後編
いいニュースと悪いニュースがある。
いいニュースは、頭部を強打して病院に搬送された僕らの彼女・月待夜歌が昼ごろに意識を取り戻したこと。
「ごめんなさい、誰ですか? 夜歌ってなんですか? え、わたし死ぬんですか。まあ別にいいですけど、急になんですか?」
悪いニュースは、彼女が僕らの記憶を、どころかすべての思い出をすっかり忘れてしまったことだ。
「記憶喪失……ってことかよ? 先生」と大我がいう。
「はい。エピソード記憶が完全に喪われている可能性があります。ただ、不幸中の幸いというべきか」医師の石野先生はいう。「結果によりますと、記憶喪失は記憶喪失でも、ナラティブ・アムネシアと呼ばれるものの可能性が高いようです」
「ナラティブ……アムネシア」僕は復唱する。
「一部で呼ばれている、コミカル記憶喪失のほうがわかりやすいでしょうか。簡単にいえば、漫画的な手続きによって回復する逆行性健忘ということですね。漫画的な手続きというのはつまるところ、愛情ですとか、思い出の品ですとか、……これは本院では絶対に認可いたしませんが、同じ部位に衝撃を与えるとか。そうそう、過去に同じような記憶喪失を経験された方は、次回もナラティブ・アムネシアである確率が高いとされています。いかがですか、月待さんは」
「あります」僕はいう。高校三年生のころに、そのようなことがあった。ちなみに高校二年生のときに僕も経験している。あれらはナラティブ・アムネシアだったのだろう。「つまり、夜歌の記憶は、割とあっさり治るってことなんでしょうか」
「その可能性が高いです。一筋縄ではいかなかったとしても、通常の脳震盪による逆行性健忘のケースと比較すれば、損傷などは浅く、痛みなどのストレスもなく過ごしながら、早期に記憶を取り戻すことができるでしょう。最短では半日で回復に至ったケースもありますね。いまは広範囲でのエピソード記憶を喪失してしまっていますが、回復すれば後遺症もなく過ごすことができます」
「……理解しました。ありがとうございます」
僕と大我は診察室を出る。状況を整理するために一度、院内のベンチに並んで座って、缶コーヒーを飲む。それから僕はいう。
「夜歌の記憶を取り戻そう」僕は大我にいう。「残り二日……いや、一日半くらいしかないのに、記憶喪失なんて長引かせるものじゃない」
「反対だ」
「そうだよな、お前ならそういうと――え?」なんていった?
「反対だ。俺は夜歌の記憶を回復させることに反対だっつってんだよ」
「冗談だよな?」
「冗談じゃねえことくらいわかってんだろ。しゃらくせえ」
「冗談じゃねえほうがわかんねえよ!」僕は大我の胸倉を掴む。「どうしたんだよ、お前……夜歌が可哀想じゃないのか!」
「夜歌が可哀想だよ。夜歌は可哀想だ。てめえにこそいいてえな、希、夜歌が可哀想じゃねえのか?」
「……説明してくれ。聞くから!」
「夜歌はどうせ死ぬなら、このまま思い出さないままのほうがいいんじゃねえのかって俺は思う」と大我。「忘れてねえだろ、夜歌が泣き出したこと。いってたこと。思い出を抱えているからこそ、死ぬことでなくすのが恐ろしくて、あんなにも泣いていたんだ。それに俺らを遺していきたくもないんだろ。だったらよ、思い出も、俺らのことも忘れたままで死を待ったほうが幸せなんじゃねえのか」
「何いってんだよ。わかんねえよ」
「わかりたくないだけだろてめえが。忘れられるのが寂しいから、俺の意見を採用したくねえだけだ。自分が寂しくなければ夜歌がいくら苦しんでもいいってわけじゃねえよな、まさか」
「……僕らと夜歌の思い出を、ただの傷みたいに」
「ただの傷じゃねえよ。夜歌にとっても、たぶん複雑だったはずだ。でも、それが偶然、根こそぎ排除されてる現状っていうのは、安易に解決していいものなのか? 不運かもしれないが、幸運でもあるんじゃねえのか? 俺は夜歌が、苦しみを抱えずに死ねるなら、寂しいと思わずにいられるなら、涙を流さずに時間を過ごせるなら、それでいいんだよ。それが愛情ってもんじゃねえの?」
「でも――でも、夜歌はきっと、記憶を失う前なら、そんなこと望まない」
「根拠はなんだよ」
「根拠って」
「そんなこと欠片も望まないって、言い切れるか? つか、それは問題じゃねえだろ、もう。何はともあれ、この状況になってんだから。ここからどうすれば夜歌が苦しまずに死ねるのかってことを考えようぜ」
「……だけど、僕は」
「希。てめえの気持ちも問題じゃねえだろ」大我はいう。「夜歌より自分の気持ちか? 自分勝手になったもんだな」
「……夜歌にもっと自分のこと大事にしろっていわれたもんでな」
「そうかよ。俺は自分以外の気持ちを考えることを教わった」
「これは夜歌の問題だ。本人不在で話し合って決めることか?」
「本人がいたら反対したことでも、それが本人のためになるならそうするべきだ」
「違う。本人のためでも、本人がいたら反対するならするべきではない」
「どのみち死ぬんだぜ、本人がどれだけ嫌がっても。いいか、どのみち死ぬんだという話をしてるんだ。だからどれだけ死ぬ前の苦しみを和らげられるかって話をしてるんだ」
「偽善だ。大我だって忘れられたくないだろ本当は」
「ホワイトライって言葉知らねえの? 夜歌自身の感覚がすべてだろ」
「……そもそも、夜歌自身っていえるのかよ。記憶、なくなってんだぞ」
「そうだな。その《夜歌自身》をわざわざ苦しませるために復活させてどうするんだ?」
「《夜歌自身》が消えたままでいいっていうのかよ!」僕は耐えきれず怒鳴ってしまう。「大我、自分の判断で傷つける可能性が怖くてビビってんじゃねえの? だから消極的になってるんじゃないのか!」
「じゃあ対案はあるのかよ!」大我は怒鳴り返す。「俺は、俺らはどうすればいいんだよ! どうすればよかったんだよ! どうすれば、どうすれば夜歌はあんなに震えずに、ゲロ吐くほど苦しんだりせずに済んだんだよ!」
「……大我」
「……駄目だ、これ以上は。病院のなかで怒鳴るもんじゃねえわ」大我はベンチから立ち上がる。「俺は帰って荷造りでもしてるよ。夜歌が死んだらあそこに住んでる意味もねえ。……勝手なことしてみろ、血祭りだ」
その脅しは全然怖くなかった。僕だって、喧嘩で大我に勝ったことがある。お互いそのころより鈍ってるだろうから、どうなるかわからないけれど、一方的にはならないと思う。
でも。
それでも僕は、夜歌のいる病室に入ることができなかった。大我の言葉が、夜歌の涙が脳裏にずっといて、踏み出すことができなかった。
僕もまたビビっているのだろうか?
