始まらなかった物語

今迫直弥

始まらなかった物語

 あれは、三年前のことになる。

 当時の俺は、まだ高校二年生で、趣味として物語を書くという以外は、まあ一般的な部類に入る人間だった。もっとも、物語を書くのが趣味といっても、設定を考えては書き始めて序盤で挫折することの方が多く、まともな作品なんてほとんど書けちゃいない。今でもブラインドタッチが出来ないこの俺が、それほどの速さで文字をうてるわけがないし、そういう意味でも、物語を書くことが「趣味」以上になりえるはずもなく、当時は半ば本気で、大学受験をやめて作家になるんだと、そんなことを考えていたが、結局は若者にありがちな逃避に過ぎなかったわけだ。自分に文才があるのだと本気で思えていた時期が懐かしい。根気もなく、努力もなく、そのため途中で頓挫する。閃きと論理構成のみに頼ったあの頃の「創作」は、今読み返すと不思議と「クリエイティブ」ではなかったりする。わかりにくいかな。まあ、我ながら惚れ惚れするような設定がちりばめられていて、続きが読みたいと切に願いたくなるような作品もあるにはあるのだが。いや、こんなことを書いても自慢に聞こえるだけか。

 まあ、ともかく、当時の俺は、大体のところは皆が想像するような普通の人間だったといっていい。勉強の方がスポーツより得意な類の人間であることは覚えておいて欲しいが。

 で、だ。学校は夏休みに入り、塾などに全く縁のなかった俺は、日がな一日小説を書いて暮らしていた。それならそれで、バイトの一つでもしろよと文句も来そうだが、あいにくと、俺は不必要な時に不必要なことはやらないという徹底した主義を持っていたし、何より、そうして書いた小説で何かの賞でも取って、小説家になろうとしていたのだから、ある意味これは未来の自分のための投資である、と。この一年後、受験直前の夏休みにも、俺は同じことを考え、同じように暮らしていた。それで志望校に落ちて、後悔でもすれば、この性格も治るのだろうが、そこまで人生はわかりやすくなく、俺は受験に大成功して勝ち組に入る。

 ともかくも、俺は自室のノートパソコンに向かい、『岩田20001』というふざけた題名の、後から思えば唯一まともに完結させた長編小説を書いていたわけだ。キャスター付きの椅子に座り、部屋の隅に無理矢理置いてあるノートパソコン用の机に向かって、ドラゴンアッシュか何かのアルバムをかけながら、冷房の作り出す仮初の涼風の中で、それなりのハイペースで執筆を続けていた……と思う。意外と詳しい所まで覚えていないのだが、少なくともそれに近い状況にはあった。

 そして、これは忘れもしない、「視認」という単語をパソコンで変換できず(今打った時も変換出来ていない)、この言葉は小説でよく見る気がするが正しい言葉ではないのか、と真後ろの勉強机に置いてある広辞苑を引こうとした俺は、後ろ向きのままで、キャスター椅子を滑らせて移動した。移動しようとした。

 出来なかった。

 俺は昔から、キャスター椅子で後ろ向きに移動しようとした時、「もし何かに引っ掛かって動かなくて、そのまま椅子ごと体が後ろにひっくり返ったら後頭部を強打することになるから危険だな」とは思っていた。こういう、危機管理に対するいらぬ心配だけは達者で、よく、電車が橋を渡っている時に、「仮に今、橋が落ちて電車ごと川に落ちても、溺死しないで済む方法」とかを考えるのが俺だった。ちなみにこういう仮定を、あるところの専門用語では、杞憂という。

 俺が、キャスター椅子を後ろに滑らせた瞬間、そのキャスターの真後ろにその何かはあったのだ。その何かに引っ掛かって、椅子が後ろに進まなかったのだから、間違いない。その時点で引き返して、それを確認すればよかったのかもしれないが、俺は、絨毯の皺にぶつかったのだと思い込んでいた。それくらいのことはよくあるからだ。だから、俺は無理にその何かを乗り越えようとした。

 まあ、一応それは成功した。

 ただ、それを乗り越える時に、ぐしゃっと何かがつぶれるような音がしただけだ。

 わかるかな? こんな音を立てる絨毯を俺は見たことがない。そうなってようやく、俺はそれが絨毯の皺などではないことと、そこにあった何かを破損させたことに気付いたわけだ。ものすごく後悔した。何であろうと、物が壊れるのは嫌だ。

 思わず、

「あ、やべ」

 と、こう口走った。そして、慌てて、その壊してしまった何かを確認しようとする。迅速に、椅子から立ち上がって、振り返る。


 まず、その目に映ったのは、赤い色だった。


 血だ。


 一瞬、本当に一瞬、俺は自分の足を轢いてしまったのかと思った。だが、そんなわけはない。それなら、「あ、やべ」とか言っている以前に、「痛」とか何か、リアクションをとる筈だ。これだけ血が出れば痛そうだし。

 そして次には、飼っているハムスターを轢き殺したのかと思った。これは俺の中ではかなり有力だった。俺自身はあまり世話をしていなかったが、我が家ではハムスターを飼っている。俺の部屋ではなく、一階の居間で籠に入れられて、だが、おてんばな小動物がどうにかしてここまでやってきていて、俺の不注意で死ぬような構図は、あってもおかしくなさそうな気がした。

 だが、俺の予想は事実を掠りもしなかった。

 そこで血を流していたのは、俺の足でもなければ愛玩用の小動物でもなく、


 妖精だった。


 …………。

 ……いや、そんなに白けないでもらいたい。俺だって自分で書いていて、「それはねーだろ」と言いたくて仕方がないのだから。

 そもそも、あいつを妖精と呼ぶのは、それが一番あいつに近かったからであって、あいつが妖精である保証なんてどこにもない。ただ、造形が人間にそっくりで、身長が十五センチくらい、色白で、長い緑色の髪と蒼い瞳を持って、羽根の生えた可愛い顔の何かを見て、ぱっと妖精という単語が浮かんでくるのは、ファンタジーが好きな人なら普通のことだと思う。そうだろう? だからまあ、メルヘンチックなことに、そういう妖精風な存在がそこにいたのだ、とそう思っていてくれ。

 まさか、ここまで来て、うらやましいとか思ってるんじゃないだろうな?

 とんでもない。

 俺だって、そういう存在に出会ったら幸せだったろう。見るも無惨な姿でなければな。

 絨毯に広がっている血の量は、半端じゃなかった。その時点でわかるかもしれないが、その妖精は酷いありさまだった。猟奇殺人って言葉が、本当に怖いんだと気付いたのは、俺はあの瞬間からだ。

 描写して欲しいか? 俺はしたくないが、簡単に言うと、その時すでにその妖精は、俺の全体重のかかったキャスター椅子の下敷きとなり、絶命していたのだ。即死だな、たぶん。両腕は捻じ曲がって骨とかが飛び出していて、腹とかはどう考えても内臓が無事ではなさそうな様子で、原形をとどめていなかった。こう、両腕を下ろした姿勢のまま、腹の上をタイヤに横断されたんだな。赤く染まった感じの羽根は、くしゃくしゃに折れ曲がっていた。仰向けで、何故か目だけは虚ろながらうっすらと開いていたよ。唇から頬にかけて、細く血が流れていて、やたらと怖かった。でもこんな時に、俺の描写力が中途半端でよかったと思う。あれを忠実に伝えられる描写力には憧れるが、今あったら自己嫌悪に陥りそうだ。

 最初にそれを見たときの俺のリアクションがわかるかな。もう、ね。どうしようもないんだよ。気持ち悪くなって吐きそうになるとか、恐怖のあまり叫び出すとか、そういうことはなかった。意外と、真っ白になって暴走しそうになる頭を、理性とやらは押さえ込んでくれるらしく、自分自身の想像以上に、俺は冷静でいられた。しばらく、見つめあっていたな、その妖精の虚ろな瞳と。

