第10話 信用スノーボール

「じゃあこれな。半田、頼んだぞ?」


「は、はい…。」


旧JOSYOアセットマネジメントのオフィス。

三田から黄色ブドウ球菌の入ったボトルと注射器を手渡され、半田はやっと現実味が湧いてきた。自分はこれから、アルバイトとして潜入しているスーパーの飲料にこれを混ぜるのだと。それを飲んだ人間は食中毒を起こすのだと。今さらになってやっとそういったイメージが頭に浮かび、「もしかしてこれは大変なことなのではないか?」と思い始めた。


「…三田さんこれ、人って死んだりしないんですよね?」


「ああ、それは心配無い。腹壊したりゲロ吐いたりするだけだって、二宮が言ってた。ヨグルトに注入する量だけ気をつけろよ。まぁ大丈夫だと思うけど。」


「は、はい…。」


「店の奴らにも見つからないようにな。まぁバックヤードはカメラ少ないから、どうにかなんだろ。」


「本当に死んだりしないんすよねぇ…?」


「…半田ぁ。お前どうした?もしかしてビビってんの?」


「いや…」


明らかに消極的な半田の様子を見て、三田は静かに優しく言った。


「半田?ビッグになりたいんだろ?」


「は…はい。」


「この仕事が成功したら俺達は莫大な利益を得る。もちろんそれはお前にも分配される。」


「はい…。」


「人も死んだりしない。ただちょっと腹が痛くなったりするだけだ。」


「はい…。」


「そもそも考えてみ?俺達日本の若者が辛い思いしてるのはどうしてだ?」


「…老人が金を貯め込んでるからっす。」


「そうだよねぇ?老人たちはさぁ、貯め込んだ金で株とかやってんだよ。“シホンカ”ってやつよ“シホンカ”。自分達は働きもせず、俺達若者から労働力を“サクシュ”してるわけ。日本っていうのは自分勝手な老人によって腐らされているわけよ。」


「は、はい。」


「お前に俺達の計画を具体的には話せねーけど、とにかく今回の計画は、その資本家連中に大ダメージを与えて俺達が利益を得るってやつなの。分かる?老人は敵、資本家は敵、だからお前がやることは「良いこと」だよ。」


「良いことすか…。」


「そう。良いこと。社会のためになる、正義の行いだよ。倒そうぜ?日本の癌を。そのために、多少腹痛くなったりする奴が出るのは仕方ねーって。必要な犠牲ってやつだよ。」


「は、はい!」


「よーし!それじゃ俺がいっちょ手本見せてやる!」


「え?」


そう言って、三田は手元のヨグルトに注射器で黄色ブドウ球菌を注入し、それを飲み干した。


「ああっ!何やってんすか三田さん!」


「いいんだよ、最初からこうするつもりだったから。これで俺は間違いなく食中毒を起こす。症状が出たら病院に電話して、救急車で運ばれて、医者に言うんだよ。「ヨグルトを飲んだ」って。きっと病院は保健所に通報してくれる。」


「い、いやでも、三田さん病気が…」


「今さら自分の身体に気を遣ったところでどうせ長生きなんてできない。俺は病気でとっとと死ぬんだ。信じられるか?前途ある若者がさっさと死んで、生きてても何の意味も無い老人どもはゾンビみたいに生き続けるんだぜ?おかしいよなぁ?」


「は、はい!おかしいです!」


「だから嫌いだよ老人って。なんで俺は死ぬんだよ。なんであいつら生きてんだよ。」


「三田さん…。」


「どうせ死ぬなら意味のある死に方をしたい。ワンチャン、俺はこれで死んでもいい。」


「三田さん…!」


「これも社会のためだ。俺ですら必要な犠牲なんだよ。俺やお前だけじゃない。今日、あちこちで同時に兄弟達が行動を起こすんだ。」


「三田さぁん…!」


「頼んだぞ半田!」


「はい!お、俺、行ってきます!」


目に涙を浮かべながら外に出ていった半田を見届けた三田は、ヒロイックな気持ちで満たされていた。三田は四井の信奉者であり、四井のためならば何でもする。そんな彼にとって、計画のための自己犠牲はむしろ名誉なのだ。