改めての説明になってしまうけれど、僕らがいたころの恋川高校には『三美華』と呼ばれている三人組がいて、なぜだか僕と大我がその二枠を埋めていた。そして、残り一枠は一学年上の査路幸秀という男子生徒だった。僕と大我と夜歌の仲を気にかけて洲貝先生とは別ベクトルから助言などをくれる、優しい先輩だ。
夜歌はあんまり直接的な関わりをしなかったからお別れの挨拶周りには含まれなかったけれど、当時から僕は特に助けてもらえていたから、連絡がてら今回も頼ってみることにした。
一度、落ち着いて考える時間が必要だと思ったし――独りではどうしても保守的というか、消極的な考えを自然に選んでしまいそうになる。査路先輩はそのあたり、自分ごとでも抜本的な視点を忘れない人なのだ。
「おやおや、おいでなさいましたのね。おあがりになって、紅茶が冷めないうちに。あなたさまがわたくしの家をご訪問されることも、わたくしには予想できておりましたのよ」
お城みたいな豪邸の扉を開けた査路先輩は、格好いい声でそういった。相変わらず、どこか女性的なスレンダーさのある男性だった。
「予想できていたって……夜歌が寿命七日病になったこと、知っていたんですか」
「え!? 何それ知りませんわよ! 寿命七日病ですの!? 夜歌さまが、どうして!」
そういうわけじゃなかったのかよ。
狼狽する査路先輩に、とりあえず上がらせていただきます、と僕はいって靴を脱ぐ。高校時代も何度かここに通ってはいたから、緊張みたいなものはあまりない。
査路先輩の部屋で僕は紅茶を飲みながら、現状のことを話した。これまでのことと、これから何について迷っているのかいった。大我のいっていたことも、それについて僕がどう考えているかも、記憶の限り伝えた。査路先輩はノートにメモを取りながら、適宜質問を挟みながら、聞いてくれた。高校時代と変わらない、丁寧で真剣な聞き方だ。査路先輩がこうだから、僕はよく相談をしていたのだ。
「よくわかりましたわ。つまりあなたさまは、大我さまのご意見について、一理あると思っておいでなのですわね」
「はい」僕は認める。「そして、夜歌の記憶を取り戻すべきだと考えていた自分が、正しいという……夜歌のためになるという確信が持てなくて。それで、どうすればいいかもわからなくなってしまったので、査路先輩から客観的な意見をいただけますでしょうか」
「……本来は」査路先輩はテーブルのクッキーを僕のほうに寄せていう。僕はクッキーを齧りながら聞く。「こういうとき、わたくしは先輩として一歩引き、あなたさまがたの成長を促すため、ヒントを出すだけに留めて自分で考えさせるべきだと思いますわ。しかし今回はタイムリミットもございますし、ストレートにお伝えさせていただくべきでしょうかしら」
「そうですね。早いに越したことはないので、よろしくお願いいたします」
「それではストレートにお伝えしますわね」
査路先輩は咳払いをして、それからいった。
「最初に、率直な感想を申し上げますと――希さまも大我さまも、お馬鹿でございませんこと? ですわ。普通に考えればおわかりになるでしょうということが三点も見逃されておりましてよ」
「三点、ですか」僕は前のめりになっていう。「ご指摘願います」
「まず、そもそもあれだけ濃密な高校時代を送りあそばせておきながら、そのうえで二年間の大学生活をお送りになっておきながら、どうしておわかりになっていられないのか、はっきりいって不思議なのですけれど――いえ、非常事態ですからこれはしょうがないのかもしれませんわね」
「といいますと」
「あなたさまがたは、何をしてきたのですかという意味です」査路先輩はいう。「あなたさまと、大我さまと、夜歌さまは。ずっと何をしてきて、今日に至ったのですの?」
「……交際をしてきました」
「そうでしょう? 交際をなさってきたのですわよね? その結果がこれとは、はっきりいって少々呆れてしまいますわね」
査路先輩はそういうと、クールダウンを求めるように紅茶を飲む。本当に叱られている、と僕は思う。基本的に査路先輩は叱るときはわかりやすく厳しくなるのだ。そこのわかりやすさもまた、僕にとっては相談のしやすさでもあった。
「あなたさまは、交際について何もわかっておりませんのよ。交際とは人と人との交わり、付き合いですわ。これは肉体や時間だけでなく、気持ちのうえでのことも含まれておりますのよ。お互いの気持ちと気持ちを交わらせ、相手の気持ちに付き合う。自分の気持ちに付き合わせる。これがどういうことかおわかりになって?」
「……そういうことは、してきたつもりです」
「そうであればこのようなことで迷っておりません」と査路先輩。「だってあなたさまも、大我さまも、自分の気持ちのことなど勘定に入れてないではございませんか」
「……自分の気持ち、ですか。でも僕は、大我も、夜歌に苦しんでほしくないというのが気持ちです」
「いいえ。それは夜歌さまの気持ちに付き合っているだけですわ」
「どういうことですか」
「希さまも、大我さまも。……夜歌さまがあなたさまがたを忘れ去ったまま亡くなるのは、お寂しいに決まっておりますわ」
それは。
たしかに――そうだけれど。
でも、寂しいだけだ。
僕が寂しいだけのことで、夜歌の絶望を復活させてよいのだろうか。
「恋愛は、自分と相手の気持ちでするものです。相手の気持ちだけを考えるのも、自分の気持ちだけを考えるのも、恋愛としての不完全さとしては同等でございましてよ。わがまま、大いに結構ではありませんか。自分勝手、大いに結構ではございませんか。それこそが求めあうということですわ。恋は求めあうこと、愛は受け入れあうこと、などとよくいわれますが――そんなものは言葉遊びですし、本当にそうだったとしても、だから恋は駄目だということには決してなりませんのよ。恋も愛も同じくらい大切で、尊ぶべき感情ですわ」
