追悼

一夜目 尋

一つ足りない日常

つんと冷たい空気が澄み渡る、憎いくらい別れの秋にぴったりな日のことだった。

わたしの家の愛犬が死んだ。16歳。小型犬としては大往生だった。

その日の数日前から、ご飯を食べなくなったり動かなくなったりと予兆はあった。

だけどその日の夕方、うんちとおしっこをお気に入りのクッションの上に漏らして、息を荒くしてぐったりと倒れていた姿を見たとき、一気に血の気が引いた。

13年間、わたしが生まれてきてからずっと一緒だった愛犬のいまにも息絶えそうな姿は、わたしの覚悟を突き破って心を殴ってきた。

そばにいた母は慌てて愛犬を連れ、動物病院に連絡しながら車に乗り込んでいった。

父は愛犬の糞尿まみれのクッションを丁寧に処理して、ごみ袋に入れて袋を縛った。

その間、わたしはただ呆然と立ち尽くしているしかなかった。

父はわたしに声をかけてくれたみたいだけど、よく覚えていない。

そうしていれば母から「息してない、心肺蘇生中」と家族チャットに連絡がきた。

ただの文字なのに、そこからは居ても立っても居られない焦燥感を感じた。

ソファーに座って、テレビをつけて、手を握って、ひたすらに待った。


しばらくして、連絡もなしに母が家に帰ってきた。鼻を赤くしながらゲージを運んでいた。わたしはとにかく怖くて、ゲージから逃げるように部屋の隅に移った。

ゲージを覗き込んだ父は、わたしに「帰ってきたよ。挨拶してあげな」と言った。

ロボットのようにわたしはゲージをゆっくり覗き込んだ。

そこには、ピクリとも動かない愛犬がいた。

いつもゆっくり上下するお腹は作り物のように固まっていて、寝ていてもせわしなく動く足は、棒のようになっていて、構っているとめんどくさそうにこっちを見る丸い目は、きつく閉じられていた。

月並みな表現だけど、わたしは確かに心にぽっかりと穴が開いた気がした。

母は鼻をすすっていて、父は優しく愛犬の頭を撫でていた。

父は小さく「まだ温かい」とつぶやいた。

それを聞いて、わたしは「ただいま、おかえり」と言いながら愛犬を撫でた。

毛皮はいつものようにふさふさだったけど、どこか固い感じがした。

わたしは残ったぬくもりを撫で取るように、何度も何度も両手で撫でた。


そんなわたしを見ていた母は、「お花買いに行こっか」と明るく声をかけてきた。

そこにわたしへの優しさを感じて、素直にわたしはうなずいた。

先導するように母は進んで、車に乗った。

わたしも続こうとドアノブに触れたとき、手に残った愛犬のぬくもりが冷めていく風に感じて、反射的に手を離し手を固く握った。

左手の人差し指と中指だけでドアを素早く引いて、割り込むように車に乗った。

シートベルトを締めるとすぐに母が明るく話しかけてきた。

わたしの気を紛らわそうとしてくれているのか、自分をそうしようとしているか定かではなかったけれど、話に乗ってたくさん話した。

気丈に振舞おうしても声が震えたのは、きっと冷え込む秋の夜空のせいだろう。

花屋につくと母はあまり喋らず、この花でいいかの確認だけして二束の花を買った。

花束を持たされたわたしの手のひらには、くっきりと爪の跡がついていた。

帰りは静かで、車の音と揺れに合わせて震える花だけがそこにあった。


家に帰るとお風呂が沸いていて、わたしは真っ先にお風呂に入れられた。

いつものように身体を洗おうとしたけど、手を開く気になれなくって、この日だけは手を洗わずに湯船に浸かった空気が澄み渡る、憎いくらい別れの秋にぴったりな日のことだった。

