山と湖畔と少年と――
霧縛りの職工
カップ一杯分の一休み
12月。肌がひりつく様に冷えた空気を貫き、朝日が照り始めている。
久しぶりの晴天で道には僅かに氷結が残るだけだが、脇道には掻き出された雪が積っている。豪雪地帯とは言えないまでも、すっかり葉の散った木々に雪化粧が施されているのがこの季節だ。
まだ車の往来が少ない峠道をリムの広いファットバイクに跨って僕は登る。
呼吸を規則的保ったままペダルを踏み込んで一回し二回し、愛車が路面にわずかながら残る雪をしっかりと踏みしめる。ここを越えれば目的の湖畔まではあと一息、なだらかな道筋を進めばいいだけだ。ペースを一定にぐいぐいと車体を押し上げ勾配を抜ける。
負担をかけていた肺を労わるように大きく空気を取り込み、ゆっくりと吐いた。呼気で顔の前が白くなる。強く打つ鼓動を感じながらホルダーに差したドリンクを取ってあおった。
湖に向かって道路沿いに土産屋が並ぶ。店の前には顔なじみの大人たちがどてらやダウンジャケットなどを纏いつつ掃除をしている。
「おはようございます」
僕が声をかけると、笑顔を浮かべて声を返してくれたり無愛想ながらにも頭を軽く下げたり、それぞれ反応を返してくれる。こうして来るのは随分と間が空いたものだけれど同じようないつものやり取りだ。
路面を行くのは僕だけじゃない。行き違いにも自転車乗りがやって来る。山の冬景色を楽しみに来た観光客達だ。すれ違いざまにハンドサインを交換した。
土産屋の集まる辺りを抜け湖畔が近づくとレストランや旅館が増えてくるけど、目的地は湖面を回り込むように沿道を抜けた先だ。建造物が減った辺りには、夏場ならキャンプ場としても使われる湖畔が広がっている。
舗道を外れて積雪にバイクを突っ込ませ、木々の間を抜けて湖面に近づく。視界が開けると、朝の日差しが映る広い水面の向こうに通り抜けてきた町並が見渡せた。繁忙期には売店として機能しているコテージに寄せてバイクを停めると、チェーンとアースロックでしっかりと固定した。
このファットバイクは父の誕生日プレゼントだ。僕は幼少から自転車に乗るのが好きで、家の周りを乗り回していた。
両親の心配をよそに少しずつ家から遠くまで行くようになり、暇があれば坂道だらけの近隣で四季折々の景色を見て回った。けれど冬場には雪が長く降るとせっかくの晴れ間にさえ自転車を乗り回すのは難しい。不満を漏らしていた僕に、中学に上がる頃このファットバイクは贈られた。言葉数の少ない不器用な父なりの親心だった。
ショルダーバッグをぐるりとお腹側に回して保温ボトルとステンレス製マグカップを取り出しつつ、水際へと歩みを進める。
改めて周りを見てみれば、少し離れた所に顔なじみの釣り人が居た。向こうはこちらに気付いていた様子で、釣り竿から片手を離して親指を高く突き上げてきた。同じポーズを返すと、満足したのか釣りに戻る。これも馴染んだやり取りだ。
顔なじみと言っても近くで顔を見合わせた事なんてないから、釣り姿でない普段着で会っても分からないだろう。ぼんやりと伺えるウェアや道具の好みでなんとなく"よくいる人"というイメージがあったのだけれど、きっと向こうも同じ様にこちらを見ていたのだろう。ある時ふとお互いの目があったのだ。これも正しく言えばなんとなく顔を向き合わせたような気がした程度だったのだけれど、釣り人が親指を突き立てて僕が答えた。それ以来、お互いが気付いて顔を合わせたらどちらからともなくこの挨拶をしている。
こうしてお決まりを重ねた僕は、これまたお決まりの席に雪を払って着く。風に揺らぐ渚を眺められるよう備え付けられた木製のベンチだ。一息ついたところでボトルからコーヒーを注いだ。
山を登ってここに座り、母が気に入っている豆を挽いた熱々のコーヒーで一杯分の休憩を取る。これが受験で忙しくなる前、僕が休みの度に繰り返していた朝の習慣だ。ここからまた山奥を目指すのか、ぐるりと湖を一回りして山を下るのかその日のプランを決めていた。
でも、僕がこれをまた習慣にするのは難しいだろう。
冬が深まる前に無事に大学の指定校推薦で合格を得られた。慣れ親しんだ山中を離れ、雪の積もらない都会へ行かなくてはならない。
僕はコーヒーをたっぷり時間をかけて飲み干した。曇ったままの気分を変えてはくれないけれど、寒気を抜けて波を照らす陽の光の様にじわりと喉から腹に暖かさが残った。
終
****
ここまでが本編となります。読んでいただきありがとうございました。
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山と湖畔と少年と―― 霧縛りの職工 @mistbind_artisan
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