後編 イン・ザ・ホール
斎場は大きな五叉路の一角にあった。コの字になった歩道橋の上から見える入口に立てかけられたサイネージには、Eの名前が大きく表示されていた。
本当に亡くなってしまったんだな。
しばし立ち止まり、電車の中で締めたネクタイの結び目を調整しながら、僕は遠回りして歩道を渡った。そんな時間稼ぎがまったくの無駄だとわかっていても。
受付で記帳を案内してくれたのは二十歳そこそこの若い娘さんだった。叔母に代わって感謝すると丁寧に応じてくれたその娘は、明らかに高校時代のEよりも愛想良さげだったが、どことなく近い雰囲気もあった。たぶんEには可愛がられていたのだろう。親愛と無念が娘さんの挙動や言葉から漏れ出ていた。世間一般の尺度からは外れた、少し変だけど目を離すことができない愛すべき叔母さん。
僕は娘さんが指し示すまま、式場に足を踏み入れた。
しめやかな儀式のあと、僕たち友人枠は同じ建物の別室に用意された通夜振る舞いの席に着いていた。
総勢で十人くらい。家族葬だったので、個人と縁の深い人たちだけに声が掛けられいたようだ。そんな中で、僕のような付き合いの浅い者が混じっていていいのか。そう思ったものの、それをここで言い出すのも場違いかつ失礼極まりない話だし、そもそもまるっきり知らないというわけでもない。連絡が届かず今ここに辿り着くことのできなかったEの知人たちを代表して、僕は立場を素直に全うしようと開き直った。
「はじめての海外でゴルフやろうぜってときにヘリ乗って来たことあったよな」
僕をこの場に連れてきてくれた***が話し始めた。卒業後どのタイミングからかは知らないが、彼はEをはじめ、何人かの同窓生たちとよく遊びに行っていたらしい。陽気で開けっ広げな彼の奥さんは同窓生ではなかったが、そんなことはお構いなしで、ただ一緒に楽しめるなら呼べばいいし集まればいいという感覚。毎年新年には旅行に行っているそうだが、Eもそのメインメンバーだったという。
「直前になって仕事が入ったって連絡があって、これはキャンセルした方がいいんじゃねって聞いたら、大丈夫、行くから、なんて応えてさ。でも二時間前にまだ仕事してて、そっから成田まで……」
「タクシー飛ばして?」
離れた席の女性(たぶん同級生だけど、顔見ただけじゃぜんぜん思い出せない)が声を飛ばしてくる。
「間に合わないよ。成田だよ。どう飛ばしたって一時間半は掛かるから着いた頃にはもう離陸してるって。したらEの奴、ヘリに乗って成田まで飛んできてんの」
「空港のロビーでね、***がTシャツ短パンみたいなラフな格好して待ってたんだよね」
***の奥さんが証言を追加した。それを受けた***が、身振りも加えて様子を再現する。
「向こうの方から、カッカッカッカッって音が響いてきてよ。で、そっち顔向けたらスーツびしっと決めた格好良いビジネスレディーが歩いてくんのよ」
出国する人や見送る人が熱した鍋の水分子のように好き勝手に動き回る中、スーツという名の戦闘服を完璧に着こなし、背筋を伸ばしたモデルの歩様で真っ直ぐに近づいてくるEの姿がありありと浮かんだ。もちろん僕はその場にはいなかったけれど、Eの登場は映画のワンシーンのように記憶に埋め込まれた。ギリギリまで仕事をこなした上で仲間と遊びに行く約束を守るために、渡航よりも高価い金をものともせずに横浜からヘリをチャーターして成田空港まで飛んでくる。高校時代の彼女のイメージを地続きでパワーアップさせて。
開式の前に窓の開いたお棺に立ち会った。綺麗な顔だった。ほんのりと化粧は施され、目を閉じて箱の中の寝台で身じろぎもせず眠っているE。でも、それは生者の顔ではなかった。声を震わせている***たちに並び立ちながら、僕は狼狽えていた。Eは本当に死んでしまったのだ。死んでしまうということは、こちらとのコミュニケーションがゼロになることなのだ。語りかけるもののない無機質なこの顔をEの最後の顔として刻み付けてしまったら、僕の中のなにかが向こう側に取り込まれてしまう。ひととひとの、いや、ひとじゃなくてもいい、なにかしらのリアクションが期待できるここではなくて、そんな繋がりが完全に無効にされてエントロピーが無限大となった世界に。記憶のEをそんな形で焼き付けてしまうのは間違っている。低周波のように続く直観の警報が、式のあいだじゅう僕の頭のなかで鳴り響いていた。
玉串奉納のあと、僕らはお棺に収めるメッセージの鶴を折った。折り紙などもう十年以上触っていなかったから、随分と不細工な鶴をEと同行させることになったのが実に申し訳なかった。明らかに間違っている折り紙をなんとか鶴らしく見えるよう四苦八苦しているとき、作業台のすぐ横に一葉の写真が飾ってあるのに気づいた。さっきメモリーに書き込まれた動かない3Dの顔とは真逆の、強い意志を隠さない真っ直ぐな視線でこちらを射貫いてくるEのスナップ。Eよりも若い綺麗な女性と並んでポーズを取っている。
