僕らの彼女が死んでしまうなら手離したくない幸せたちを
名南奈美
前編
「人は死んだら思い出と気持ちだけになるって、お祖母ちゃんがいってた。わたしに大我と希がくれた幸せな思い出と、わたしが大我と希のこと大好きって気持ちを持っていける。だからわたし、死んでも大丈夫だよ」
寿命七日病を宣告されたすぐあとに夜歌がそう笑うから、僕も大我も悲しんでばかりいられなかった。持っていける思い出をもっともっと増やそう、と今日を入れた残り六日間で色んなことをしていく計画を立てた。
寿命七日病は治療法のない病気だ。発症時に軽い発熱があり、熱が引いてから七日で心臓が停まって亡くなる。治らないということすらわかっていなかったときはデータ採取がてら入院することもあったそうだけれど、その段階も終わったここ数年はすぐに帰らせて思い出作りやお別れの挨拶の時間に充ててもらう方針となった。
そういう病気なのだからしょうがないと、割り切るには僕も大我も夜歌を愛しすぎていたけれど、夜歌自身が割り切っているのだから僕らも平和にそうするほかなかった。
夜歌。僕の幼馴染。まだ大学二年生なのに。最近やっとお酒を飲めるようになったばかりなのに。なりたい職業はないようだけれど、行き着きたい未来はあったのに。もっと、たくさん笑いたかったはずなのに。たくさん欲しかったはずなのに。
せめて夜歌が思いつくものはすべて、その小さな手に握らせたい。細い腕に抱えさせたい。まるで棺桶にものを入れるみたいだ、と思うと目頭が熱くなるけれど、恋人である僕が泣いたら夜歌は悲しいはずだから、こらえないといけない。
大我が哀しみを表情に出そうとしないのも、同じ理由からだろうか?
僕と大我は夜歌の彼氏だ。高校一年生のときに出会って、二年生のクリスマスのときに夜歌は泣きながら僕らを選んでくれた。僕は真面目なほうで、大我は不良生徒だったから、喧嘩をすることもあったけれど……そのたびに夜歌は仲裁して、どちらのことも包み込んでくれた。高校を卒業するころには僕は比較的柔軟になったし、大我も丸くなったから、それからずっと平和だった。
ずっと。
ずっとこの三人で生きていくんだと思っていた。三人で結婚をするのだと思っていた。僕の親も大我の親も、変だと思うけれど当人同士で納得しているのなら、多様性の時代だし、と奇妙がりながらも受け入れてくれた。夜歌の両親は高校一年生になる前には亡くなっていたからわからないけれど、夜歌がいうには、わたしに幸せになってほしいってよくいってたから大丈夫だよ、とのことだった。
「もしパパとママに会えたら、いっぱい、いっぱい幸せだったっていうつもりだよ。色んなことがあったけど、すごく温かったって」
次の日、夜歌が中学生時代に住んでいた地域に向かう列車で、彼女はいった。右手は大我の手を、左手は僕の手を繋いでいた。僕が握る力を強くすると、大我も同じタイミングでそうしたらしく、彼女は笑いながら強く握り返した。
夜歌が両親と住んでいたマンションに行くと、彼女は管理人室に行った。当時親しくしていたらしく、いくつか会話をしたら、マンションの部屋に案内してくれた。管理人は、少しだけ寂しそうな顔をしていた。
何もない、すっからかんの空き部屋だったけれど、夜歌は間取りなどに懐かしいものを感じているらしく、しんみりと目を細めていた。ベランダに行くと、僕らも手招いて一緒に景色を眺めた。マンションの五階だから、結構高いところから住宅街を見下ろす格好になる。
「中学生のころ、友達と喧嘩したときとか、高校受験のときとか、自分って変な子なのかなって悩んだときとか……よくベランダでこうやって景色を見てたんだ。なんの変哲もない街並みだけど、なんの変哲もないなかに自分はいるんだ、そしたら悩んでることだって、わたし自身のダメなところだって、なんの変哲もないかも、って思えたんだよ」
「そうなんだ」
「あとね、希はどうしてるかな、ってことも考えてたよ」
夜歌はそういって笑った。僕は少し照れ臭くなった。夜歌と僕は小学校の六年間は近所に住んでいて、よく遊んでいた。僕はそのころから、こっそり彼女のことが好きだった。だから小学校を卒業すると同時に彼女が引っ越してしまってとても悲しかった。高校に入ると同じクラスで再会することができたから嬉しかったけれど、両親を亡くして祖父母の家に住むことになったから、と説明されたからあまり露骨には喜べなかったっけ。
「僕も中学生のころは、よく夜歌のこと考えてたよ」
「そっか。わたしは年一くらいだったけど」
あっさりとそういう夜歌の正直さも僕は好きだけれど、それはそれとしてずっこける。
気の済んだ夜歌はマンションを出て、当時の友達と会って抱き合った。僕らは彼女たちをふたりきりにすることにした。公園をぶらついていると大我がいった。
「俺はどうして夜歌の幼馴染じゃなかったんだろうな」
僕はいう。「そしたら不良になんかならなかっただろうな」
「だろうな」
大我は男の僕から見ても美男子だ。恋川高校の『三美華』のひとりに数えられていただけのことはあると思う……もっとも、僕もそのひとりだったけれども。でもそのルックスが災いして人間不信を生み、それがグレるきっかけになった。同じ行動をしても美醜によって評価を変えられてしまったり、自分よりずっと素晴らしい人間が自分より好かれていなかったり、そうしたルッキズムに対し大我の両親も社会はそういうものだと半ば容認していたりと、子供のころから現実のそうした側面を目の当たりにして失望を重ねてきたそうだ。夜歌が幼少期から傍にいたら、きっと人間不信に至る前に、世のなかには顔の良し悪しで態度を変えない人間もいると知ることができただろう。
「……でも、俺が中学生のときに喧嘩して身体を鍛えてなかったら、危なかった場面も多かったかもしれねえ」と大我はいった。「結果オーライか?」
たしかに、僕ひとりじゃ力が足りない、あるいは僕のいないタイミングで起こったアクシデントもいくつかあった。『三美華』のうちふたりを彼氏にした夜歌を妬んでの、恐ろしい事件もあった。そのどれも、腕力と威圧感のある大我がいたおかげで切り抜けられたのだ。
「ありがとう、大我。お前がいたから、なんだか運の悪い夜歌もここまで生きてこれたんだと思う」
「俺だけじゃねえだろ。希、てめえにしかできなかったことだって山ほどあったよ」
「大我」
「……まあ、お互いよく頑張ってきたんじゃねえの? 最後の最後まで気い抜くなよ」
いわれるまでもなかった。
夕方になるころ、夜歌から電話がくる。中学時代の友達の家に泊まることになったそうだ。場所は足りているから、僕らにも泊まってほしいそうだ。本当によいのだろうか、と思いながら向かうと、そこは純和風の豪邸だった。
「おっす。うわ写真で見るよりイケメン。いいなあ夜歌ちゃん。あたしは兎菜です、夜歌ちゃんとは中学三年間奇跡的にクラスメイトでべったりでした。入って入って」