 大体、これって何なのさ? 皆も、「もしも自分にこんなことが起こったら」ってちょっと想像してみてよ。皆、この妖精を、受け入れられるかね? いや、まあ、こういう妖精が飛んできて、「こんにちは、○○(名前)さん」とか言ってきたなら、一通り驚いた後、質問とかして、相手の存在を把握することが出来るよ。でも、俺の場合、登場した瞬間、死んでたわけだよ。てか、自分で殺してたわけだよ。そいつが何なのか、何のためにここに現れたのか、そういうことが全くわからないだろう? 事実を受け入れる以前に、大幅に欠如した何かがある気がしないか? そんな意味で怖かったよ。こいつは何なのか? 殺してしまって大丈夫だったのか? 何か、こいつの死をきっかけとして、壮大な冒険が始まったり、世界の崩壊が始まったり、そんなことが起こるんじゃないか? どんな杞憂だって、杞憂なんかじゃないと思えた。だって、誰一人として、自分のキャスター椅子に妖精が挟まれて死ぬことなんて考えてはいないだろう? そんな、小説以上に奇なる事実が存在してしまった以上、「この世界はつまらない。ファンタジーの世界が羨ましい」とか、これまで俺が思っていたそんなレベルの話を一気に超越して、俺はそちら側の人間になったってことじゃないか? 何が起こっても変じゃない、と本気で思った。

 だが、そのまま俺は待ちぼうけをくわされる。二十分経っても状況的に何の変化も訪れなかったのだ。もう、その時点で俺が考えていたのは、この妖精がいかに自分のことを評価しに来た存在なのか、という半ば妖精を殺してしまったこととは関係ない内容だった。

 具体的に言ってしまえばそれは妄想なわけだが、まあ聞いて欲しい。これでも、趣味で小説を書く人間として、一つの設定から幾つものパターンの話を膨らませるのは、職業病だと思っているのだから。


 仮定その一。

 自分は、異世界においては選ばれし勇者であり、悪しき敵と戦うために、その妖精の案内で世界を超える予定だった。そして、異世界で色々冒険した後、最後の敵の居城に入る直前に「もう二度と貴方の世界に戻れなくなりますが、それでもいいですか?」みたいな、つらい決断を迫られる。あまりのことに、勇者はそこで立ち尽くしてしまうが、世界を救うためだと割り切り、最後まで勇者であることを貫く。


 痛々しいな。実に痛々しい。仮にそうだとしたら、勇者の水先案内人である妖精が他界してしまったその世界は、近日中に悪に滅ぼされる気がするがどうか。まあ、勿論それ以前に、こんなことを考えていること自体が恥ずかしいわけだが。


 仮定その二。

 自分は、神に寵愛を受けている者であり、そんな自分を幸せにするために、天から使いが送られてきた。そして、俺はあくまでも「運命とは自分で切り開くものだ。幸福も、自分の手で掴み取る」というスタンスを崩さず、天から送られた妖精は、マスコット的な存在として自分の周囲をうろついて、逆にトラブルメーカーになったりする。


 俺の人格を疑うのは止めろ。一応、まともな人間でいるつもりではいる。第一、こんな青臭いスタンスを崩さないのは、小説の主人公だけであって、俺は長いものには巻かれたりするし、棚からぼたもち的な幸福だって大歓迎だ。


 仮定その三。

 妖精は、平行世界から次元障壁を突破し、追っ手を振り切ってこちらの世界にやって来た。そして、頼る者もなく、困っていた所に、「正義の味方」のみに反応するセンサーが俺を指し示し、助けを請うべく声をかける。事情を理解した俺は、協力を約束する。そして二人で、次々と現れる追っ手をかわし、逃げ行くうちに辿り着いたその先には、なんとも驚くべき真実が待っていた――


 悪い、もう止めるわ。自分で書いてきて泣きそうになってきた。まあ、ともかくこんなことを考えていたわけだ、当時の俺は。恥ずかしいことに、これらのことは日記に書いてあったよ。やれやれだ。

 ともかく、妖精が死んでいるという、それだけ考えれば、リアリティーはともかく悲しい出来事であるはずのその事実から、よくもまあこれだけポジティブな想像が引き出せたものだ。けれども、どの仮定においても、妖精が死んでいる時点で、早くも波乱の幕開けなわけだし、バッドエンドは確定に感じるし、そうなると今度は、こんな、悪いことをしそうにない奴を自分が殺してしまったという事実が、俺に重くのしかかってくるわけだ。

 罪悪感、という奴が俺を襲うんだ。

 これだけころころと感情が変わるのは、やっぱり精神的には不安定だったからなんだろうな。ようやく人間らしい対応が出来始めたとも言えるか。妖精の存在を安易に受け入れていながら、その死に関して頓着した様子のなかった俺は、色んな意味で酷い奴だと思う。

 だが、この罪悪感は俺を暫く苛み続ける。

 だって、考えてみて欲しい。俺は、喧嘩とかをするタイプの人間じゃない。痛みになんて慣れていないし、自分が傷つくことも、他人を傷つけることにも抵抗がある。当時の俺には殺してやりたい奴なんて山ほどいたが(いや、こういう年頃の人間は、社会とかに対する反抗心でいっぱいだからな、いるものなんだ、殺したい奴が)、それでも踏み切れなかったのは、「痛み」に対する恐怖があったからだと今の俺は思う。蚊やゴキブリを殺すことに躊躇いはなかったが、何となく連中は苦痛を感じていなさそうだったから、それはよしとする(案外、昆虫も神経系とか発達してるし、痛いのかもしれんが)。つまり、口では「ぶっ殺すぞ」という恫喝をたまに使ってしまっていたこの俺に、文字通り相手を殺す、または傷つける勇気(?)などなく、「チキン」と言われるか「それが普通だよ」と言われるかはよく知らんが、そんな俺が誰かを傷つけてしまった時、俺の中で、「とうとうやってやったぜ」という歪んだ達成感は生まれるだろうか、ということだ。長い上にわかりにくい質問だったが、答えは明白。否である。そういう者達は、大体他人を傷つけてしまった時、自分自身でも苦痛を覚える。他人が痛かったであろうことを考えただけで、自分も痛いんだな。俺もその例に漏れず、これまでどうやら妄想ばかりで、真っ直ぐに考えることから逃げていたが、何か――自分達と同じく赤い血を流す何か――を傷つけてしまったことを意識した瞬間の、俺の心の痛みは筆舌に尽くしがたかった。俺は、事故とはいえ、妖精らしきこいつを殺害してしまった。キャスターで踏み潰されるのはさぞかし痛かったであろうし、何より、殺してしまったということは、こいつの未来を俺が全て奪ってしまったということだ。何があるかわからないが、つらいこと以上に楽しいこともあるはずだった、こいつの未来を、全部台無しにしたのだ。申し訳なくて、やるせなくて、泣きたくなった。てか、たぶん泣いていた。この思いを、もっとうまく表現できないのは本当に残念だ。日数が経って、だいぶ俺の感情も冷めているし、あまり伝わっていない気がする。

