第11話 退職って超気持ち良い
「ここを…押せばいいんでしょうか?」
「ええ。そこの「売却」というボタンを押して頂いて…。」
「はい。」
「ページが取引確認画面に移ります。下にある「確認」のボタンをクリックして頂ければ、売却完了です。」
「このボタンですね。」
「はい、そうです。」
「押して大丈夫でしょうか?」
「ええ、押してください。」
「押しました。」
「これで完了です。売却後のお金は後日MRFに入ってきますので。受渡日になりましたらまたご連絡いたします。」
「いつもありがとうございます義田さん。私パソコンとか疎くて…。」
「いえいえ。」
また1件、顧客の資産を売却させることに成功した。支店を通すと面倒なのでネット口座で顧客自身に発注させている。金融商品を売却した後の資金は証券口座に残る。それを後日俺の投資顧問会社の口座に送金させ、奪い取る計画だ。
「義田さんの投資会社?の方が手数料も安くて利回りも良いんですよね?」
「ええ。その通りです。証券会社だとどうしても多くの手数料を頂いてしまいますが、私の投資顧問会社であれば安い手数料で運用できます。」
「えっと…振り込み先は…」
「こちらの法人口座までお願いいたします。また後日ご案内いたしますので。」
「分かりました。」
銀行口座というのは振り込みや引き落とし金額に制限がある。例えば1日あたり200万円までとか、1ヶ月あたり1,000万円までといったように。この制限のせいで詐欺で集めた資金が巨額であるほど資金移動に時間がかかり、その間に銀行口座を凍結される恐れがあるのだ。
だからカモ達の振り込み先は分散させる。カモグループAには銀行A、カモグループBには銀行Bといったように、振り込み先を複数の銀行に分散させ、集めた金を短期間で引き出したり振り込んだりするのが詐欺業者の常套手段だ。
身内で噂が回るのが早い寺川銀杏会の連中には「株式会社銀杏投資顧問」の口座に金を振り込ませたが、帝日証券で俺が担当する顧客達には予め用意した8社の法人口座のうち1つを振り込み先として提示している。
この8社の法人口座は全て“購入”したものだ。ほとんどの人間は知らないだろうが、銀行の個人・法人口座は売買されている。市場で販売されている銀行口座はまともではないビジネスにとって都合が良く、特殊詐欺グループなどがよく購入している。ちなみに、言うまでもないかもしれないが銀行口座の売買は違法だ。
「利回り10%を超えない限り手数料が0円だなんて、それで会社は成り立つんですか?」
「ええ。相場の見通しには絶対の自信がありますので。手数料に関しては、むしろ証券会社が取りすぎなんですよ。正直なところ、田中様にはこれまで申し訳ないと思っていたんです。」
「そんなことありませんよ。義田さんには本当にお世話になってきましたから。その義田さんがファンド?を立ち上げるなら是非お任せしたいと思います。」
「ありがとうございます。」
投資詐欺の提案よりも、高揚感を隠すのに苦労する。俺が帝日証券の看板を利用し長年かけて築いた顧客の信用、長年かけて集めた顧客の資産を、ついに刈り取るのだ。
既に寺川銀杏会の連中からの振り込みは済んでいる。その上さらに、帝日証券の顧客達の資産をネットで売却させ、後日詐欺用の法人口座に一斉送金させる…。合計で一体いくらの金が集まる?1億や2億ではないぞ。
このおばさんは労働なんてしたことがない。企業経営者の旦那が死んだ後、旦那が保有していた多額の有価証券を相続しただけで資産家になったような人間だ。本来であればパートにでも出てその賃金の範囲で慎ましく生活をしているべき人間が、自分の実力でもないただのラッキーで多額の資産を得て、配当を得て、豊かに生活をしている。
なんだそれは。働いていたのは旦那。苦労していたのは旦那。富を築いたのは旦那。なのになぜ、その富を今お前が持っている?働きもせずその富で豊かに生活をしている?