兎菜さんの後ろにいる夜歌は心なしかいつもより幼く見えた。
大広間に雑魚寝するために布団が敷かれていて、修学旅行みたいだ、と僕は思った。夕食は兎菜さんが作ったビーフカレーで、夜歌の大好物であると同時に、夜歌が初めて兎菜さんの家に泊まったときの晩ごはんらしかった。
「美味しい! 兎菜、中学のときよりずっと腕を上げたねー!」
「そりゃ、中学のときは初挑戦だったから。あたしももう二十歳だし、他にも色んなの作れるようになったんだよ」
「お昼のケーキもすごく美味しかったもんねえ。兎菜、すごいよ」
「本当は作れるもの全部食べてほしいくらいだけど、明日はまたあっち戻って遊ぶんでしょ? 味わって食べてね」
「うん! おかわり!」
夜歌の差し出したお皿を苦笑しながら受け取る兎菜さん。それを見ながら食べるカレーは、幸せな味がした。
「おふたりはどう?」と兎菜さん。「美味しい? それで足りる?」
「すごく美味しいです。僕はあんまり量食べないのでおかわりは大丈夫です」
「俺はもう一皿食うよ。美味いし、いい肉の味がする」
「了解。お肉はね、昨日、夜歌から連絡もらってすぐ、一番いいの買いに行ったんよ」
よそわれたカレーを美味しそうに食べる夜歌。僕は食べ終わっていたのでその横顔を眺めていると、兎菜さんはいう。「ねえ彼氏さんズ、夜歌のどこが好き?」
「優しいだけじゃなくて正直だから安心できるんです」
「度胸っつうか他人に流されねえ強いところがある」
「いっぱい食べていっぱい遊ぶ無邪気なところが素敵だと思います」
「何も考えてねえんじゃなくて考えたうえでのポジティブなのがいい」
「子供のころから一緒にいるから変わらないなって感じる部分もありますけれど、ふと大人っぽいところ、異性っぽいところを見せてくれることもあって。再会してからさらに夢中になったのはそういうところからでした」
「勘が鋭くて、俺なんてあんまり顔に出ないほうなのに、あっさり見抜いてくるんだ。わけわかんなくて面白えやつだ、って付き合う前から思ってたよ」
「話す声は可愛くて、歌う声は格好よくて。甘えたいときの声は最高にきゅんとするし、弱っている声は守りたい気持ちでいっぱいになります」
「誰にでも分け隔てなく優しいところも好きだけどよ、それはそれとして恋人同士としての特別感も大事にするところが幸せだな」
「それから――」
「それでよ――」
「す、ストップ!」夜歌が叫ぶ。「いいすぎ。褒めすぎ。恥ずかしすぎ」
「いひひ、彼氏さんズのコンビネーションで夜歌ゆでだこ。もっとやっちゃえ」
「いいから。兎菜、おかわり」
「はいはい。お米どれくらいほしい」
「大盛り」
カレーライスを大盛りで三杯も平らげるのに華奢なところも面白くて好きだが、とりあえずそれをいうのは後にしておいてあげる。
兎菜さんから中学時代の夜歌の話を聞かせてもらう。当時の夜歌はうーちゃんと呼んでいて、活発だったけれどぼうっとしていたり抜けているところもあったりで、兎菜さんはそれに楽しく付き合ったりたまに叱ったりしていたらしい。喧嘩をすることもあったけれど、夜歌が先に冷静になって謝って、兎菜さんはさっぱりしているほうなので禍根なく受け入れて謝り返して解決できたそうだ。
「いまは名前で呼んでるんだね、夜歌」
「ああ、それはお昼に、兎菜の要望で」
「高校時代に彼氏できたんだけどクソでさー。そいつからもうーちゃん呼びされてたから、ちょっとあんまりなあって」
と肩を竦める兎菜さんの頭を、夜歌は慰めるように撫でた。
食後、風呂に入っていいというので、兎菜さんと夜歌、僕と大我で分けて入る。今日はひたすら、夜歌と兎菜さんに悔いのないようふたりきりにしようと思う。三人の時間はあとでも作れる。それが限られた時間としても。
夜、僕と大我は夜歌を挟んで横たわる。布団のなかで手を繋ぐ。夜歌の向かいの位置に兎菜さんの布団があって、ふたりの会話を聞きながら、秋の夜長を過ごす。
「なんか寝るのもったいない気がする」と兎菜さんはいう。
「そうだね」と夜歌はいう。
「ねえ夜歌」
「なあに」
「ずっと起きててよ。そしたら、あたしも起きてるから」
「ごめんね」と、夜歌。明日の予定からして、僕らはあんまり寝過ごしてはいられないのだ。
「だったらさ、夜歌」
「なになに」
「ずっと生きててよ。そしたら、あたしも生きてるから」
「……ごめんね」
「……夜歌。なんで。なんで? なんで生きててくれないの? なんで死んじゃうの? なんで突然なの? なんでこんなことになっちゃったの?」
兎菜さんが泣いていることは、声を聞けばわかる。夜歌はどんな顔をしているか、覗き込むべきではないことはわかっている。
「なんでこんなことになっちゃったんだろうね。でもね、兎菜、なっちゃったものはしょうがないよ。だからわたしは、死んだあと、魂になってから、大事に抱えていける思い出を増やしたくて、……兎菜のこと、ちゃんと刻んでいたくて、ここにいるんだよ」
「やだ。そんなこと言うな。忘れていいから死ぬなよお。なんでよ。まだ二十歳じゃん。あたし、まだ夜歌のこと、三年ぶんしか見れてないよ。高校生のときこっちに来てくれなかったでしょ。電話しかしてくれなかった。悔しい。ごめん。違う。夜歌が引っ越して、素敵な彼氏をふたりも作ってラブラブしてて、すごい幸せなんだってわかってる。夜歌の両親が死んじゃって、すごい悲しそうなままどっか行っちゃった夜歌が、今日すごい楽しそうにいられてて本当にほっとした。その運命で夜歌はよかったと思う。でもあたしはよくなかった。あたしはもっと、一緒に、……ごめん。いうべきじゃない。忘れて、ごめん、ごめん、最悪。ごめん。夜歌は綺麗なのに、綺麗に終わらせようとしてるのに、あたしはすごく、すごく、……ごめん」
「兎菜」夜歌はいう。「ありがとう。ってか、ごめん」
「何が」
「わたしが死ぬこと、兎菜がいっぱい泣いてくれるの、申し訳ないけど、嬉しい。嬉しがっちゃってごめんね。……兎菜はすごく素敵な、綺麗な子だよ。最悪なんかじゃないよ。大好きだよ。兎菜がいっぱい悲しんでくれたことも、忘れずに持っていくよ」
「やだ。持っていかないでよ。やめてよ。あたし、残されたら、きっとどんどん忘れちゃう。あたし、あたしね、子供のころ、お祖父ちゃん、大好きだったのに、亡くなってから、二十歳になるまで、どんどん、色んなこと、忘れていっちゃって、ずっと悲しいのに。夜歌のことも、忘れるしかなくなるなんて、やだあ」
それを聞いて僕は思う。夜歌が亡くなったら、僕も夜歌のことをどんどん忘れていってしまうのだろうか? 少なくとも久しぶりに会って、そうだ夜歌はこういうときはこんな風に動いて喋るんだった、忘れがちだけれどそういうところもあった、そういえばこんなことが昔あったっけ、みたいに思い出していくことはできなくなるだろう。取りこぼしていくばかりだとして、僕はそれでも、どれだけ取りこぼさずにいられるだろうか?