「……自分と相手の気持ち。でも、じゃあ、夜歌の気持ちは」
「夜歌さまの気持ちを本当に聞いたんですの?」
「だって、あんなに泣いて苦しんでいましたし」
「それは昨夜の話でしょう。昨夜を経た今日の夜歌さまの気持ち、こんなときに記憶喪失になってしまった夜歌さまの気持ちは、あなたさまも大我さまもご存知ないはずですわ」
「それは……でも、記憶喪失になってしまったんだから、聞いたって」
「じゃあ記憶を取り戻してから聞けばいいんじゃないですの? それで泣かれたり叱られたりしたら、全力で謝り倒せばよいではありませんの」ばっさりと査路先輩はいう。「忘却される寂しさを放置するよりは健全ですわよ」
「ですが、夜歌は忘れていたいかもしれない。寂しいのは事実ですが、夜歌を苦しめたくないのも事実で、どちらの気持ちも僕の気持ちです」
「そのことは二点目に繋がりますわ」査路先輩は指を二本立てる。「これはどちらかというと、希さまがどうしてわからないのかと不思議でならないのですけれど……そもそも、いまこのときの夜歌さまが幸せだと、どうして言えますの?」
「え」僕は戸惑う。「それは、いまの夜歌は、だって、死ぬことが怖くないみたいで」
「希さまも高校時代に記憶喪失になられたではございませんか」と査路先輩はいう。「その際、複雑な思いの夜歌さまに代わり、わたくしがよく面倒を見たものですが」
「あ、はい。その節は」
「その際に希さまは仰っていたではございませんか。自分が誰なのかわからないことは、恐ろしいと。安心できるほど馴染んだ存在がどこにもいないことが、恐ろしいと」
「……あ」
そうだ。あれは、孤独だった。たまらなく寂しかったじゃないか、あのときは。査路先輩のフォローがなければ、夜歌のことも少し嫌になっていたかもしれないくらい。自分が恐らく大事なことを忘れていて、まったく思い出せない辛さを僕は知っているじゃないか。
「それなのにどうして、あなたさまは夜歌さまの傍におられないのですか? どうして記憶喪失を解決しようと動かないのですか? 寄り添わないことが愛とでもいうのですの?」
「でも……ごめんなさい、でも、ばっかりで。だけど、僕は、もうすぐ死ぬ人の気持ちはわからない。記憶喪失とどちらが辛いのか、わからない」
「絶対に傷つけない選択などない、と申し上げても可能性を考えてしまい踏み切れないのでしょう。そこで最後の三点目なのですけれど」査路先輩は紅茶を飲んでから口を開く。「ナラティブ・アムネシア……同じ部位に衝撃を与える程度で記憶が回復するということでしたわよね。そんなに簡単に回復するのであれば――ひょんなことから、いま、すでに回復あそばされている可能性もございませんこと?」
「え?」
「あなたさまが何かするまでもなく、何もしない意味もなく、勝手に記憶が戻っていて、そのうえで、記憶喪失の自分に寄り添ってくださらなかった彼氏ふたりを薄情に思っていらっしゃる可能性がある、というただそれだけの話ですわ」
僕はそれを聞くや否や、いてもたってもいられなくなって屋敷を出た。玄関先で査路先輩は笑う。
「おほほ、希さま。あなたさまが何をしたところで、何もしなかったところで、どうせ運命は想定の外に転がり続けるものなのですわ。だったら、ご自分のやりたいことを為して、会いたい人の傍に居続けることのほかに、後悔を減らす選択肢などございませんのよ」
思えば夜歌はずっとそういうことをやってきたのかもしれない。
「ありがとうございます、査路先輩。夜歌のところに向かいます」
「ええ、是非そうなさって。わたくしは高校時代から夜希・希夜推しのオタクですもの、お礼はツーショットがいいですわ。とはいえ大夜・夜大も好物ですので三人でいてくださることが一番嬉しいですが」
「何をいってるんですか?」
査路先輩は久しぶりに会っても掴みどころがなくて、優しい先輩だった。
僕はバスに乗りながら、メッセージアプリを開いた。
それからマンションに帰った。
大我はマンションのベランダで黄昏ていた。荷造りといっていたけれど、ものの配置は全然変わっていなかったし、段ボールなども特に引っ張り出されてはいなかった。僕は声をかけずに、取るものを取って出ようとした。
大我がいった。
「査路さんのところ行ってきたろ」
「……うん」僕は答えた。
「あの人は希ばかり支えていたよな。俺と夜歌のことは、口出しをしないのが一番面白いとかいってた」
「そうなのか」
少しの間、沈黙が通過した。大我はまだ何かをいいたいのであろうことは察していたから、僕はそれを待った。
「俺はお前がうらやましい」
大我は絞り出すようにそういった。真意はわからなかったけれど、訊いていいのかもわからなかった。僕は大我のことを、そういえば何もわかっていないのかもしれない。
病院に誘ってみたけれど、大我は何も返事をしなかった。査路先輩から指摘された、こうしている間にも夜歌は記憶を取り戻しているのかもしれない、ということも伝えたが、それでも大我は動かなかった。
「てめえのいう通りなのかもしれねえな。俺は怖いんだよ、きっと。……放っておいてくれ」
放っておいていいのだろうか? わからない。それすらもわからない。でも、乗るべきバスの発車時間を考慮するとうかうかしてもいられなかった。それ以上のことはできず、僕は病院に向かった。
メッセージアプリの通知を確認して、返信をしているうちに病院に着いた。
