に台所で餌をやって、居間との間の戸を閉めた。

 黙ったままの拓海を後ろから抱きしめると、しばらくして身動ぎした拓海が体の向きを変えて口付けてきた。拓海の無精髭が頬にチクチクする。

 目が合うと拓海の目が驚いたことに濡れていた。拓海はそれを隠すように私の着ていたTシャツを思いきって頭から抜きとると、今度は深く口付けた。唇が耳から喉元、鎖骨を通って下へ下へと降りていく。また聞こえてきた大きな音を無視するように、匠は尖った先端を口に含んだ。



 付き合う相手にそういう話をしたのは初めてだった。内容が重い。家族だけが知っていて、友達にすらした事の無い話だった。


 なぜ話そうと思ったのだろう。

 菜月は行為の後の気だるさの中でぼんやりと考えた。





「姉ちゃんのとこさ、4人子供がいるんだ、男3人女1人」



 拓海の腕に頭を置いて向き合って微睡んでいたら、頭の上からそんな話をされた。


「もし頑張っても無理だったらそこから誰か貰って後継いでもらってもいいし、養子という手もあるだろ?」


「拓海、その前に私、一ところに留まるのが…」

「もし、しんどくなったら離れてくれてもいいよ。それでもいいから俺と来てくれない?」


 見下ろしてくる拓海の目が潤んで揺れていた。今日は妙にしつこい。だが、それが煩わしくなく、菜月の胸を妙に温めた。自分を請われている、その感覚が嬉しかった。


 冷静に付き合ってるつもりでいた。だが、自分で思ったよりもこの男に心を占められていたのかもしれない。


 拓海と出会ったのは去年の冬の初めだ。

 バイクで道の駅を訪れた拓海が猫に買った食べ物を与えていた。

 休憩で自分もそこにいたので、猫を介して会話が生まれた。

 その日の宿を探してると聞いて近くの民宿を紹介した。

 翌日また道の駅に現れた拓海は猫に構いながら私が休憩に入るのを待っていたようで、昨日宿を紹介してくれた礼だと言って、暖かいコーヒーを奢ってくれた。仕事の一環だからと言ったけど、奢られて?と言われて、ふっと笑った。


 帰り際にまた会いたいと言われて連絡先を教えた。

 少し離れた所に仕事先を見つけた拓海は、そこの寮に住み着き、この部屋と寮を行き来している。最近はこちらにいることの方が増えていた。

 恋人同士がどんな風に盛りあがってどんな風に醒めていくのか、それなりに何度か経験してきたが、今回はゆっくりと盛りあがって、まだ醒めて行くような感覚はなかった。




 まるで捨て猫だ。

 見下ろしてくる男の目を覗き上げる。捨てられたくなくて縋るような捨て猫のような目をしている男を放っておけなくなる。


「そんな、いい女でもないでしょ?私いい加減だし」


「俺は几帳面すぎるからな、お前くらいの方が合うんだよ」

 さっきからヘリの音が消えた。ようやく散布が済んだのだろう。

 妙な静寂に耳が冴える。


「どうしようかな」


「酒が美味い、そしてお前のよく言う水だって美味い」


「冬は雪が深いところなんでしょうね」

「ああ、真っ白になる」


 こんな真夏に、吐いた息が真っ白で身体の末端がかじかむことを想像したが上手くいかなかった。


「そういう所も、いいかもしれないね。結婚前提でなければ行ってもいいかな?」


「本当に?」


「うん、まあ、その間に試そうよ、子供ができるか」


「試す?」


「1年、もしその間に妊娠したらあなたと一緒になる。もししなかったら私を解放する、どう?」

 思いつきだった。明日気が変わらないとも言えないほどの。

「お前がそれでいいなら」


「じゃあ決まりね、いつ帰るの?」


「9月の終わり」


「作付けが終わる頃だね、ちょうどいいや」



 なんだかワクワクしてきた。


 根無し草みたいに、気の向くままにその辺を漂っていたけれど、今度はちゃんと次のことを考えて流れるのだ。自分にしては新しい試みだ。


「親にはまだ言わないでね?私の事」


「見合いを迫られてるからさ、いつまで黙ってられるかわからんけどな」


「じゃあなるべく長く黙ってて?」

「わかった、そうする」

 ふっと笑った拓海は私の頭を胸に寄せた。


「惚れた方が弱いって本当なんだな」

「うん?私はあなたに惚れてないとでも?」

「違うの?」

「そんな人の地元について行ったりしないでしょ?」


 拓海の頬をそっと撫でる。

 少し目を見開いた拓海が、優しく微笑んだ。

 頬に手が触れて顔が近づいた時、カリカリと音がして、にゃー、とキジが鳴く。


「あ、キジを忘れてた」

 時計を見ると9時だった。散布が終わる時間だ。制限解除。


「外に出してやろう?」

 拓海は言った。私は頷くと、その辺に落ちてた拓海の大きなTシャツを着て、玄関のドアを開けてやる。キジは喜んで出ていった。


「菜月ぃ」

「ハイハイ」

 呼ばれて腕の中に戻ると、拓海は私の顔をのぞきこんだ。


「もう、今からでいいんだよな?」

「は?気が早いよ…作付け終わるまではちょっとなぁ、おばさんのとこには恩があるから」


「でもさっきの」

「まあ、もしそれでそうなったらそういう運命なんだろうし」


 ああ、私は本当にいい加減な女だな、そんな大事なことを適当に決めてしまう。


「よし、命中させてやろう」


 などと物騒なことを言う拓海に苦笑いして、お互いの肌をなぞる。目が合うと、その妙な高揚感は自分だけが感じている訳では無いことに気がついて、なんだか楽しくなってきた。自然と拓海の口角が上がった。ああ、そうだ、この笑顔にやられちゃったんだよ、と初めて出会った時の拓海を思い出した。


 浮き草のように根を張らずにあっちにこっちに流れていた。


 気楽ではあるが、時々不安になることもあった。


 恋人だって行く先々にいた。

 だが、拓海とは何か違うものを感じてはいたのだ。



 何をしても穏やかに許してくれるかと思えば、今朝のように苛立って突っかかる。

 それも自分に甘えているからだ。

 私も、拓海に甘えてる。


 それは心地よくて、今回ばかりは手離したくないな、と心のどこかで思っていたのだ。


 言葉にされたのは純粋に嬉しかった。

 まだ本当に一緒になれるかは分からないけど、子供ができないのはさすがに拓海の親にとっては苦痛だろう。


 それならば出来るか試してみて、ダメならすっぱり別れようと思ったのだ。


 長く放置してあった婦人科にも通ってみよう。

 色々試してみてダメならそれも運命だ。


 これまで避けていた問題をとりあえず直視してみる事から始めよう。




 そんな気を起こした自分がまた数日後、気を変えるかもしれないな、と思いつつ、今はそれにかけてみるのもいいだろう、と思う。


 疲れてまた眠ってしまった拓海の腕から抜け出して、今朝から二度目のシャワーを浴びた。


 浴室の外にいるのか、五月蝿い蝉の声が脳裏に響く。



 夏は始まったばかりだ。


 この田舎での生活もあと少しだと思うと、この部屋と離れることも惜しい気持ちなる。


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