俺は「金銭の発生する労働を一切経験したことのない専業主婦」という寄生虫が嫌いだ。生きていくためには金銭が必要なのにも関わらず、こいつらはその金銭の獲得に対して当事者意識を持ったことがない。親か旦那か、自分以外の誰かの経済力をアテにして生きている。自分の力によって金銭を獲得し、自分の力によって自分の人生を成り立たせようという気概の欠片も無い人種だ。これを寄生虫と言わずして何という。その上、声高に家事の苦労を鳴き叫ぶような連中は最上位の恥知らずだ。
おい、おばさん。アンタは寺川駅前のコンビニに行ったことはあるか?あそこではアンタと歳の変わらない夫婦が毎日労働しているよ。体調を崩しながら、安い金で。俺は、労働なんて経験したこともないアンタのその手の綺麗さに辟易としている。
これからそんな人間達の金を奪い取り恵まれない人間達に再分配しようというのだから、気持ちが昂らないはずがない。やっとこの時が来たのだ。
「…義田さん?どうしました?」
「え…?あ、いえ。」
落ち着け、俺。
もう少しだ。もう少しで俺の計画は成就する。
***
「戻りました。」
支店の2階に戻ると、営業課長の上村と総務の細田が何やら話し合っている。というより、細田が一方的にまくし立て、それを上村が険しい顔で聞いているという感じだ。
2人はデスクに戻った俺を見て、会話を止めた。俺について話していたのだろうか。まぁ細田が俺のコンプライアンス違反疑惑を突くのはいつものことだが、それなら上村の反応はああならない。
…まさか、何か勘付かれたか?
「義田、ちょっといいか?」
「…はい。」
上村のデスクに向かう間の僅かな時間で思考を回す。確かに、俺は最近顧客資産を売却しすぎている。それらは全て顧客自身にネット口座で売却させているから、俺から売却案内をしたという証拠は無い。しかし、取引履歴が不自然であることは間違いない…。そのことに総務の細田が気づいたのか…。俺としたことが焦りすぎた。何か上手い言い訳を考えなくては。
「…義田。」
「はい。」
「あ、細田さんは外して頂けますか?私と義田の2人で話し合います。」
「え!?どうしてですか!?」
「いや…これは営業内の話なので…。」
「上村課長!コンプライアンス違反の恐れがあるのですから私も立ち会うべきでしょう!?」
「一旦営業内で話し合いますので…。その上でまた報告しますから。」
「…2人で話し合って事を収めてしまうつもりなのでは!?」
「細田さん。外してください。また後で報告にあがります。」
「…隠蔽は許しませんからね!」
「そんなことしませんよ。」
細田は苦虫を噛み潰したような顔で3階に帰っていった。コンプライアンスチェックを担う総務とはいえ、課長相手によくあそこまで言ってしまえるものだ。やはりあいつは頭の線が切れている。
「…義田。」
「…はい。」
「最近、顧客の資産を随分と売却させているな。」
「課長、それは顧客がネット口座で自主的に…」
「義田、俺は総務じゃないんだ。営業部同士腹を割って話そう。客注(顧客からの注文)に見せかけて資産を売却させているな?」
「…はい。」
「…何が狙いだ?」
上村は完全に俺のことを疑っている。
「まさかお前…」
上村の顔は見る見る険しくなっていく。
顧客にネットで保有商品を売却させるのは、俺が以前から行っている常套手段だ。近年の証券会社は規制が強まっており、例えば投資信託の短期売買を証券マンから顧客に案内することは原則禁じられている。しかし、顧客がネットで“自主的に”投資信託を売却し、“自主的に”別の投資信託を購入するのであれば、それを止めることは証券会社にはできない。
それを利用して、証券マンが顧客に対し水面下で商品提案し、顧客にはネットで“自主的に”売買注文を出してもらうという方法が横行している。注文の際支店を通さずに済むので、その方が証券マンにとってコンプライアンス上都合が良いのだ。
だから上村も、俺が顧客の保有商品を売却させていることそれ自体は問題視していないはず。俺を疑う理由は、商品売却後の資金をMRFに置いたままにし、次の商品を買わせていないからだろう。それについて理由を作らなければ…。
「義田…。まさかお前、独立してIFAになるつもりじゃないだろうな…?」
「…へ?」
「IFAになるためうちの支店の顧客を引き抜こうとしているんじゃないのか…?そのために顧客の株やら投信やら売却させて現金化し、後で自分のところに振り込ませようって魂胆じゃないのか…?」
「……。」