夜歌は記憶を失ったままだった。頭には包帯が見えた。大事を取って、病院のベッドで過ごしていた。
「月待夜歌という名前だと聞きました」と夜歌は病院のベッドでいう。「あなたは誰ですか?」
「僕は星乃希。夜歌の彼氏だよ」僕は正直にいった。「調子はどう?」
「頭がガンガンします。吐き気もあります。頭を打ったと聞きましたから、そういうことでしょうか」
そうかもしれないし、二日酔いもあるだろうと僕は思った。
「ほかに、調子が悪いところはある?」
「お腹が空きました」
真面目な顔でそういうので、記憶を失っても夜歌だな、と僕は噴き出してしまう。そんなことだろうと思ってマンションから持ってきていた、小腹を満たすためのものをあげると夜歌は嬉しそうに食べ始めた。病院食だけじゃ足りないに決まっているのだ。
ぺろりと平らげてから、夜歌は訊く。
「あなたが、……星乃さんがわたしの恋人なら、わたしのこと、知ってるんですか」
「うん。知ってるよ」それから僕は確認がてら訊く。「君は自分のこと、どれくらい知ってる? ……覚えてる?」
「わかりません」夜歌はいう。夜歌じゃないみたいな表情で。「思い出が何もありません。知識は色々とあるみたいなんですけれど、自分が何をしてきて、自分が誰といてきたのか全然わからないんです。星乃さんのこともわかんないです。どんなふうに出会ったんですか?」
「小学生のとき、同じ学校に行くご近所さんだったんだ。出会ったのは入学前かな。夜歌は初めて会ったとき、誘拐される直前だったんだよ。びっくりした。僕、可愛い女の子がお手本みたいな誘拐おじさんにお菓子で釣られて手を繋いで公園を出ていくところ、目撃しちゃって。ついていっちゃ駄目だって僕は教えられてきたし、すごく、助けなきゃって。それで、僕、駄目! って叫びに行って。その子をおじさんから遠ざけようとしたんだけど、おじさんから怒鳴られて。夜歌はずっとぽかんとしてたんだけど、それで泣き始めちゃって。だから僕、防犯ブザー鳴らして、焦ってたからなんか、おじさんに投げつけたんだ。おじさんはそれ避けたんだけど、ブザー鳴りっぱなしで遠くに落ちて。ほっといちゃまずいっておじさんも焦ったんだろうね、夜歌のことも僕のこともほっぽってブザー止めに走って。その間に僕は夜歌の手を取って、すぐ傍にあった僕の友達の家に行ったんだよ。そのおうちのお母さんが通報してくれて、おじさんは捕まった。幼稚園児だったときのことだけどさ、すごく勇気出したし怖かったし、すごい褒められたからまだ覚えてる」
「……全然わかんないです。そんなことが、あったんですか」
「まあ、これ夜歌は記憶を失う前からあんまり覚えてなかったから。当時からわけわかってなかったんだろうね」と僕は笑う。「そんな風に出会って、それから小学校に通うとき、ご近所さんじゃんってわかって。小学校を卒業するまでずっと一緒に遊んでた」
そして僕は、証拠とばかりに写真を見せた。実家の母から送ってもらった、当時の写真の直撮り画像。家族ぐるみでの付き合いで、集合写真が多かったけれど、僕と夜歌ふたりでの写真もたくさんあった。
「可愛い」と夜歌はいった。「可愛い男の子だったんですね」
僕は少し傷つく。可愛いといわれるのが嫌なんじゃなくて。よその子に対してみたいな感想だったから。
川やプールで遊んだり、雪でかまくらを作ったり、モミジに寝転んだり、お花見のお弁当を頬張ったり。六年間の断片を見せながら、僕は夜歌に語った。思い出せないこともあったけれど、どうにか捻りだして伝えた。
夜歌は楽しそうに聞いてくれた。けれど、何かに気づいたような様子は見受けられなかった。単純に、そんなことがあったらしい、と歴史の勉強のように飲み込んでいるだけだった。そうしてとうとう、最後の一枚まで語り尽くしてしまった。
「何か思い出せそう?」
「ごめんなさい、まだです」と夜歌は謝る。別に夜歌が悪いわけじゃないのに。「それで、中学ではどうだったんですか?」
「小学校卒業とともに、夜歌は両親の仕事の都合で引っ越してしまったんだ。だから、僕が知っているのはここまで」それから僕は母とのトークルームから、兎菜さんとのトークルームに切り替えた。「中学時代のことは、中学時代の人が教えてくれるよ」
そういって僕は兎菜さんに準備連絡をする。
最初は兎菜さんからも写真を送ってもらうだけのつもりだったが、電話でも協力をしてくれることになった。立ち歩いても大丈夫そうなのを確認してから、院内の休憩所に行って、僕のスマートフォンで電話をかけた。
「もしもし。夜歌です。兎菜さんですか?」
『兎菜さんですか? じゃねえよ馬鹿――!』
スピーカーモードに間違えたかと思うほど大きな声で兎菜さんは怒鳴った。びくっとする夜歌の返事を聞かずに兎菜さんは畳みかける。
『何なん!? 本当にさ、《兎菜がいっぱい悲しんでくれたことも、忘れずに持っていくよ》だの《大事に抱えていける思い出を増やしたくて、……兎菜のこと、ちゃんと刻んでいたくて、ここにいるんだよ》だのいってたくせに死ぬ前に全部すっからかんに忘れてんじゃねえよ! ふざけてんの!? こっちはこの前に夜歌ちゃんのいってたこと一字一句ちゃんと覚えてんのに! なんなんだよ本当に!』
おかしい、事前のやり取りでは兎菜さんの送ってくれた写真を見ながら兎菜さんが思い出語りをする予定だったのに――と戸惑いつつ、さもありなん、とも感じる。兎菜さんはついさっき記憶喪失について僕から聞かされたばかりなのだ。僕がバトンパスをするまでの待ち時間で気持ちが追い付いて爆発してもしょうがない。
でも、これで夜歌が兎菜さんに苦手意識を持ってしまったらどうしよう? 何か頃合いを見てフォローするべきだろうか?
