制1   李世民評上

余、李世民りせいみん王羲之おうぎしの書について論ず。


およそ文字とは上古、神の時代が過ぎ、ひとの時代にいたって生み出されたもの。文字以前の文様である繩文や鳥跡とされたもののうちに、不完全ながらも見出されはじめたものである。そうした者たちの子孫の代に至り、その素朴さから華やかさが見出されるに至った。


符に筆で墨塗る手立てが構築されると、文字書けるものはその高尚さを誇り、より巧みな文字が書けるように、と競い合うようになった。


後漢ごかん張芝ちょうし、字伯英はくえいは白い布に文字を書いては池で洗い落として再度文字を書き、を繰り返したため、その筆跡を学ぶことが難しい。同じく後漢の師宜官しぎかんも自らが書いた文字をやはり抹消したため、その筆跡はほとんど残っておらぬ。鍾繇しょうよう王羲之おうぎしの段階に至り、ようやくなんとか言及ができるようになったのである。


とは言え鍾繇も、当時一流の美文字であったとは語られるが、結局その筆跡はほぼ絶えており、いくらすごい字だと論じられこそしても、やはり疑いを持つ者もある。墨の濃淡、線の厚さ薄さなど、すべてが曖昧模糊とした靄の向こう、なにひとつとして判然とはせぬ。ただ古来よりの形式に則り、今様ではないと書かれ、とは言えその字の素晴らしさが時代を超越している、だなどと言った評ばかりが大量に残っているだけである。しかし、実際の筆跡が残っておらねば意味があるまい。


王獻之おうけんしの書には父の気風が受け継がれていたとは言え、そこに新味があるとは言えぬ。その字がやや薄く、痩せている様子は、さながら厳冬を耐え忍ぶ枯れ木がごときである。またその運筆が窮屈である様子を見れば、締め付け厳しき家で飢える奴婢のごとく見えもする。枯れ果てた木のごときとは、文字のハネがまるでのびのびとしておらぬことを言うのである。飢えた奴隷のごときとは、文字のトメが貧弱で、ぶれているのである。この両者を兼ね備える書など病んでいるとしか言いようがあるまい!




制曰:書契之興,肇乎中古,繩文鳥跡,不可足觀。末代去朴歸華,舒牋點翰,爭相誇尚,競其工拙。伯英臨池之妙,無復餘蹤;師宜懸帳之奇,罕有遺跡。逮乎鍾王以降,略可言焉。鍾雖擅美一時,亦為迥絕,論其盡善,或有所疑。至於布纖濃,分疏密,霞舒雲卷,無所間然。但其體則古而不今,字則長而逾制,語其大量,以此為瑕。獻之雖有父風,殊非新巧。觀其字勢疏瘦,如隆冬之枯樹;覽其筆蹤拘束,若嚴家之餓隸。其枯樹也,雖槎枿而無屈伸;其餓隸也,則羈羸而不放縱。兼斯二者,故翰墨之病歟!


(晋書80-5)




後世の皇帝から名指しでフルボッコにされてる王献之くんわろた。世説新語の王献之くん像、例えば品藻75

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054886914108

とか、忿狷6

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054887227333

に見える性分から、自分が物語化してみたもの

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915793

にまで繋がってる印象がまんま李世民さんの王献之の文字評にリンクしてくれてて、もう。にしても李世民パイセンのこの容赦のなさときたら!




■斠注


師宜懸帳之奇、

困學紀聞こんがくきぶん』二十には「衞恆『四體』書序攷之懸帳,乃梁鵠書。非師宜官書也。」とあります。

西晋せいしんの書家・衛恒えいこうが書き残した『四体筆勢したいひっせい』の序考によれば、懸帳エピソードは梁鵠りょうこくであって師宜官じゃないでしょ? とのこと。なお梁鵠は師宜官の弟子で、自らの筆跡を残そうとしなかった師匠を酒で酔い潰して筆跡を密かに盗み、その字を剽窃し、ついには曹操そうそうお抱えの書官になった人物。経緯はどうあれ曹操は梁鵠の字を気に入り、その字を巻物に書かせ、側につり下ろしたそうなのです。

李世民くんちょっと情報を圧縮しすぎじゃない?

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