第12話 お前には社会がどう見える?

8月19日、晴れ。

支店長に有給を申請してから約1ヶ月。あの後しばらくスマホへの着信が鳴り止まなかったが、全て無視している。なぜなら俺は有給中だ。休暇中の社員に何度も何度も電話をかけるなんて、ブラック企業というものではないか。自宅に来られても困るので、最近はずっと座川市のホテルに泊まっている。

そんなことよりも金配りだ。金持ち連中から集めた金は、俺の立ち上げた銀杏投資顧問という株式会社の口座と、裏市場で購入した8社の法人口座に分散入金されている。その金を、俺はこの1ヶ月間配りに配った。虐待等ワケあり家庭の児童養護施設支援、児童教育施設支援、奨学金基金支援、災害復興支援、難民支援、貧困支援…ありとあらゆる団体に金を振り込みまくった。中には「贖罪寄付」というものもあったので、それほど悪いことをしたとは思わないが一応寄付しておいた。その金は犯罪被害者の支援に使われるらしい。


寄付というのもこの規模となると存外面倒なものだ。寄付を受け付けている団体の中には、寄付者の審査を行う所もある。俺の立場上、そういった団体の審査を受けるのはリスクが高いのでできない。また、寄付用の銀行口座が公開されていて誰でも振り込めるような団体であっても、1日に振り込むことのできる金額は銀行から制限されている。現在のところ、9社の法人口座それぞれから1日あたり1,000万円ずつしか振り込みを行うことができないのだ。それ以上の振り込みを行う場合は原則として銀行窓口を通さなければならないが、それもリスクが高いためやりたくない。銀行口座から現金を引き出すにしても1日あたりの制限がある。

俺の犯行がバレて銀行口座が凍結されるのが先か、それともバレるまでの間に全ての金を恵まれない人間達に配り切るのが先か。まぁ恐らく前者なのだろうが、どちらにしろ俺はバレるまでの間に金を配り続ければ良い。あとは警察に捕まって、メディアを通じて俺の犯行動機を同じ志を持つ者達に伝播させるだけだ。それで俺の計画は完了する。

俺1人の詐欺行為など社会全体からすれば取るに足らない。しかし、俺の模倣犯が全国に現れたらどうだ。俺の思想に共感した者達が、俺というモデルケースを参考にして、上級国民と関わる職業の中に紛れ込み始めたらどうだ。大企業役員、資産家、政治家、高級官僚などと接する職業の中に、犯罪など恐れない無敵の人間達が紛れ込んでいたらどうだ。きっと世の中はひっくり返る。それが、俺の格差への一撃だ。


俺は今、非常に気分が良い。

こんないけ好かない土地で、いけ好かない連中相手に、いけ好かない仕事を10年以上してきたのだ。その全てを計画通りぶっ壊し恵まれない人間達相手に金を配っているのだから、良い気分にならないはずがない。


そうだ、久々に駄菓子屋の婆さんのところに行こう。寺川市で日々労働し慎ましく生活している婆さんのところに。ずっと俺の心の癒やしだったあの駄菓子屋に。しばらく忙しくて行ってなかったが、町を去る前に顔くらい見ておかなくては。


***


寺川駅の北口を出て、バスロータリーのある通りを真っ直ぐ北側に歩いていくと、右手には先々月ヨグルトで食中毒騒ぎが起きていたスーパーが見える。半グレグループの半田という男が働いていた店だ。その先にある交差点を右へ。手前から3つ目の路地を左に曲がったところにあるのが、俺にとってのオアシス。婆さんの駄菓子…屋…え?


「…なんだよこれ。」


閉められたシャッターには、「6月15日をもちまして、閉店いたします。皆様、この度は多大なるご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ございませんでした」と書かれた紙が貼られている。

…状況が分からない。多大なるご迷惑…?婆さんももう歳だから、体力的に営業できなくなったとかじゃないのか…?一体なぜ急に店を…。

慌てて裏口に回りインターホンを押す。店は潰れても婆さんはこの物件に住んでいる。事情を聞きたい。


「はーい…?」


「婆さん、俺!」


「ああ、その声は。」


ドアを開けて出てきた婆さんは、身体がどこか悪そうな感じもなくいつも通りだ。なのにどうして…。


「アンタどうしたの?久しぶりに顔を出したねぇ。」


「そんなことより店!どうして閉店するんだよ!」


「…それがねぇ。ほら、最近あったでしょ?例の事件…。」


「例の事件…?」


そう聞いて、内臓を持ち上げられたような感覚になった。まさか…


「ヨグルトの…食中毒…?」


「そう…。うちも置いてたから、ヨグルト。それで子供達が入院しちゃって。大騒ぎだったのよ…。」


鼻がツンとして、何かが脳まで突き抜ける。


「ば、馬鹿な!だけどアレは結局特定企業を狙ったテロ行為だって話になってるだろ!?ニュースでそう出てたし、警察もその線で捜査してるって…!小売店の婆さんには何の責任も無い!」


「そうは言うけどねぇ、ご近所さんにご迷惑をおかけしたわけだから…。」


「そ、そんな…」


なぜこの店のヨグルトに菌が混入しているんだ!?まさか半グレの誰かが婆さんの目を盗んで菌を混入させたのか!?それとも物流業者に半グレ連中が紛れ込んでいたのか?クソ!馬鹿なのか!?こんな規模の小さい店で食中毒事件を起こしても意味ないだろ!なんでこんなことに!なんで…!


「ば、婆さん、生活費とか大丈夫なのかよ…。」


「まぁ年金もあるしねぇ…ここも自分の家だし、細々と生きていけるでしょう…。」


「細々とって…。年金はどうせ個人年金だろ…?大した蓄えも無いんだろ…?」


俺は馬鹿か…?どうしてこの可能性を考えなかった。婆さんみたいな弱者を巻き込む可能性にあの時気づいていれば、計画はもっと別のものにできた!なんであの時…!


「アンタは心配しなくて大丈夫。私はもう老い先も短いし…。」


「そ、そうだ!婆さん、ちょっと待っとけ!今から銀行行ってくるから!」


「銀行…?どうして…?」


「とにかくちょっと待ってろ!あ、いや…銀行だと引き出せる金は200万円までか…。じゃあ振り込みだ!婆さん振り込み先の銀行口座教えてくれ!」


「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよアンタ。どうしたの?振り込み先…?なんで…?」


「今すぐ1,000万円振り込める!婆さんの老後資金の足しにしてくれ!」


「い、1,000万円!?何言ってるのアンタ!そんなお金いきなり貰えるわけないでしょ!?」


「いいから振り込み先教えろ婆さん!俺は…俺はそんなつもりじゃなかったんだよ!アンタみたいな人間まで巻き込むつもりじゃなかったんだ…。」


「…私の生活を心配してくれるのは嬉しいけど、そこまでしてもらう必要無いわ。」


「いや、だけど!」


「実は今まで黙っていたんだけどね、私いくつも不動産を持っているの。」


「…へ?」


何を言っているんだ…?