と僕が考えている間にも兎菜さんは続ける。
『ずっとそう! 夜歌ちゃんずっとそうだった! 中学のときずっとそんな感じで、何かすごい深い愛みたいなのとか強い気持ちみたいなのとかあるくせに、不運で全部おじゃんにして! こっちの感情を誘っといていつもそれが無自覚で、うっかり駄目になっても、まあいいや次々、みたいな!? しかも全部ちゃんと本音だから、一番振り回されてるのは自分なんだろ! 本当、本当、ほんとに、さ、なんで、なんでずっと、そんな風に、なるんだって、高校、受験でもさ、あんなに頑張って、あんなに、あたしより馬鹿なのに、あたしよりいい点とれるくらい頑張って、おなじ、一緒の高校、行こうって、いってたのに、それなのに、急に、ずっとそう、夜歌ちゃん、なんで? なんでそんな、運悪いの?』
「泣かないでよお」夜歌はいう。「泣かないで、うーちゃん」
『泣くに、決まってんじゃん、……ん?』
「夜歌?」
なんでいま、うーちゃんって呼んだんだ? そんな呼びかた、僕がいつ教えた?
「……あー、待って、なんだろ、なんでしょう、あ――……うん、来た」夜歌は頭を抱える。「来てます。来ました。思い出しました」
「なんか、兎菜の泣いてるの聞いてたら気持ちがうーってなって、感覚的に……中学卒業? パパとママが死んで、お祖母ちゃん家で、恋川高校に行くよーって話を、してるあたりまで思い出した。うん」それから夜歌は僕を見ていう。「小学生時代のことも思い出してきてる……え、じゃあ希って、ああ希だ、たしかに……背伸びたね。え、じゃあなんか色々あって付き合うことになったの? ごめん信じらんない」
「……とりあえず兎菜さんと話してあげて」
信じらんない、に少し傷つくけれど、まあそりゃそうだろうとも思う。高校一年生くらいのころは、少なくとも異性として意識してくれてはいなかっただろうから。
「はい。もしもしうーちゃん? ってこれ駄目だっけ? なんか駄目っていわれた気がする」
『もういいよ、好きに呼んでよ』兎菜さんはいう。『忘れられるよりずっといい』
「ありがとう。ごめんね。ちゃんと思い出せてない部分あるから聞かせて」
漏れ出る、兎菜さんの思い出語りを聞きながら、これはどういうことだろう? と僕は考える。僕は小学生時代のことをあれだけ丁寧に聞かせたのに無意味で、兎菜さんの涙と怒号は……あっさりとはいわないにしろ、結構すっと思い出すに至ることができた。いやまあ、中学時代の出来事にも触れていたけれど……《気持ちがうーってなって、感覚的に》。
感覚に訴えるべきなのだろうか?
「ねえ、希」電話を終えたらしき夜歌がいう。「病室に戻っとけって、うーちゃんが」
「そっか」
「そろそろ着くころだろうからっていってた」
誰が?
大我だった。
僕らが戻るころにはもう病室の前で待っていた。手も繋いでいない、あくまで友人程度の距離感の僕と夜歌を見て察したのだろう、短くため息をついた。
「大我。どうして?」僕が訊く。
「てめえが告げ口するからでけえ声で叱られたんだよ。殺されるかと思ったぜ」と大我は答える。僕は思い至る。兎菜さんとメッセージのやりとりをするなかで、状況説明の流れで大我のスタンスについても教えた気がする。「夜歌のことよろしくっていっただろふざけるな、だとよ……まあ、どうあれ来ちまったもんはしょうがねえ」と大我は続けた。
僕らは病室に戻る。ベッドに入り直した夜歌は、
「初めまして……じゃないんですよね?」と訊く。「どういう間柄ですか?」
「俺は夜歌の彼氏だ」
「へえ……あれ?」と僕のほうを見る。「さっき、希がわたしの彼氏っていってなかった? 何? デマ?」
「僕も夜歌の彼氏だよ。夜歌は僕と大我、ふたりと付き合ってるわけ」
「え? ええ? ……浮気? 二股? マジですか?」
「そういう不純なんじゃなくて……ENMっていうか。実際、流れとか体験しないとぴんとこないだろうけど、三人とも合意でそういう関係になってるわけだから、裏切りとかじゃないんだよ」
「えー……高校以降のわたし、何したの……?」
自分自身に引き始める夜歌。それはまあ、夜歌ならそうだろう――高校入学直前くらいの夜歌なら。高校二年生の夜歌は、僕と大我ふたりと付き合いたいという自分の欲と、マジョリティな恋愛観の間で泣きじゃくるほど苦しんだのだ。そのうえで、僕らに嫌われてしまう覚悟を決めて、泣き腫らしながら勇気を出して、欲ばったのだ。
だから僕は、それを否定されたくない。相手が夜歌でも。
「夜歌はただ正直に告白しただけだよ。決めたのは僕らだ」
「でも……そんなの、嫌じゃなかったの?」
僕は夜歌の問いに答える。
かつて夜歌にいったのと同じ気持ちを。
「僕は夜歌と一緒にいられたら、すぐ傍で夜歌を守れたら、夜歌の喜びも悲しみも隣で知られたら、それでいいんだよ。それが僕の愛だから」
「……希の、愛」
「それに、我慢させてまでふたりでいるなんて嫌だよ。僕は夜歌に幸せになってほしい。夜歌が欲しいと思ったもの全部手に入ってほしい。夜歌が一緒に居たい人とずっと一緒に居てほしい。その幸せに、欲に、一緒に居たい人に、僕が含まれているなら……それ以上のことはないんだよ」
それから大我がいう。僕の意図も伝わったのか、あのときと同じ言葉を。
「俺は夜歌のおかげで、このクソみてえな、薄っぺらいやつらばっかりの世界でも生きてもいいって思えた。ガキのころから抱えてた息苦しい海から引き上げてくれた。俺の希望だ。夜歌が俺の存在理由だ。だから何があろうと、たとえ彼氏がもうひとりいようと、俺は一生離さねえよ」
