【王徽之】雪の候、隠者を求む
突然で申し訳ない。
正直もういやだ。
なんの話だ、と思うだろう。
順を追って話す。話すが、とりあえず言わせてくれ。
都より東南に馬で三日ほど離れた地、
ここですべてを投げ出すわけにはいかんのだ。わたしとて妻子を抱える身。とは言え、堪忍袋の緒には、どうしても限界があるだろう。昨晩のことについては、さすがに、こう、誰かに聞いて欲しくて仕方がなくなったのだ。
この地には多くの名族が住まうが、中でも著名なのは
ただし、わたしの主は王羲之さまではない。そのご三男、
句会は、庭園に引かれた小川のほとりで、王羲之さまがご提唱なされた題に沿って句を詠む、と言うものである。ただし、ただ詠むだけではない。上流より酒の注がれた杯が流される。杯が自らの目の前を流れ去るまでに一句をしたため、杯の酒を飲み、再び流す。
杯が目の前を通り過ぎるまでに句を詠めなかったものには罰が待っている。別に用意されたツボ一杯ぶんの酒を一気に飲み干さねばならぬのだ。多くの見物人たちの前で、である。恥ずかしいわ、一気飲みで酔いが回るわで悲惨な目に遭う。
参加した者は、これに二回挑戦する。
総勢、四十三名。このうち一句も読めずに罰酒を二回受けたものが十六名にのぼり、一回の罰酒を受けたものが十五名。
王徽之さまは、見事二回ともに句を詠まれ、観客より大いに称賛を得た。このときに句を詠めた名士の中には王羲之さま、謝安さまのほか、時の文人として大いに名を馳せておられた
この会によって、王徽之さまもまた名を挙げられた、と言ってよい。
そう、素晴らしい文人である。
そこに異論をはさむ気はない。
ないの、だが。
「おい、船を出せ!」
「はっ!? 王徽之さま、こんな真夜中にですか!?」
「だからだ、ええい! さっさとしろ!」
いちど思い立った王徽之さまをとどめることなどできない。布団から引きずり出されれば、寒さがこの身をさいなんでくる。どういうことだと思えば、外にはちらほらと、雪が降り始めていた。
「しっかり重ね着しておけよ、風邪をひくなど許さんからな」
「いえ、それならば外出せねば良いのでは……」
「外出はする! 風邪は引くな!」
むちゃくちゃである。
傍らにあった衣類と言う衣類、ついでに布団も引っ張り出し、船に積み込む。自分と同じく、いきなり叩き起こされた船頭どのにしても災難である。しかもかれは王徽之さまや、それに付き添いをするわたしとは違い、松明で先を照らすために着物にくるまったままでもおれぬし、ましてろくろく視野の利かぬ川を遡るのに、気も張らねばならぬ。途中で座礁でもしようものならば、王徽之さまに川に投げ込まれてしまうやも知れぬ。冗談抜きに、である。
慌ただしく舟がこぎ出されると、船頭どのの掲げた松明に照らされ、雪がはらりと我々のもとに舞い流れくるのが見えた。何とも幻想的な景色である――船頭どのの腕が震えておられるのに、気付かぬふりさえできたのであれば。
できたのであれば、だ。
だめだ、気を紛らわさねばならない。
「それで、王徽之さま。この突然の溯上、いかなるお心にてなされたのです?」
「ん?」
雪景色を心地よさそうに眺めておられた王徽之さまであったが、わたしの質問に応じ、答えの代わりに、詩を歌い始められた。
――杖策招隱士 荒塗橫古今
杖をついて、隠者を尋ねる。
荒れた道は長きの歴史を
思い起こさせる。
――巖穴無結構 丘中有鳴琴
かれのいる岩穴には
飾り気ひとつなく、
ただただ周囲に、琴の音が響く。
――白雪停陰岡 丹葩曜陽林
北の峰々に積もる白雪と、
南の林で輝く、赤き花。
――石泉漱瓊瑤 纖鱗亦浮沈
岩の合間から流れるせせらぎと、
ひらひらと舞う、蝶たち。
――非必絲與竹 山水有清音
いや、琴の音色ではなかった。
