ゆとりを取り戻したい一杯

阿滝三四郎

ゆとりを取り戻したい一杯

それは『月の欠片は二人のもとへ』から2年後の出来事だった





約1年前。めでたく我が家に長女となる「楓」が生まれた

はじめての子供で、妻は大変な思いをして、楓と一緒に過ごしていた





寝返りを打てば、寝返り記念といって、写真を撮っては

24枚撮りのフィルムを寝返りの写真でいっぱいにして

「泣きやまない」といいながら、楓の泣き顔を同じく24枚撮りのフィルムを3本使い切った時には、妻が壊れると思ったほどだった



それでも、僕としては、妻の手助けの意味で、色々と手伝いをしていたのだったが

手伝いをすればするほど、妻の顔色は悪くなり

三行半を突き付けられそうな勢いというか

本気で役所に、あの書類を取りに、走りだしそうな表情を浮かべていた






「ねぇ~、ミルク作るよ~」

「あ、ありがと。人肌で温めてね」

「おっ、わかったよ」


「できたよ」

「アツ。何度で作っているのよ。これじゃ、風邪ひいた時の体温の温度でしょ。こんなの、飲ませられないでしょ」

「ごめん、ごめん。作り直すよ」

「いいわよ、少し経てば冷めるでしょ」






「哺乳瓶、洗っておくね」

「ありがと」

哺乳瓶を見て一言

「ねぇ~、邪魔しているの?汚れが落ちていないでしょ」






洗濯をすれば

「ねぇ~、洗剤いれた?」

「あ、忘れた」

「ずっと、濯いでいるだけなの。一人暮らしをしていたのよね」

と、あきれられた







「お皿洗っとくね」

「うん、ありがと」


“ガッシャーン”


見事に手を滑らして、お皿を割ってしまった


その大きな音に驚いて、スヤスヤ寝ていた楓が

大きな声で泣き始めた


妻の顔を見たら、鬼の様に角が生えるのではないかというくらいに

怖い顔をしていた



「ごめんなさい」

と、謝ったけれども。泣き声で聞こえる訳もなく

妻は、僕のほうを向くことはなかった




そして僕は、相変わらず妻にも、今では、楓にも嫌われているのか

抱っこすれば、泣かれ

おむつを替えようとしても、嫌がられる

そんな疎外感を感じていた




それでも不甲斐ない僕を尻目に

楓といえば

健やかに大きくなり、離乳食も喜んで食べるようになり

口の中には可愛らしい歯が生えていた







楓が生まれて1年と半年が優に過ぎた頃

離乳食も終わり

いろいろな食べ物を小さくして、食べるようになっていた

順調に大きくなり、妻のおかげで、健康検診では「順調ですね」という話を貰えた









「ママ」

「なに?」


「離乳食も終わり、これからは、いろいろな食べ物を食べるようになるね」

「それで?」

「ありがとね。何一つ役に立たなかったけど。ごめんね」

「そうですね。何も役に立ちませんでしたね」

「ごめんなさい」




「でね、これからの為に、本気で一息いれてくれないかな」

「何を言っているの?」





「う~ん。うまく言えないけど。コーヒー飲もう。母乳も終わったし、カフェインが楓に入ることもないから、飲んでね」

「・・・」



独身時代

時間があるときは、コーヒー豆を買ってきて、コーヒーミルで豆を挽いて、ネルドリップしてコーヒーを飲んでいた

コーヒーと真剣に向き合うには、心も落ち着いていないと、美味しく淹れられないと思っている。だから時間があって、自分自身にも、ゆとりがある時にしか、淹れることはなかった





正直、今は、ゆとりはないけど、ゆとりを取り戻したいと思って

久々に、コーヒー豆と新しいネル布を買ってきた






「ママ。これから、コーヒーを淹れるから、一緒にコーヒーを飲もう」

「・・・」



コーヒー豆は、2種類用意した

「モカ」をベースに「ブラジル」をブレンドして

ブラックのままでも、少し甘く感じるように豆を挽いた


新しく買ったネル布は、下地処理を済ませて、コーヒーを落とせるように準備しておいた




「ママ、お願いだから、ネル布からコーヒーが落ちてくるところを、見ていてね」

「コーヒー淹れるからね」

「・・・」




ゆっくりとコーヒー豆を蒸らしながら、ネル布に、お湯を注いでいった





ポタ ポタ ポタ と ネル布から コーヒーが落ちてきた



何度も何度もお湯を注ぎ、透明なガラスで出来ているポットには

コーヒーが注がれていき、適量が抽出された





せまいダイニングは、いつのまにか、コーヒーの匂いが充満していた

妻の顔を見ると、鬼の形相から結婚当初の妻の顔つきに戻った様に思えた




「コーヒーをどうぞ」

「ありがと」




「おいし」

「よかった」




「ホントにありがとね。楓が、ここまで健康で大きくなったのは、ママのおかげだよ。本当にありがとね。そして、これからもヨロシクね」










ちなみに、妻は返事をしなかった

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゆとりを取り戻したい一杯 阿滝三四郎 @sanshiro5200

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