夜歌は泣き始める。
顔を真っ赤にして、ひくひくと鳴らしながら、怖がるように、喜ぶように。
「わかんない。わかんないのに。大我ってどこの誰なのかも知らないはずなのに。……なんでか、すごく嬉しい。怖い。どうしてこんなに幸せなのかわからない」
あと一息だ。大我と頷きあう。
僕は夜歌の左の手の甲に、大我は夜歌の右の手のひらにキスをする。あのころを再現するように、けれどあのころよりも強い祈りと誓いを込めて。この感覚で思い出せるように。あのときの気持ちを、僕らの青春を、呼び起こせるように、優しく、しっかりと口づける。
「夜歌、大好き」
「愛してるぜ、夜歌」
「……思い出した。ごめん。本当にごめん。こんなに色んなことあったのに、あのとき、わがままに応えてくれたのに、忘れちゃって、ごめんなさい」
「違うでしょ。ごめんじゃなくて」
「他にいうことあるだろ」
愛を囁くとき、僕らは返事を求めている。
「……大好きだよ、希。愛してるよ、大我。ありがとう」
僕と大我は夜歌を抱きしめる。夜歌は抱き返してくれる。
抱き返されることは、抱きしめないとできない。
そうだ。欲ばることが呼び寄せる幸せって、たくさんあるのだ。
さてこれですべての記憶が戻ったというわけではなかった。夜歌は高校二年生の終わりくらいまでしか思い出せていなかった。では大学時代のことをどうやって思い出してもらおう?
と僕らは病院の休憩室で話し合う。病室で告白の再演とかをしていたせいで同じ病室の人に咳払いをされて申し訳なかったから。
大学時代にした、感覚に訴えられそうなことといわれて最初に思いつくのは初体験だけれど、あれだけ痛がっていたのも再現させないといけないとなると気が引ける……と真面目に考えていると、
「とりあえず何か、思い出の写真とか見たい」と夜歌がいう。「純粋に気になる」
僕と大我と夜歌のスマートフォンのなかにあるスリーショットやツーショット、食べたものの写真などを見せる。イヤホンをつけて、みんなで遊んでいるときや誕生日のときなどの動画を見せる。夜歌は楽しそうに見ているが、
「なんだろ、画面のなかにいるのがわたしって感じしない」
という。大学進学にあたって、心機一転とばかりに夜歌はファッションやメイクなどを変えていたから、そのせいもあるかもしれない。それじゃあどうしようか、と考えつつ、僕は夜歌が色んな動画を楽しむのを見守る。
で、ある動画で夜歌は、「あ、待って」といい、それから少し間をおいて「思い出した。たぶん全部」といった。
その動画は僕と大我が公園で遊んでいる様子だった。
夜歌が初めて、僕らを撮った動画。
「そんなことで思い出せたのかよ?」
と大我は驚く。
僕もそう思う。
夜歌はいう。
「だってねえ。大好きなふたりが楽しそうに遊んでるところなんて、萌え死にだもん」
あくまで夜歌の気持ちの問題といわれればそれまでだった。
一応確認してみると、公園での撮影のあとの出来事、動物園と水族館と遊園地に行ったことやホテルで泣いてしまったことも思い出せているようだった。
「でもさ、ひとつ思い出せないんだよね」と夜歌。「泣いたあと、ホテルからタクシーに乗ってどこかに行った気はするんだけど。なんで思い出せないんだろう」
「それは記憶が飛ぶほど酔ったからでしょ」
そういえば記憶喪失のきっかけとなった転倒も、酔っぱらっていた影響が大きかっただろうし……なんというか。
ヤケ酒ってやっぱりよくないなあ。
で、医師に記憶の回復を報告し、一応調子の診察を受けて、退院してもよいということになる。代金は夜歌が払う。それで貯金は使い切る。寿命七日病で余命が残り少ないこともあり、早めに許可が出てよかった……それでも夕方になったけれど。
マンションに戻る。夜歌が空腹を訴えるので夕飯にする。お腹を満たして、迷惑をかけたからと食器洗いを担当しながら夜歌は大我にいう。
「ねえ大我。もしかして、記憶を失ったまま死んだほうがしんどくないって思って来なかった……じゃないか、来るの遅くなったの?」
ぴたりと当てられて、プラごみを捨てていた大我は固まる。僕が何か説明しようかと思ったけれど、夜歌はあくまでも大我に確認しているんだろうな、と思い直して机を拭き終える。
夜歌がみっつめのコップを拭いているとき大我が口を開く。
「ああ。というか、……希が兎菜に教えて、兎菜が俺に発破かけなきゃ行かなかった」
「それでもよかったの?」夜歌は、声を聞くためか水を止める。「大我は、それでよかった?」
「夜歌をいたずらに追い詰める、苦しめ直すことになるなら、記憶は戻らないほうがいいんじゃないかって」
「そうじゃなくて。わたしにとっていいと思ったかどうかじゃなくて。大我が、それでもよかったのか、って訊いてるよ?」それから夜歌はいう。「あ、いまの問い詰めてる感じっぽくなっちゃった。そんなつもりなくて、知りたいだけなんだけど」
「……よくねえけど」大我は夜歌から目を逸らしていう。「いいわけねえだろ。夜歌から忘れられるなんて。でも、俺がここで我慢すれば夜歌が幸せになれるならいいと思った。いまはとにかく夜歌が幸せに死ねる」
夜歌はそれを聞くと、食器洗い用の手袋を外した。そして大我に歩み寄って、どこか緊張している表情の大我をしゃがませて、額にキスをした。