もうそろそろ三田の身体に異変が起きるだろう。しかし、その時にも彼の顔は恍惚としているに違いない。


***


6月15日、晴れ。

梅雨時期の晴れ日に感謝しながら、歯を磨きつつテレビをつける。

証券業界に入ってから日課で毎朝見ている相場番組によると、ドル/円はついに130円を突破したらしい。この円安はまだ続くことが予想される。経済新聞の朝刊を開くと、今日もヨグルトの集団食中毒事件についてだ。まぁ暗いニュースはいつものこと。人が死んでないのだからまだマシというものだ。

“奴ら”がスーパーやコンビニのヨグルトに菌を混入させ始めたのは2週間ほど前。その日に報道はなく、ヨグルト社の株価も動かなかった。

最初に騒ぎ始めたのは案の定ネットのSNSだ。匿名アカウントによる食中毒被害報告が相次ぎ、「ヨグルト食中毒」がトレンド入りしたが、それでも株価はさほど動かなかった。

SNSで話題になった後、動画サイトやまとめサイトなどのネットメディアが動き出し、ついにはテレビ、新聞も食中毒被害に関する報道を開始した。ヨグルト社の株価は徐々に落ちていくが、暴落というほどでもない。

5日前、ヨグルト社の工場で黄色ブドウ球菌を撒き散らした複数の男達が2週間前に逮捕されていたという報道があった。逮捕された男達の顔写真の中には、座川市の投資詐欺業者の一味など、どこかで見たことのある顔も混ざっていた。彼らの供述によれば、犯行理由は「低賃金で工場労働を強いるヨグルト社に対する恨み」によるものらしい。恐ろしい話もあったものだ。

ヨグルト社は製品への混入は無いと発表しているが、現に小売店で食中毒被害が発生している中でそれを信じてくれる消費者はいないようだ。ヨグルト社は点検のため一部生産工場の稼働を停止するとも発表した。まともな食品メーカーらしい賢明な判断だが、残念ながらそれが疑いに拍車をかけた。その日の株価はストップ安をつけてくれた。

SNSでは低賃金で工場労働を強いられていたらしい犯人達に対する同情の声もあがっており、最低賃金を上げろとか、ブラック企業を撲滅しろとか、無敵の人を生み出すだとか、それはそれで1つのトレンドとなっている。


ところで、俺は最近動画サイトやSNSで「投資系インフルエンサー」なる者達の情報を見るようになった。身元不確かな彼らは日々相場について様々な見通しを発信しており、人気投資系インフルエンサーともなれば、その発信内容は数十万人、数百万人に拡散されていく。最近は流行りのヨグルト株について触れる者も多く、一部の過激な投資系インフルエンサー達曰く「ヨグルト株は売り」だそうだ。

彼らの発信は少なからず個別銘柄の相場に影響する。米国の大手ゲームショップG社株の騒動もそうだったし、日本国内でも2021年4月に相場操縦で逮捕された投資系インフルエンサーがいたそうだ。

正直、俺にはどのメディアやインフルエンサーが四井達の手先なのか見分けがつかないのだが、もはやどうでもいい。ヨグルトの株価は2週間で約25%も下落した。この事実だけが重要なのだ。いくらかの犠牲者は出ただろうが、それもどうでもいい。


朝から晴れやかな気持ちになるニュースを見た。よし、このネタを使って、今日も頑張って仕事をするぞ。

まずはお前だよ、勲章ジジイ。


***


「見事、君の予言通りになったというわけだ。」


「はい。」


勲章ジジイこと冨永幸夫は、人差し指で顎の髭を撫でながら何か言いたげに上目遣いでこちらを見た。こいつはもう、俺が何かしらの方法で相場操縦をしたことに気づいている。気づいてはいるが、自分がそれを口にすれば犯罪行為を黙認したことになるので、一応知らない体でいるのだ。とはいえ何にも気づいていない無能だとは思われたくないので、こうして目で「お前が何かやったことは気づいているぞ」と俺にアピールしているのである。プライドの高いことだ。


「次回はどの銘柄が動くのかな?」


「申し訳ありませんが、これ以上は企業秘密です。ただ、今後も様々な銘柄の動向を“予言”できるとお約束いたします。」


「これ以上は、そちらに資金を預けない限り秘密というわけか。」


「はい。」


「もしまた飲食品関係に動きがある時は先に教えてもらいたいねぇ。知っての通り、私達一族はスーパーを経営しているものだから。まぁヨグルトの件は驚いたけど、最近“たまたま”うちのスーパーでは取り扱っていなかったからね。まさか食中毒だなんて、危ないところだったよ。」