僕が死ぬとき、夜歌の思い出をどれだけ持っていけるだろうか?
「……ごめんね、兎菜。ちょっと酷いこと、頼んでいい?」と夜歌。
「ひどかったら、ひどいっていうね」
「わたしが死んでも、ちゃんと生きててね。ちゃんと生きてるって約束してね。約束してくれないと、わたし、悲しいな」
「……ひどい!」
兎菜さんはそれから、何もいえないほどに泣きじゃくった。僕の隣から夜歌が這い出る。夜歌は兎菜さんと同じ布団に入って、抱きしめながら撫でる。
兎菜さんが泣き疲れて眠るまで、夜歌はきっとそうしていた。
早朝になって、僕が最初に起きて、歯を磨いて戻ってきたころには大我も起きていた。夜歌を起こしたら、同じ布団の兎菜さんも起きた。
昨日の残りのビーフカレーを食べて、僕らは出発する。兎菜さんは駅までついてくる。兎菜さんの大学の講義はちょうど午後からのようで、問題ないそうだ。
「まあ、今日ちょっと集中できるかわかんないけど」
駅のホームで夜歌と兎菜さんは抱き合う。また兎菜さんは泣き始めるけれど、夜歌に頭を撫でられているうちに落ち着く。兎菜さんは僕と大我にいう。
「夜歌のこと、よろしくね。ちゃんと幸せなまま、……死ねるようにしてね」
「わかりました」
「頼まれるまでもねえな」
それから、夜歌と兎菜さんのふたりで写真を何枚か撮って、僕らも含めた四人で二枚撮る。写真を送ってもらえるように連絡先を交換する。それが済むと、夜歌は兎菜さんにいった。
「昨日のお願い、覚えてる?」
「……うん」
「約束してくれる?」
「できない。だって、あたしも突然、病気で死んじゃうかもしれないし」
「兎菜。わたしが約束してほしいっていうときは、絶対に守ってほしいわけじゃないよ。ただ、約束を守りたいと思ってくれてるかどうか、知りたいだけなんだよ」
「……知らなかった。中学のときからそうだったの?」
「うん。でも、言語化できるようになったのは最近くらいから」
「ほかに夜歌が言語化できるようになったこと教えて。列車が来るまでずっと教えて。そしたら、……約束できる」
列車が来たとき、夜歌はまだ教えているところだった。夜歌は中学生のときにたくさん思って、考えて、それを表す言葉を探しながら高校生になり、大学生になったのだと僕は知った。発車時刻ギリギリまで教えて、それから兎菜さんにいわれて列車に乗った。
「ありがとう。夜歌のこと、これできっと、たくさん覚えていられる。ゆっくり忘れていくけれど、全部を忘れちゃうまで時間を稼げる。少なくとも、夜歌のこと全部忘れるまでは死なない。ちゃんと生きてるって約束する」
「嬉しい」
「それじゃ、ばいばい、夜歌」
「うん。ばいばい、兎菜」
車窓の向こうの兎菜さんに向けて、夜歌は手を振った。見えなくなっても、しばらく、腕が痛くなるまで振っていた。
僕らの地元に戻ると、三人で通っている大学に向かった。
二限目にはギリギリ間に合った。必修科目ではなく単純な興味で履修している講義で、今回も興味深い内容だった。大学にも病院から連絡がされていたのだろう、教授は夜歌が教室にいることに驚いていた。僕と大我がいることにも驚いた様子だった。だいたいの大学生は自分か知り合いがこういうことになったら大学なんかには行かないものなのだろうけれど、本当に面白がるために取った講義だから最後に受けたかったのだと夜歌が伝えると、教授は少し嬉しそうだった。
二限目が終わり、学食に行った。夜歌はこれを最後の学食とするつもりだったから心底悩んでいたけれど、最終的に、もしもあまったら僕らが食べるから、と約束をしてあげるとA定食からF定食まですべて頼んだ。
全部ひとりで食べきった。
「さすがにお腹苦しいかもー」
とひと息つく夜歌を横目に、僕と大我は学食のラーメンを待っていた。
「逆に、よく普段は一食ずつで我慢できるよな。大盛りとはいえ」
と大我がいうと、
「だってあんまり食べ過ぎると午後が眠くなっちゃうし、お金もかかるからさあ。今日はもう全部サボるし、死ぬ前に銀行のお金使い切るつもりだからいいけど」
だからふたりの食事代もわたしがオゴだぜー、と夜歌はいう。
「そりゃいいけど。そういやお前、高校のときもよく午後寝てたよな。よだれ垂らして」
「いわないでそういうの。高校時代は、お祖母ちゃんがいっぱい煮物作ってくれたから、いっぱい食べてたもん」
「……そういや、よ。夜歌は、祖母さんと、親父とお袋の墓参りとかは、しねえの?」
「それも考えたけど、どうせすぐ同じお墓に入るわけだから、生きてる時間を謳歌するのに全力出してこうと思った」
「はぁん。ま、夜歌の人生だからな」
夜歌は高校時代は祖母の家に住んで養われていたが、大学受験に合格した次の日にその祖母は持病で亡くなってしまった。七十八歳。凛としたところも柔和なところもある、素敵なお婆さんだった。
大学の費用は生前から貯金されていたから、金銭面は夜歌がアルバイトで生活費を稼ぐだけでよかったが、夜歌のお祖父さんも夜歌が小学生のころには亡くなっていたから、家には夜歌しかいなくなってしまった。
その寂しさを解消したいということと、夜歌を独り暮らしさせるのは色々と危ないと僕が思ったことと、大我が高校卒業とともに実家から追い出されることが決定した事情から、大学進学後はマンションの一室を借りて、夜歌と大我と僕で暮らしている。
「希、全然喋らないけど……どうしたの? 考えごと?」
「いや……夜歌がいなくなったら」亡くなったら。「大学も家も、寂しくなりそうだと思って」
「あ、そっか。そうだよね、……それはどうにもできないや。ごめんね」
「いや、いいよ。どうにかするから」
「……なんだか、わたし、気になることとか色々、どうにかしてもらってばっかりだ。本当に、大我と希がいなかったらわたし、もっと早く死んでたかも。ありがとう」
夜歌はそういって笑った。悲しそうだったし、幸せそうだった。
食休みを終えると、僕らは大学の中庭や、屋上、部室棟なんかを眺めて回った。夜歌はどれも目に焼き付けるように見つめていた。図書館に行って、夜歌の気になる本を僕の学生証で借りた。移動中とかに読むとのことだった。
どこに行っても、どこまで行っても夜歌と一緒に歩いた場所だった。大我と一緒に歩いた道だった。僕ら三人はずっと一緒にいたのだ、と思った。そしてそれはもうすぐ終わる。終わった後も僕の人生は続くし大我の人生だって続く。夜歌という夢を喪って、僕らはどうなるのだろう?