IFAとは「Independent Financial Advisor」の頭文字を取ったもので、日本語に訳せば「独立系フィナンシャルアドバイザー」のことだ。証券会社に所属せず、個人事業主として証券マンと同じビジネスを行う者達のことである。証券会社で働くよりも取引収益から得られるインセンティブが大きいため、昨今は証券会社を辞めてIFAになる者達が増えている。営業がデキる証券マンであるほどIFAの魅力は大きいのだ。
例えば、俺はこの帝日証券でFA職として働いているが、俺が得られる報酬は顧客の取引収益の30%。一方でIFAの場合、取引収益の60%前後を報酬として得られると聞いたことがある。そりゃ、証券会社から顧客を引き抜いてIFAに転身する証券マンが後を絶たないわけだ。噂によると、IFAに顧客を引き抜かれすぎて支店が潰れた大手証券会社もあるとか。
どうやら、上村は俺がIFAに転身するため顧客の引き抜きを図っているのではないかと疑っているようだ。勘違いだが、当たらずも遠からずではある。
まぁ顧客の引き抜きまでは想像できても、さすがに投資詐欺をしているとは思いもしないか。良識的社会人の想像力には限界がある。
「…課長、来月大型の投信募集が来るんですよね。」
「え…?あ、ああ。そうだな。」
「絶対販売に苦労すると思いましてね。私嫌なんですよ、販売ノルマで支店の雰囲気が悪くなるの。」
「…つ、つまり、来月の投信販売に向けて予め資金をプールさせていると?」
「そうです。それ以外無いでしょう?」
「…だとすると、お前これ、来月の支店の投信ノルマを1人で全部やれる規模じゃないか。」
「まぁ、そうなりますね。」
「……。」
さすがに言い訳が苦しかっただろうか。上村は下を向いて無言になった。
「え…えらい!!!」
「え…?」
「まさかお前がそんなに献身的だったなんて!1人で支店の投信ノルマを埋めるなんて、思いついても実行できる証券マンがどれだけいる!?お前は偉い!凄い!あー良かった!正直来月の投信ノルマ心配だったんだよ!地獄になると思ってたんだよ!管理職の俺だって嫌だよ、職場の雰囲気悪くなるの!」
「は、はい…。」
「ありがとう義田!君のような人間を課に持てて俺は幸せ者だ!来月の投信、頼んだぞ!」
「はい。お任せください。」
…悪いな課長、俺その頃にはこの会社辞めてるよ。俺と俺の顧客抜きで、地獄のノルマ頑張ってくれ。
***
「半田ー、集合。」
「は、はい…。」
旧JOSYOアセットマネジメントのオフィス。
三田は半田を呼び出し、爽やかな笑顔で次の命令を伝えた。
「半田、次はコレだ。」
「次…?コレ…?」
「そう。前のバイト先のスーパーはもうフケたろ?」
「そ、そりゃそうですよ…。マジでヤバいことなってましたもん食中毒で…。」
「うんうん。じゃあ次は別の町のスーパーかコンビニに潜り込んで、この飲料に同じように黄色ブドウ球菌を…」
「ま、またやるんすか!?」
半田は叫びながら2歩後退りし、両腕を脇にピッタリとくっつけ、手を固く握り、哀願するような顔で三田の足元を見た。恐ろしくて三田の顔を見ることはできないが、これ以上はやりたくないと明確に意思表示した。
半田は三田から「俺達は兄弟だ」とずっと言われてきた。半田も三田のことを兄だと思っている。半田には親から愛情を注がれた記憶が無いが、自分と三田の間にはそれがあると信じている。だから、兄弟である三田の命令に背いたことはこれまで1度も無かった。他の兄弟達の中にもそんな者は1人もいなかった。
だが、三田を信じた兄弟達のうち2人が逮捕されてしまった。自分達のやったことは、自分が想像した以上に大変なことなのだと、テレビのニュースを見てやっと理解した。
恐ろしくてまだ三田の顔を見ることはできない。しかし、半田は「これ以上やりたくない」と無言で三田に主張した。
「…半田ぁ?どうしたんだよ急に。」
「……。」
三田は部下を諭す時にいつも優しい声をゆっくりと出す。半田は今日ほどそれを怖いと思ったことは無かった。
「北島と山口が逮捕されたことをまだ気にしてるのか?お前、それは2人の覚悟に対して失礼じゃないか。あいつらは俺達のために工場にバイトとして潜入して、菌をばら撒いてわざと逮捕されたんだぞ?最初から逮捕されるつもりだったんだよ。そこまで含めて計画のうちだったんだ。2人はそれを承知で行った。俺は感動したなぁ。兄弟のためにあそこまで犠牲になれるなんて、あれこそ「絆」ってやつじゃないか。」
「……。」
「でもお前にそこまでやれとは言ってないだろ?お前は小売店にバイトとして潜り込んで、コレを飲料にちょちょいと混ぜてくれればいいだけだ。ヘマして証拠残さない限り捕まることはない。だから…」
「嫌ですよ!もう嫌です!」