山水がさやかな音を奏でていたのだ。
――何事待嘯歌 灌木自悲吟
ならばわざわざ、歌うまでもない。
木々が、迫りくる秋を歌っている。
――秋菊兼糇糧 幽蘭間重襟
秋の菊は食卓を彩るだろう。
蘭の花は襟元を飾るだろう。
――躊躇足力煩 聊欲投吾簪
あぁ、こうして
歩いているのも煩わしい。
官途をすべて擲ち、
この景色に溶け込んでしまえれば。
わたしも知っている詩だった。
八十年ほど前、
隠者を尋ねる時の様子が描かれたこの詩は、詠む者にとある秋の日の展望をもたらす。狭い洞窟の中の景色から、一気に開けた景色、そのはるか遠くに連なる雪山と、近くで咲く花の彩りと。宮中の華やかな音楽の代わりに、自然が優美な歌を奏で挙げる。深まる秋を大いに味わいながら、隠者のように暮らしたいが、そう言うわけにもゆかないおのれの身のままならなさ。
まったく、それにしても実に美麗なお声である。このような方が「歌などいらぬ」だなどと嘯くのだからたまらぬ。そのたたずまいに、ひとときでこそあれ、魅入らずにはおれないではないか。
「この川の遡る先は、どこに向かう?」
「
わたしが口にした、その町には高名な隠者がいる。
「王徽之さま、まさか雪を見て、隠者に会いたくなった、と?」
返事は鼻歌のみである。
なんということだ、わたしは額に手を当てる。今さら言う事でもないが、気まぐれ、ほんとうに、ただの気まぐれなのだ。何か重要な用事でもあったのだろうか、などと少しでも考えた自分が愚かだった。
それに、確か王徽之さまは戴逵どのと面識はなかったはずである。いったいそれで、何ができるというのか。あるいは王徽之さまは、すぐにかのお方と通じることができる、などとお思いなのだろうか。
確かに、このお方であればなしとげてしまいそうな気もせぬではないのだが。
船頭どのの、文字通り命がけの働きもあり、明け方ごろには剡県に何とか到着できた。これは後ほど、重々に報いてやらねばなるまい。かれのおかげで王徽之さまは、輝かんばかりの笑顔になっておられる。
朝方には雪がやみ、積もった雪には日差しを浴びせかけられ、きらめいている。
戴逵どのは町でも有名であったため、町の者に聞けば、すぐに庵の所在を知ることができた。
聞きしに勝るあばら家である。壁や屋根にも穴が開いているようであり、これでどれだけ雨風をしのげるのだろうか。まして、昨晩のような天候では。
「ふむ」
王徽之さまは、戴逵どのの庵をしばし眺めておられた。
そして、頷かれる。
次に飛び出た言葉に、私はついつい主従の分を忘れてしまった。
「よし、満喫した。帰るぞ」
「――は?」
思いがけず、強い声になってしまったようだ。驚いたような顔で、王徽之さまがわたしを見る。
「隠者のもとに辿り着いたのだ。用は済んだだろう。何故そんなこともわからんのだ?」
「いえ、杖をつきて隱士を招ず、なのでしょう? なにか語らいたい、と思ってのことではなかったのですか?」
「おれが、戴逵どのと? 見ず知らずなのだぞ? なにを語ることがある?」
いやいや、それを聞きたいのはこちらである。
が、王徽之さまはそんな私の混乱など、一切気にも留められるつもりは無いようだった。大きく伸びをした後、本当に踵を返し、船へと引き返される。船では船頭どのが疲れ果て、眠りこけておられるはずだ。そんなかれを起さねばならぬとは、どうにも気がとがめられてならない。
「それにしても、隠者な! 世を捨てるのはまぁ良かろうが、あの暮らしだけは勘弁願いたいものだ!」
大いに笑われる王徽之さま。
――この野郎。
私が彼から見えないところで拳を握ってしまったのも、やむなきことであろう。
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