そんなことを考えてばかりの僕の隣で夜歌はいう。
「誰かに合わせて進学先を決めるなんて、ってよくいうけどさ。少なくとも、わたしの場合はこれで正解だったよ絶対」
「違えよ」大我はいう。「俺の場合も大正解だ。お前がいなきゃ、そもそも進路なんざ、決める意味もなかったんだ」
それについては僕も心から同意するけれど、それはそれとして大我は何を考えているのだろう、と僕は思う。大我は、待ち受ける夜歌の喪失をどう捉えているのだろうか?
一度家に帰って荷物を減らし、炊飯器に米をセットしてから、今度は恋川高校に向かった。放課後の時間帯だった。来校者用の玄関を通って、事務室に向かった。この訪問のアポイントメントも一昨日に取ったものだ。待っていてくれた洲貝先生は僕らを見ると寂しそうに笑った。三人ともよくお世話になったから、予定通りに顔を見せられてよかった。
「三人とも、いくらか大人っぽくなられましたね」洲貝先生はそういうと、夜歌のほうを向く。「月待さんはすごく元気な子だったのに、……このようなことになるなんて思ってもみませんでした」
月待。
月待夜歌。
「わたしも驚きです。でも、元気なのは変わんないんですよー! 不思議ですよね!」
「……そうみたいですね」
だからこそ、と洲貝先生は言いたそうだった。
「星乃くんは物腰に変わりありませんが、顔つきが少し変わりましたね」いいながら洲貝先生は僕を見る。
星乃希。
「そうですか?」
「ええ。高校時代よりもなんだか、余裕がある感じです」
「当時も、落ち着いているなんてよくいわれましたけれど。やっぱり僕なりに不安定なところがあったと、いまは思います」
当時。僕は夜歌が好きで、大我とは友人でも恋敵でもある妙な関係性になっていた。夜歌はあくまでも友人として、僕とも大我とも誘われればふたりで遊びに行ったり食事をしたりするタイプだった。
だから僕は密かに焦りや嫉妬を抱えていたけれど、それをやるべきことや他者へのふるまいに出さないでいられるくらいのコントロールはできていた。それゆえに、ため込んでしまったこともあったけれど。
三人での交際が始まった直後も、偏見を投げかけられたり大我にどこか不安定なところがあったりと大変だった。大学に入ってからは、慣れに加えて高校よりは同学年との距離が遠いこともあってリラックスができているのかもしれない。
卒業から二年くらいしか経っていないのに、色々な感情が懐かしい。
「一番、雰囲気が変わったのは潮来くんでしょうか」と、洲貝先生は大我にいう。
潮来大我。
「すっかり顔つきから険が取れましたね。三年生のころには不良を辞めて校則も守るようになりましたが、周囲への警戒や威嚇はまだあったように思えます」
「……あんときは、夜歌と希しか信用してなかったからな。いまは、周りなんかどうでもいいって思うようになったよ」
「素敵ですね」洲貝先生は笑う。「周囲を無理に好きになる必要はありませんけれど、敵意を振りまいていい理由も、またありません。だから、潮来くん、それでよいと思います。でも、この世界のどこかには、他にも潮来くんにとって信用できる人がきっといるということは、信じなくてもいいですから、どうか覚えておいてください」
僕らは高校時代に使ってきた教室を覗いてみて、一年生のころの教室には誰もいなかったから、先生と一緒に入った。洲貝先生は一年生のときの担任で、四人でいるとひどく懐かしかった。
「なんかさ、一年生のころ、いま思うと奇跡みたいなこといっぱい起こったよね」と夜歌は笑う。「三人とも同じクラスで、三人とも同じ体育委員会に手を挙げちゃって」
「あれはびっくりしたね。大丈夫かなって」
「俺が夜歌にも希にもムカついてた時期だからな。最悪だと思ったよ」
「いやー……希と大我がちょくちょく喧嘩しててはらはらしたよ。でも、一回わたしがしばらく病欠したあと、ちょっと打ち解けてたよね? びっくりした」
「大我、サボれない状況になってみると意外と真面目に働くんだって気づいて。僕が思ってたよりどうしようもない人間じゃないのかなって思ったんだ」
「おいちょっと待て。どうしようもない人間だと思ってたのかてめえ」
といいつつ大我は笑っていて、やっぱりあのころよりはずっと丸くなったな、と思う。当時だったらもっとガンつけられてたはずだ。……というか、この世のすべてにガンつけながら委員会仕事をサボる不良を、どうしようもない人間だと思うなというほうが無茶である。
僕らはそれから、三人で体育倉庫に閉じ込められたことや、紆余曲折あって僕と大我と夜歌を主演とした劇を文化祭でやったこと、歌が下手で夜歌につきっきりで指導してもらっていた大我に僕は焦っていたということ、夜歌が骨折して僕が校内外問わず支えていたとき密かに大我から嫉妬されていたらしいこと、夜歌の成績が本当にやばくて僕が英語と歴史と地理を大我が物理と生物と数学を教えて無事に進級できたこと、七夕やクリスマス、バレンタインやホワイトデーのことなんかを話した。一年間のことだけでも、どれも印象的で鮮明に覚えていた。
あのころは、何もわかっていないのにわかっている気がして、何かわかっているくせにわかっていないふりをして、どうすればいいかもどうしたらいいかも不安定で、どうしたくないのかもどうなりたくないのかも不明瞭だった。
そんな僕らが、ぶつかりながらも仲よくここまでこれたのは、夜歌が仲裁をしてくれていたこともあるだろうけれど、たまに洲貝先生がくれた助言の力も大きいと思う。
「洲貝先生には、本当に色々なことを教えていただき、導いていただきました」横で聞いていた洲貝先生に、僕はいった。「本当に……ありがとうございます」
「いいんです、お礼なんて。私も生徒から気づかされ、教えられることばかりですから。……私はただ、生徒が人の道を踏み外さず、望まざる孤独に包まれずにいられるように、必死なだけなんです。だから、こうして三人が進学をして、仲違いすることなく、一緒にいて……」
そこで洲貝先生は口を噤んだ。
いいたい言葉はわかるし、いえない理由もわかる。
視線の先の夜歌はいう。
「わたしはずっと幸せだよ、先生。だった、じゃなくて。だって、希と大我のくれた幸せも、先生のくれた幸せも持って死ねるもん。先生のこと忘れないよ。忘れたくないくらい、大切なこといっぱい教えてもらったから」
ありがとうございました。
夜歌が頭を下げると、洲貝先生は目に涙を浮かべる。
「いいんです。私のことなんて、忘れたって。もっと大事な人の思い出をしっかり抱きしめて……抱きしめて……」