不動産…?


「駅の南側近くにマンションあるでしょ?あの1階に100円ショップとかが入ってる13階建てのマンション。あれね、1棟全部私のなの。」


「えぇ…?」


「それと、駅の北側にあるハンバーガーのお店が入っている物件あるでしょ?あれも私の。その横のカレー屋さんが入ってる物件も。管理は全部不動産屋さんに任せてるわ。」


「ちょ、ちょっと婆さん…?何言って…」


「駄菓子屋はただの道楽よ。こんなお店やってても生活の足しにもなりはしないわ。だからこのお店を閉めても私の生活は大丈夫。そんなに心配しないで。」


「……。」


「それよりアンタこそ、まだ若いんだから自分の人生にお金使わないと!結婚は大丈夫なの?もう良い歳でしょ?子供にはお金かかるわよぉ〜。」


「ま、孫の教育費を稼ぐからって投資詐欺に騙されたんじゃねぇのかよ婆さん…。」


「え…?あ、ああ〜。いやぁ…あれはほら、ねぇ?」


「……。」


言っていて思い出した。「孫の教育費を稼ぐ」なんて言葉は、老人が投資を始める際の常套句だ。金に余裕があってもそういう建前を用いて投資を始める老人は多い。証券会社に勤めていてこれまで腐るほど聞いた建前を、この婆さんに限っては真実だと思いこんでいたのだ俺は。なぜだ…。なぜそんな思い込みを…。


「どうしたのアンタ…?顔色おかしくなってきたわよ…?」


「……。」


視界がぐにゃぐにゃと歪む。

俺がこれまで見てきた「駄菓子屋の婆さん」とはなんだったのか。細やかな年金と駄菓子屋の僅かな利益で慎ましく生きていると思ってきた婆さんは、いくつもの収益物件を保有する社会的強者だったのだ。それを俺は勝手に弱者だと…。どうしてだ…どうしてこんな勘違いを11年間も…。


「アンタ…大丈夫なの…?」


「か、帰るよ…。」


「そう…。体に気をつけてね?」


「ああ…。」


俺は…俺はこれまで婆さんの何を見てきたんだ?何を分かっていたんだ…?


***


喉が渇く…。何かを飲んで気を落ち着けたい…。そうだコンビニ…。駅の近くにある、あの夫婦が経営しているコンビニで冷たい飲み物を買おう…。


ふらつく足でいつものコンビニに入ると、オーナー夫婦2人がいつも通り働いていた。今日は外国人のアルバイトも1人いる。数ヶ月ぶりに来たが、考えてみればこの店もヨグルトを置いていたのではなかったか…?なぜそれに思い至らなかった?いや、この店に限らず小売店で働いている弱者達を苦しめるような計画に俺はなぜすんなり乗ってしまったのか。


後に特定企業を狙った食品テロであることが明らかになれば小売店へのダメージは限定的だと考えたから?


大義のために僅かな犠牲は許容すべきだと考えたから?


クソ野郎の冨永から一刻も早く信用を得て詐欺に嵌めてやろうと思ったから?


俺はあの時何を考えていたんだ…?あの時の自分は冷静だと思っていたが、実は取り乱していたのか…?とにかく、何か飲み物を…


「おいグエンくぅん!!!」


その時、コンビニオーナーの夫が不機嫌で粘っこい大声を出した。


「ちょっとさぁ、ちんたら仕事しすぎなんじゃないのぉ?そうやって時間稼ぎしてないで早く品出ししちゃってよぉ!貰ってる給料分くらいはちゃんと働いてねぇ?あと君ぃ、またレジミスあったからね?それはバイト代から引いとくから。ミスしたんだから当然だよね?」


ベトナム人のアルバイトはオーナーのしつこい叱責に「ハイ…ハイ…」と俯いて返事をしながら、品出しする手を早めた。言葉の意味が全て分かっているのかは怪しいが、とにかく感情をぶつけられたことは理解したようだ。オーナー婦人はその様子に一瞥もくれず、嫌らしい微笑みを浮かべながらホットスナックを作っている。


また、視界がぐにゃぐにゃと歪む感覚を覚えた。

俺はこの光景をこれまで何度も見たことがあった。この夫婦が外国人アルバイトに厳しく当たる様子を。何度も何度も見聞きしてきた。あのアルバイトは異国の地で低賃金で働いている。どれだけ心細いだろうか。どれだけ貧しいだろうか。そんな労働者に対し、あの夫婦はああいった物言いをする。そんな様子を、俺はこれまで幾度となく目では見た。耳では聞いた。しかし、それが脳には届いていなかったのではないかと思うくらい、目の前の光景に今やっと衝撃を受けた。疑問を覚えた。俺はこれまでオーナー夫婦のアルバイトに対する言動を無視して、小売店で毎日勤勉に働く聖人かのように認識していた。どうして…?


小売店で、低賃金で、毎日一生懸命働いていたから…?


そういう人間だから、聖人だと…?尊いと…?


俺はこれまで何を見て、どう認識してきたんだ…?


「よ、義田先輩…?」


「…シモ?」


コンビニの入り口で呆然としていると、背後に下柳が立っていた。そうか、そう言えばこいつもこのコンビニをよく利用していた。下柳、お前には俺と同じ光景が見えていたのか?2人の人間が同じコンビニを見て、違う光景が見えていたなんてことはないだろうな…。


「せ、先輩まずいっすよ…。先輩と連絡つかないって、あれから支店の人達大騒ぎで…。本社の人も今度来るって…。こんなとこいるの見つかったら大変なことになりますよ…。」


「シモ…、ちょっと話せるか?」


「え…?」


「頼む…。10分でもいいから…。」


「わ、分かりました!じゃあ隣町のカフェでも行きましょ!そっちならうちの支店の人達と蜂合わせることないですから!」


「悪いな…。」


ふと、急にこいつと話したくなった。俺と似たような生い立ちのこいつの目には、どういう景色が見えているのか念のため確認したくなった。


***


俺と下柳は電車で座川駅まで行き、駅南口の高架下にある古い喫茶店に入った。

下柳という男は、俺と同じく母子家庭で育った。俺と同じく地方のど田舎出身だし、俺と同じく貧乏家庭。そして、俺と同じく証券会社で働いているのだから、世に存在する格差というものに思うところがあるはずだ。そんな同類同士でなければ理解し合えないものがあると思う。