 あの時は、本当に色々なことと考えた。

 妖精の瞳は、虚ろに、ただ電灯の明かりを反射していた。

 俺は、自分を呪った。

 その不注意さと。

 この不条理さを。

 悲しいのか苦しいのかわからなくなって、俺は一度全てを放り出してベッドに横になった。いや、正確にいえば、気が付くと俺は、ベッドに横になっていた。

 インターホンで起こされて、ようやく自分がそういう状態にあるのを知った。


 俺の部屋は二階にある。玄関は勿論一階だ。客人を迎えるためだけに階下に降りることは気が進まなかったが、その時、家には俺しかいなかった。居留守を使うのも何だったし、逆に、何か別の事をしていた方が気がまぎれる気もした。だから俺は、ゆっくりと起き上がり、未だに妖精の死骸が部屋の隅の方に転がっているのを確認した後(やっぱり夢オチではなかった)、部屋を出た。暑い。クーラーのない屋内は、夏の熱気に当てられて、かなりの気温になっていた。自室のクーラーの冷気を逃がさないように、ドアはしっかりと押し戻して、閉めておく。

 もう一度、インターホンが鳴った。

 宅配便ではなさそうだ。相手を待たせても悪いので、少し急いで階段を下りると、

「ほんとだ、いたね」

「でしょ? どうせ寝てただけなのよ」

 と、足音でこちらの存在に気付いたらしい客人同士の会話が聞こえてきた。

 声でわかった。網川姉妹だ。

 まあ、特に厄介な客というわけではないし、別段なんということもなく出迎えることにした。しかし、妖精の死のことについては出来るだけ隠していようと思った。自分だけの秘密にしようと、何となくその方がいいと、俺は勝手に考えていたのだ。

 ドアを開ける。見るとそこに、予想通りの黒いタンクトップ姿の少女が、コンビニの袋を片手に立っていた。その右側にはもう一人、白いワンピースを着た少女が、これ見よがしに日傘をさして、直射日光から逃れていた。

「ういーす。今迫さあ、今ひまー? ひまならちょっと家に入れてよ。ちと、この前言ってた短編仕上げたからさ、今迫に見てもらいたいんだよね。ほら、差し入れもあるし」

 がさり、とジュースのペットボトルを入れた袋を持ち上げてみせるこの少女の名前は、網川法(ノリ)という。俺の家から五軒ほど隣に住んでいた網川家の次女である。俺と同じように、小説を書く趣味を持っていた物珍しい人間で、短編を書くのが得意だった彼女に、俺は数多くの作品を見せてもらっていた。それで、俺は彼女に批評とかアドバイスをしていたのだ。俺は、自分の作品を書き上げられないのに、他人の作品にどうこう言うのが得意だった。いや、今も得意だ。いいご身分だな。

「……いいよ。上がって。俺も楽しみにしてたんだ、ノリの新作」

「いやあ、ご期待に添えるかどうかはわからないけどねー」

「大丈夫よ。結構面白かったし。今迫君も満足してくれるはず」

 と、これは日傘をさしたまま、どことなく浮世離れした雰囲気で佇んでいた網川律(リツ)のセリフだ。彼女は網川家の長女、つまりはノリの姉である。

「いやあ、リツは大体何読んでも面白いって言うしなあ。自信持っていいのかよくわからないんだよねー」

 ノリとリツは双子なので年齢は変わらない。だから、ノリはリツのことを名前で呼ぶ。

「でも、私の書いたのの方がもっと面白いよ」

「なんだよー。結局それが言いたいだけー? 全然褒めてないじゃん」

「別に。褒めてるなんて言ってないし」

 リツは、体を動かすこと以外なら大体何をやらせてもノリより上手い。ノリは、当時それに相当なコンプレックスを持っていたようだったが、こと文章を書くことに関しては、対抗意識を剥き出しにして頑張っていた。相当負けたくなかったらしい。

 ちなみにこの二人、双子の割りに全然性格が似ていないと思うかもしれないが、それどころか顔や声も似ていない。ノリの方が、姉であるリツより十センチ近く背が高いし、シルエットでもわかるくらい、全体的に細い――いや、まあ、しなやかな感じと言っておこうか。ともかく、ここまで自分達で二卵性双生児であることを主張している双子も珍しいと思う。二人とも俺と同じ高校に通っていた。

「おいおい。リツも書いたんだったら、そっちも読むからさ。ともかく中に入ろうぜ。暑いだろうが」

「さんせえー」

 言うなり、ノリは俺を押しのけるようにして家の中に入って来た。ヒールの低い、サンダルみたいな靴を脱ぎ散らかすと、勝手知ったる様子で居間のドアを開ける。ちなみにこの時期、俺の家では、居間のクーラーのみ、人のいるいないに関わらずずっと付けっぱなしになっていた。ひんやりした風が、わずかに俺の足元を駆け抜ける。

「はー、生き返るねえ」

 そんなことを言いながら、彼女は俺やリツを待たずに居間のドアを閉める。まあ、冷気を逃がさないためには必要なことだ。

「お邪魔します」

 一応、律儀に挨拶をしてから玄関に入ってきたリツは、日傘を畳んで、隅の方に立てかけた。紐の色とサイズだけがノリのものと違う靴を、脱いだ後にきちんと揃えてから(ついでに、妹の分もちゃんと直してから)、彼女は俺の隣に立って、じっとこちらを見る。

「何?」

「顔色悪いよ」

 どきっとした。あからさまに狼狽するほど、俺は感情を表に出す人間ではなかったが。

「そうか?」

「たまには外にも出ないと。色白だから、不健康に見えるのかも」

「リツにだけは言われたくないけどな」

 何時如何なる時でも日焼け止めと日傘を欠かさない彼女の肌は、怖いくらいに白い。反対に、ノリは健康そうな小麦色である。

「私はいいの。女だから。美白」

「ああ、そう」

 何だか話が微妙に逸れて行ってくれたので、俺は安堵しながら、居間に向かった。ドアを開けると、そこはまさに天国であった。

「うわ、マジで涼しいな」

「設定温度二十二度だってさ」

「五度上げといて。電気は大切にって言うし」

「りょーかい」

 ノリは、居間にある、我が家のもう一つのノートパソコンを勝手に起動させ、その前にだらりと座って、タンクトップの襟元をばさばさと引っ張って涼をとりながら完全にくつろいでいた。同時に、設定温度を変える為に片手間でエアコンのリモコンを操作している。

「ウーロン茶冷やしといた方がいくない?」

 机の上の、コンビニの袋に目をやって、ノリは言った。

「もしくは、コップ持ってきて。氷と」

 やりたい放題だな、と思いつつ、言われた通りに三人分のコップをとりに台所へ向かう。

「一応、うちにもオレンジジュースとコーヒーあるけど、いいよな、そのウーロン茶で」

「問題なーし」

「リツは?」

「別に、何でもいいよ」

 グラスに氷を入れて、三つ持っていく。丁度ノリは、自分のフロッピーディスクをパソコンに入れているところだった。リツは、テレビの前でゲーム機の電源を入れている。

「小説どれくらいの長さ?」

「私のは原稿用紙で五十二枚。リツのは知らない」

「……三十枚くらいかな」

「じゃあ、二つとも読んで三十分ってとこだな。適当にゲームでもやってて」

「勿論。そのつもり」

 俺は、グラスを食卓の方において、パソコンデスクに向かう。

「えとね、これ」

 そのフロッピーには幾つもの作品が保存されているようだった。半分くらい、読んだことのないタイトルだった。そんな中で、彼女が指し示したアイコンは、『月想花、散る』。いかにも彼女が書きそうな題名だった。

「で、リツのはこっち」

 次に指し示したのは、『魔』。いかにも彼女が書きそうな題名だった。

「他のは、まだ途中だから読まないで」

「了解」

 言って、ノリは機敏に立ち上がると、ウーロン茶を袋から取り出して、食卓に歩いて行った。ペットボトルを抱えるようにしながら蓋を開け、一人分のグラスに注いで、一気に飲み干した。