「ごめんね、先生。わたし欲ばりだから! 本当に欲しい思い出はぜーんぶ、無理矢理にでも押し込んで持っていくから!」
夜歌は洲貝先生を抱きしめた。洲貝先生は、生徒に抱きしめられたことなんてないのか、戸惑いながら抱き返した。生徒と教師ではなく、同性の対等な友達同士のようにすら見えた。
落ち着いたタイミングで、二年生の階にも入ってみるが、そちらは部活に使われていた。三年生の階もそうだった。わがままのいいようもないので、そのあたりは諦めることにした。少し覗いてみるだけでも、案外ちょっと懐かしく感じるものだったし――それにまあ、二年生のころの出来事は、恩師の前で語るには色々と恥ずかしい気もする。その色々があったからこそ、三人で付き合うということになったのには違いないけれど。
欲ばり。
そう、堂々といえるようになったのも成長というべきだろうか……と、《ふたりとも同じくらい好き》という自分の答えに思春期の心をないまぜにされていた夜歌のことを考えると、思わざるをえない。
「どうしたの、希」
横顔を見つめる僕に夜歌はいう。
「いや。大人になったな、って」
「うん。三人で一緒に大人になれたね」
それだけでもめっけもの、なんてさすがにいえないけれど。僕だって欲ばりだから。
行きは歩いて高校に向かったけれど、帰りはバスだった。駅までのバスに、他の生徒たちに混ざって乗車した。男子制服も女子制服も懐かしい。それに、僕らはまだ大学二年生なのに高校生たちの顔が幼く見えてしまうのは気のせいだろうか? 僕らもこんなに幼い雰囲気を纏っていたのだろうか? わからない。でも少なくとも、あのころの僕らも同じようにこの制服に身を包み、同じようにこのバスにいたのだ。
記憶は場所に宿る。記憶は光景にも宿る。僕は兎菜さんのいっていたことを思い出す。考えたことを思い出す。どうしても夜歌のことを忘れていくとしても、夜歌そのものと触れ合って覚え直すということができなくなるとしても、僕はまだ、たくさん思い出せる。忘れていくことに対して、記憶が喪われていってしまうことに関して、完璧になす術なしってわけではないはずだ。
そうだ。写真だってある。動画だって、いままで時折撮ってきた。ラブレターを書きあってみたこともあった。夜歌に教えてもらったこと、夜歌と一緒に始めたこと、夜歌と力を合わせて組み立てた家具だってある。色んなところに夜歌は残っていて、僕らはそれに触れればいつだって様々なことを思い出せる。
幸せも不運も、喜びも悲しみも、愛も恋も、頭のなかだけのものじゃない。人が生きるということは誰かのなかの世界に大小正負問わない痕跡を刻み残していくことで、夜歌は本当にたくさん、僕の世界に残してきてくれていた。
きっと僕は大丈夫だ。大我も大丈夫なのかもしれない。
それはそれとして、念のためもう少し残しておいたほうがいいと思った僕は、三人でよく行く大きな公園で動画を撮ることにした。いまこのときの夜歌がただ遊んで、ただ笑っているところを収めておこうと思った。
「わ、カメラふたつもあるのちょっとビビるー」といいながら僕と大我の向けるスマートフォンのカメラにそれぞれウインクと投げキッスを送る夜歌。のっけからサービス精神全開で笑うが、くるくる踊ってロングスカートをはためかせてくれる彼女には見とれてしまった。
「ひとりで間を持たすのきついよー、どっちか一緒に遊ぼ?」
と夜歌がいうので、僕と大我はじゃんけんをした。大我が勝ったので、僕は大我と夜歌がテニスをする様を撮った。いくつか遊び道具は用意してきていたのだ。
結構な熱戦を撮ることができて、少し目的とはずれるけれど夜歌が元気に生きていた証だからいいか、と思った。それから大我と交代し、僕と夜歌はお互いにグローブをはめてキャッチボールをした。子供のころによくやっていたことだった。そのころから僕は夜歌が好きだったな、と懐かしい気持ちになる。
……ちなみにあのころのように花冠も作りあってみようと思ったけれど、念のため調べてみると公園の花を摘むのは犯罪にあたるとのことだったのでそれはやめておいた。寂しいが、寿命が近いからといって何してもいいってわけじゃない、というのは夜歌も考えていることなのだ。
で、夜歌が疲れると、今度は夜歌が僕と大我の遊ぶ姿を撮りたいといいだす。
冗談かと思いきや本気だったようで、夜歌は僕のスマホを借りてカメラを向けてくる。
「おいおい、誰得だよ」
「わたし得だよ? ふたりが楽しそうにしてるの見るの幸せだもん。大好きなふたりだから。それに、そういえばふたりだけの動画って撮ったことないなあって思って。心残りはないほうがいいでしょ?」
夜歌にそう微笑まれたら遊ばないわけにはいかなかった。
別に仲が悪いわけでもないのだし。
そんな風に過ごしていると日が暮れていき、切り上げて家に帰る。家で晩ごはんを作って食べる。僕の作ったビーフシチューを夜歌は嬉しそうに食べてくれる。三杯目を所望する夜歌を制して、大我の作ったケーキが運び込まれるのを待つ。
ホールケーキの六割を夜歌が持っていき、残り二割ずつを僕と大我で分ける。本当は全部あげてしまってもよかったけれど、みんなで食べている感じ、というのも大切だと思うから。
食後、三人でお風呂に入って三人で眠る。明日も明日で色々と予定がある。
明日。明日で、五日目だ。七日目には夜歌は死ぬ。七日目の、具体的にいつ死んでしまうのかは個人差が大きく、推定することは困難だという。夜歌がふっと、なんでもないタイミングで死んでしまうとき、僕らはきちんと傍にいるだろうか。
五日目。また朝早くから起きて、昨日のビーフシチューの残りを食べて、駅に向かう。
今日の予定は、朝に動物園、昼に水族館、夜に遊園地。計算上は可能、みたいなスケジューリングだけれども、だからこそ全力でこなす一日を過ごしてみたいというのが夜歌の希望だった。
動物園は大学一年生の遠足の行先だった。でもそのときは夜歌が高熱で休んで、僕と大我も看病がしたくて休んだのである。だからそこのリベンジ的な意味合いもあって、開園時間直後から気合い十分に臨んだ。
結果としては、普段通りにどこか気怠そうだった大我が、動物を前にして一番はしゃいでいた。というか、大我オンステージだった。高校生のころから知っていたことではあったが、大我ははちゃめちゃに生物好きなのだ。生物のテストで当たり前のように百点を叩き出すタイプだった、そういえば――どれだけ頑張って勉強しているのかと訊いたら、面白がってたらいつの間にか勉強になってたんだよ、と答えられたことがある。