「…シモ。お前、この社会についてどう思う?」


「え…?いきなりめっちゃ壮大な質問っすね…。急になんすか…?」


下柳はアイスコーヒーをかき混ぜるストローを止めて、怪訝な顔をしながら聞き返してきた。


「世に存在する格差についてだよ。例えばお前、塾とか行ったことあるか?」


「無いっすねぇ。ってか実家の周辺に塾とか1つも無いですし。」


「家庭教師とかは?」


「いや、無いです。金無いっすもん実家。」


「小学や中学でお受験したか?」


「いや…してるわけないじゃないっすか…。」


「親は学歴の重要性について教えてくれたか?」


「えー…?いや全然その辺ノータッチっすようちの親。」


「大学に行く金はどうした?」


「そりゃ奨学金で…。」


「大卒就活の世界観や常識を知っている親だったか?」


「いや知ってるわけないじゃないすか。親が俺に勧める職業なんて公務員とか教師くらいでしたよ。それくらいしか知らないんです、うちの親。」


「証券会社で働いていて、金持ち連中を見てどう思う?」


「えー…?まぁ…すげぇなぁというか…。俺とは何もかもが違う人達がいるんだなぁ〜って感じっすかね。」


「親はお前の歯について何か言及したことあるか?」


「へ…?歯…ですか…?いや、無いっすけど…それ何か関係あります…?」


「じゃあ…」


「な、なんなんですか矢継ぎ早に!どうしたんすか!何が言いたいんです?」


下柳は俺からの質問の隙を突いて、こちらを見ながらアイスコーヒーをすすった。俺の質問の意図が分からない様子だ。いや、そういうフリをしているのか?もっとハッキリ言ってやるか。


「つまりだ、この社会は生まれた瞬間から格差がある。経済的にも、文化的にも、情報的にもだ。俺とお前はその格差の下側に生まれ落ちた。そんな出自にあって、社会に対して思うことはないのか?格差を恨んだりすることはないのか?」


「えー…?でも仕方なくないっすかぁ…?」


「は…?」


「だって、あるもんはあるんですし。現実を受け入れて、現実に対応して、少しでも良い人生過ごそうって考えた方が建設的じゃないっすか?」


現実を…“ウケイレル”…?“タイオウ”…?


「あ、でも俺、証券会社を独立した後は金融教育の事業立ち上げたいと最近思い始めて!金融に関する情報格差を埋めたいんです!そういう側面から社会貢献したいなぁって!ほら、前に義田先輩とちょっと話したじゃないですか!そんな感じで、自分にできる範囲での社会貢献をしたいとは思ってますよ!でも社会貢献より前にまずは自分の人生っすよね!そこちゃんとしないと!」


ま、待て…下柳…お前何を…


「っていうか、うちみたいな貧乏家庭でも奨学金で大学行けましたし、それなりに金稼げる職業にも就けましたし、なんだかんだ良い世の中じゃないっすか?」


“イイヨノナカ”…?こいつは何を言ってるんだ…?

同じ時代に生きていて、似たような生い立ちの者同士で、どうしてここまで社会に対する感想が異なる…?


「まぁ貧乏にコンプレックスが無くもないですけどー、それも武器っていうか。こう、「頑張るぞ!負けないぞ!」っていう気持ちになるんですよね。ある意味、生まれた時から満たされてなくて良かったっていうかぁ。格差をバネにここまで来た感じありますね僕の場合!」


「し、しかしだなシモ…。それはお前…ミクロではそうでも、マクロでは違うんだ。広く世の中を見れば格差社会の被害者が沢山いてだな…」


「んー、それは分かりますけどぉ。でも自分が格差の下側に生まれたとして、社会恨んでも何も起きなくないですか?」


「だから仕方ないと言うのか?そんなのは奴隷の論法だぞ!」


「え、えぇ〜…。どうしたんすか義田先輩…。いや、でも僕だって自分ができる範囲で世の中変えたいとは思ってますよ。でもそのためにすることは現在の社会を恨むことじゃなくて、むしろ積極的に対応して自分自身が力をつけることじゃないんすか?」


「お前がそんな冷笑的な奴とは思わなかったよ。」


「れ、冷笑…?いやいや、現実を受け入れて対応する姿勢と、冷笑は違うんじゃないですか…?」


「……。」


「あ、先輩そういうことですか?それで何か最近変な感じになっちゃったんですか?先輩、何があったか僕分からないですけど、今ならまだ間に合いますよ。そりゃ…何十億円も出金されたのはヤバいですけど、支店戻って謝って、また仕事頑張れば許してもらえますよ。先輩めっちゃ仕事デキるんすから。」


「……。」


「元気出してくださいよ!考えすぎですよー!そうやって深刻に考えてもしょうがないじゃないですか!」


俺はこいつのことを、本当に、殺してやろうかと思った。

俺と似たような出自のお前が、俺の憎悪や苦悩を「考えすぎ」と一蹴するのか。この深刻な社会問題を「あるものはあるからしょうがない」と肯定するのか。自らの冷笑主義を現実主義と言い張るのか。

今気づいたのだが、俺が最も憎悪するのは、強者の肩を持つ弱者なのかもしれない。強者が作ったこの格差構造に何ら疑問を呈さず、その檻に入ることを家畜のように受け入れ、あまつさえ檻の中にいることを是と言い放つ弱者。俺はこの下柳という男にシンパシーを感じていたが、こいつの内面は俺と真逆。実は、この男は俺が最も憎悪すべき人種だったのだ。

お前は現実に折り合いをつけて大人になったつもりか?明確に存在する不当な格差を歪曲した認知で誤魔化しているだけではないか。こういった人種は結局のところ、世に存在する格差を肯定し、その格差の上側に自分が属する方法しか考えていないに違いない。何ら社会を変えようという気概は無いのだ。


だとすれば、「大卒」とはなんだ。目の前にある不当な格差を看過し受け入れ折り合いをつけられる人間のどこに、教養層としての矜持がある。この現実を看過できるのであれば、貴様らは教養層ではない。ただ制度化された「キャリア構築システム」に乗っているだけの体制の犬だ。

何が学問であろう。何が教養であろう。何が学位であろう。それとも、そんな疑問すら浮かばないほどその知能は劣化しているのか。


「…先輩どうしたんすか?」


「……。」


「支店に帰りましょうよ…。連絡しないのはまずいですって…。」


「もう俺は行く。」


「えっ?」


「シモ、さよならだ。」


「ま、待ってくださいよ!先輩!?義田先輩!?」


俺は下柳という男を見誤っていた。こいつは立派な体制の犬だったのだ。そして、俺の敵は上級国民だけではなかったのだ。


視界が、歪む。


***


「…二宮ぁ。逮捕者これで何人だっけ。」


「6人ですね。」


「そっから俺達の情報漏れたりしねぇだろうなぁ…。」


「一ノ関さん、内訳を考えてください。捕まったのは雇った闇バイトじゃなくて身内だけです。彼らは死んでも私達のことを警察に吐きません。」


「だけどヨグルト社を狙った食品テロってことで警察は捜査してるらしいぞ。」


「三田さん、それがバレるのは時間の問題だと最初から分かって計画を遂行したわけでしょう?捕まった者達が喋ったのではなく、状況証拠から疑われたのでしょう。いくら極小の注射器針で菌を混入させたといっても、容器か蓋に穴は開いてるわけですからね。しかしヨグルト株は狙い通り暴落し、私達は空売りで利益を得ました。計画は成功ですよ。」