「これはアレね。EさんがB’zのおっかけやってるときの記念写真ね」
横で鶴を折っていた***の奥さんが教えてくれた。
切長のまなじりが放つ挑戦的な眼差しが印象的で好ましい、生きているものの顔。上書きするならこれだ。圧倒的にこっちがいい。
「じゃあわざわざ名古屋から?」
明らかに世代の違うその女性が僕の問いかけに頷いた。折り紙の作業台に飾ってあった写真の、Eの相方。
僕らの席に回ってきた故人の兄が事情を繋いでくれた。
「妹のスマホを開くことができたんです。私たちは彼女の交友をほとんど知らなかったから。家族だけでとはいっても、伝えるべき人はいると思いまして。そうしたら、こちらとのやりとりがすぐに見つかったんです」
「連絡されたとき、はじめはなんの冗談かって思いました。だって先月の横浜のに一緒に観にいったばかりだったし、十一月末のもチケット取れてよかったねって話し合ってたんですから」
とるものもとりあえず新幹線に飛び乗ってここまでやってきたという彼女は、僕たち友人枠の中で一番悲しんでいるように思えた。Eがゴルフを趣味にしていたことも知らなかった彼女は、「B’z」という焦点の絞り込まれた、そしておそらくはEがもっとも多く嗜好のリソースを注いだテーマを深いところまで共有し、ともに戦場に臨むツーマンセルの片割れなのだろう。その喪失感は、僕には想像すらできない。
***が話を継ぐ。
「あいつ、ぜんぜん怒った顔みせないやつだったけど、B’zのことで一度だけ怒ったな。なんの話だったかは忘れたけど、稲葉さんイジられたときはとにかくマジキレしてたっけ」
「妹は本当に熱心にコンサートに出かけてましたからね。それこそ全国各地に。それは私たち家族もよく知ってます。でもどんなふうに楽しんでいたのかは聞いてなかった。ひとりで行って、ひとりで帰ってきてたから。だから今夜、ちゃんと同志がいて一緒に楽しんでいたってことがわかって、とても嬉しく思っています」
Eの兄は話を続けた。
「正直なところ、私も悲しいとか寂しいとかそういうの、まだよくわかってないんです。こんなにお友だちや家族が集まってる今、あいつがここにいないのはただ寝てるだけなのか、そうでなきゃちょっと席外してるだけなのかって感じなんです。あの日仕事から帰ってきてすぐに、台所の母に着替えてくるって声を掛けて階段を昇って行ったんだそうです。大きな音がしたのでなにか物でも落としたのかなって思いながらも料理を続けていた母が、いつまでたっても降りてこない妹が気になって見に行ったら真っ直ぐな姿勢で倒れてた……」
Eの兄はそこで深く呼吸を置いてから、ゆっくりと話を紡いだ。
「寝込んでいたわけでも闘病してたわけでもない。まさに突然。兆候など家族の誰も聞いていなかったから、こんないきなりのことにまだ気持ちが追い付けてないんだと思います」
村上春樹の羊をめぐる冒険で語られていた、飛行機という交通手段での移動の逸話を思い出した。東京から飛行機で札幌まで移動した登場人物たちが、気持ちが身体に追いつくタイムラグをじっとしながら待つために映画館で時間をつぶす話。
斎場の広間で小一時間歓談した後、僕たちはその場を辞した。足の悪いご母堂様、しばし相手をしてくれたお兄様、その奥様、彼らのお子さんで、受付で案内をしてくれた娘さんにお
このあと仕事が控えている数人とはそこで別れた。名古屋から来たEの盟友も、新幹線の時間があるから、と言い残して帰っていった。
高校時代の思い出話半分の二次会を中座して、僕はひとり外に出て煙草を吸った。***。姪っ子。推し仲間。それぞれの意識を仮想し、僕の知っているそれと置き換えたり組み込んだりしながらEのことを考える。
家庭を持つという目標や、それに付随する家事全般などは一顧だにせず、ただ一社会人として自らの業績で確固たる居場所を築き上げてきたE。料理なんて一切やらないし憶える気もない、と言っていたらしい。親戚からすれば、娘が興味を持って近づくのを親としては積極的には薦めたくない「愛すべき変わった叔母さん」だったのだろう。
一方で好きなこと、やりたいことをあたかもプロジェクトを実現するかのように、考えうる最善の手段を躊躇なく選択して果敢に実行する剛腕も見せる。空港にヘリで乗り付けるようなことを、推しの追っかけのときにも何度もしてきたに違いない。
彼らの記憶のエッセンスを拝借して、僕の記憶に納められたEのファイルを更新する。小さな窓の内側で無表情に
R.I.P.
Eを偲んで 深海くじら @bathyscaphe
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