「ありがとう。わたしのために我慢しようとしてくれてたんだね」それから大我の両頬に手を添える。今度は唇にキスをするのかと思ったけれど、そうじゃなくてつねる。大我の頬が伸びる。「でも駄目だよー? 寂しいのに我慢するなんて。自分だけ我慢すれば丸く収まるなんて。そういうのカップルとしてよくないんだって兎菜もいってた」
「いふぁい」
「ごめんごめん」夜歌は頬を開放する。「いふぁいときはいふぁい、寂しいときは寂しいでいいんだよ。いふぁいからやめてほしい、寂しいから思い出してほしい、でいいじゃん」
「でもそのせいで、夜歌がもっと苦しむなら」
「わかんないじゃん。案外なんやかんや自分で納得して受け入れられてるかもよ? 大我の苦しみのほうが大きいかもしれないし、大我の苦しみのほうが長いかもしれない。寂しさをずっと抱えて生きていくかもしれない。心って殺したら死にっぱなしになることもあるんだよ?」
「俺は、俺以外のやつを大事にしたい。しなきゃいけないって思ってるんだ。夜歌みたいに周りの気持ちを大事にできる人間になりたい」大我はいった。「夜歌のせいにするつもりねえけど。俺は夜歌と付き合うまで、周りを憎んだり傷つけたり、試したり逃げたり、するばかりだったから」
「わたし別にそんな人間じゃないよ」と夜歌。「わたしはずっと欲ばりだってば。この一週間だって叶えてもらってばかりだし。好きな人や友達や、まあ大事にできる範囲の人は大事にしたい、平和で楽しくあってほしいってだけで」
わたしの生きかたが優しい方向に影響を与えてるのは嬉しいけど、と夜歌は笑う。
「大我はねえ、もーっと願って、欲ばっていいんですよー」
「じゃあ……俺、俺は、死にたい」大我は震えながらいう。
「そうなの?」
「夜歌のいない世界で生きていたくない。夜歌が死んだら、俺も死にたい。それが俺の願いで欲なんだ」
「うん。いいよ」と夜歌があっさりと肯定するので僕は驚く。戸惑う僕を見ながら夜歌は笑う。「ただし、大我に生きててほしい希が全力で止めるかもしれないけど。どう? 希」
「……大我には生きていてほしいよ」僕は正直に答える。「大我との付き合いも長いしな。死んでほしいわけがない」
「そっか。じゃあそのあたりも正直に頑張ってね? 欲ばる同士の欲バトル」
よくわからないことをいう夜歌。まあ頑張るか、と僕は思う。
ところで僕は死にたくないのだろうか? 夜歌がいない世界になるのに? ……生きなきゃって気持ちは減るだろうけれど、自殺とかは怖いし、実家の両親や査路先輩が悲しむだろうからやりたくない。僕にとって夜歌は大きな存在だし、生きていく理由でもあるけれど、理由がないから死のうってほどラジカルにはできていないのだろう、きっと。
「夜歌は……いいのかよ。俺が後追いしても」
自分からいいだしたのに寂しそうに訊く大我の頭を夜歌は撫でる。
「いいも悪いも、死んだあとのことだから。わたしは死んだら何もなくなるから、どうせ。生きてる人のしたいこと、縛る権利は何もない。……兎菜のことは縛っちゃったけど、あの子はちょっと縛ってほしかっただろうし」
僕はまた驚く。夜歌の顔に、ホテルのときのような怯えがなかったから。
「わたしは死んで、何も思い出せなくなる。希のことも大我のことも全部わからなくなる。そうじゃないかもしれないけれど、そうかもしれない。でも、どうあれ希や大我や、兎菜や洲貝先生はわたしのこと覚えてるし、写真や動画で思い出す。それから、わたしのしてきたこと、伝えてきたことを踏まえて考えて過ごしてくれるかもしれない。だから全部が本当になくなるわけじゃない。わたしのお祖母ちゃんの言葉を、わたしがずっと覚えていたみたいに」
人は死んだら思い出と気持ちだけになる。
「あれって、本当は周りにいた人の思い出と気持ちになるってことなのかもしれないね」
「……夜歌」
「まあ、そうはいってもめちゃくちゃ寂しいよ。マジでしんどい。何も手放したくない。本当に悲しい。……それでも、記憶をなくして、思い出して、思ったよ。こんなにこんなにさみしいのは、幸せだったって証拠なんだって。記憶ないとき本当に、死ぬんだあ、そっかあってだけだったよ。いま、こんなに死ぬのが嫌なのは、それだけ宝物をもらってきたからなんだってわかった」
だから寂しいのも怖いのも含めて、嬉しいよ、わたし。
夜歌はそういって、笑った。
その日の二十三時、僕らは眠れない。日付が変わった瞬間に夜歌が死んでしまうかもしれないと思うと、寝て起きたら夜歌が動かなくなっているかもしれないと思うと、眠る気になんてなれない。他愛もない話をする。いっておきたかったことをいう。それから僕は気になっていたことを訊く。
「あのさ、夜歌。覚えてないかもしれないけど」
「なあに」
「昨日の夜に、夜歌が……お母さんについて話していたとき、愛せるよう頑張ろうとすること自体すでに愛だと最近気づいた、っていってて。どうして気づいたのが訊きたい」
「んー、あんまりすっきりしないと思うよ?」
「別にいいけど」
「わたしが死ぬって決まって、三人で残りの時間を心残りなく幸せに過ごすプラン立てたでしょ? あのとき気づいた」
「なんで?」
「どうやって幸せに過ごそう、って悩める時点で幸せだし、どうやって幸せにしようかな、って悩んでもらえるだけでも、すでに幸せをもらってるなって。そこからの連想です」
「……ああ、そういうこと」