「まぁ俺のチームが動画やSNSで煽りまくったからな。ヨグルトのこと。完全に俺の世論操作のおかげだな。ネット民チョロすぎ。」


「はぁ…一ノ関さんって本当に短絡的ですよね。ただネットメディアで取り上げるだけでここまで問題が大きくなるわけないでしょ?私が雇った闇バイト達の仕事が無かったら絶対成功していませんでしたよ。はぁ…。」


「チビがなんか言ってら。」


「いやこの話とチビ関係無いでしょ。」


「チビ。」


「いやチビ関係無いでしょって。」


「チビチビチビチビチビチビ!!!」


「あああああああああああああ!うるさいなぁ!大体身長なんて本人の努力でどうこうなる問題じゃないんだから「チビ」は差別用語でしょおおおおおおおおお!?じゃあ今メジャーリーグで二刀流とかやってる日本人は努力したからあの身長になったんですかねぇえええええ!?違いますよねぇえええええ!?ああいう体のサイズにたまたま生まれただけですよねぇええええ!?ただの才能の差なのに本人が悪いみたいな言い方止めてもらえますかああああああ!?」


「お、チビめっちゃ切れてんじゃん。」


「おい止めろよ一ノ関。落ち着け二宮。」


「じゃあ一ノ関お前「馬鹿」って言われたらムカつかないんですかねぇ!?馬鹿なのは生まれつきIQが低いせいなのに!馬鹿って言われてムカつかないんですかぁ!?生まれた時から馬鹿なだけなのに!!!」


「は?いや俺馬鹿じゃねぇから。」


「バカバカバカバカバカバカバーカ!!!」


「馬鹿って言う方がバーーーカ!!!」


「バカバカバカバカ!」


「みっ…」


「「あ…。」」


「みっ…みっみっみっ…」


「みっみっみっみっみっみっみっみっ」


「みっみっみっみっみっみっみっみっ」


「みっみっみ…みんな、なっなっなっなっなっ…」


「なっなっなっなっなっなっなっなっなっ」


「なっなっ…なっなっなっなっなっ…」


「なっ仲良く。」


「「はい!!!」」


「「申し訳ございませんでした!!!」」


「一ノ関くん!ごめんね!」


「いいよ!二宮くん!ごめんね!」


「いいよ!」


「四井さん、いつも仲裁すみません。一ノ関、二宮、お前らいい加減にしろよな。とにかく俺達はどうせ“無敵”だ。捕まるなら捕まるでいい。それまで全力で社会に悪意をばらまくだけだろ?」


「そうだな…。」


「ですね…。」


「よし、それじゃ次の計画について話し合おうか。」


バタン


「あ…?」


「やっぱりここにいたか…。半グレども、久しぶりだな。」


「…義田さんじゃないですか。ご無沙汰しています。もう私達は無関係のはずですが、今度は何の御用でしょう。」


四井達は以前と同じレンタルオフィスの306号室に集まっていた。二宮は話し方こそ丁寧だが、警戒心剥き出しといった様子だ。一ノ関も三田も同様の態度。中央に座る四井だけは、涼しい目でこちらを見ている。


「またあんたらの力を借りたい。」


「力を?どういうことですか?」


「俺の犯行を、お前らのネットメディアで大々的に取り上げろ。SNSも動画サイトも総動員でだ。」


「はぁ…?急に何言ってんだテメェ…。」


ネットメディアと聞いて、それを担当する一ノ関が口を開いた。


「俺は勘違いをしていた。俺の敵は上級国民だけじゃなかったんだ。その上級国民が作った格差制度を肯定する弱者達の目を覚まさないといけない。ヨグルト株の件でお前らのネットメディアの力はよく理解した。そのメディアで俺を取り上げれば、虐げられていることにまだ気づいていない多くの弱者達の目を覚ますことができるかもしれない。」


「は…?いや…言ってること全然意味わかんねぇ…。」


「…証券マン、お前急にどうしたんだ?」


「義田さん、狂ったんですか?」


3人はなぜか呆気にとられた顔をしている。そうか、俺としたことが少し性急すぎた。こいつらには順序立てて説明する必要があったか。


「つまりだな、一から説明すると…」


俺が話を始めようとすると、半グレグループの元締めである四井は手元のパソコンを打ち始め、書いた文章を俺に見せてきた。

そこには「僕達があなたに協力することによって、僕達に何のメリットがあるのですか?」と書かれている。この男はいつも話が早くて助かるが、“メリット”ときたか。全く…まだ俺の話が全て見えていないようだ。


「四井。お前達は社会を恨んでいるんだろう。この格差だらけの社会を。だからそんな社会をぶち壊したいと以前言っていたよな。俺がやろうとしていることもそれと同じだ。上級国民が自分達に有利になるよう作った社会をぶち壊す。その手伝いをしてくれと言っているんだ。俺とお前らは“同類”だろ?」


四井は顎を親指と人差し指で軽くつまみ、黒目を上に向けながら何かを考え始めた。そして1人で納得したように頷き、パソコンを打ち始めた。俺はそんなに難しいことを言っていないはずだが、この男は何を考え込んでいたのやら…。

四井はパソコン画面をこちらに向け、打ち込んだ文章を見せてきた。


「義田さんのお話を聞いていて、何かが根本的にすれ違っていると思ったので考えてみたのですが、それが分かりました。確かに義田さんは今の社会を破壊したいと思っている。僕達も今の社会を破壊したいと思っている。その想いは同じです。ただ、僕達は同類じゃないと思いますよ。その認識は間違っています。」


「ん…?どういう意味だ?」


「ヨグルト株の件で一緒にお仕事をした際、義田さんの身の上話をいくらか聞きましたけど、実はあの時から僕達は義田さんのこと“違う人”だなって思っていたんですよ。」


「“違う人”…?」


「ええ。だって義田さん、退学したとはいえ一般入試であのK大学に入学したんですよね?親は中卒で勉強を教わったわけでもなく、塾に通ったわけでもなく、家庭教師がついていたわけでもない。通っていた高校も進学校ではなく、周囲は高卒で就職するのが当たり前という環境の中で、1人勉強して現役でK大学入学でしょ?それって、どう考えても「普通」じゃないですよね?」


「普通じゃない…?」


「ええ。普通じゃないですよ。それだけ恵まれない環境に生まれ落ちて、何の教育リソースも投じられていないのにK大学に現役合格なんて、明らかに普通じゃないです。恐らくなんですけど、義田さんって先天的に優れた頭脳をお持ちなのでは?」