そう。冨永は先日俺から話を聞いて何かしらのリスクを察知したらしく、先月から今月にかけて急に飲料のラインナップを見直し、ヨグルトを店に陳列しなかったそうだ。おかげでスーパーTOMINAGAのグループ内では食中毒事件が起きておらず、競合他社だけが被害を被っている。憎たらしい男だ。


「さて、君の投資顧問会社は年間運用利回り10%と言ったかね?」


「その程度であれば着実に。実際にはそれより多くのリターンを得るつもりです。」


「手数料は、年間利回り10%を上回った分の20%だね?」


「はい。」


それを聞いた冨永は、またイスの背もたれを軋ませて顎髭を親指の腹で触りながら考え始めた。こいつが運用委託を検討しているのは間違いないのだが、問題はいくらの金を預けてくるかだ。1千万円や2千万円じゃつまらない。


「そうか。ではひとまず私個人で5億。息子の口座で3億、孫の口座で1億を頼みたい。君との取引は初めてなのだから、いきなり大金を預けるわけにはいかない。上積みするかは今後の実績次第だ。いいかね?」


「あ…ありがとうございます。」


「詐欺」というのを初めて成立させてみたが、不思議なものでこの感覚は既に経験したことがある。こいつは今合計9億円を俺に預けると言った。その金額を耳にした時の高揚感は、証券マンとして巨額の商談を成立させた瞬間と似ていたのだ。例えるなら、俺の嫌いな人間が底の見えない穴を覗き込んでいて、そいつを背後からポンと押し穴に突き落とすような。それと同じ快感が、確かに今俺の身体に走った。

しかし、9億円という金額は冨永からしたら大金ではないらしく軽いノリだ。俺からすれば穴に突き落としたようなものでも、こいつからしたら試しに洞窟の入り口に入ってみるようなものらしい。

では、今後はもっと金を出してもらおうではないか。できることならこいつが破滅するまで。


「振込みはどちらへ?」


「はい、こちらの法人口座にお願いいたします。」


「…株式会社銀杏投資顧問か。」


「はい。寺川市にお住まいの皆様から大事なご資産をお預かりいたしますので、この会社名が良いかと。勝手ながら、寺川銀杏会にあやかりました。」


「なるほど。」


「それと冨永先生、1点お願いがございまして。」


「何かな?」


「私はまだ帝日証券に勤めております。証券会社のルールで副業は禁じられておりまして、在職中に投資顧問会社を立ち上げるのも当然禁止です…。投資勧誘など以ての外。ですから、今回のご案内については、その…」


「ああ。つまり、今回の投資勧誘については君が勤める帝日証券にバレないようにしないといけないということか?」


「はい…。そうして頂けると助かります。まだまだ他のお客様にもご案内したいと考えておりますので…。」


「ははは。顧客の引き抜きが終わるまで証券会社を辞めたくはないというわけだ。」


「ご明察の通りです。ご協力頂けますでしょうか?」


「分かった。正直私にとってその辺りはどうでもいいことだ。敢えて君の勤め先に報告する理由も無い。」


「ありがとうございます。それでは口座開設用の書類がございますので、お手数ですがご記入頂けますでしょうか?諸々のリスク説明等も…。」


「ああ、そうか事務手続きがあったか…。金融機関はこれだから。良く言えばキッチリしている、悪く言えば杓子定規だな。」


「申し訳ございません。法令で定められておりますので。少々お時間を頂きます。」


これら書類も全て俺の自作。実態は無くとも事務手続きは金融機関らしくしなければならない。この金融機関特有の煩わしさ、仰々しさを演出することも信用獲得のために必要なのである。


「手早く頼むよ。」


「ええ。お任せください。」


***


その週に参加した寺川銀杏会の立食パーティーは、明らかにこれまでと違うものだった。今まで俺に一瞥もくれなかったような人間達が、隙を見ては近づいてくるのである。


「初めまして。私は玉川と言います。帝日証券の義田さん、ですよね?」


「はい、義田です。初めまして。もしかして、駅の南側にある玉川病院の先生でいらっしゃいませんか?」


「ああー、ご存知でいらっしゃいましたか。」


「ええ、もちろんです。」


こいつのことは知っている。地元で3代続く病院なんて証券会社がマークしていないはずがない。こいつの経営する玉川病院は他の金融機関で私募仕組債を保有しているらしく、法人としては資産運用に積極的だ。こいつ個人も金を持っていないはずがないだろう。

