【王徽之】鳳を以て名と為す――雪の候、隠者を求む 再編

その景色の風光明媚なることで知られる、会稽かいけい郡は、山陰さんいん県。

旅のすがら立ち寄った酒屋にて、周辺から「がんさん」とも「ほうさん」とも呼ばれる方と出会った。かれはどちらの声にも気さくに、あるいはやや面倒くさそうに対応していた。


わたしは、かれの振る舞いに興味がわき、呼び名について伺うことにした。

するとかれはやや戸惑ったあと、「べつに、たいした話じゃねえんだがよ」と言い置いたうえで、私に一杯の酒をおごってくださった。


そして、おっしゃるのだ。


「ようは、愚痴なんだけどな。せっかくだ、付き合ってくれ」


 ○


この話するんなら、まず身の上を明かしておかねえとな。生まれてからの名前が雁で、戸籍に載る名前が鳳なのさ。うちのご主人、王徽之おうきしさまに変えられちまってよ。あの方がほうぼうでおれの名前が変わったのを触れ回るもんだから、こんなおかしなことになってるってわけだ。


ご主人が何者か、って? いくら旅人のあんただって、王義之おうぎしさまくらいは知ってんだろ? この国をときめくスーパースターさ。あの人は、その第三男だ。

お父上の開かれた蘭亭らんてい会じゃ、いまをときめく文人たちを向こうに見事な詩をお詠みになったってことで、その名も少しゃ轟いちゃくれてんのかなって思ったが……まぁ、どっちでもいいやな。おれのおまんまが増えるわけでもなし。


すげえお方さ、そうだとは思ってんだ。けど、なんつーかその……ふるまいが、いろいろアレでよ。


そいつが起こったのは、何年か前、王徽之様がようやく元服なすった頃のこと。まだ秋も暮れきってなかったってのに、いきなりの大雪が降り出した、夜。

寒さに震えながら寝床に丸まってたおれのとこに、いきなり王徽之さまが駆け込んでこられてよ。で、おれを蹴っ飛ばしてきやがった。


「雁! 船を出せ!」

「はっ!? こんな真夜中にですか!?」

「だからだ、ええい! さっさとしろ!」


それなりに長い間お勤めさせてもらってるから、あの方についちゃうんざりするほどわかってる。いちど思い立ったら、もう止められねえ。もちろん口じゃ頑張って止めるけどな。「喜んでついてった」なんて思われちまったら、お父上からどんな雷が落ちるともわかんねえからよ。


何はともあれ、そばにあった服と言う服、ついでに布団も引っ張り出して、船に積むことにした。それだけで手がかじかむわ、王徽之さまは雪に合わせて見事に舞っておられるわだ。


「しっかり重ね着しておけよ、風邪をひくなど許さんからな」

「そ、それなら外出しなきゃいいんじゃ……」

「外出はする! 風邪は引くな!」


むちゃくちゃだろ?


にしたって災難なのは、おれとおなじく、いきなり叩き起こされた船頭どのだ。いざ船に乗りゃ、船室に入れるおれらとは違って、松明で先を照らすために着物にもくるまっちゃらんねえし、ろくろく先も見えねえ川を遡るのに、ずっと気も張り通し。途中で座礁でもしようもんなら、王徽之さまに川にぶん投げ込まれちまうかもしれねえ。


慌ただしく舟がこぎ出されると、船頭どのの掲げた松明に照らされて、雪がはらはらと舞い流れてくる。まぁ、幻想的な景色じゃあった――船頭どのの腕が震えてんのに、気付かないでいられりゃ、な。


もちろん、無理だ。

だからせめて気をそらすためにも、王徽之さまに質問した。


「あの、そろそろ教えて下さい。何がなさりたいんです?」

「ん?」


雪景色を心地よさそうに眺めてた王徽之さまは、答えの代わりに、詩を歌い始める。



――杖策招隱士 荒塗橫古今

   杖をついて、隠者を尋ねる。

   荒れた道は長きの歴史を

   思い起こさせる。


――巖穴無結構 丘中有鳴琴

   かれのいる岩穴には

   飾り気ひとつなく、

   ただただ周囲に、琴の音が響く。


――白雪停陰岡 丹葩曜陽林

   北の峰々に積もる白雪と、

   南の林で輝く、赤き花。


――石泉漱瓊瑤 纖鱗亦浮沈

   岩の合間から流れるせせらぎと、

   ひらひらと舞う、蝶たち。


――非必絲與竹 山水有清音

   いや、琴の音色ではなかった。

   山水がさやかな音を奏でていたのだ。


――何事待嘯歌 灌木自悲吟

   ならばわざわざ、歌うまでもない。

   木々が、迫りくる秋を歌っている。


――秋菊兼糇糧 幽蘭間重襟

   秋の菊は食卓を彩るだろう。

   蘭の花は襟元を飾るだろう。


――躊躇足力煩 聊欲投吾簪

   あぁ、こうして

   歩いているのも煩わしい。

   官途をすべて擲ち、

   この景色に溶け込んでしまえれば。



世をときめく文人さまの家で働いてる身だ。こんなおれでも、それなりに詩は知ってる。そいつは八十年くらい前、左思さしってひとが詠んだ「招隱詩しょういんし」。


秋の日の展望、みたいな感じだな。狭い洞窟の中の景色との対比で語られるのが、そのはるか遠くに連なる雪山と、近くで咲く花の彩り。宮中の華やかな音楽の代わりに、自然が優美な歌を奏で挙げる。深まる秋を大いに味わいながら、隠者のように暮らしたいが、そう言うわけにもゆかないおのれの身のままならなさ。詩はこのあと隠者との対話について歌ったりもするんだが、その辺りは省略させてくれ。