「はぁ…?俺が先天的に優れている…?いや…それは知らないが…とにかく俺は必死で努力して大学受験に合格して…」


「いやいや。努力と言っても限度があるでしょう?K大学の周りの学生達はどうだったんです?良い環境に生まれ、十分な教育リソースを投じられた学生が圧倒的多数ではありませんでしたか?それは羨ましいことかもしれませんけど、何の教育リソースも投じられず独力でK大学に入学した義田さんの才能に比べたら、その人達全員凡人でしょ?」


「才能…?」


「義田さん。僕達はですね、正真正銘のポンコツばかりですよ。軽度知的障害だったり、アスペルガーだったり、身体障害があったり、感情抑制ができなかったり、長生きできない病気を抱えていたり。僕のように重度の吃音でまともに喋れない人間もいます。僕達は生まれながらにして“こう”なんです。加えてみんな毒親持ち。教育意識の欠片もなく、子供に対する愛情すら怪しいような親の下に生まれたのです。」


「つまり、僕達は生まれながらにして格差の下側に行くことが決定していたのです。だからこんな社会ぶっ壊れればいいと思っている。そんな僕達と、それほど優れた才能を持って生まれてきたあなたが“同類”ですか?皮肉で言ってます?僕達の目線からすれば、あなた相当恵まれた人間ですけど?」


「お、俺が恵まれた人間だと…?おい、ふざけるな訂正しろ!俺のどこが恵まれている!」


「なるほど。そこは認めたくないんですね。」


「認めるとか認めないとかじゃない!俺は努力をしたんだ!人一倍努力をした!恵まれない環境にいながら、お前らの想像を絶する努力をした!それを“才能”なんて言葉で片付けるな!」


俺が“恵まれている”だと…?ふざけるのもいい加減にしろよ。俺はあんな環境に生まれて、大学でその差を思い知らされて、仕事でも格差を目の当たりにし続けてきた。どう考えても俺は格差の下側にいる人間だ。そうでなければ…


「とにかく、義田さんの話はお断りさせて頂きます。私達は決して、同類でも仲間でもありません。」


「……。」


「あ…すんません電話…。」


その時、三田のスマートフォンが鳴った。


「もしもし?今取り込み中だから後で…え…?それマジ…?」


電話に出た三田の顔が見る見る赤くなっていく。


「半田ァ!あいつマジで!クソが!あいつマジで貧乏神だったなぁ!あークソが!」


三田は激昂してスマホを地面に叩きつけた。そして四井に対し土下座の構えをした。


「四井さんすみません!!!今うちの兄弟から連絡あって、半田が警察に自首したらしいです!多分俺達のこと警察にバレます!!!」


「はぁ〜?マジかよ三田ぁ!お前マジで馬鹿だな!バーカ!」


「三田さん。組織の理念に共感していない人間を部下に持っていたのですか?これはあなたの責任ですよ。」


「いや…そんなことは…あいつヨグルトの件以降変になっちまって…。」


3人はさすがに焦っているが、四井は相変わらず涼しい顔だ。こいつは逮捕されることを全く恐れていないらしい。自分の人生を完全に捨てている人間は潔いものだ。

しかしそれは俺も同じ。半田が自首したということは、俺の情報が漏れるのも時間の問題だろう。想定とは違ったが、俺が逮捕されるのも計画のうち。来る時が来ただけだ。


「四井、お前はどうするんだ?」


ふと気になり、四井に残りの時間をどう過ごすのか聞いてみた。四井は涼しい顔でパソコンを打ち、画面をこちらに向け文章を見せた。そこには、「今できる悪事をできるところまでやります」と書いてあった。

一ノ関、二宮、三田の3人はいつの間にか落ち着きを取り戻し、四井のパソコン画面を見て無邪気に笑った。こいつらは筋金入りだ。


俺も、残りの時間可能な限り金を配り続けよう。


***


8月29日、晴れ。

座川駅に隣接したホテルのテレビをつけると、今日もニュースは元首相暗殺とそれに関わる宗教問題、そしてヨグルト食中毒事件の真相についてだ。

半田の自首と自白により四井達は逮捕され、ヨグルト食中毒事件の真相は数日で日本全国に広がった。テレビも新聞もネットも、四井達半グレグループの報道ばかりだ。真実とデマ、批判と同情が錯綜する中で、俺は毎日ワクワクドキドキしながら自分の行為がメディアで報道されるのを待った。しかし、この計画に俺という証券マンが便乗し、上級国民相手に投資詐欺を行っていたという報道はまだ無い。

考えてみれば、半田は俺が計画に加わろうとしていたところまでは知っていたはずだが、実際に俺が計画に加わったかどうかも、俺が投資詐欺をしていたことも知らなかったのではないか。その辺り四井達は知っているはずだが、奴らは俺のことをちゃんと警察に話しているのだろうか…?まさか、警察はまだ俺について何の情報も得ていないのではないだろうな…?


それはそれで不都合だ。せっかくメディアがここまで大盛りあがりしているのだから、俺という義賊が富の再分配を行っていたという情報も流れてくれないと困る。数日待っても俺のことがメディアに出てこないので、仕方なくSNSのアカウントでも作ってネット上で自白をしてみようかとも思ったが、ただの気狂いだと思われるのがオチなので止めた。

いずれ逮捕されるにしても、なんとか俺の行為について世間に知らしめたい。メディアが大騒ぎしているうちに。そもそも、俺は警察に捕まるのを待った方がいいのだろうか?それとも自首した方がいいのだろうか?どういう風に捕まるのが最もセンセーショナルなのか、そういえばよく考えていなかったことに気づいた。


そんなことを考えていると、スマートフォンが震えた。電話だ。また寺川支店の奴からだろうか?いや、番号が違う。これはどこの番号だろう。もしかして、警察からか?よく分からないが、逮捕される前というのはそういうものなのか?それとも事情聴取?

胸が高鳴る。出なくては。


「はい、もしもし。」


「…お忙しいところ恐れ入ります。こちら、帝日証券寺川支店にお勤めの義田大輔さんのお電話でお間違いないでしょうか?」


「はい、私が義田です。本人です。」


電話の男は俺の勤め先とフルネームを知っている。間違いない、こいつは警察だ。やっと俺を逮捕してくれるのだな。


「私、帝日証券コンプライアンス管理部の伝井と申します。」


「へ…?コンプラ…?」


帝日証券のコンプラ部…?なんだ…?どうして…?あ、そう言えばまだ会社を正式に退職していなかったな…。どうでもよすぎて完全に忘れていた。


「あなたと連絡がつかないと寺川支店の総務部が言っていましたが、試しにかけてみて良かったです。今どちらにいらっしゃいますか?」


「…どうしてですか?」


「あなたの過去取引に不正と思われるものが複数発見されました。それについてお伺いしたいのです。」


「はぁ…?俺の過去取引の不正…?」


呆れた。こっちは逮捕まで覚悟して待っていたというのに、たかだか証券会社の不正取引ごときで電話をかけてくるんじゃない。伝井と言ったか。会社組織の中にいるお前からしたらソレは大事なのかもしれないが、俺からしたら鼻くそほどの重さも感じない罪だ。その程度のことでシリアスな声を出すな。

全く…どうしたものか。大した用事でもなさそうだしこのまま電話を切るか…いや、待てよ…?