それにしても、代々医者の家系とは気に食わない。親が高い金払って子供を塾に通わせ、親が高い金払って子供を医学部に入学させ、その子供は高給職に就き、こうして医療法人を継いでいる。まさに格差継承の典型だ。


「噂を耳にしたのですが…」


「噂ですか?なんでしょう。」


「冨永先生と懇意にされていらっしゃるとか…。」


「そうですね。非常に良くして頂いております。」


「いやその、なんと言いますか、実は私銀行を利用しているのですが、運用成績が芳しくなく…。こういう話は証券会社の方にお伺いした方がいいのかなと。義田さんは大変魅力的なご提案をしてくださるとかで。」


…なるほど。さすがにこいつらは耳が早い。恐らく、俺が冨永の資産を預かっているということを既にどこかで耳にしており、それに倣って自分も一枚噛んでみようというわけだ。権威主義的な人間が考えそうなことだな。


「…つまり、私の投資顧問会社に運用を委託したい…ということでしょうか?」


「ええ、そうなんです。話が早くて助かります。何やら、利回りはかなり高いとか…?」


冨永のジジイはどこまで喋っているんだ?あまりにもお喋りだとそれはそれで困るな。


「ええ。年間利回りは最低でも10%…。実際にはそれ以上を狙って運用を行う予定ではありますが…。」


「そうですか…。では私も…」


「いえお待ちください。大変申し上げにくいのですが…。」


「なんでしょう?」


この魚は明らかに餌に食いついているが、こういう時は慌てて竿を上げるより、一旦待った方がいい。その方が釣り針が深く刺さる。


「本当に申し上げにくいのですが、弊社はどなたの資産もお預かりするというわけではないのです…。私がお声かけしたごく一部の信用できる方々のみを対象としておりまして…。後は精々、既存のお客様からご紹介のあった方のみ、お取引させて頂こうかと…。」


「紹介…ですか…。」


「ええ。」


「…何か、例外的に取引を認めて頂けないのでしょうか?」


「誠に申し訳ございません…。私も自分の運用に自信がありますし、だからこそ一部のお客様から信用を得てご資産をお預かりしているのですが。規模や収益を追求し取引先を増やしすぎると、証券会社の二の舞いになってしまいます。私はただ、私が大事にしたいと思うごく少数のお客様の利益だけを追求したいのです。」


「はぁ…。それは…立派な理念だと思いますが…。では1億ではどうですか。」


「…いえ、申し訳ございません。」


「2億円では?」


「…他にもお断りした方々がいらっしゃいますので、玉川様だけを特別扱いしたのでは申し訳が立ちませんから。」


「私の妻の分も含め合計3億でいかがでしょう。」


「…そこまで仰るのでしたら仕方ありません。ただし、誰にも言わないでくださいね?」


「ええ。誰にも言いませんとも。ありがとうございます。」


「それでは、後日口座開設のためお伺いいたします。明日はいかがでしょうか?」


「午後の診療が終わった後でしたら問題ありません。」


「では、その頃病院にお伺いいたします。」


「ご足労おかけいたします。義田さん、今後ともよろしくお願いしますね。」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。何度も言いますが、他言無用でお願いしますね。」


「はい。」


他言無用と伝えても、どうせ噂は漏れ伝わるだろう。広告宣伝はそれくらいで丁度いい。

米国史上最大の投資詐欺を行ったバーナード・マドフは、自分のファンドについて大々的な宣伝は行わず、新規顧客の開拓にも消極的で、ごく一部の限られた人間のみから資産を預かっていたという。マドフは資産運用を委託しようとする者達からの申し出を断り続けたが、それでも委託したいという人間だけ、「他言しないように」という条件付きで特別に受け入れた。このやり方がマドフのファンドのブランドイメージに繋がり、むしろ多くの人間を惹きつけたのだと俺は思う。