「この前のゲームやっていい?」

「いいよ。でも、データロードしないと、全キャラ使えないからな」

「わかってるわかってる」

 すでに、ゲーム機の準備係と化していたリツは、ノリが来るのを待っていた。

「まあ、適当にやっててくれていいが、出来るだけ静かに頼む」

「わかってるって」

 俺は、最初にノリの小説を、次にリツの小説を読んだのだが。

 ゲームで大騒ぎする二人(実はノリだけ)のせいで気が散って、結局一時間以上かかった気がする。この時点で、あの妖精のことは、あまり頭になかった。少し、二人に救われていた気がする。


「で、どうだった? どっちが面白かった?」

 テーブルを挟んで双子と向かい合いながら、俺はグラスのウーロン茶に口をつけた。あらためて入れた氷のおかげでかろうじて冷たい。

「どっちかって言われたら困るな……どっちも面白かったぞ」

「じゃあ、今迫的にはどっちが好きだった?」

 俺は、少し考えてから、答えた。

「リツの方かな。俺は、ああいう破滅的な奴が好みだし」

「破滅的に書いたつもりはないけど」

「いや、リツの作品はいつも破滅的だよー。主人公すら普通に死ぬし」

「それは、そちらの方が感動を誘いやすいから。打算に満ちた展開にしてるつもり」

「その考え方はどうかと思うが……」

 俺は、相変わらずクールだが微妙にずれたリツに半ば呆れながら、自分なりに思うところを述べる。

「今回のリツの話は、魔物にとりつかれたと思い込んだ男がおかしくなっていって、恋人を殺してしまうんだけど、実はその恋人こそ本当に魔物にとりつかれていて、結果的に村を救ったことになるってのがメインテーマなわけだろ」

「まあ、その後主人公も殺されるけどねー。村人に」

「そこだな。結局、周囲にとってはやっぱり、魔物にとりつかれた男が恋人を殺したようにしか見えなかった。良く出来た構成だと思うよ。打算的でもね」

「本当は、村人全員が魔物にとりつかれていて、主人公だけがまともだったっていうオチもあったんだけど、それこそ破滅的になるからやめたの」

「どっちもどっちだと思うけどな」

「どーかん」

 この話は、本当にかなり面白かった。

「あと、あの恋人のキャラがよかったな。いかにも、狂っていく主人公を支えているやさしい彼女って感じで、殺される瞬間まですごく同情できた。あそこで本性を現す時もかなり良かったしね」

「ああ、あの娘は良かったねえ。女の私でも、良い娘だなって思ったもん。リツの話って、ああいうおしとやか系の女の子多いよねー」

「登場人物は、作者の心を映し出すというからね。あれが真の私」

「じゃあ、魔物じゃん」

 けらけらと笑うノリに、リツはあまり怒った様子を見せなかったが、

「そういうノリは、『秋風の街』で書いた桐子と友樹に自分と――」

「って、ちょっと待ってよ! なんであんたが『秋風の街』読んでるのよ!」

 俺の知らないタイトルを持ち出して、ノリをからかった。何故か、リツの言葉を途中で遮り、かなり狼狽した様子で騒ぎ立てている。どうやら姉にも見せたくなかった作品らしい。

「フロッピーにね、入ってたから」

「読むなって言ったでしょ! 馬鹿ー」

「いやいや。興味深い話でしたよ。ぜひとも続きも読みたい感じ」

「な、書いたって、あんたには読ませてやんないかんね」

「おい、何の話してるんだよ? 俺にもわかるように説明頼む」

 微妙に蚊帳の外に置かれた感のある俺。

「この馬鹿姉が、私の作品勝手に読んだの!」

「それくらいわかってるんだが……。そんなに怒るほどのことか?」

「だ、読まれたくない話だってあるでしょ?」

「簡単に言うと、ノリの心情を小説という立場を借りて綴っただけの、半分日記みたいな――」

「わかってるなら読むな馬鹿ー」

「読んだからわかったの。馬鹿じゃない」

「……もう、金輪際あんたにフロッピー渡さないかんね」

「まあ落ち着けって」

 二人とも、それほど興奮していたわけではなかったが、目の前で喧嘩されても、俺の居心地が悪いだけで何のいいこともない。だから、俺は制止の声をあげた。

 俺のセリフが効いたわけでもあるまいが、ノリは、ウーロン茶を自棄酒みたいな飲み方で一気に煽ると、怒りは冷めやらぬ様子で、それでも話題を変えてきた。

「私の作品の感想聞かせて」

 俺も、その話題にのる。

「感動した」

「どの辺が?」

「ラスト直前かな。月想花が最後に咲くところ。たぶんもう一度咲くんだろうってのは、序盤から予想できたんだけど、それでも感動した。ノリ、そういう描写うまいよね」

「私的には、まだまだ不満なんだけどねー」

「いや、俺なんて、人のセリフがあるとセリフ頼りになって、地の文書かなくなるからさ、羨ましいよ。しっかりとした情景描写ができるってのは」

「あー、今迫の話、確かにそうなるの多いよね。でも今迫って、地の文で緻密なロジックが展開されることが多いから、地の文少ない方が、丁度読みやすくていいんじゃない?」

「ま、そう思ってくれる内はいいんだけどね」

 これは、未だに治っていない癖だ。まあ、気付いているとは思うが。

「設定とか、どうだった? ちょっと無理があったっぽくない?」

「いや、わかりやすかったよ。最初の方で、説明入るし。いかにもノリらしい話だな、とは思ったけど」

「やっぱり? 好きなんだよねー、ああいう話」

「透明感があるっていうのかな。設定、展開、台詞回し、情景描写、全部に通底するあの雰囲気が、凄いと思う」

「いやいや、それほどでも」

「あと、誤変換がいくつかあったよ。読み返して、直した方がいい」

「ほんとに? 二回くらい読み返したんだけどなー」

 この後、まだ少しノリの小説についての話は続いた。そして、話が途切れたわけでも何でもない、俺がいまいち思い出せないタイミングで、いきなりノリがこんなことを言った。

「今迫さあ、何か嫌なこととかあった? 元気ないけど」

 鳥肌がたった。自分で言うのもなんだが、俺は感情の起伏に乏しい。リツほどではないが、それなりにクールだと思っている。そして、この日も、全くもって普段どおりであったはずなのだ。

 にも拘らず。リツには顔色が悪いと指摘され、ノリには直接元気がないとまで言われた。恐るべき双子である。「幼馴染なんだったら、それくらい当然だろう」とか思う人がいるかもしれないので言っておくが、別に網川姉妹と俺は幼馴染ではない。第一、俺がこの家に引っ越してきたのは小学校五年の時だし、網川家がその五軒ほど隣に越してきたのは中学二年の時だ。この時点で、まだ三年ほどの付き合いしかない。そんなわけで、「幼馴染はお互いを恋愛対象として見ることが出来ない」という話があるが、俺と彼女らは違うわけで――、少なくとも俺は、この二人をだいぶ異性として意識していた。彼女らが引っ越してきてからずっとだ。

 まあ、そんな恥ずかしい話は後にして。

「いや、別に何もないけど」

「まあ、こういう時に、何かあっても口に出さないタイプだよね、今迫君は」

 確かにそうかもしれない。

「本当に大丈夫? 私でよければ相談にのるけどー?」

「私たち、ね」

「いや、本当に大丈夫だって。ちょっと、しばらく外に出てないから、体調悪いのかもしれないけど」

「うーん、そういうのとも違う気がする」

 ノリは、一見元気だけが取り柄なタイプかと思われがちだが、案外鋭いところがある。小説たくさん読むから、伏線見破ったりするために注意深いんだな、たぶん。

「何か嫌なこと抱え込んでると、内側から蝕まれる感じになるよ」

 何を、何に、蝕まれるのか。ノリは曖昧な表現をした。だが、それがどことなく恐怖を誘った。それに、これだけ言われると、俺は妖精を殺したことを完全に思い出していて、大丈夫だと言っている内にも、どんどん心は追い詰められ、重苦しくなっていく。