それにしても、実に美麗な歌声なんだ、これが。その歌だけ聞きゃ、いろんなことも忘れちまいかねない、そんくらいさ。っが、心地よい時間が過ぎ去るのなんざ、すぐだ。


「この川の遡る先は、どこに向かう?」

しょう、ですかね」


その町には高名な隠者がいる。戴逵たいきって言うんだが。文章だけじゃなく、絵画、彫刻、詩吟にも長け、王徽之様との親交も厚い。ついでに言や、どっちも宮仕えをこの上なく嫌ってる。良くも悪くも、うちのご主人と馬があっちまうお方だ。


「ま、まさか……雪だからって、戴逵どのに会いたい、と?」


返事はない。

鼻歌だけ。


なんてこった、頭を抱えたね。今さらにもほどがあるが、気まぐれ、ほんとうに、ただの気まぐれなんだ。何か重要な用事でもあったんだろうか、なんて少しでも考えたおれがばかだった。

っが、もう船は進んでる。どうせ止まらないし、なにもかも今更だ。だからおれは、懸命に頭を巡らせたね――どう、お父上さまの雷から逃げようかって。全く思いつかなかったけどな。


船頭どのの働きは、文字通り命がけ。明け方ごろには剡県に何とか到着できた。おかげで王徽之さまは、はちきれんばかりの笑顔だ。後日、おれからも酒をおごったよ。「あんたも大変だな」って言われちまったけどよ。


その頃にはすっかり雪もやみ、朝日がそこに光を投げかけ、きらめかせたりもしてる。


戴逵さまは町の外れに庵を結んでる。一言でいや、あばら家だ。壁や屋根のそこかしこにゃ穴が開き、いつ家を支える柱が傾くんだかもわかったもんじゃない。


とはいえ、そんな家じゃあっても側用人はいるわけでな。そん時も、かれは慌ただしく雪かきをしてた。もちろん、おれとも知り合いだ。これもなにかの縁だと思って、おれは手伝おうかって声をかけようとした。


ら。


「ふむ! 満喫したぞ、帰る!」

「――は?」


おれの声も、思いがけず強かったみたいでな。

こっちを見る王徽之さまの顔つきは、びっくり仰天、ってなもんだった。


「何を訝る? 使用人のふるまいよりすれば、戴どのはご健勝だ。ならば用は済んだ。違うか?」


いや、ちげーよ。

どんだけ素で言いたかったことか。


「つ、杖をつきて隱士をもとむ、なんでしょう? なにか語らいたかったんじゃないんですか?」

「それはこちらの興だろう。戴どののものではない。共にあり、響き合うは、互いの興が和してこそだ。そんなこともわからんのか?」


わかるわけねーだろアホか。


っが、そこは正直、どうでも良かった。

あん時おれが気になってたのは、船頭どののこと。あんだけ夜っぴいて働かされたんだ、ようやく寝入れたかどうか、みたいな感じだったろう。このまま引き返したら、そいつを叩き起こさにゃならなくなる。


だから、おれは食い下がった。


「け、けど……」


額に、ぺし、と王徽之さまの扇子がぶつかる。


「まったく、興も解さん凡俗とは思っていたが、ここまでとは。お前には、雁の名前ももったいないようだな?」

「へ?」

「いいか、鳳だ。お前は今日から、鳳!」

「あ、え?」


不意打ちの扇子と、いきなりの宣言と。

そんなん食らって、混乱しないほうがどうかしてる。

うっかり立ち止まっちまったおれを尻目に、王徽之様はずんずん船の方に戻ってく。


船のあたりでようやく追い付きゃ、あの野郎、本気で船頭どのを叩き起こそうとしやがった。なんであわてて舵取りをおれが名乗り出て、山陰にまで戻ったわけなんだがよ。


まぁ、そんなこんなで、おりゃふたつの名前で呼ばれるようになったわけさ。


いや、驚いたぜ。山陰に戻ってみりゃ、もう改名手続きが済んでるってんだからな。ったく、そういう無駄な有能さは、おつとめで示してもらいたいもんだがなぁ。


 ○


恨みがましいことを口にしながらも、どこか彼は楽しそうでもあった。その様子がなんともおかしかったため、飽きずに最後まで聞けたようなところもある。


が、他方では、引っ掛かりも覚えぬではない。


「なるほど、経緯はわかりました。しかし、なぜそれで鳳なのです? 雁が勿体ないというのであれば、からすすずめうずら。他にも呼びようはあったでしょうに」


「そこなんだよ。頭のいい方々の考えは突飛っつーかなんつーか……いいか、鳳、って字の中には鳥がいるな? そいつを外に出してみろ、何が出てくる?」


頭の中に文字を描き、言われたように切り離そうとする。


「……あ!」


思わず声を上げてしまった。

そんなわたしを見、かれはにやりとした。


鳳の中にある、2文字。

それは、凡鳥、であったのだ。

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