モンブラン愛好ピアニスト

白里りこ

モンブラン愛好ピアニスト

 妻の美知子がピアニストとして出演する演奏会がある時は、僕はほぼ必ず聴きに行く。そして演奏会が終わったら、美知子を乗せて車を走らせ、僕たちが以前通っていた音楽大学の近くにあるカフェで夕食とデザートを食べるのが恒例となっていた。


 美知子は凄い人だ。音大生時代に既に全国のコンクールで賞を取ったりしていたし、プロのオーケストラをバックにピアノコンチェルトを弾いたことだってあるし、今だって色んなアマチュアオーケストラから出演してくれないかと声がかかって引っ張りだこになっている。


 僕とは大違いだ。僕は勉強が嫌いだけれど、ピアノなら永遠に弾いていられるから、という軽い気持ちで音大に入った。もちろん入学するには相応の努力が必要なので、僕は僕なりに真剣に練習に取り組んだ。でも美知子には遠く及ばなかった。今僕は教員免許を取得して小学校の音楽教諭をやっている。


 同じ音大に同期として入った僕たち。一方は輝かしい経歴を持ち将来を嘱望されるプロのピアニスト。もう一方は同じ大学にいながらさしたる功績も残さずに音楽の道を捨てて一介の教師になった僕。

 一見、釣り合わない。

 そんな僕たちを繋ぐものが一つあった。


 モンブランである。


 甘味を愛する者の中に、とりわけモンブランをこよなく愛する者はどれほどいるだろうか。無類のモンブラン好きという人は決して多数派ではなさそうだが、僕も美知子も、ケーキなら断然モンブランを好む。


 僕と美知子は、ピアノ仲間というよりは、モンブラン仲間なのだ。むしろ、ピアノ仲間だなんておこがましい。たまたま同じ大学にいたモンブラン愛好家、それが僕たちだ。


 音大時代、美知子は有名だったので、最初は僕が一方的に彼女のことを知っていた。彼女は、僕のアルバイト先のカフェ・ラルゴという店で、来店するたびにモンブランを注文していた。しばらく経ってから、美知子が、大学構内でもカフェでも僕を見かけるということに気づいた。それからは、僕らはよくおしゃべりをするようになった。話題は専らピアノのこととモンブランのことだった。それで何だかんだ意気投合して、結婚して、今に至る。


 僕にはたまに、美知子が眩しすぎる時がある。やっぱり僕は美知子には釣り合わない。プロのピアニストとして立派に成長を続ける美知子を見ていると、自分と比べてちょっと卑屈な気分になってしまう。


 今日は、美知子のことをソリストとして呼んだアマチュアオーケストラの演奏会だ。美知子は演目の中でも、ラフマニノフ作曲「パガニーニの主題による変奏曲」のピアニストとして出演した。深緑色のドレスを着てオーケストラの前に座り、時には流れるように、時には力強く、多彩な音色を編み出していく美知子のことを、僕は格好いいなと思いながらじっと見ていた。

 僕にはあんな活躍は到底できない。遠い世界に、美知子はいる。


 やがて演奏会は終わった。僕は楽屋口まで美知子を迎えに行った。彼女はシンプルな黒いワンピースに着替えて、楽屋から出てきた。

「お疲れ様。演奏、良かったよ」

「ありがとう」

 僕たちは連れ立って駐車場まで行き、メタリックな赤色の塗装の自動車に乗り込んだ。僕たちがそれぞれ頑張って稼いだお金を出し合って買った車。


「それじゃ、行こうか。カフェ・ラルゴ」

「うん。よろしく」


 僕は車を発車させた。

 美知子は助手席でスマホを操作して、車内にBGMをかけた。曲目はラヴェル作曲の「ピアノ協奏曲」。次の本番はこれをやるらしい。

 今日の演奏会の会場は、カフェ・ラルゴまではいささか遠い。僕らはラヴェルを聞き流しながら、雑談をした。


「ああ、モンブラン楽しみ!」

「気が早いなぁ。まずはご飯を食べないと。疲れてるだろう」

「まあね。でも、好きなピアノを弾いて、好きな人とドライブして、好きなモンブランを食べる……っていうこの流れがね、大好きなんだよね」

「それには全面的に同意するよ」


 僕と美知子の間では、この近辺で食べられるモンブランとして最高に美味しいのはカフェ・ラルゴのものだということで、意見が一致している。学生時代、練習の息抜きにと、色んなケーキ屋やカフェのものを二人で食べ比べたものだが、最終的にはカフェ・ラルゴのモンブランに帰結した。