「…あの、不正取引と仰いますけど、“どれ”のことです?」


「“どれ”…とは?」


「いえね、客注に見せかけてネットで商品売買させたり、高齢者にリスク商品を買わせたりしたことなのか。それとも、俺がやった投資詐欺のことなのか。どの件についてなのかと思いましてね。」


「えっ…?いや…何を…?え?今何て仰いました…?詐欺…?」


「あー、なるほど。まだ俺がやった投資詐欺のことについては情報を掴んでいなかったんですね。」


「い、いやいやいや…詐欺…え…?」


「分かりました。直接会って話しましょう。多分、あなた達が想像する以上のことを俺はやっているので。」


「えぇ…?」


「では、2時間後に本社に伺いますよ。そこで全てをお話します。」


「は、はぁ…。ではそれで…あ、いや。3時間後にして頂けますか?上司とも少し話しを…。」


「いいですよ。では3時間後で。」


「は、はい…。では失礼します…。」


「よろしくお願いしますね。」


コンプライアンス管理部の伝井は超弩級の爆弾の存在を察知したようで、暗い声で電話を切った。

これでいい。最初は電話を切ってしまおうかと思ったが、忘れていた。俺が勤めているのは帝日証券。テレビCMもバンバン流している日本の大手証券会社だ。冷静に考えたら、この知名度を使わない理由が無かった。

本社のコンプライアンス管理部に俺のやったことを洗いざらい話してしまえば、警察も金融庁も動かないはずがない。有名な会社名とともに、俺の革命が全国に報道されること疑いないのだ。俺の投資詐欺のためだけでなく革命の周知のためにも知名度を利用されるとは、まるで俺のために存在するかのような証券会社であったな。


3時間後が楽しみだ。


***


座川駅から東京駅までは電車で1時間程度だ。そこまで遠くはないが、わざわざ来たいと思うような町でもない。見ろこの高層ビル群を。あそこまでの高さにする必要があるのか?あっちでは新しい高層ビルを建設中のようだが、これ以上ビルが必要なのだろうか?必要の無いビル同士が必死に背伸びをしあっている様子は、東京という町の空虚さを象徴しているようにも見える。

特に気に入らないのは町を歩く人間達だ。その流れを俯瞰して見るとまるで黒い川。聞こえてくるのは、川のせせらぎというにはあまりにも忙しい足音。車の排気音。工事現場の機械音。

何もかもが動いているこの町は、人の心に一切の安らぎを与えず、ただただ焦らせるばかり。この町が喋らずとも、向上を是とし停滞を非としていることがハッキリと伝わってくる。そう思えない人間はこの町にいるべきではないとすら言われているような気になる。俺が生まれ育った土地とは根本的に世界観が違う。

日本の大手金融機関の本社ビルは、そんな東京駅周辺に集中している。帝日証券もその1社だ。地上25階地下4階のこのビルの中に、帝日証券の本社部門の一部が入っている。


***


ビルに入ると、20メートルほど先のゲート前に社員証をぶら下げた男が立っていた。明らかに誰かを待っているという感じなので、恐らくアレが伝井ではないだろうか。

男に近づきながら姿を観察する。見たところ30代。髪は坊主に近い短髪で、体は横にガッシリと大きい。耳が潰れているから、柔道でもやっていたのではないだろうか。午後なのに皺の少ない白いワイシャツ、靴もちゃんと磨かれている。背筋はピンと伸びており、近づいて見ると誠実そうな顔つきをしている。上下関係の中で揉まれてきた律儀な男という印象だ。首にかけている社員証に帝日証券のロゴと名前がある。間違いない。


「こんにちは。」


「あ…義田さんですね…?」


「ええ。伝井さんですね。本日はよろしくお願いします。」


「は、はい…。では…早速ですが中へ…。こちらのカードを使って入館してください。」


「はい。」


エレベーターでビルの17階に上がり、伝井に案内されるままガラス張りの個室に入った。部屋の広さは6畳程度で、白いデスクとイスが2脚置かれているだけの部屋だ。なるほど、コンプライアンス管理部はこういう部屋で取り調べを行うのか。

恐らく、普通の証券マンであればこれからどのような詰問を受けるのか戦々恐々とするものなのだろうが、開き直っている俺からすればただ興味深いばかりである。普段何ら会社の収益に寄与しないコンプライアンス管理部の人間が、どのような態度で俺を詰問するつもりなのか。逮捕確定、メディア大盛りあがり間違いなしの犯罪話を俺から聞いてどのような顔をするのか楽しみなくらいだ。


「では…始めてもよろしいでしょうか?」


「ええ。どうぞ。」


伝井は部屋のブラインドを下ろし、ボイスレコーダーを起動させデスクの上に置いた。


「えー…改めまして。帝日証券コンプライアンス管理部の伝井です。よろしくお願いいたします。」


「帝日証券寺川支店営業部第一課の義田です。よろしくお願いします。」


「まずお伺いしたいのですが、こちらの顧客の取引について覚えはありますか?」


伝井は分厚いフォルダから1枚の紙を取り出しデスクの上に置いた。


「ああ、木村さんですね。もちろん。お得意さんですから。」


「木村様は75歳の高齢者です。当社では、高齢者にリスク商品を提案する際は管理職による認知判断能力の確認と承認が必要ですが、木村様に関してはその確認が行われていません。木村様は、2021年7月に投資信託を売却し、その翌週に新たな投資信託を購入されています。義田さん、あなたの書いた顧客履歴には「お客様の自主的な判断で投資信託の売買が行われた」とありますが、実はあなたが水面下で商品提案をしていたという事実を木村様本人から聞き出しました。これは事実でしょうか?」