 秘密というのは、誰かと共有したいと思うようになるものなのだ。

 罪というのは、誰かに聞いて欲しいと思うようになるものなのだ。

 懺悔にすら、ならなくとも。

「いや、まあ、強いて言えば、ちょっと小説で行き詰っててね」

 俺は、決心した。自分の今ある状況を、小説の設定という形を借りて吐露しようと。

 まあ、ありがちな作戦だわな。

「設定を閃いたんだけどね。ちと、その先の展開がどうにもならないな、と」

「いつものパターンじゃん」

「いや、まあそうなんだけど、今度のはその閃きが壮絶だったというか何というか。だから、どうにかしてその先を書きたいんだよ」

「ふーん。今迫も小説で悩むことがあるんだ」

「今迫君だって一応人間よ。悩みの一つくらいあるでしょ」

 こいつらは、俺を何だと思っているのか。

「良かったら聞かせてよ。その設定。私が続き考えたげるよ」

「私たち、ね」

「じゃあ、言うけど――」

 しかし我ながら、こんなにも早く暴露することになるとは、思わなかったよ。ただ、この二人が、あの理不尽な妖精の登場の話を聞いて、一体どんなことを考えるのか、興味があったというのも事実だ。もしかしたら、俺の救いとなるような展開を思いついてくれるかもしれないわけだし。……いや、言い訳はするまい。とりあえず、俺は自分で思っていたほど強い人間なんかではなくて、結局誰かにこの話を聞いて欲しかったのだ。

 たとえ贖罪の足がかりにすらならなくとも。

「――と、いうわけで、その先その主人公に何が起こるかとか、全然思いつかないのさ」

「うーん。相変わらず凄いこと思いつくなー、今迫は」

 ノリは、腕を組んで、難しい顔をした。まあ、俺が思いついたんじゃないが。

「その妖精がさあ、人形とかじゃないってのは、決定なの?」

 一瞬の後に口に出されたその問いで、俺は唖然とした。

 人形?

 たしかに、その可能性がないとは言い切れない。いや、まず大体の人間は、そこから疑ってかかるのだろう。あの妖精は、血を流していたわけだが、極端な話、何かの動物の血を詰めたリアルな人形だったとして、どこに矛盾点があろうか? すでに全く動く様子もなかったあれを見て、何故か俺はすぐさま妖精という生き物を連想したわけだが、人形であったとして、どこに問題が……。

 いや、あれは生き物の死体だった。人形などではない。さすがに、それは見ればわかる。落ち着け。第一、あれが人形だったらなおさら怖いだろう。誰が、何のためにあんな悪趣味な物を俺の部屋に置いて行ったのだと?

「人形だったら嫌じゃないか? 誰かの嫌がらせっていうオチなわけ?」

「ははは、確かに。インパクト弱くなるね」

 もう一度、ノリは腕組みをした。リツは、いつもの飄々とした顔で、熱いお茶を飲むようにグラスに両手を添えて、冷たいウーロン茶を飲んでいる。

「妖精が死ぬことになってようやく動き出す感じの話と、生きていれば進むはずだったことが動かなくなる話があり得るよね。どっちが好み?」

「俺は後者がいいと思う。前者だと、結局始まり方がインパクトあるだけで、普通の話だろ? 何ていうか、妖精が死んじゃったせいで、『始まるべき物語が始まらなかった』みたいな方が、俺の話っぽいと思う」

 我ながら良く言ったものだ。妖精がやって来る普通の話をあれだけ考えていたくせに。

「だよねー。でも、それって私の領分じゃないんだよねー。私って、正統派のしか書けないから、そういう、ひねった設定考えると、途中で挫折しちゃうんだよ」

「それはわかる気がする」

「そんなわけで参考になんないかもしんないけど、私なら、その妖精は家の守り神ってことにして書くね」

「え?」

「だから、家の守り神を殺しちゃったから、その家では、色々な怪奇現象が起こるようになっちゃうのよ。そうすれば、恐怖に怯える主人公の生活と、打開のためのプロセスで話が作れるでしょ」

「……なるほど」

 そうか、そういう考えもあるな。勝手に、妖精は異世界からやってきた者とばかり決め付けていたが、守り神、幽霊といった、本来目に見えないがこの世に存在しそうな領域のものが、ああいう形を取って現れたというのもあり得る線だ。しかし……これからこの家に怪奇現象が起こるのだろうか? それは嫌だな。

「で、その打開のためのプロセスってのは?」

 遠回しに、解決のための糸口を聞きだそうとする俺。

「さあ。その辺は、まあ、それらしいことを書くけどね。例えば、ほら、巫女とか出して、お祓いさせれば? 今迫、巫女好きじゃん」

「いや、何で俺が巫女好きになってるのか知らんけど……。それは安易すぎねえか?」

 確かに巫女は好きだが、それは別問題だ。

「うーん。まあ、書き方次第だと思うけど。確かにもう一ひねりくらい欲しいよね。事件解決してハッピーエンドってストーリーにしては小規模だし」

「だから、描写力が要るんだよ。そういうの書くには。完全にノリ向きの話だな」

「だったら」

 と、これまで全く話に関わってこなかったリツ(彼女は、基本的に無口だ)。

「凄く不条理な、きわものがいいってこと?」

「う……まあ、きわものって言えばきわものだが……」

「本当に不条理でいいなら、あるよ」

「え?」

「丁度、私が考えてたのの流用なんだけど、気に入ったならアイデア売ってあげる」

 金取るのか。

「とりあえず聞かせてくれ」

「主人公は、妖精を事故で殺してしまうのだけど、二時間くらい経つと、そこには何もなくなっているの。全く、何もかも消えてしまっているわけね。妖精も、血痕も」

 それはありがたいな。是非そうなって欲しいと思った。

「で、安心して部屋を出ようとすると、ドアがなかなか開かなくて、おかしいなと思って力いっぱい押すと、ドアはどうにか開くんだけど、ドアと床の隙間に、妖精が挟まって死んでるの」

「え?」

 ノリが、少し顔を顰めた。

「主人公は怖くなって、逃げ出すんだけど、階段に足を下ろした瞬間、何かを踏んづけたような嫌な感触と、硬い物がばきばきと折れる音が聞こえて、足の下で妖精が死んでるの」

「う……」

「でも、それらの妖精も、二時間経つと消えるの。しかもどうやら主人公にしか見えていない感じで。だから、実生活には何の支障もないの。それから、ことあるごとに主人公は妖精を殺すのだけれど、だんだん今度は、すでに死んでいる妖精が至る所で見え始めるの。トイレの隅で血まみれになっていたり、廊下の真ん中でぐしゃぐしゃに潰れていたり、洗面所で首を吊っていたり、お風呂の浴槽で溺死していたり、女友達の肩の上で虚ろな目を開けたままぐったりとこちらを見ていたり」

 ノリの顔が、目に見えて青ざめてきた。

「でも、全然実生活には関わって来ないの。ただ、見えるだけ。主人公は、何をするにしても妖精を殺し続け、死んだ妖精を見つけ続け、でもどうしても、生きている妖精を目にすることはできないのね。その妖精は、その主人公にしか見えないのに、いつでもどこでもどの個体も死んでいる。しかも、理由も何もわかることなく。誰に訴えても幻覚だと言われるに決まっているからそれも出来なくて、ただ主人公は、延々と、妖精の死体だらけの世界で、それを認識していない一般人と同じように、生きて行くしかないの。逃れられない罪の意識だけを引きずりながら…………。まあ、それだけ」