全く、マドフは天才である。これが凡百の詐欺師であれば、目先の金に目が眩んで誰の金でも受け入れるに違いない。しかし、そんなことでは大きな詐欺はできない。


「…初めまして。義田さんですよね?実は、少々ご相談したいことが…」


また新しいカモがやってきた。金は金を生むものだが、それは信用も同じだ。信用力があれば信用力のある顧客との取引が可能になり、そういった事例を見聞きした者達がまた勝手に信用を寄せてくる。金と同様、信用も雪だるま式に増えていくのだ。

既にこの詐欺は軌道に乗った。寺川市の富裕層達から金を集めるのに、そう長い時間はかからないだろう。


「初めまして。義田です。どのようなご相談でしょうか?」


***


帝日証券寺川支店3階。ここが僕の働くフロアだ。

僕は現在総務として働いているが、これでも証券営業を2年経験したことがある。その経験から言わせてもらえば、証券会社の営業マンは優秀であればあるほどクソ野郎だ。コンプライアンスの穴をついて、高齢者にリスク商品を購入させたり、禁じられている短期売買を促したり、都合の悪い内容を顧客履歴に残さなかったり…。そういう不正や不正スレスレの行為を平気でやるような人間が多額の収益をあげ、優秀であるとされ、上司から評価され、会社から評価され、出世していく。その一方で、ルールを守って営業活動をしていた僕のような人間は営業から外される。なんだこれは。営業とは法律違反コンテストなのか?馬鹿馬鹿しい。

だから僕は正す。そんな間違った証券会社の営業現場を。今日も奴らの書いた顧客履歴をパソコンでチェック。取引履歴をチェック。電話内容をチェック。違反は無いか?矛盾は無いか?ミスは無いか?目先の収益欲しさに浅ましい行為をしている営業はいないか?


僕が特に気に入らないのはこの義田というFA職の男だ。こいつは寺川市で働き続けて11年。うちの会社の総合職は顧客との癒着を防ぐため数年に1度異動するのだが、FA職は同じ土地でずっと働き続ける。そんなの不正の温床にならないはずがない。

しかしこいつは不正の証拠を残さない。顧客履歴も取引履歴も電話内容も不自然なところばかりなのに、決定的な証拠だけが無い。本人を問い詰めてものらりくらりとかわされ、営業課長に報告しても庇われ、顧客に確認しても尻尾を掴ませない。

明らかに不正な取引をしているはずのこの男が、うちの支店では“デキる営業”として扱われ、支店長も営業課長も一目置いているというのだから気持ち悪くて仕方ない。それに比べて僕の扱いはなんだ?これだけ毎日熱心にパソコンで営業達の行動をチェックして頻繁に報告もあげているというのに、営業達には嫌われ、総務課長にすら「細田君、程々にね」と言われる始末だ。

間接部門を軽視するのは証券会社の本当に悪いところだ。直接収益を生み出していないからなんだというのか。会社というのは営業だけで成り立っているわけじゃないだろうが。

僕だけは諦めないぞ。流されないぞ。きっとこの義田という男の不正を暴いてみせる。


「…ん?なんだこれ。」


何気なくパソコンで義田の取引履歴を確認してみると、投資信託を売却し、その売却資金をMRFに残したままにしている顧客口座を発見した。義田の書いた顧客履歴には、「景気不安のため投資信託を一旦売却し、次の投資機会に備え資金をプールしておきたいという要望が顧客からあったため」とある。

…不自然だ。恐らくこの取引は顧客からの要望ではなく義田が裏で売却するよう案内しているのだろうが、そこまではいい。これまでも義田がやってきた常套手段だ。不自然なのは売った後。義田は顧客の資金を遊ばせたままにするような男ではない。商品売却後の資金で、必ず別の商品を買わせてきた。なのに、今回は売却後の資金をMRFに置いているだけ…?新たな商品を案内した様子も無い…。


「んん…?」


義田の他顧客の取引履歴を確認してみると、先ほどの顧客と同じように資金をMRFにプールさせている口座がいくつもヒットした。全て最近の取引だ。明らかに今までに無いパターン…。

顧客の保有商品を売却させ、その資金を口座に置いたままにしておくことに何の意味がある?後でまとめて別の金融商品を案内し刈り取る予定なのか…?


「…あの男、何を考えているんだ?」

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