「半田ぁ…?」
「止めてください!嫌です!嫌だ!」
「落ち着けよ半田ぁ。」
「落ち着いてたらおかしいですよ!これやっぱダメなことですよ!俺…俺マジで後悔してますよ!俺なんでこんな馬鹿なんだろ…なんで…うっ…うう…。」
半田は自分の頭の悪さが嫌になり、その場で泣き崩れた。どうしてこの事態になる前に気づくことができなかったのか。食中毒で苦しむ被害者達を見て、自分に良くしてくれた職場の社員が顧客にひたすら頭を下げる様子を見て、兄弟の中に逮捕者が出たのを見て、テレビで大々的に食中毒事件が報道されたのを見て、三田から次の命令を受けて、そこまでのことになってやっと自分の犯した罪を理解できた。
少し先のことすら想像できない自分の頭の悪さが悲しくて、申し訳なくて、みっともなくて、半田は涙が止まらなかった。
「おいおい半田ぁ。なんだそりゃ…?意味分かんねぇよ。どうして急に泣くんだ?やってくれるよな?次の“仕事”。」
「で…でっでっでっ…できないす…!」
「マジかよオメー。兄弟裏切るのか?他の兄弟達の犠牲を無駄にすんのか?」
「も、もうできないっす!!!」
「あ、おい!!!待てコラ!!!途中で抜けられると思うんじゃねぇぞ!!!」
グチャグチャに混乱した頭からの命令に従って、半田は走ってオフィスを出た。全力で外を走ると、次第に三田からの命令は聞こえなくなった。
***
7月16日、土曜日。月曜日が海の日だから3連休だ。
帝日証券の連中も、休日中なら顧客の資金移動に気づくことはできない。俺の詐欺用口座に資金を一斉送金させるならこの連休が最大のチャンスだ。
余談だが、先日元総理大臣が銃撃されたらしい。詳しい犯行理由は錯綜しているが、いずれにしろ、上級国民を害するためには確かな準備とスキルが必要であることがよく分かる事例だった。町で突発的に暴れても何も成すことはできない。
事を成した彼は、今後一部の人間達から支持を集め、象徴的存在となるだろう。模倣者も現れるかもしれない。そういう意味では俺の計画と似ている。
さて、俺も彼を見習ってスキルを発揮しようではないか。
「村田様、休日中にお時間を頂きありがとうございます。」
「いえいえ。義田さんこそ、土日も働かれて大変ですね。」
いつもすました顔をしている教育ママの村田だが、今日は少しやつれているように見える。夏風邪でもひいたか?そう言えば先日訪問した際は、息子が体調を崩していたな。
「息子さんの体調は大丈夫ですか?先日具合が悪かったようでしたから。」
「え!?ええ…まぁ…。」
妙な反応だ。息子のことを聞かれたら、いつもならペラペラと教育のことを話すのだが…。これはあまり触れない方がいいかもしれない。
「そうですか、安心しました。それでは早速ですが、先日の件についてご案内させて頂きます。」
「…ええ。」
「まずお手元のスマートフォンでインターネット口座を開いて頂きまして…」
「はい。」
「そちらの画面で金額を入力し、出金処理をお願いします。」
「はい。」
「ありがとうございます。後は下にある「出金」ボタンをタップしてください。」
「はい。」
出金処理はスマートフォンの操作ですぐに終わった。銀行口座と違い、証券口座からの出金には1日あたり限度額が無くていい。これで帝日証券の口座にあった村田の資金は一旦本人の登録銀行口座へ振り込まれる。それを後日、俺の詐欺用口座に振り込んでもらうだけだ。
「ありがとうございます。それでは後日銀行から…」
その時、「ドンドンドン」という音が天井から聞こえてきた。
「あ…。」
「息子さん…ですかね。」
「ええ…まぁ…。」
「少し私の声が大きかったのかもしれませんね…。お勉強の邪魔をして申し訳ありません。」
「……。」
「…村田様、何かありましたか?」
予感があり、つい好奇心で聞いてしまった。
「実は…中学校の勉強で少し自信を失くしたようで…。」
「自信ですか…?」
「ええ。中学校にあがって、周囲もかなり勉強のできる子達なので…。一学期の中間試験の結果が芳しくなく、その辺りから徐々に様子がおかしくなって、学校も休みがちに…。」
「……。」
「先日期末試験の結果も出たのですが、それも息子からすれば受け入れがたい成績だったようで…。そこにきて、先日夫が…。」
「旦那様が…どうされたのです?」
「息子の成績を見て、怒って怒鳴ってしまったんです。」
「それはそれは…。」
「息子もどちらかと言えば内気な性格をしているものですから、その日を境に引きこもりが酷く…。」
「そう…ですか…。いや…すみません。話しにくいことを聞いてしまいまして。」
「いえ…。」
息子が引きこもり…?