「ええ。事実です。」


「あ…そ、そうですか…。」


あっけなく不正取引を認める俺に、伝井は面食らったようだ。そりゃそうだ。普通の証券マンなら弁解するだろうからな。


「で、では不正取引を認めるということですね…?」


「ええ。認めます。」


「そうですか…。次に…」


「待ってください。その分厚いフォルダの内容を、全てこの場で確認するつもりですか?2時間や3時間じゃ足りなそうだ。」


「…仕事ですから。」


「コンプラ部ってのは暇人ですなぁ。」


「え?」


「伝井さん。アンタこの会社何年目?」


「10年目ですが…。」


「へー、俺と結構近いんだ。営業は何年経験したの?」


「いえ…私は…。」


「え?営業現場の経験無し?」


「ええ。初期配属はリテール業務管理部で、その後売買管理部に異動し、現在はコンプライアンス管理部です。」


「マジかよ…。痺れる経歴だな。本物の“現場知らず”だ。」


「現場知らず、ですか…。確かによく言われます。しかし私の経歴とあなたの不正取引は無関係でしょう。さぁ、聴取を続けます。」


「いいや関係あるね。俺は証券会社の販売現場を知らない人間が営業の粗を探すっていうのが以前から我慢ならなかった。」


「時間は限られています。今それについては…」


「あんたみたいに収益を直接稼いだことのない人間は、自分達の給与を現場の人間がどうやって稼いでいるのか分からないだろ。不正?そりゃ大なり小なりするだろうよ。じゃなきゃ本社部門の馬鹿どもが脳死で取ってきた社債の引受けや投信の募集を捌けねぇんだから。役員の老いぼれどもが設定した現実離れした経営目標を達成できねぇんだから。そんな現場の状況も知らない人間が、自分達だけはコンプラ部なんていう遥か高みから営業の粗探しか?顧客利益のことを考えているのか怪しい窮屈な取引ルール作って仕事したフリか?不正取引があったらすっとんできて事情聴取。金融機関の社会的意義や顧客利益とやらを偉っそうに説くのか?現場を知らない人間が?狂ってるだろ。」


「義田さん。仰ることは理解できますが、あなたがあなたの仕事をしてきたように、私は私の仕事をするだけです。」


「おや、冷静だなぁアンタは。」


「では最も核心的なこと…いや、最も私が恐れていることについて聞かせてください。」


「ああ。いいよ。」


「義田さんは先ほど電話で「投資詐欺」と仰いました。これは…その…」


「事実だ。」


「そ、それは…当社の顧客に対して…ということでしょうか?」


「それも含まれる。先日寺川支店から25億円の出金があっただろ。それが丸々俺の詐欺用法人口座に“入っていた”。」


「“入っていた”…?今は…?」


「まだいくらか残ってはいるが、あちこちの団体に寄付しちまった。ま、富の再分配ってやつだ。」


「なっ…!!!」


伝井は今日一番の表情を見せてくれた。

同じ土地で11年も働いてなぜ今?なぜ投資詐欺を?なぜ寄付を?なぜ逃げもせずこんなところで自白を?一体どこから質問していいか分からない様子だ。


「伝井さん。俺にどこから質問していいか分からないと思うから、イチから全部話していいかい?」


「イチから…ですか…?」


「そうイチから。俺がなぜここでアンタ相手に自白しているのか、なぜ投資詐欺をしたのか、なぜ証券会社で働いているのか…全部イチからだ。その流れが分かれば俺のことも理解できると思う。」


「わ、分かりました…。お伺いします。」


「長くなるぞ。まず俺の出身は地方の…」


俺は伝井に自分のことを全て話した。

俺の生い立ち、大学時代のこと、証券会社に入った理由、証券会社の顧客に対する気持ち、格差に対する憤り、ヨグルトの食中毒計画、投資詐欺計画…。とにかく全てをひたすら話した。

現場知らずの伝井は聞き手として大変好ましい男で、素早くメモを走らせつつも、俺の目をしっかり見てゆっくり頷きながら話を聞いてくれた。気づくと俺は2時間も喋り続けていた。


「…それで、今ここでアンタ相手に全てを自白しているというわけだ。」


「……。」


俺の話を聞き終わった伝井は、話を聞く前より困惑を深めた様子だ。ここまで理路整然とした説明をさせておいて、まだ分からないのかこの男は。


「その…いや…お話ありがとうございます…。しかし、気になることがいくつもあって…どこから聞けばいいのか…。」


「なんでもどうぞ。」


「義田さんは、格差を憎まれているのですよね?我々は生まれた瞬間から大きな差があると。そして、生まれながら恵まれていることに無自覚な人間達も憎んでいる。」


「ああ、そうだ。」


「証券会社で働き、恵まれた人間達に復讐するとともに恵まれない人間達に富を分配したいと考えたと。」


「そうだ。」


「その“恵まれた人間”についてなのですが…。具体的な例を挙げてお伺いします。例えば不動産オーナーの中田氏のお孫さん。」


「ああ、あの働きもせず一族の脛かじって生きてるボンボンクソニートな。」


「え、ええ。その…、ニートはともかくとして、先天的な問題を抱えていらっしゃるんですよね…?」


「ん?ああ。そう言ってたな。軽度知的障害らしい。」


「それって、恵まれていますか…?いや確かに、生まれた家は資産家家系なんでしょうけど…。」


「はぁ?何を言っている。働かずに飯を食えてどこが恵まれていないというんだ?」


「…で、では他の例を。教育熱心な村田氏。」


「ああ。息子が名門中高一貫校に合格して鼻高々だったのに、学業についていけなくて引きこもりを抱えることになっちまった村田さんな。笑えるだろ。」


「実は私も似たような学校を出ているのですが、どんな良い学校でも在学中に脱落者は出るんですよ。受験に失敗する子達も当然います。良い学校に通ったからといって将来が約束されるほど人生って甘くないと思いませんか…?恵まれた環境なりの熾烈な競争があるわけで…。」


「まぁ…それはそうだが…。しかし、そんな恵まれたステージにすら立てない人間達もいる。」


「私が言いたいのはそこではなく…いえ。では次の例ですが、美術品収集家の金井氏。」


「あー、あの特にいけ好かない爺さんな。いつも俺に美術品を見せびらかして試してくる嫌な奴だ。」


「ええ…それは確かに大変ですね…。それより私が気になったのは、金井氏が行っている慈善活動をあなたが“偽善”だと言った点です。」


「偽善だろう?あれだけの資産に守られている人間でなければ、慈善活動しようなんていう気にならない。」


「仮にそうだとしても、事実として金井氏は恵まれない人々に貢献しているわけですよね?あなたの思想からすれば、金を使わない金持ちの方が問題があるわけでしょう?それならば金井氏の人格や生い立ちはどうでもよくて、慈善活動に金を投じているという事実の方が重要なはずでは…?そもそも、それは犯罪をしてまで恵まれない人々に貢献しようとしたあなたが批判できるようなことなのでしょうか…?」


「しかしアレは税金対策…」


「だったとしてもです。」


「……。」


「義田さん。あなたは人間のある一面に対しては驚くほど鋭く深い洞察をされるようですが、それ以外の部分は驚くほど見えていないように思えます。いや、見て見ぬふりをしてきたのでしょうか。直視することを恐れているようにも思えます。人間というのは、あなたの仰る一面だけで断じられるほど単純でしょうか?」