 リツが、ゆっくりとウーロン茶に手を伸ばした。

「どう? 不条理じゃない? オチも何もないけど、怖く書こうと思えば怖くなりそうでしょ」

「それって……主人公はどうやって救われればいいの?」

「救われようがないから不条理なんでしょ? それとも今迫君も、主人公が救われないとやっぱ嫌?」

「いや……じゃないけど……」

 この時の俺としては、もう、この椅子から立ち上がろうものなら、椅子の足で妖精を踏み殺してしまうんじゃないかという思いでいっぱいだった。この時点で顔色が悪いと言われていたのなら、まあ、そうだろうと首肯できたはずだ。リツが提示してきたのは、不条理な死に付き纏われ続ける人生。解決の糸口はなし。自分の置かれている状況の未来予測としてそれを持ち出された俺の、この時の気分をどうにかして味わわせてやりたい。俺の描写力では不可能だろうが。背筋に本当に悪寒が走る瞬間を、ぜひ思い知って欲しい。

「リツってさあ、普段どんなこと考えながら生きてるわけ?」

 両腕をさするようにしながら、気味悪そうに、ノリが尋ねる。こういう、普段明るいタイプに限って、怪談が苦手なのだ。

「死とか」

「いや、そんなストレートなこと考えながら生きられても……」

「で、どう? 小説に使えそうなら売るけど?」

 そのありがたい申し出に、俺は首を横に振って答えた。

「パス。不気味すぎ」

「そか、やっぱり」

 リツは何やら納得した様子で、グラスを両手で口に運ぶ。わざわざ目を閉じて、お茶の味を堪能しているようなのは、ポーズだろう。

「ちょっとトイレ借りるね」

 ノリが、心なしか足元に気をつけるようにしながら、洗面所へと消えて行った。

 それを見計らって、リツが両目を開ける。ゆっくりと、グラスをテーブルに戻す。音は、しなかった。

「ノリはね、今迫君が思っている以上にがんばっている」

 リツはよく、ノリがいない所ではノリを褒めた。ノリ自身がいるとあまり彼女をあからさまに褒めたりしないのだが、俺にはよく本音を語っていた。俺は、そういう位置にいた。

「何度も聞いたよ」

「何度も言ったからね」

 リツは、ほんの少し笑った。

「だから、ノリを見捨てないでね」

「それがよくわからない」

「あなたは、人間があんまり好きじゃない。必要でない人間関係をあなたは嫌ってきた。必要でなくなった人間関係をあなたは続けようとしない。たとえそれが私たちであっても」

「……そうかな」

「きっとそう。今は、こんなに身近にいるから気付かないだけで、あなたが私たちを切り捨てる要素はそれこそ山のように転がっている。今が、永遠に続くわけではないし」

 この時こんなことを言われておきながら、結果的に俺は、ノリとリツを切り捨てようとする。それはまた、別の話。

「私のことはいいから、ノリのことは常に考えておいて。そうするだけの価値が、あの娘にはあるでしょ?」

「……どういう意味で?」

「……そのままの意味。あの『秋風の街』を、あなたはたぶん読ませてもらえないと思うけど、それを読んだ私にはわかる」

 確かに、俺は結局この小説を読ませてもらえなかった。

「いい? 何度も言うけど、私は『律速段階』のリツ。私は、周囲の人間よりも行動、思考が極端に遅いがゆえに、逆に世界は私の速度に巻き込まれる」

 これは、彼女の決め台詞だった。決め台詞のある人間がこの世にいるわけがないと思うかもしれないが(事実、俺はこいつ以外に見たことはないが)、ごく稀に存在することを憶えておいた方がいいかもしれない。最初に出会った時、それをシリアスに捉えるべきか、軽く流すべきか、対応を決めることができる。

 俺は前者だった。

「私の言葉があなたにもわかる時が、きっといつか来る。その時、あなたが後悔しても、それはすでに遅すぎるかもしれない」

「だから、ノリのことを常に考えてろって?」

「そう。さほど難しいことでないはず」

「簡単に言ってくれるね」

「今迫君だからよ」

 ちっ、と俺は舌打ちした。よくわからないが、何故ここまで信頼されることになったのか。人付き合いは、嫌いだったはずなのだが。

「……一つ聞くけど、リツ自身は、俺に切り捨てられてもいいのか?」

「私? 当然。だって――」

 がちゃりと、ドアが開いて、ノリが戻ってくる。

「私も不要な人間関係なら切り捨てるタイプだし」

 ノリに聞こえたかどうかは微妙なところだ。

「なになに? 何の話?」

「小説の主人公の人間性の話」

 リツが、いつもの口調で平然と嘘をついた。

「ふうん」

 ノリが、気のない返事をしながら、元の席につくと、今度は入れ替わりにリツが立ち上がった。そのまま部屋を出ようとしている。

「ちょっと、何か言ってきなさいよー」

「……トイレ」

 一言を残し、ドアの向こうへと消えた。

 俺とノリは、向かい合ったまま、少しの間黙っていた。

「『月想花、散る』でさ」

 ノリが、少し居心地悪そうに言った。

「うん」

「一番好きなキャラクター誰?」

「え? 何で」

「気になるじゃん。自分が書いた登場人物がさ、どれくらい気に入られるか」

「そうだな、一番は――」

 俺は、主人公のサポートをする脇役の名前を答えた。

「……うーん。そこでこいつの名前を聞くことになるとは思わなかったなあ」

「俺、ドラマとか漫画でもサブキャラの方が気に入ったりすることあるからさ」

「通だね、なかなか」

「主人公ってさ、主人公だから当たり前かも知れないけど、『主人公だからこそ優遇されてる瞬間』ってのが見えることあるだろ? 絶対に死にそうな場面で助かったりとか。やたらと一目惚れされたりとか。そういうのが見えた時にね、主人公自体に嫌気がさすことがたまにある」

「私のにもあった?」

「ああ、いや、ノリのにもあったわけじゃないけど。そうじゃなくて逆にあの脇役が、かなりの才能を持っているのに、軽い扱いを受けているのがよかった。俺、そういう奴にスポットを当てなおすのが好きだから」

「そういう考えで読むことも出来るんだー」

 ノリは、いたく感心した様子だった。

「じゃあさ、今迫は作品書くとき、主人公が主人公たる理由って何だと思って書いてる? 今迫の話ってさ、必ずしも主人公が事件の渦中にいないじゃん。他の奴を主人公にしようとか思ったりはしないの?」

「あるよ。むしろ、サブキャラの方を気に入って、そいつらの過去の話ばっかり思いつくこともある。それでも主人公が主人公でないといけないのは、俺がそいつを主人公に選んだから。それだけじゃないかね」

「それだけなの?」

「ああ」

「じゃあさ、さっきの、妖精を殺しちゃう話の主人公が、妖精を殺した本人である理由ってのは?」

「え?」

 何だか、話の流れがまずい方向に向かいつつある気がした。

「今迫がそいつを主人公に選んだ、その理由だよ」

「いや、だって、妖精の死体を見つけるっていうことを思いついたんだから、その主体は、その殺した本人であるべきじゃないか?」

「今迫なら、『そうやって妖精を殺したと言い張る人』の友人とかを主人公にしても書けそうじゃない? そうしなかったのは、何で?」

 確かに、それはそうなのだ。普段の俺なら、間違いなくそうやって書くだろう。その言い張っている友人の証言が結局本当なのか嘘なのか、その辺りが二転三転していく話を、俺は得意とする。どんでん返しが好きなのだ。