だとしたら、よかったと、僕は思う。
夜歌はもうすぐ死んでしまうけれど。僕らと夜歌の時間は明後日にはもうないけれど。
それでもいまこのとき、夜歌が幸せを受け取って、抱きしめていてくれたことがたまらなく嬉しい。
嬉しくて、寂しい。
夜歌。
僕は夜歌が好きだ。僕は夜歌を愛している。夜歌の笑顔をもっと見たかった。夜歌と一緒に社会で頑張りたかった。夜歌と一緒にお爺さんとお婆さんになりたかった。子供は夜歌の気持ちに任せるけれど、僕と夜歌と大我で何か、植物でもペットでもコンテンツでもいい、未来に繋がる何かを育ててみたかった。
夜歌。僕は夜歌が死んでも、思い出が残っているから傍に居るようなものだなんて、全然思えない。僕は変わっていく夜歌が見たかった。僕と大我と一緒に年を取っていく夜歌を見ていたかった。
ずっと我慢するつもりだった涙をうっかり流してしまって、夜歌はなんでもないように拭ってくれる。食べかすを取ってくれるみたいに。僕が泣いたくらいじゃ悲しくないとばかりに。だから遠慮なく泣く。
「ねえ、希。大我」僕が泣き止んでから、夜歌はいう。「いま思ったこといっていい? 割と台無しなんだけど」
「なんでもいえ」と大我。「なんでも聞きたい」
「ありがとう。あのね。何もなくなるかもしれないってことは、何もなくならないかもしれないってことだよね? 死んだらどうなるかわからないってことは、死んだらどうなってもおかしくないってことだよね?」
「うん」
「そうだな」
「じゃあ、ひょっとしたらやっぱり思い出や気持ちを持っていけるかもしれないね。それか、幽霊になってふたりの傍にこっそりいられたり、生まれ変わって会いに行けたり。人間になるのか虫になるのか魚になるのかどれだろうね。クジラがいいな。もしかしたら、死んだら人生の一番初めからやり直すことになるかもしれない。あるいは、希か大我に生まれ変わるかも」
「え? 僕に生まれ変わるって何?」
「記憶がないだけで、周囲にいる人たちは自分の生まれ変わりかもしれないって思ったことない?」
「ねえよ全然」
「僕もない」
「えー。あはは。まあとにかく無限の可能性があるよねって話でした」
と笑う夜歌と手を繋いでいるから、僕らには彼女がかなり手汗をかいているのがわかる。
もうすぐ日付が変わる。
死なない可能性もあってくれたらいいのに、なんていっている暇はない。
愛してるっていいたい。
僕らは囁き合う。キスをする。身体に触れる。そうして時間の経過をわからなくする。注射の瞬間、他の何かで気を逸らすみたいに。怖いものから一緒に逃げられるからこその恋人だと、僕は思う。
夜歌が亡くなる。安らかに。
それから僕は大我と色々ある。
兎菜さんとも色々ある。査路先輩とだって色々ある。
大学でも色々あって、社会に出てからも色々とある。実家でも色々ある。
色々あり続ける。絶え間なく。
どんなことも起こる。起こり続けるし、起こり損ねるし、起こっていたことにあとから気づく。ひとつひとつを取り上げていられないくらい大変なことが、夜歌がいたときと同じくらい起こる。
嬉しいことも悲しいことも起こるし、幸運も不運も降り注ぐ。死ぬんじゃないかという目に遭ったけれど、なんだかんだ生還することもある。たまに病気にかかって、何事もなく完治することもあれば持病になってしまうこともある。
そして色々な出来事が色々な人の観測範囲に僕を導く。出会いも別れもあるし、再会も今生の別れもある。誰かのことをちょっと好きになったりかなり嫌いになったりする。うっかり傷つけてしまうことも、傷つけられてしまうこともある。それでもなんだかんだで、 一緒にいられる新しい誰かができたりもする。
時間を重ねる。大学時代の自分が、社会人になりたての自分が昔の話になる。間違っていたなと反省したり、正しかったなと誇りに思ったりする。若かったなと恥ずかしくなったり、もっと年相応にやればよかったなと悔やんだりもする。
そんななかでも、僕はずっと夜歌のことを考える……というわけではなくて、やっぱり新しい人間関係のことや仕事のことも考える時間がどんどん増えてくる。環境もめまぐるしく変わって、親しんでいた景色だって遠くなる。
それでもたまに、僕は夜歌のことを考える。
理由も途方もなく寂しいとき、幸せとはなんだったか思い出せなくなったとき、他人の愛しかたがわからなくなったとき、彼女のくれた温もりと幸福と愛を想起する。
誰かが死にゆくとき、死んでしまったときにも思い出す。
きっとそのときの僕の脳裏にいる夜歌は、うろ覚えで朧気で、どこか正確じゃないんだろう。写真や動画のデータもバックアップ不全とかでいくらか失われてしまったし、見返してみてもあんまり鮮明には思い出せないことのほうが多い。
でもいい。
寂しさが満たされていたことの証明であるように、失っていくこともまた、そこにあった証明だ。
もういないという絶望は、かつていたという希望と表裏一体だ。
僕はその希望の部分だけを器用に見つめることができる。
記憶が擦り切れても気持ちは消失せず、愛しさも寂しさも切れ味をなくしながらそこにある。大好きだった歌みたいに、夜にときどき思い出す。
了
僕らの彼女が死んでしまうなら手離したくない幸せたちを 名南奈美 @myjm_myjm
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