優秀な生徒の集まる地元の中高一貫校に合格して、エリート街道を行く予定だった息子が…?
これだけ金のある家庭に生まれた息子が…?
教育意識の高い親の下に生まれた息子が…?
塾や家庭教師など、あれだけリソースを投じられた息子が…?
引きこもり…?
なんと愉快な話だ。
資金的にも文化的にもこれだけ恵まれた環境に生まれ落ちた人間が、まさかまさかの転落だ。俺よりも遥かに恵まれた出自の人間が、中学校如きで挫折したのだ。これから高校、大学、就職、社会人生活と負荷は大きくなっていく一方であるというのに、まさか中学校如きで!前途多難な彼の人生に幸無きよう願うばかりだ!素晴らしい人格的モンスターと化してくれるに違いない!
旦那も旦那だ!普段は子供の教育に無関心なくせに、成績だけを見て怒鳴るとは!それではまるで会社だ!子供のことを会社の部下とでも思っているのではないか?会社のノリで家庭教育を行おうとする愚かな父親のせいで息子の人生が傾いた!
その上この一家は俺に金を奪われるだと?なんということだ。他人の不幸は蜜の味と言うが、この不幸は甘すぎる。きっと寺川市のカフェで教育について話し合っているママ友連中も、他人の子供の不幸に快感を覚えたことがあるのではないだろうか。それほどまでの愉悦だ。いかん。表情に出さないようにしなければ。神妙な顔を心がけろ。
「多感な時期ですからね…。きっと息子さんもそのうち元気になられますよ。」
「ええ…。そうだといいのですが…。」
もう少しこの愉快な話を聞きたいところだが、目の前の娯楽のために目的を見失ってはいけない。この3連休中に顧客達の資金を引き出さなければ。
***
「おはようございます!」
7月19日、火曜日。
珍しく元気良く出社すると、営業課長の上村が信じられないという顔で俺を見た。よく見たら変なのは上村だけではない。営業一課の課員達は俺に一切目を合わせず、だが緊張感を纏いながらパソコン画面を凝視している。恐る恐る俺のことを見ているのは下柳だけだが、どう話しかけていいか分からないという様子だ。隣の課からの視線も感じる。
そりゃそうだろう。連休中、俺は自分の顧客達が証券口座に預けていた現金のうち、現在出金可能なものを全て出金させたのだから。その額は約25億円。それだけの額がある日突然支店から消えたのだ。衝撃は支店を貫いただろう。
これが仮に1億円程度の出金だとしたら、課長は俺に怒るのかもしれない。「何をやっているんだ」、「フォローが甘かったのではないか」、「何としても取り戻せ」などと言うのかもしれない。しかし数十億円という規模になればもはやアンタッチャブル。怒るとか詰めるとかを超え、誰も当事者に話しかけることができなくなるようだ。ちなみに今回の出金は第一波。俺の顧客からの出金はまだ続く予定だ。
見ろ、営業課長の上村を。大きく目を開きながらパソコン画面と俺の顔を交互に見て、黒目は泳ぎ、自分の身体のあちこちを落ち着きなく触っている。気が気ではないという心情をパントマイムで上手に伝えてくれている上村を目の端で観察していると、上村のデスクの固定電話が鳴った。
「はい!!!上村です!!!」
「はい!!!はい!!!来ました!!!はい!!!」
「はい!!!承知しました!!!今向かわせます!!!はい!!!はい!!!」
「失礼いたします!!!はい!!!」
コールが鳴った瞬間凄まじい速さで受話器を取った上村は、今まで聞いたことのない声量と緊張感で応対した。多分、相手は支店長だ。
「よ、義田!!!支店長がお呼びだ!!!4階の支店長室へ行け!!!早く!!!」
「そうですか。分かりました。」
大の大人達が取り乱してみっともない。管理職とはいえ自社株式も持っていないただのサラリーマンに過ぎないではないか。自分が所有する会社のことでもないのに、そこまで必死になる必要があるのか?冷静に考えてみるとおかしな話だ。
