Eを偲んで

深海くじら

前編 フホウノデンワ

 家人のいないひとりだけの夜。

 一日の些事をすべて終え、ひさしぶりにウイスキーでも飲もうかという気になった僕は、ストックしていたビームズチョイスを封切ってオンザロックをつくった。PCのiTunesを開き、これまたひさしぶりのThat’s the way I feel nowを選ぶ。1984年にリリースされたThelonious Monkのトリビュートアルバムだ。名盤中の名盤。ウイスキーやブランデーに完璧にフィットする。

 部屋を少し暗くして、Donald Fagenが演奏するReflectionsを聴いているときに電話が鳴った。スマートフォンにではなく、固定電話の方。年老いた実父からにしては少し時間が遅すぎると思いながら、立ち上がって受話器を取った。


「***です」


 数年ぶりだが忘れることはない旧友の声が自身の名を告げた。


「あ、俺だよ。なんだよ、珍しいな。なんか不幸でもあったか?」


 僕は軽く応じる。が、胸騒ぎだけはあった。***は少しだけ逡巡を見せてから、普通の声色でこう言った。


「Eが亡くなった。昨日、自宅で」


 曲はBlue Monkに変わっていた。Dr.Jhonのピアノソロがどこか遠くから聞こえてくる気がした。僕は直近のEの顔を思い出す。たぶん四年くらい前。***の自宅で開かれたホームパーティーだったはず。歳を感じさせない美貌を保っている彼女は、知らない面子ばかりのアウェイな席の中、初見で絡んでくるほろ酔い気味の男たちを高校時代の冷笑的な印象のまま見事にあしらっていた。彼女同様に外様の僕が割り込むように軽く挨拶すると、在学当時はめったに見せることのなかった仲間内に対する笑顔を向けてきた。あのときの表情。


「仕事から帰ってきていきなりばったり、だったらしい。お母さんとお兄さんが一緒だった」


「Eは実家暮らしだったのか?」


「最近建て替えた。全部あいつが仕切って。今はお母さんとふたり暮らし」


 Eは結婚していなかったはず。少なくともここ十数年は独身と聞いている。それ以前に何があったかは、卒業以来没交渉だった僕にはわからない。ホームパーティーの前に見かけたのは、さらに十年ほどさかのぼった級友の葬式のとき。高校時代は他の女子たちとは印象を異にした彼女が、見事な大人の女になっていたのを憶えている。

 ***とはよく飲んでいるらしく僕も誘われたが、住まいが遠いため結局一度も出向くことはなかった。でもその理由さえクリアすれば、一緒に酒席を囲みたいと本気で思っていたのだ。


「検死では脳の血管かなんかに異常があったらしいけど、詳しくは聞いてない」


「自殺、ではないんだよな?」


「違う」


 ***はきっぱりと否定した。そんなセンチメンタルな奴じゃないし、理由もない、と。

 受話器に当てた耳と、そこから繋がる脳が認識のほぼ全部を占めている。立っているところがジャズが流れる快適なリビングで、すぐ横のテーブルの上には琥珀色のロックグラスが乗っているという現実。そこから遥か離れた別次元で、足場を失ってふわふわしているのが今の自分の位置だった。リアルの上に何層も重ねたレイヤーの空間。


「家族葬ということだけど、近しい友人数名の参列なら構わないって話なんで、お前には連絡した」


 行く、と僕は即答した。


「明後日の日曜日、18時から。場所は……」


 ***は聞いたことのない、だが馴染みのある地名の入った葬儀会場の名を告げた。

 しんしきだから、という言葉が上手く認識できなかった。ああ、神式か。玉串がどうとかっていうヤツのことか。


「これは連絡網じゃないから、次に知らせる必要はない」


 そう締めて、***は電話を終わらせた。

 受話器を置いた僕は、現実世界に帰還する。ソファに戻り重力に任せて腰を落とした。グラスを口に運ぶ。さっきまでとは明らかに味が変わっていた。このまま飲み続けるのは止めた方がいい。グラスを持ってキッチンに移動して、残りをちびちびと飲りながら珈琲を淹れることにした。湯が沸くまでの間に思い立って、卒業アルバムを取ってくる。


 僕らのクラスは今でいう特進コースみたいのもので、三年間クラス替えもなく36人が同じ顔触れのまま入学から卒業まで過ごした。ゆるやかなグルーピングはあったもののとくにいさかいも無く、概ね平和でファミリアな雰囲気の教室だった。

 Eは4人組女子グループの一角に位置していた。そのうちのひとりと一時期付き合っていた僕は、だから全く馴染みが無いわけではない。女子高生の気質は、程度の差はあれいまとさほど変わらない(と思う)。しかしその中で、Eはある意味異質であった。三年間で彼女が羽目を外したり感情をあらわにしているところを見た記憶はない。あれで美人だったらマンガのキャラそのものだっただろうが、残念なことに高校時代のEのルックスは十人並みだった。というか、そもそも特筆すべき美人などあのクラスにはいなかった。とにかく、その超然とした雰囲気を身に纏ったEは(僕の知る限り)誰とも付き合ったりしていなかったはずだ。

 だから卒業から数年経っての同級生同士の結婚式のときには、随分と垢抜けたと思った憶えがある。


 結局僕とEは、濃密な箱庭のような三年間を共に過ごした後は、四十年で三度交差しただけの希薄な関係だった。それでも彼女の死に水を取りに行くことには何の違和感もない。この四十年の間、彼女がどのようなことを志向して日々を送っていたかはまったくわからないが、同じ箱庭から巣立った同世代の、しかも他とは確実に別種の印象を刻み付けてきた存在の最期の別れに立ち会うのは必然と感じている。


 あと何年、何十年先かわからないが、僕だって必ず死ぬ。じりじりと消耗しながらかもしれないし、Eのように突然かもしれない。だから今を悔いなく生きようなどと綺麗ごとを言うつもりは、正直なところあまりない。ただ漠然と、死というものが転がっていることを思い出したというが今の気持ちだ。

 日曜日の夜、僕は誰にでもいつか必ず訪れるカットオフを、記憶の端に残り続けているEを仲立ちにして再認識してくるつもりだ。


 彼女は死にゆくとき、いったい何を想ったのだろうか。

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