「何でだろ。それこそ、俺がそいつを主人公に選ばなかったから、としか言いようがない」

「誤魔化すなー」

「いや、誤魔化すなって言われても」

 そこで、ノリは体を乗り出し、こちらに顔を近づけてきた。そして、声を潜める。

「あれ、もしかして本当の話なんじゃない?」

 冷や汗が、一気に噴き出してきた。文字通り目と鼻の先に迫ったノリの顔を見つめ、二つくらいの意味で鼓動を高鳴らせながら、俺は必死で何かを言い返そうとする。

「そう考えると、辻褄が合う気がしてんだよね。いきなりこんなこと言い出した理由とか」

「いや、あのな、ファンタジーの世界と現実世界を混同しちゃまずいぜ。現実で、妖精とか、そういうことはありえないだろ」

「『二十八分の一の異星人』って詭弁覚えてる? 今迫が小説で使ってた奴。その、一の方が、とうとう現れただけじゃないの?」

 二十八分の一の異星人。これは、地球人の内二十八人に一人が異星人だとしても、自分の周りに割合的に二十七の方、つまり地球人しかいなければ、決して気付けない。そして自分出会った相手全員が二十七の方で、一の方に会えていないのだとする確率は、いかに低かろうとも、絶対にゼロでない。そうである以上、自分がそういう天文学的な確率で異星人と遭遇できていないだけであるかもしれず、二十八人に一人異星人がいること自体を否定することはできない。

 我ながら、確率統計の穴を突いた詭弁であると思う(実のところ確率が関わっているのは言い回しだけだが)。要は、存在することの証明は出来ても、不在の証明は不可能であるということだ。簡単な話、異星人が存在することは『異星人』を連れて来れば証明できるが、異星人が存在しないことを証明するために、『異星人ではない地球人』をいくら連れてきても無駄なのである。次に来るのが『異星人』かもしれないのだから。それを、ただ、学校の一クラスの人数であった二十八という数字を使って言ってみただけのことだ。

 その、一の方が本当に現れた、だって? 俺はこの詭弁で、「誰一人として、『この世界で現実に起こりそうにないこと』が『本当に現実では起こらない』ということを証明出来ない」ということを伝えたかったのだ。つまり、ノリは、それが今起こったんじゃないのか、と言っている。

 こんな例まで持ち出されて、俺は追い詰められている。どこに、ここまで疑われる要因があったのか、本当に不思議だった。

「あれは……小説中で、どんなことだって現実でも起こりうるって言いたかったわけで、あくまで小説のリアリティーを増して、恐怖を煽るのが目的というか――」

「じゃあ、何でリツが妖精の死体を次々見つけていく話をした時、今迫の視点だったの?」

「え?」

 俺の視点だったか? リツの話。

「別に、リツの話は普通の家の話だったじゃないか」

「普通じゃない。部屋から出る時、リツ、『力いっぱいドアを押すと』って言ってた。大体、普通の家で個室になってる部屋は、入る時に押して、出る時には引くんでしょ。そう言ってたの、今迫じゃん。『だから、俺の部屋は変わってるんだ』って。言われた時確かめたけど、少なくとも、ウチの部屋全部と、今迫の家の他の部屋は『出る時にはドアを引く』んだった。廊下の狭い日本の家屋の特徴なんでしょ?」

 ……確かに、俺は言った。日本では、廊下側にドアが来るような、引くドアがついているのはトイレくらいで(これは、トイレの方にドアが来るともっと狭いからだ)、普通の部屋は押して入るドアがついている。根拠があったわけではなかったが、特有の『俺理論』で、説得力はあったはずだ。

 しかし、リツの話の、そんな点を聞いているとは、こいつは探偵にでもなるつもりなのだろうか?

 ん? ……リツの話?

「ちょっと待てよ。それって、リツの方がノリより先に、俺の話を事実だって気付いたってことだよな」

「え? 本当に本当なの?」

 ノリが、何故か少し慌てて、顔を青ざめさせた。どうやら俺は、カマをかけられていたらしい。本当かどうかは関係なく、とりあえずノリは、こういう風にロジックで俺に対抗したかったのかもしれない。それが、図星を突くとも知らずに。

 全く、いい根性をしている。さすがに、当時俺が好きだった相手だけのことはある。

「おい、リツ遅いよな、帰ってくるの」

「う、うん。そうかもしれないけど――」

 しまった。俺は、立ち上がると――この時に妖精を殺す可能性など考えていなかった――ノリを置きざりにするくらいの気持ちで、凄い勢いで廊下に出て、階段を駆け上がった。俺の部屋のドアは、勿論閉まっていたが、何となくその向こうに人がいるような直感はあった。そうだ。

 ドアを、引く。引いて開ける。この狭い日本において、少数派であろうと勝手に俺が信じている方法で、自室に、戻る。つけっぱなしだった冷房の、冷たい風が肌をなぶる。

 ドアを開けて、まず目に入ってくるのがベッドだ。そんな狂った間取りの中、部屋のほぼ中央に、こちらに背を向けて立っている少女。白いワンピースの少女。

 リツが、

 室内は、俺が部屋を出た時、そのまま。開いたままのノートパソコンには、光点が乱舞するスクリーンセーバー。

 絨毯の上に小さく広がるどす黒い染み。そして、その上の小さな死骸。凶器となったキャスター椅子。

 リツが、それを見つめたまま、

「気付いて、たのか?」

 俺は、喉にからみつく粘着質な唾液を無理矢理嚥下しつつ、彼女の背中に尋ねた。後ろで、ノリが階段を上ってくる音がする。

 リツが、本当にあったその亡骸を見つめたまま、こちらを振り返った。おかしいかもしれないが、そうだった。こちらを振り返ったのに、その目は妖精を見ているのだと、何故か俺は思ったのだ。その瞳はこちらを映していたが、それでも俺はそう思った。

 彼女が口を開く瞬間、彼女は絶対に妖精の魂に乗り移られて事態の核心を喋るのだと、そんな気がした。

「気付いてたから来たのではなく、あなたの部屋に来てみたかったから来ただけ。私が、それほど鋭いわけないでしょ」

 あくまでも、現実は小説のようにうまくはいかない。そのリツの口から語られた言葉は、いつものリツのもので、実際、リツはただ俺が声をかけたから振り返ったに過ぎず、別段意味深な動きをしていたりはしなかった。

 彼女は、『律速段階』のリツ。世界の速度が、彼女に律される。

「これも、そうやって、リツの前に道を開いたわけか」

 正直、妖精よりもリツの方が二倍も三倍も衝撃的な気がした。

「ねえ、ちょっとー、なんなわけ?」

 後ろから、ノリが追いついてくる。

「ノリ、血とか平気なタイプ?」

「え? 出来ることなら見たくないけど……」

 言いつつ、部屋に入ってきたノリの目が、大きく見開かれた。その視線は、勿論、妖精に釘付けになっている。ぞわっと、ノリの腕に鳥肌がたつのが見えた。

「な、何それ。気持ち悪ー」

 またも両手で腕をさすっている。そして、恐る恐るという感じで、俺の後ろから妖精を遠巻きに覗き込む。

「妖精の死体」

「もうさ、何に驚いていいのかわかんないんだけど、ほんとにいたんだね、それ」

「ああ、さっき、俺がキャスターで轢いた」

「やっぱり何の脈絡もなく?」

 リツが、しゃがみこんで妖精に触ろうとしている。

「ああ。キャスターを後ろに移動させたら、いきなりそいつに引っかかった」

「ねえ、何か罰あたりそうだから触るのはやめとこーよー」

 俺の後ろに隠れながら、ノリ。俺はしかし、その彼女から離れて、リツのすぐ脇に近付いた。俺の見ている前で、リツは一瞬躊躇した後、そっと妖精に手を伸ばして行き、その、一番無事であろう細い足にゆっくりと触れた。