まぁ、あの支店長が今どんな顔をしているのかは見ものである。最後に見物するとしよう。
***
支店長室のドアを開けた瞬間、「義田お前どういうことだよ!」という奇声に近い大声が飛んできた。
部屋の広さは10畳程度。中心に管理職会議用のデスクと4脚のイスがあり、中央に支店長用のデスクがある。支店長デスクの後ろの壁には寺川市一帯の地図が貼られ、そこには何かが書かれた付箋がいくつもくっついている。
横の本棚には帝日証券の役員やOB達が書いた経済書、経営書、投資や営業のハウツー本、自己啓発書などが並んでおり、この部屋で最も気持ち悪い一角だ。
例えば「お客様がイチバン」というタイトルの営業本を書いたのは、2006年頃にトルコリラ債の販売で伝説級の成績をあげた帝日証券の現役員だ。その時の販売ぶりは今も社内で語られるほどである。あの時の為替レートは1トルコリラ70〜80円。今の為替レートは1トルコリラ7〜8円だ。
いやはや、さすが証券会社の役員にまでなる人間は違う。販売した通貨が1/10まで暴落していても「お客様がイチバン」などという本を腕組みしたキメ顔写真付きで出せてしまえるのだから。そんな人間の本を恥ずかしげもなく部屋の本棚に並べているこの支店長も、同類なのだろう。
「義田ぁ!なんとか言ったらどうなんだ!!!」
なぜかスーツを着て眼鏡をかけたマントヒヒが俺に奇声を浴びせてくるので一瞬驚いたが、よく見たら顔の紅潮した支店長だった。
「お前ふざけるなよ!!!なんてことしてくれたんだテメェ!!!どう責任取んだよ!そこの窓から飛び降りるか!?」
これは明らかにパワハラだ。コンプライアンスにうるさくなった昨今の証券会社なら、本社に通報すれば1発アウトな発言である。しかし、そんな時代においても相変わらず昭和時代のノリで罵声を浴びせてくる証券マンというのはいるものだ。
不思議なものだ。「支店長の罵声」というものには強い力があり、部下達を震え上がらせる効果がある。だから、俺もこれまで支店長の気を害さないように会社組織で生きてきた。それは組織人として正しいあり方だし、組織の秩序というものだ。秩序がなければ組織がまとまらないのも事実だろう。
しかし、1度会社組織を辞めると決意した今、その秩序が随分と珍妙なものに思えてくるのである。俺はなぜこいつやこいつ以前の支店長達に気を遣っていたのやら。フラットな立場でこいつと町で出会っても、まず間違いなく無視するだろう。支店長は顔を真っ赤にして俺に罵声を浴びせてくるが、今の俺にはサルの鳴き声にしか聞こえないのだ。いや、会社組織という檻の中にいる以上彼は暴力を振るえないのだから、野生のサルよりは安全な存在だ。
「おい!なんとか言え!どうして25億も金が出ていくんだよ!!!どうにかしろ!金を取り戻せ!!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ支店長を見て、だんだん笑えてきた。長年勤めた会社を辞める前というのはこういう気持ちになるものか。今まで囚われてきたヒエラルキーを俺だけ抜け出し、まだヒエラルキーに囚われている人間達を外から嘲笑う快感がある。この支店長は俺のことをまだ部下だと思っており、罵声によってコントロールできるものだと考えている。しかし、もう会社を辞めると決めた俺にとって、この支店長は上司でもなんでもないただのマントヒヒなのだ。
「…支店長、それは変な話ですよ。」
「ああ!?」
「だって、証券会社が預かっているのはお客様の資産でしょう?証券会社の物ではありません。お客様が自主的に出金しただけなのに、それを「取り戻せ」だなんて。証券会社の都合でお客様の資産をコントロールしようとするなんておかしいじゃないですか。」