 つやつや光るマロングラッセ、甘さ控えめのマロンクリームと生クリーム、食べやすくてしっとりしたタルト生地。

 先述の通り美知子は学生時代からこのモンブランをしょっちゅう食べていたし、僕はアルバイターの特権として売れ残ったモンブランを譲り受けては家で食べていた。


「モンブランが無ければ美知子とお近づきになることもなかったもんなぁ」

「ふふっ。私ったら、同じピアノ科の同期なのに、全然あなたのこと覚えてなかったもんね。大変申し訳ない」

「いやいや。モンブランに感謝を」

「モンブラン最高」


 道は空いていて、車は快速で目的地まで向かう。カフェ・ラルゴ前に着いたので、僕は駐車場に車を停めて、美知子と連れ立って店に入った。

 夕飯用のカルボナーラと、食後のコーヒーとモンブランを注文する。

 僕たちは無心にカルボナーラを食べ切った。いよいよモンブランの御登場である。


 美しい山型のフォルムをしたケーキが目の前に置かれる。


 フォークでクリーム部分をすくって口に入れた美知子は、とてつもなく幸せそうな表情になった。そして二口目をすくいながら、僕にこう言った。


「そういえばね、私、思ったことがあるの」

「何?」

「最近は家のピアノ私ばっかり使ってるけど……私、家で宏斗と連弾してみたい」

「えっ」


 僕はフォークを持った手を止めて、美知子を見た。


「意外とそういう遊びやったことないでしょ、私たち。せっかくピアノ仲間なのに」

「そりゃやれないよ! これだけ実力差があるんだから。僕がついていけるわけがない」

 だが、美知子はちっとも気にしていない様子だった。

「そんなの別に構わないよ。趣味の範疇なんだから、とちってもいいし。楽しければそれで」

「うーん……」

「何か気になることでも?」

「……気になるというか……やっぱり僕にとって美知子はいつまでも凄い人だし。プロを目指さなかった僕なんかが、美知子の練習時間を削ってまで、一緒に弾いて良いものかと思って……」

「何言ってんの」


 美知子は顔をしかめた。


「良いに決まってるでしょ。前から思ってたけど、宏斗、ピアノのプロにならなかったからって、引け目を感じる必要はないよ。もっと自分の人生に自信持ちなさいよ」

「自信?」

「音大に入ったらみんながみんなプロを目指さなきゃいけないなんて、そんなことはないでしょう。他の大学に進学した人がみんな研究職につくわけではないのと一緒でね」

「それは、そうだけど……」

「私は私の人生を行くし、宏斗は宏斗の人生をちゃんと立派にやってるじゃない。どっちの人生が良いとかじゃなくて、私たちは対等に歩んでいる。そうじゃないの?」

 僕は上目遣いに美知子を見た。

「……。僕、立派に、やってるかな」

「もちろん。誇っていいと思うよ。それでも不安なら、私が太鼓判を押してあげる。宏斗は偉いってね」

「……そっか」


 僕は少し気持ちが軽くなるのを感じた。

 そっか、僕が勝手に自虐していただけで、美知子は僕のことを対等なパートナーだと思ってくれていたんだ。そして僕のことを、ピアノ仲間だとも言ってくれた。

 美知子がピアノの巧拙で他人のことを見下したりする人ではないのは当然分かっていたけれど、こうしてはっきり口に出して言われると、心がむずむずするような嬉しさが湧いてくる。


 僕はマロングラッセをフォークに載せた。

「……そういうことなら、まあ、連弾……やってみてもいいかも」

 僕が言って、マロングラッセを頬張ると、美知子はぱっと花が咲いたように笑った。

「やった、決まり。帰ったらさっそく通販で楽譜買おうね」

「うん」

「ああ、楽しみが増えた!」


 それから僕たちは、あれがやりたいこれがやりたいなどと、ピアノ連弾の曲についてしゃべりながら、モンブランを完食した。会計を済ませて、駐車場に出て、赤い車に乗る。助手席にはいつも通り美知子がいて、それだけで幸せな気分になる。モンブラン仲間で、ピアノ仲間の、優しくて格好いい僕の妻。


 今日は美知子のピアノも聴けたし、モンブランも食べたし、これからまた二人でドライブだし、帰ったら連弾の計画を立てるし。とても良い一日だ。


 僕は車のアクセルを踏んで、一路、僕たちの家を目指した。




 おわり

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モンブラン愛好ピアニスト 白里りこ @Tomaten

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