なんでその生物愛の深さで人間に対しては乱暴だったんだよお前は、と訊いたら、動物は見かけで判断してこねえから、と返された。
大我は夜歌の質問にずばずばと答える。夜歌は明かされる生態にときめいているのか大我の薀蓄の深さにときめいているのかわからないが、目をきらきらさせながら聞いている。僕と繋いでいる左手の振り回しようからも察せられる。
僕はとりあえず動物たちの写真を撮ったり夜歌と動物のツーショットを撮ったりする、カメラ係をやる。
夜歌は色々なことを訊くけれど、どの動物に対しても一貫して、
「それでこの子は寿命どれくらいなんだろう?」
という質問を入れていた。大我はそれにすら即答だった。
だんだん、
「あ、この子は」「飼育下なら三十年から五十年くらいだな」
くらいのテンポになっていくのが阿吽の呼吸という感じだ。
そんな風に動物園を回りきる。ずっと喋り続けていた大我は途中から声が嗄れてきていたが、それでも夜歌のためか自分のためか解説し倒していた。そのご褒美とばかりに膝枕をする夜歌と甘える大我に、僕は缶ジュースを持っていく。
「ありがと、希。いっぱいいたね、動物。大我、たくさん教えてくれてありがと」
「俺も久々に語れて楽しかった。でも、もっとじっくり観たくもあったかもな。もう一周するか?」
「いいね。お昼まで動物園しゃぶり尽くそう」
それで結局もう二周ほどして、昼ごろに寿司を食べる。これから水族館に行くのにいいのだろうかと思ったが、行ってからよりも食べやすいじゃん、と夜歌はいった。
「回らないほうの寿司じゃなくて本当によかった?」
「回転寿司のほうが楽しいでしょ、だってお寿司が向こうからやってくるんだよ」
たらふく食べて水族館へ。水族館については高校三年生のとき、受験の気晴らしに三人で行ったことがあった。そのときの水族館が休業中だったため違う水族館に行くことになっていて、そうはいっても水族館ならどこも素敵なものだろうと思っていた。
でもどうやらそんなことはないらしかった。
「……ひでえ管理」
大我が眉を顰めるのも無理はないくらい、水槽のなかは魚の死体ばかりだった。悪趣味な催しなのかと思うほど、色んな水槽で色んな魚が死んでいた。管理がされていないからなのだろう、水も汚く濁っていて、人間に浴びせるための青い光だけが空虚なほど美しかった。
「気分悪い。ここ出ようぜ」
「そうだね。夜歌も――」
「いい。ここにいる」夜歌はいった。「ごめんね。先に出てていいよ」
「……一応訊くけど、なんで?」
「生きてる姿も死んでる姿もひとしく魚の姿だもの」
それはまあ、そうかもしれないけれど。それでも、死んでいる姿を見に来たわけではないだろうと僕は思う。それとも、死んでいる姿も見に来たのだろうか? 夜歌は?
「夜歌がいるなら、僕も残るよ」
「そっか。付き合わせてごめんね」
「俺は入口のところで待ってる」
「うん。無理しないでいいからね」
大我は本当に生き物が好きなんだろう。体調が悪そうに思えた。……こういう状況で、夜歌が我を通すのも珍しい。
「夜歌。何を考えてるの?」
「魚って死ぬんだ、こんな風に、こんな顔で死ぬんだ、って」唱えるようにいう。「わたしね、魚を飼ったり教室の水槽に目を向けたり、したことなかったんだ」
「……あんまり、死に、自分から近づかないほうがいい」
僕は夜歌の手を握った。水槽の向こうに行ってしまいそうな気がした。
「だって死のほうから近づいてきてるんだもん。よくいうでしょ、深淵を覗いてくる者は覗き返してやれって」
「深淵サイドなのか夜歌……」
「女の子は深淵ですよ? まあ男の子もそうなんだろうけど」
夜歌はそういって微笑む。死にだらけの水槽を背にして。
「とはいえ、長居しすぎかも。あんまり大我を待たせちゃ駄目だし、出よ」
「……うん」
その帰り道でも夜歌は水槽に目を向けていた。クラゲも死んでいた。
大我は入口でスマートフォンをいじっていた。
「お待たせ。本当にごめんね大我」
「近くにレビューのいい水族館がある。後味悪いからそこに行くぞ」
「はーい」
僕らは二駅ぶん移動する。ちょうど遊園地の方向だったから問題のない寄り道だ。
今度の水族館はきちんと管理がされているのだろう、綺麗な水で水族たちが活き活きと泳いでいた。癒しを求めるように水槽に吸いつく大我が可笑しくもあり切なくもあった。夜歌は生きている魚を前にしても楽しそうに観ていた。僕も僕なりにショックだったんだろうか、穏やかに揺蕩うクラゲを眺めていると嬉しいような、心が洗われるような気持ちになる。
予定ギリギリまで満喫して、三人でおそろいのストラップを買う。
遊園地に着くころには夕方で、チケットと一緒に予約した付近のホテルに入る。遊園地に入ると平日なのもあってか予想していたよりは人が少なく、あんまり長く並ばなくて済みそうだった。
まず夕ごはん、として夜歌はポップコーンやらチュロスやらケバブやらを次々に買って美味しそうに食べていく。僕が口元を拭き大我が頭を撫でているとまるで保護者のようだが、そうではなく夜歌がいつもより幼くはしゃいでいるのだ。
「遊園地楽しいね!」
「まだ飯しか食ってねえだろ」
苦笑する大我。僕は、高校生のときもそんなことをいっていたな、と懐かしい。
僕と大我も食事を済ませて、三人でアトラクションを楽しむことにする。とりあえず夜歌に訊いてみると、
「ジェットコースター行きたい!」
というので並びに行く。とはいえ僕は宙返りのような構造のジェットコースターが苦手なので、大我と夜歌だけで並んで乗る。乗り込む際、手を振るふたりに遠くから振り返しつつ、あんな恐ろしい構造のジェットコースターを最初に作って他人を乗せようと思った人間怖すぎるだろ、などと思っていた。
見知らぬ乗客の絶叫のなかに、夜歌の悲鳴が聞こえる。大我の声も聞こえた気がする。子供の振り回すおもちゃのように乱雑に高速移動を繰り返し、やがてコースターは元の位置に戻ってくる。
「楽しかった! やっぱ最高だね」
「結構よかったな。もういっぺん行こうぜ」
と信じられないことをいいながら。
「もう一回かあ。それもいいけど」夜歌は観覧車を指さす。「夕陽が出てるうちに観覧車やっときたいかも」
で、平等を期すということで今度は僕と夜歌のふたりで乗ることになる。向かい合って、日差しを浴びながら座る。
「やっぱり晴れ女なのかねえ」と夜歌。「ずっと晴れてて嬉しい」
「昔から台風とか吹き飛ばすタイプだよね。絶対無理って流れでも当日になると晴れてる」
「ふふ。前にここ来たときも、そういえばそうだったね」