まぁ俺は他人の金を自分のものにしているのだが、そこは棚に上げよう。
「お前、まさか独立しようってんじゃないだろうな!?」
「え?」
「IFAだよ!うちから客引き抜いて自分の客にしようってんじゃねぇのか!?」
課長の上村と同じことを言う。やはり、今全国でIFA転身が流行っているからだろうか。まずそこを疑われるようだ。
「違いますよ。IFAになんてなりません。」
「嘘つくな!いきなり25億出金なんてどう考えてもおかしいだろうが!お前がその気ならこっちにも考えがある!どうせ隠れて客にアプローチかけて、ネット口座で資産売却させたんだろ!?短期売却も随分とあるよな!?これは重大なコンプライアンス違反だぞ!」
「証拠も無いのにそんな言い方しないでくださいよ。お客様が勝手にネットで売っただけですって。」
「黙れ!総務の連中に徹底調査させて、絶対に証拠掴んでやるからな!IFAなんてやれると思うなよ!不正の証拠掴んで証券業界で働けなくさせてやるぞ!」
「支店長、冷静になって考えてみてください。仮に私が支店長の仰るような不正行為をしていたとしましょう。そんな事例が1件発覚したら、私の直近数年の取引も調査することになりますよね?それで次々と不正が発見されてしまったら、これはもう支店内で話が収まらなくなります。支店の総務ではなく、本社のコンプライアンス部が来ますよ。」
「なっ…」
「私は支店長と2年間一緒に仕事をしてきましたよね?この2年間の私の取引を調査されたら、どれだけの不正が発覚するのでしょう。また私はこの支店で11年間働いてきましたが、その11年間の取引を調査されたらどうなるのでしょう。支店成績のために私の不正を見逃し、時には庇ってきた歴代支店長達のうち何人の評価に深い深い傷がつくのでしょう。」
「……。」
「都合の良い時は私の不正を見逃して、都合が悪くなれば追求する。それで自分はノーリスクなんてズルいじゃないですか。支店長、死なば諸共ですよ。」
支店長は急に大人しくなり、今度は深刻な表情をし始めた。顔を赤くしたり青くしたり忙しないオッサンだ。この支店長はいつも豪快な証券マンぶって部下を威圧しているが、逆に自分が攻撃される側になると面食らうらしい。立場の強さに甘んじて部下に言うことを聞かせてきた人間にありがちな、ウブな反応だ。俺が全力で周囲を巻き込み自爆した場合、自分達にどれほどの被害が及ぶのか、やっと支店長の頭の中で線が繋がったようだ。
「支店長、俺の有給って何日ありますっけ?これまで1度も取ったことがないのですが。」
「ああ…?有…給…?」
「日数分からないですか?まぁとにかく、残りの有給日数全部使ってしばらくお休みを頂きます。」
「そ、そんなことできると思っているのか!」
「できますよ。いくら出来高制のFA職といっても雇用形態は正社員じゃないですか。そうである以上有給は取れます。」
「そういう意味じゃなくてだなぁ!」
「支店長、そういう意味じゃないのだとしたら、これは労働基準法違反という話になってしまいますよ。もし有給を認めないのであれば、私はこのまま労働基準監督署に行ってもいいのですが…。」
「お、お前…」
「では支店長、しばらくお休みを頂きます。」
明日から“金配り”で忙しくなる。証券会社なんかで働いている暇は無い。
支店長室を出て階段で1階に降りる途中、3階フロアにいる細田から「これからあなたの不正を暴いていきますからね!」と威勢良く言われた。声に喜びの感情が入り混じっているのは気のせいだろうか。
思えば、この支店で俺に対する態度を一切変えなかったのはお前だけだったな細田。
嫌いだけどな。
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