「……。」


「別の例を挙げます。冨永幸夫氏についてです。」


「…ああ。こいつが1番いけ好かない。勲章を見せびらかし勲記を俺に朗読させるようなクソジジイだ。」


「ええ…。それは確かに醜悪だと思います。ただ、その程度のことですよね…?」


「その程度…?いやいや…アンタな…」


「あなたの話を聞いていると、私には、孫の冨永誠一氏に対する恨みを祖父の冨永幸夫氏にぶつけているようにしか思えないのです。」


「え…。」


「あなたが大学時代に冨永誠一氏から「彼、黄色くない?」と言われたのは事実として、それは祖父の冨永幸夫氏に関係無いでしょう…?」


「……。」


「そもそもの話なのですが、大学時代に冨永誠一氏から「彼、黄色くない?」と言われたという話、それ歯のことなのでしょうか?」


「へ…?」


「だって、冨永誠一氏は「彼、黄色くない?」としか言っていないんですよね…?それだけでは歯のことなのか分かりませんし、そもそもあなたのことかすら分かりませんよね…?」


「お、おいおい。それは違う。俺は確かに聞いた。アレは…」


「聞いたのは「彼、黄色くない?」という言葉だけですよね?そこまでは事実として、それ以外はあなたの想像…。申し上げにくいですが、あなたのコンプレックスが引き起こした被害妄想である可能性はありませんか…?」


「コンプレックス…?被害妄想…?はぁ……?」


この伝井という男は何を言っているんだ…?俺がこれまで見てきた“恵まれた人間達”は、恵まれた人間達だ。そして俺は恵まれていない人間で…俺が助けようとしたのも恵まれていない人間…いやそもそも何を以て恵まれている、恵まれていないかというと…


「義田さん。これまであなたが見聞きしてきたものは、どこまでが「事実」で、どこからが「想像」だったのですか…?」


伝井は困惑と哀れみの入り混じった顔で俺にそう言った。

どこまでが事実で…どこからが想像…?


想像…?


俺が…俺が想像に基づいて社会を恨んでいたとでも言いたいのか…?いや…違う。この伝井という男が体制の犬だから、俺の思想を「思い込み」とか「想像」とか言って封殺しようとしているに違いない…。


もしそうではなかったら…?


俺は自分のコンプレックスを背景とした誇大妄想に大層な理屈をつけて、あの大学の日から十数年間生きてきたのか…?ずっと犯罪計画を練っていたのか…?

シモ…。お前にはこの社会がどう見えていたんだ…?俺と似たような生い立ちのお前には、俺とは違うものが見えていたのか…?


「…義田さん?義田さん?大丈夫ですか?」


「……。」


「…聴取を続けます。よろしいですね?」


「……。」


そう言えば、俺はなんでこんなところにいるんだ?


***


聴取を終えビルを出ると、外はすっかり暗くなっていた。

詐欺行為を自白しているのだからすぐに警察を呼べばいいのに、会社は明日以降も聴取をしたいらしく今日は帰された。投資詐欺に関しては「これから事実関係を調査する」のだとか。まぁ会社の信用を著しく傷つけるスキャンダルだ。慎重になるのは分かるが、俺が明日も出社し聴取に応じると信じているあたり度し難い平和ボケだと思う。まぁ、もはやなんでもいい。

気がつくと、目の前の高層ビルがただの高層ビルにしか見えなくなっていた。町を歩く人間達は歩く人間達にしか見えなくなっていた。足音は足音だし、自動車の音は自動車の音、工事現場の機械音は工事現場の機械音だ。東京という町から、俺は何のメッセージも感じなくなっていた。当たり前だ、町は喋らない。


「すみませーーーーーん!!!」


「ん…?」


「あっすみません!俺、今配信してて!いいっすか!?」


突然、少し頭の足りない喋り方をする若者がパソコン片手に話かけてきた。なんだ…?


「ハイシン…?いや、何…?」


「あっすみません!俺、アウトロー系のジャーナリストやってて!あ、配信これYouTubeっす!あ、チャンネル名「ケイタロウCHANNEL@アウトロー/社会の闇」っていうんですけどぉ!いいっすか?ちょっと!」


「アウトロー系…?ジャーナリスト…?俺に何の用だ…?」


「“ある筋”から情報掴んでてぇ!帝日証券の義田…あ、すんません名前出しちゃいますけどぉ、帝日証券の義田って人がヨグルトの件で最近話題の半グレグループと手を組んで金持ちに詐欺して現代の義賊だとか!その義田さんっすよね!?」


…どこからそこまでの情報を掴んだのか知らないが、もしかしてこいつ、四井達半グレグループが抱えているネットメディアの人間か?


「義田さんって金持ち達から集めた金を恵まれない人達に寄付しまくってるんですよね!?マジでやべーなって!それってサイブンパイじゃないですか!サイブンパイ!是非うちの配信で取り上げたいと思ってて!ずっと追いかけてました!」


なるほど。俺の革命をサポートするため、四井達が手を回したに違いない。この男のことは知らないが、四井達のメディアであれば拡散力は馬鹿にならないだろう。こいつのYouTube配信とやらを通じて全国に俺の思想を拡散しろということか。


「あ!見ます?配信画面今見せますね?」


そう言って、男は俺にパソコン画面を見せてきた。画面にはこちらの映像とともに視聴者のコメントが流れている。視聴者数は52人。


…え?52人…?


「お前…四井のところのじゃ…?」


「へ?何がっすか?」


「……。」


「ふっ…はははっ…!はははははははは!」


「なんすか…?」


「ちょっともう1回画面見せてくれ。」


「あ、はい…。」


画面に俺の顔が映ると、コメントは速度を増して流れた。視聴者は少数だが、コメント量はそれなりに多く、いずれも過激な内容だ。社会に対し斜に構えた人間達が、先鋭化し、コメント欄で過激な思想をぶちまけているようだ。金持ちから金を奪い、様々な団体に寄付した俺の行為を称賛する書き込みも多く見られる。


「義田さん!画面に向かって何かメッセージお願いしますよ!現代の義賊でしょ!この腐った世の中に一言お願いしゃす!」


「世の中に一言か…。」


YouTubeの配信画面には、事実と想像の区別がついていないと思われるコメントが流れている。彼らは「社会」というものを“そういう形”で認識し、それに基づいて憎んでいるのだ。

気持ちは分かる。俺は、歪んだ認知で怒りに身を任せ社会正義を語る快楽をよく知っている。努力して能力と立場を得て、実際に行動までしてしまったほどだ。この画面に流れるコメントのように、ネットでくだを巻いているくらいが丁度良かったというのに。


四井の言葉を借りれば、人間というのは屈折の度に嫌いな人種が増えるとか。

今さら、格差の上層にいる奴らへの認識を改めることはできない。

今さら、この社会を肯定する人間達を許すこともできない。

そして、お次はこのパソコン画面に映るこいつらだ。どうやら俺のやったことを賞賛しているこいつらだ。今の俺にとって、これほどグロテスクに見える奴らはいない。


つまるところ、屈折を繰り返し、嫌いな人間だらけになった者が最後に辿り着く考えはコレなのだ。

最後に吐く言葉など、コレ以外無いのである。


「…一言だな?」


「はい!マイクに向かってお願いしゃす!」











「全員くたばれ。」



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金融義賊 エフ @f1001

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