前に。高校二年生のときに。『三美華』と呼ばれるうちのひとりだった先輩からペアチケットをもらって、僕が勇気を出して誘ったとき。そのときはまだ初夏で雨も多くて、予報からして絶望的だった。でも、夜歌が絶対晴れるといって、本当に晴れたのだった。
「あのときも一緒に観覧車に乗ったよね」と僕はいう。「それで、一番上で止まっちゃって」
「そうそう! すごくびっくりした。それでなんだっけ、わたしが落ち着けるようにキスしてきたっけ希」
「いや、あれは普通に抱きしめるくらいにする気だったんだけど、僕も慌ててて滑ったんだって」
「あ、そっか。そうだね。事故チューだった、初キス。えへへ。いまから思うとそんな経緯で、歯がぶつかんなくてよかったよね」
「いま思うとね」僕は苦笑する。そして続ける。「当時はどう思ってた?」
「え。……訊いちゃう?」
「訊いちゃう訊いちゃう」
「んとね、まあ思春期だし、予想外だったし、混乱しつつドキドキしたよー。たぶん……そこから意識し始めた」
「あ、そこからだったんだ。アクシデント様々だね」
「ラッキースケベってやつだね」
「それはちょっと違う気がするけれど……」
でも、ラッキーではあったのだろうか。わからない。当時の僕は、こんな形じゃなくてちゃんと順序を大事にしたかったとか、嫌われてしまったんじゃないかとか、本気で悩んでいた。結果としてよい方向に転がったけれど、そのときの僕にとってはアンラッキーだったんじゃないだろうか? 夜歌とキスができればいいってものじゃなくて、キスをしても受け入れてもらえる幸福な距離感の構築をこそ望んでいたのだし。
……不運だからって悪い方向に転がるとは限らない、のだろうか。いい出来事が必ずしもいい結末に発展しないように、悪い出来事もまた、必ずしも悪い結末に発展するわけではないということだろうか。
「あ、てっぺんかな」と夜歌。「見て、綺麗だよ」
遊園地の立地上、遠くに水平線が見える。それが沈みゆく夕陽の光を、その温かさごと反射していた。見とれる夜歌の瞳も、優しい陽光を蓄えて煌めいていた。光に透ける髪も、睫毛も、美しかった。
僕は夜歌の頬にキスをした。夜歌は僕の唇にキスを返した。唇を交わしながら甘え合っているうちに、いつの間にか観覧車は一番下まで着いていた。いそいそと降りると、大我は夜歌を抱きしめて、長いキスをひとつした。周囲の人が見ていたけれど、お構いなしのようだった。
キスを終えると、夜歌がいった。「大丈夫だよ、大我のこと希と同じくらい大好きだよ」
「……別に妬いてない」
それからふたりは軽いキスをひとつした。三人で手を繋いで、ほかのアトラクションを回った。メリーゴーラウンド、お化け屋敷、単純に遊園地としての景色を楽しむ散歩などをしているうちに夜になり、閉園時間がやってきた。
ホテルの部屋に戻る。三人でお風呂に入る。裸のままでベッドに行く。
温もりもその柔らかさも声色も、そのときがきたら消えるものだ。僕は噛みしめるように、僕の神経の根底に刻みつけるように、夜歌の香りを、熱を、慈しみを捉えた。
愛情にまどろんでいるうちに日付が変わっていた。液晶の示す日時を見て、夜歌が、
「残り二日だ」
と呟いた。
六日目。今日を含めて残り二日。七日目になれば、夜歌の心臓はその日のうちに停まってしまう。
「あと二日で」
夜歌はいう。
「あと二日でわたしは」
言葉はそこで途切れる。
代わりに歯がぶつかる音がした。
「夜歌? ……夜歌!」
大我が先に夜歌を抱きしめる。僕もそれに続く。夜歌の身体はがたがたと、がくがくと、がちがちと、振動している。唇は歯のぶつかる音と浅い呼吸を吐き出し続ける。冬のように震えながら、夏のように汗ばんでいる。僕は夜歌が静かに泣き始めるのを見る。
「ごめん」夜歌はいう。「たぶん、こわい」
「……そりゃ、怖いだろ。死ぬのは、怖いよな」と大我はいう。
「こわいこわいこわいこわい」夜歌は繰り返す。「こわい」
僕は、大丈夫だよ、といおうとしてやめる。大丈夫なわけがないのだ。死んでしまうのだから、何も大丈夫じゃないのだ。余計なことはいわず、ただ、強く抱きしめる。温めれば、その震えを止められるんじゃないかと少しだけ期待している。
「ごめん。急に、全部、怖くて、ごめん」震えながら夜歌はいう。「全部、怖くなっちゃって」
「僕らに謝らなくていい。誰にも謝らなくていい。夜歌が謝ることなんてなんにもない」それから僕はいう。「愛してるよ、夜歌。夜歌が死んでも、僕は夜歌を愛してるよ」
「俺もだ」大我はそういって夜歌の髪を撫でる。「俺も夜歌を愛してる。いつまでも」
「ありがとう。わたしも、ふたりのこと、愛してる」夜歌は洟をすすりながら返す。「でもね、愛してるから、怖い。愛してるから、寂しくて、悲しくて、寒くて」
僕らはそれをどうすることができるだろうか? 僕らも寂しくて悲しくて寒いよというべきだろうか? 違う。そうじゃなくて。もっと前を向けるように、少しでも夜歌の気持ちを温められるように、何をいうべきだろうか。
違う。言葉を贈るだけじゃ、きっと駄目だ。
未来への気持ちを温めるものは、いつだって約束だ。
「……夜歌が死んでからも、少しでも温かくいられるように、ちょっとでも寂しさがなくなるように。残り二日間全力で、幸せにする」
僕は誓う。
「君が死んでいくら経っても、忘れきれない愛を注ぐよ」
「そんなのわかんないじゃん!」夜歌は叫んだ。「わかんないじゃん。わかんないでしょ。わかんないよ」
「約束する。ねえ夜歌、僕らが約束を破ったことある?」
といいながら、いやこれ違うな、と察している自分がいる。
なんだか、根本から、ずれている気がする。
「違う」夜歌もいう。「そうじゃない。希も大我も、たくさん愛してめいっぱい幸せにしてくれるって、知ってる。でも、でもさあ、わたしはさあ、本当に思い出を持っていけるのか、急に、わかんなくなっちゃった」
人は死んだら思い出と気持ちだけになるって、お祖母ちゃんがいってた。わたしに大我と希がくれた幸せな思い出と、わたしが大我と希のこと大好きって気持ちを持っていける。だからわたし、死んでも大丈夫だよ。
信じて唱えてきたそれに、前提としてきた死生観に、疑いを持ち始めた。
「だってさあ、わかんないじゃん。思い出と気持ちだけになれるかどうかなんて、本当のところなんて誰にもわかんないじゃん。お祖母ちゃんだって死んだことあったわけでも、幽霊と話したことあるわけでもなかった。じゃあ、そんなの、根拠、ないじゃん」
「夜歌」
