【王献之・王羲之】キャンバスと筆とオヤジ
世に書聖と呼ばれる
春の盛り、三月三日。この日には曲水の宴、と呼ばれる宴が催される。清流に杯を浮かべ、杯とともに昨年の穢れを洗い流そう、とする会だ。その年は自宅よりほど近い、
時は巡り、いよいよ当日となった。王羲之、王献之を含む、四十三名の詩作者と、また詩作者の競演するさまを鑑賞して楽しまんとする見物人たちと。普段は閑静な庭園である蘭亭は、常になき賑わいとなっていた。人々を見回し、主催者である王羲之が高らかに開催を宣言する。その大意は以下の如きである。
春の盛り、やがて夏になんなんとするこの日、多くの方にお集まりいただけたことをうれしく思う。いま、この庭園に一なる清流を引き入れた。豪華な楽器の調べなどは用意できなかったが、清流に杯を浮かべて流し、諸賢とともに歌い合えば、この地の山林草花の趣はなまはかな調べをも
大いなる喝采と共に、詩会が始まった。ルールは以下の通りである。庭園内に引かれた清流に酒の入った杯を浮かべ、流す。自らの目の前に流れてきた酒が通り過ぎるよりも前に、詩を一句詠み、詠み上げたところで杯を取り上げ、飲み干す。そして改めて杯に酒を注ぎ、次の人間へと流すのである。自らの酒杯が流れ去るより前に詩を詠み切れなかった場合、罰ゲームとして多量の酒を飲まねばならない。言ってみれば、制限時間内に、どれだけ優れた詩を詠み上げられるか、を競うわけである。
早さと詩情、両者を高次で融合させるには、どうしても心の余裕が求められる。会の期日が迫れば迫るほどに鬱屈を積もらせた王献之では、もはやどうしようもなかった。よりよき詩を、よりよき字で。気が急けば急くほど、何一つとして言葉が思い浮かばない。結局二度の挑戦のうち、二度とも王献之は詠み上げられずに終わり、多量の酒を飲むこととなった。喝采が、笑い声が場内に沸く。朦朧とした頭で、王献之は主催席を見る。みごと二度ともに詩を詠み上げた父は、同じく二首を詠み上げた名士たちと共にこちらを見ている。笑っているのか、心配しているのか。いまいちその表情は読み取り切れない。おやじめ、いまに見ていろよ。心の中で王献之は歯ぎしりする。そして酒を飲み干すやいなやのところで、倒れた。
ただし、かれが何を思おうが、世はいつしかかれを、父と共に、二王、と呼ぶにまで至っていた。最高峰として見なされていたわけである。ときの貴人に
それが妙に癇に障るわけである。王献之は答える。わたしと父を比べることに、何の意味がありましょうか、と。わたしの書はわたしの書、父の書は父の書であります。あなた様ほどのお方が、そこを踏まえずにわたしと父を並べ立てられてこられることに、いたく失望致しました。そう言って王献之は、足早に謝安のもとを立ち去った。後日謝安が、王献之についてこうコメントしたのを耳にしている。彼の人柄や書には大いに見るべきものがある、だが、あのプライドの高さでいささか損をしている気がしてならん、と。大きなお世話だ、怒りのあまり、その時に書いていた書をビリビリに引き裂いてしまったものである。
どこまでも付きまとう、父の偉大なる背中。こいつをなんとかしないことには、おれの人生を上手く過ごせる気がしない。王献之は考える。どうにかおやじをやり込めることはできないものか。それも、同じ書と言う土俵で。
チャンスは、思ったよりも早くにやってきた。王羲之には奇癖があった。酔っぱらうと、やおら筆を取り出し、壁に書を落書きするのである。そして一気呵成に書き上げると満足し、ばたりと眠りに落ちてしまう。ある時それを、自宅の近くでやらかした。あのひょうろくだまが、と激怒する母をなだめ、わたしが迎えに行きますよ、と申し出る。現場に辿り着いてみれば、王羲之はみごとな
が、翌朝。昨晩自らが落書きをなした場所に王羲之が赴いてみれば、その字を見て、あからさまに愕然とするではないか。そして、ひとりごちるのである。昨晩のわしは、いったいどれだけ酔っていたのだ。このような下手な字を書いてしまっては、何とも世に顔向けができぬわい、と。密かに父を追っていた王献之は、その呟きを聞き、恥じ入るのであった。ことあるごとに我が字を褒めやそしてくれていた父ではあったが、いざわが事として字と向かい合ったときには、いったいどれだけの厳しき目でいたのであろうか。その一端を、我が身にてまざまざと思い知らされる。
そして、つい、笑ってしまった。なるほど、無心に字と向かい合っていた父と、父の字に囚われ続けてしまった自らの、これが差か。こちらに気付いた父に歩み寄り、昨晩のあらましを打ち明ける。すると王羲之も笑い、言ってくる。日々、これ精進あるのみだな、と。シンプルな言葉だったが、それだけに、重い。まあ、やれるだけやってみるさ。王献之も笑い、そう返すのだった。
解説
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915792
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