わたしの家の愛犬が死んだ。16歳。小型犬としては大往生だった。

その日の数日前から、ご飯を食べなくなったり動かなくなったりと予兆はあった。

だけどその日の夕方、うんちとおしっこをお気に入りのクッションの上に漏らして、息を荒くしてぐったりと倒れていた姿を見たとき、一気に血の気が引いた。

13年間、わたしが生まれてきてからずっと一緒だった愛犬のいまにも息絶えそうな姿は、わたしの覚悟を突き破って心を殴ってきた。

そばにいた母は慌てて愛犬を連れ、動物病院に連絡しながら車に乗り込んでいった。

父は愛犬の糞尿まみれのクッションを丁寧に処理して、ごみ袋に入れて袋を縛った。

その間、わたしはただ呆然と立ち尽くしているしかなかった。

父はわたしに声をかけてくれたみたいだけど、よく覚えていない。

そうしていれば母から「息してない、心肺蘇生中」と家族チャットに連絡がきた。

ただの文字なのに、そこからは居ても立っても居られない焦燥感を感じた。

ソファーに座って、テレビをつけて、手を握って、ひたすらに待った。


しばらくして、連絡もなしに母が家に帰ってきた。鼻を赤くしながらゲージを運んでいた。わたしはとにかく怖くて、ゲージから逃げるように部屋の隅に移った。

ゲージを覗き込んだ父は、わたしに「帰ってきたよ。挨拶してあげな」と言った。

ロボットのようにわたしはゲージをゆっくり覗き込んだ。

そこには、ピクリとも動かない愛犬がいた。

いつもゆっくり上下するお腹は作り物のように固まっていて、寝ていてもせわしなく動く足は、棒のようになっていて、構っているとめんどくさそうにこっちを見る丸い目は、きつく閉じられていた。

月並みな表現だけど、わたしは確かに心にぽっかりと穴が開いた気がした。

母は鼻をすすっていて、父は優しく愛犬の頭を撫でていた。

父は小さく「まだ温かい」とつぶやいた。

それを聞いて、わたしは「ただいま、おかえり」と言いながら愛犬を撫でた。

毛皮はいつものようにふさふさだったけど、どこか固い感じがした。

わたしは残ったぬくもりを撫で取るように、何度も何度も両手で撫でた。

悲しいだけで、不思議と涙は出なかった。


そんなわたしを見ていた母は、「お花買いに行こっか」と明るく声をかけてきた。

そこにわたしへの優しさを感じて、素直にわたしはうなずいた。

先導するように母は進んで、車に乗った。

わたしも続こうとドアノブに触れたとき、手に残った愛犬のぬくもりが冷めていく風に感じて、反射的に手を離し手を固く握った。

左手の人差し指と中指だけでドアを素早く引いて、割り込むように車に乗った。

シートベルトを締めるとすぐに母が明るく話しかけてきた。

わたしの気を紛らわそうとしてくれているのか、自分をそうしようとしているか定かではなかったけれど、話に乗ってたくさん話した。

気丈に振舞おうしても声が震えたのは、きっと冷え込む秋の夜空のせいだろう。

花屋につくと母はあまり喋らず、この花でいいかの確認だけして二束の花を買った。

花束を持たされたわたしの手のひらには、くっきりと爪の跡がついていた。

帰りは静かで、車の音と揺れに合わせて震える花だけがそこにあった。


家に帰るとお風呂が沸いていて、わたしは真っ先にお風呂に入れられた。

いつものように身体を洗おうとしたけど、手を開く気になれなくって、この日だけは手を洗わずに湯船に浸かった。湯船の熱は手にかすかに残った愛犬のぬくもりと一緒に、わたしの体にしみて廻った。手がゆっくりと解けた。

その熱でカチコチの涙腺が溶けたように、涙があふれてきた。

わたしはそこで初めて別れの涙を流した。


しばらくしてお風呂から上がって、髪を整えたら、そのまま夕ご飯を食べた。みんないつもよりにぎやかにご飯を食べたけど、時折花を添えたゲージを見ていた。

それからはいつものように片付けて、明日の用意をして、歯を磨いた。

一つ足りないだけの日常だった。

おやすみを言って自分の部屋に上がった。

きっと今日は夢を見るだろう。いつもの生活、もう過去になってしまう日常の夢。

もそもそとベットに潜る。

記憶が風化してしまわないか怖かったけど、いまはいつもの日常に浸りたかった。

起きたら枕カバーの替えを用意しないと、と思いながら、わたしは目を閉じた。

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