「死んだら、何もなくなっちゃうかもしれない。魂ごと死んで、なんにもならないかもしれない。愛されたことも、愛してたことも、教えられたことも、悲しまれたことも、死んだ瞬間に、忘れてしまうかもしれない。データを消すみたいに、ぱちんって消えて、どこにもなくなっちゃうかもしれない。ごめん、こんなこといっちゃ駄目なんだけど、いっぱいくれたから、全部、ぱっとなくなっちゃうのが、怖くて、寂しくて、寒くて、悲しくて、痛くて、苦しくて、大我と希を、遺していくのだって、申し訳、なくて、わたし、わたしは、わたし」
夜歌は途中で立ち上がって、僕らを振りほどいて、裸のままトイレに駆け込む。どうして、と思う間もなく嘔吐の音が聞こえてくる。
僕と大我は服を着て、夜歌の服を持ってトイレの前に行く。
「夜歌、開けていい?」
返事がない。僕は、夜歌がなんらかの方法で自死を選んでいたらどうしよう、と青ざめる。タイムリミットを待つくらいなら自分で、と考えてしまったとしたら。
鍵はかかっていなかったから容易に開いた。夜歌は生きていて、でも全部なくしたみたいな顔で、便器のなかの吐瀉物を見つめていた。僕は無気力な夜歌の代わりにレバーを引いて流す。いつまでも見ているべきものではない。
便器にうつぶせにもたれかかる夜歌の、綺麗な背中をひとまず服で覆う。風邪でも引いてしまったら、残り二日を無駄にしてしまうかもしれない。
「夜歌」
「……ごめん。ちょっと、放っておいてください」
「わかった。服は着てね」
ドアは開けっ放しにしておいて、僕と大我はベッドに戻る。夜歌がそういうなら、本当に一度ひとりにしてあげるべきなのだと僕らはわかっていた。夜歌はそういうときに天邪鬼なことはいわないタイプだ。
これからどうしよう、と僕は思う。思い出を増やしていく意義はあるだろうか。夜歌は、それを心から楽しめるだろうか。あるいは、ずっと心から楽しめてなんていなかったんだろうか、と考えてみるけれど、あまりにも悲しすぎるからその可能性は除きたかった。
哀しみを除けるのなら、夜歌の死そのものを除きたいものだけれど。
三十分後、服を着てふらりと出て来た夜歌は、開口一番に
「飲み行かない? ちょっと酔いたい」
と誘ってきた。深夜の一時だった。寝ていた大我は目を覚まして、
「いいぜ」
といった。僕はもう少し検討する気だったが、とはいえ問題なんてそろそろ僕が眠いくらいのことだったので、大人しく了承する。
調べてみるとタクシーで三十分くらいの距離に二十四時間営業の焼肉店がある。夜歌はお腹も空いているみたいで、そうと決まると少しはしゃぐように準備を始めた。空元気かもしれないけれど、元気に振る舞えるだけの元気は多少取り戻せたのかもしれない。
ホテルの前に呼んだタクシーに乗り込んで、店の名前を告げた。夜歌は、着くまで寝る、と僕に持たれかかってきた。泣き腫れた寝顔を眺めながら、僕も眠気を思い出してあくびをした。
「俺が起こすから希も寝ろ」と大我がいうので素直に甘えておく。おやすみなさい。
到着して三人でタクシー代を支払い、車を降りた夜歌が、
「さ、ヤケ酒しましょう」
と言い放つので僕も大我も笑う。正直だ。
じゃんじゃん肉を焼きながらビールも焼酎も飲んでいく夜歌。僕らもぐびぐび飲んでいく。肉が美味しい。美味しそうに食べる夜歌が楽しそうだ。お酒が進む。
「きゃはは」と酔ってるときの笑い方を夜歌がする。
「夜歌もう酔ってる。可愛い」
「おー? ありがたいねありがたいね。あーんしたげる」
夜歌がカルビを僕の口に放り込んでくれる。美味しい。
「きゃははは、希も可愛いよん」それから夜歌は僕にキスをして、僕の横で酔って寝てる大我にも人工呼吸みたいにキスをする。「大我も可愛いね。思うでしょ希」
「寝顔が実家の犬に似てる」
「きゃはははは! 犬って! あの子だよね、ゆらゆらちゃんだよね? あはははは! 元気なのあの子!」
「元気元気。そういえば一昨日、姪っ子に頬っぺたもちもちされてる動画が送られてきたよ。ほら」
動画を見せると夜歌はまた大笑いしながら大我の頬っぺたをむにむにとやり始める。大我は薄目を開けて、夜歌にじゃれつかれてると認識するや否やまた眠り始める。
そんなこんなで一万円ぶんくらい頼まれた肉をほとんど夜歌が食べ尽くすと、暑いといいだすので水を持ってくる。僕は割とお酒に強いけれど、まだ眠いのもあるのかぼうっとする気がする。
「夜風にあたりませんか」と夜歌がいう。「手」
夜歌の手を取って起き上がらせる。深夜の駐車場はがらんとしていて、風がよく通る。
「ねー。なんで夜歌なのかっていったっけ。名前」
「そういえば知らない。なんで?」
「ママがね、夜に歌いながら歩くのがこの世で一番好きなことだったの。田舎の広々としたところに住んでいたみたいでね。都会に引っ越してからも結婚してからもそれ変わんなくてね、パパの車で住宅街から離れたところまで行ってから歌ってたんだって。海辺とか」
「そうなんだ」
「そんでね、妊娠して、ママ、わたしのことちゃんと愛せるかなって不安になっちゃったんだって。だから、一番好きなことをわたしの名前にしたら、ひょっとしたら、夜に歌うことと同じくらいにはわたしのこと、愛せるかもって思ったんだって」
「……夜歌は、愛されてたと思う?」
「うん。めちゃくちゃ。きゃはは」それから夜歌はいう。「でもね、中学生のときにそれ聞いてちょっとショックだったかもー」
「なんで?」
「だってさー、なんか頑張って愛されてるのって嫌だったから。わたしが夜歌って名前じゃなくても普通に母親なら愛してよ、みたいな。わかんなかったんだよ、頑張ろうとすること自体、すでに愛じゃんって。てか、最近までわかんなかった」
「なんで最近、わかったの?」
「……なんでだと思う?」
「ええ……」
「きゃははは」
夜歌は悪戯っぽく笑って、僕の手をするりと抜けた。
「危ないよ」
「捕まえてみて」
ゆらゆらと駆け出す夜歌。
闇夜のなかで幻影のように彼女は踊っていた。本当に、夜の歌のようだった。僕は思わず見とれていた。……もしかしたら、アルコールのせいかもしれない。あるいは、いつもより遅くに起きているからかもしれない。やっぱりとても疲れていたのかもしれない。
気づけなかった、危険性に。気がつかなかった、可能性に。
気をつけられなかった――夜歌も僕も。
一刻も早く、手を取りに行くべきだったのに。
「あ」
夜歌は、転んだ。
不運にも、駐車場の縁石に躓いて。
不運にも、受け身を取ることができず、頭から地面に衝突した。
いまさらのように酔いは醒めた。
救急車。
後編につづく
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