「すべすべしてるけど、固い。死後硬直してる感じ」

「う……そんな単語を聞くと怖いな、やはり」

「でも、逆に言えば、これは本当に存在する生命体だってことだね」

「幽霊とかの謎の存在であるよりはよっぽど御しやすいってか? 勘弁してくれ」

「ねえ、ほんとにやめよーよー。まさか解剖したりしないよねー?」

 どうやら、怖いながらも妖精に興味があるらしく、結局俺のすぐ後ろの位置まで近付いてきていたノリが、全く恐れずに死体に触れる姉に言ってきた。

「解剖か。実際のところ、この死体をどうするかは問題よ」

「警察に通報して、生物学の研究所とかに回れば、こいつの正体もわかるってことか? ファンタジーも何もあったもんじゃないな」

「現実なんてそんなものよ」

「まあ、延々と妖精の死体を見つけ続けながら生きて行くなんてファンタジーは、確かに願い下げだがな」

「あ、この娘、たぶん腕の骨が人間より多いよ。尺骨の内側にもう一本別の――」

「もーやめよーよ、リツー。可愛そうじゃん。埋めてあげようよー」

 半ば泣きながらノリ。実際、この状況で、彼女が一番まともだと言える。

「今迫からも言ってやってよー」

「何を?」

「だからさあ、こういうのって良くないでしょ。素人がさあ、どうのこうのするのって」

「……そうだな」

 俺は、この妖精を殺した。そして、その正体を自分達で調べて知ることは出来ない。

 謎は、謎のままか。

「警察とか呼ばずに、俺たちだけでこいつ埋葬して、何か問題あるかな?」

「埋めるの? もしこの生き物発表したら、大発見だよ」

「リツ、本気で言ってるの?」

「……ノリ、私は、あくまでも今迫君のために言ってるの。このまま何もわからないまま埋めたら、今迫君は妖精を殺してしまったということを、自分の中だけにしまい込むことになるの。私たち以外に理解者もいないまま。もし、これを警察に呼ぶなりして公にすれば、今迫君は、この生き物について何らかの答えを得る。もしかしたら、これを足がかりに、他の生きた妖精が見つかるかもしれない。大発見になるというのは、そういうこと。いい? これは、罪を背負い続ける可能性が高い行動をとるか、贖罪のための一歩になり得る行動をとるか、その二択なの」

 言ってしまえば、そういうことなのだろう。俺にとっては。

 この妖精を公表して、得られる物は、きっと多い。何のために、この妖精が現れたのか、妖精の正体がわかれば、そして仲間が見つかれば、おそらくわかるはずだ。

 何が起こるかわからぬまま、妖精を殺してしまったことによる余波を、毎日毎日気にしながら生きる必要もないだろう。例えば家に怪奇現象が起こったり、たびたび妖精を殺すようになる可能性を考えるのは、俺がこの妖精を秘密にして、罪を背負おうとするからこそのものなのだ。

 しかし。

「でも、この妖精のこと考えることも必要だよー。好奇の目で見られたりさ、体ばらばらにされたりさ、死んでるからって、そういうのって、やっぱ酷いと思わない?」

 俺は、罪悪感を忘れてはいけない。

 俺は妖精を殺した時点で、彼女にかなり酷いことをしてしまったのだ。そんな彼女をさしおいて、安寧の中に逃げ込むことは許されない。

 そう思った。

「埋めよう。ノリの言う通りだ。それに、この件を公にして、警察だのマスコミだの、面倒な人間関係が増えるのはうんざりだ」

 いかにも自分らしく、締めくくったと思う。

「それで、この妖精の死によって何が起きるのか、のんびり様子を見ようじゃないか」

 妖精の目は虚ろだったが、その瞳の色は、とても綺麗だった。


 で、その後どうなったかと言うと。俺は、そっと妖精の死骸を持って(妖精は、本当に羽根のように軽かった)庭に行き、ノリとリツが見守る中、何の目印もない所に深く穴を掘って、埋葬した。

「これから、何か起こったら、絶対私に言ってよね」

「私たち、ね」

 彼女らは、終始そんなことを言ってくれたが、実のところ俺の身に何かが起こっていたとしても、この姉妹に相談していたかどうかは微妙なところだ。

 俺たちは部屋に戻って、テレビショッピングで売っていた万能クリーナーで、絨毯の血痕を洗い落とした。この時ほど、テレビショッピングの偉大さを実感したことはない。絨毯に染みこんだケチャップやソースを落とせるとは言っていたが、まさかこれほど見事に血液も落ちるとは思わなかった。

「でも、ルミノールには反応するはずだから、気をつけてね」

 と、血液の存在を確認するために鑑識が使う試薬をあげられたが、そんなものに日常的に触れる機会はない。家族にばれる心配は、当面なくなった。

 そして結局。妖精を殺したこと以来、空想的なことは何一つ起こらず、日常的な生活を送り続けて三年。今日に至る。

 俺は、自宅から国内最高学府と呼ばれている国立大学に通い、大学生活に忙殺されながら毎日を生きている。網川姉妹は、高校卒業と時期を同じくした父親の転勤が決まり、それに合わせる形で、地方の大学に進学していった(ちなみにリツは、医学部だ)。

「暇な時でいいから、メールちょうだいね」

 とはノリの言葉で、現に去年の初めのうちは頻繁にメールでのやりとりがあったわけだが、徐々にその頻度が減って行き、疎遠になっていった。

 俺は、ノリのことが好きだった。いや、過去形にする必要もないかもしれない。好きだ。思い込みでなければ、彼女も俺のことをそんなに嫌いではなかったのだと思う。彼女ら姉妹が引っ越す日に、俺はたぶん何かもっと言うべきことがあったのだが、そんな時に限って勇気が出ず、なあなあのまま、妥協した関係で別れ、結果このざまとなってしまった。リツの言葉通り、彼女のことを考え続けていなかったがために、俺はノリとの関係すら過去のものとして切り捨てつつある。

 そんな自分が許せなくなって、この話を書いてみた。

 最後の馬鹿馬鹿しい仮定を聞いて欲しい。俺が殺したあの妖精は、いわゆる恋のキューピッドと言われる類の存在だったんじゃないだろうか。当時から、恋愛沙汰に関して無関心を装い、勇気のなかった奥手の俺を後押しするために、彼女はわざわざ来てくれたんじゃないだろうか。そして、事故とはいえ、俺に殺された。結果として、キューピッドの後押しを失った俺は、何だか後一歩みたいなところから踏み出せず、恋を成就させることが出来なかった。で、今のこの事態というわけだ。

 どうだろう? よく出来てないか? まあ、何にせよ俺が悪いのだが。

 そんなわけで、ノリとリツ(勿論名前は仮名なのだけれど)。もしもこれを読んでいたら、大至急連絡をくれ。久しぶりにどこかで会って、ゆっくり話したい。ノリにもリツにも、言わなきゃいけないことが山ほどあるしな。

 そして、俺と同じような妖精に出会ったことがある人、出来れば、殺さずにコミュニケーションがとれた人は、いないだろうか? そういう人には体験談を聞かせて欲しい。

 有力な情報を、待つ。


 あの日から丁度三年経った八月某日 

 現場となった部屋、凶器となったキャスター椅子の上で    今迫直弥



追伸

 少しあの頃と違う俺は、あの妖精の死をこんな話にしてみました。ノリとリツ、ぜひとも感想を聞かせてください。そしてノリ、『秋風の街』を途中まででも何でもいいので、とにかく読ませてください。どんな内容なのか、気になって夜も眠れません。お願いします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

始まらなかった物語 今迫直弥 @hatohatoyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