会稽孔氏 安帝期の東海王師

会稽かいけい孔氏こうし孔子こうしの子孫とされ、劉裕りゅうゆうのクーデター決起にあたってアドバイザー的立場にあった孔靖こうせいが属する一門だ。晋書ではその一門の筆頭に孔靖の祖父、孔愉こうゆを挙げている。


孔愉、字は敬康けいこう。會稽郡山陰県さんいんけんの人。先祖は代々梁國りょうこくに居を構えていた。曾祖父は孔潛こうせんかん太子少傅たいししょうふとなるも、漢末の動乱を嫌い會稽に疎開した。祖父の孔竺こうじく豫章太守よしょうたいしゅとなった。父は孔恬こうてん湘東太守しょうとうたいしゅ。また同世代の年長者である孔侃こうかん大司農だいしのうとなり、みな江南の地で名を馳せていた。342 年、75 歳で死亡。車騎將軍しゃきしょうぐん開府かいふ儀同三司ぎどうさんしが追贈され、ていおくりなされた。子が六人あったが、特に名の知れた子は三人。孔誾こうぎん孔汪こうおう孔安國こうあんこくである。


孔誾が爵位を継ぎ、建安太守けんあんたいしゅにいたった。そして孔誾の子が孔靖。晋書では孔靜こうせいと書かれる。字は季恭ききょう會稽內史かいけいないしから尚書左僕射しょうしょさぼくしゃにのぼり、後には後將軍こうしょうぐんが加えられた。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054891500185/episodes/1177354054894321658

宋書に伝がある。「劉裕りゅうゆうにとっての張良ちょうりょう」的扱いを受けている割に、だいぶ史書での扱いが軽くて楽しいお方である。


孔汪、字は德澤とくたく。学問を好み徳ある行動を志し、孝武帝こうぶていの時代に侍中じちゅうとなった。この頃司馬道子しばどうしが好き勝手な任官をなしており、中でも佞臣の茹千秋じょせんしゅうがお気に入りであった。これはよくないと孔汪はしばしば孝武帝に注進したが、聞き入れられない。やがて尚書しょうしょ太常卿たいじょうけいに移されたが、自身の意見が反映されることがないならば、と外鎮を願い出た。孝武帝もその願い出を受け入れ、假節かせつ都督ととく交廣二州こうこうにしゅう諸軍事しょぐんじ征虜將軍せいりょしょうぐん平越中郎將へいえつちゅうろうじょう廣州刺史こうしゅうしし、要は南方の重要な抑えとして赴任させ、当地にて大いに治績を挙げた。このため任地で大いに讃えられた。392 年に死亡した。

孔安國、字も安國。兄たちよりも三十歲あまり若かった。名の残っていない兄たちは才能に乏しかったが、父の資産があったため好き放題できていた。その中にあり孔汪と孔安國は幼い頃から貧しさの中に身を置き、厳しく自己を律していた。孔汪は既にその際立った実直さにて讃えられており、孔安國もまた素朴な儒者としての有り様を体現し、名を知られるようになった。孝武帝の時代に大いに寵遇を受け、侍中じちゅう太常たいじょうを歴任した。孝武帝が死亡すると、孔安國は悲しみのあまりたちまちのうちに痩せこけ、喪服を身に着けて一日中泣いていた。ひとびとはこの様子こそがまことの孝であると語った。やがて會稽かいけい內史ないし領軍將軍りょうぐんしょうぐんに任じられた。安帝は以下のように詔勅を下している。

「領軍將軍の孔安國は貞慎清正、中央におけるほまれを外部に示しているならば本官に東海王とうかいおうを兼務させよ。必ずや東海王をより高き境地に導き、仁の境地に到達させよう」

後に尚書左僕射しょうしょさぼくしゃ尚書右僕射しょうしょうぼくしゃを歴任した。407 年に死亡。左光祿大夫ひだりこうろくたいふが追贈された。



孔愉から見ていとこの子に当たる、孔嚴こうげん。字は彭祖ほうそ。祖父は孔奕こうえき全椒令ぜんしょうれいとして、人並み外れた明察を示した。父は孔倫こうりん黃門郎こうもんろう。370 年、在官中に死亡した。子が3人いた。孔道民こうどうみん宣城せんじょう內史ないし孔靜民こうせいみん散騎侍郎さんきじろう孔福民こうふくみん太子洗馬たいしせんばである。いずれも孫恩そんおんに殺された。


孔羣こうぐん、字は敬林けいりん。孔愉のいとこ、孔嚴の叔父にあたる。在官中に死亡。子の孔沈こうしんが継いだ。孔沈の子は孔廞こうきん吳興ごこう太守たいしゅ廷尉ていいとなった。孔廞の子の孔琳之こうりんしは巧みな草書により名を馳せた。吳興太守ごこうたいしゅ侍中じちゅうとなり、宋の時代にも功績を残している。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054891500185/episodes/1177354054894602006

こちらに立伝されている。




孔愉字敬康,會稽山陰人也。其先世居梁國。曾祖潛,太子少傅,漢末避地會稽,因家焉。祖竺,吳豫章太守。父恬,湘東太守。從兄侃,大司農。俱有名江左。年七十五,咸康八年卒。贈車騎將軍、開府儀同三司,諡曰貞。三子:誾、汪、安國。

誾嗣爵,位至建安太守。誾子靜,字季恭,再為會稽內史,累遷尚書左僕射,加後將軍。

汪字德澤,好學有志行,孝武帝時位至侍中。時茹千秋以佞媚見幸於會稽王道子,汪屢言之于帝,帝不納。遷尚書太常卿,以不合意,求出,為假節、都督交廣二州諸軍事、征虜將軍、平越中郎將、廣州刺史,甚有政績,為嶺表所稱。太元十七年卒。

安國字安國,年小諸兄三十餘歲。羣從諸兄並乏才名,以富強自立,唯安國與汪少厲孤貧之操。汪既以直亮稱,安國亦以儒素顯。孝武帝時甚蒙禮遇,仕歷侍中、太常。及帝崩,安國形素羸瘦,服衰絰,涕泗竟日,見者以為真孝。再為會稽內史、領軍將軍。安帝隆安中下詔曰:「領軍將軍孔安國貞慎清正,出內播譽,可以本官領東海王師,必能導達津梁,依仁游藝。」後歷尚書左右僕射。義熙四年卒,贈左光祿大夫。

嚴字彭祖。祖父奕,全椒令,明察過人。父倫,黃門郎。太和五年,以疾去職,卒于家。三子:道民,宣城內史;靜民,散騎侍郎;福民,太子洗馬,皆為孫恩所害。

羣字敬林,嚴叔父也。卒於官。嗣子沈。沈子廞,位至吳興太守、廷尉。廞子琳之,以草書擅名,又為吳興太守、侍中。


(晋書78-1)




ここに出てくる会稽孔氏三房の関係性はこんな感じ。

じくてん

 -えきりんげん

   -ぐん

基本的には孔恬系が嫡流、孔恬の弟の子孫だが名士であった孔厳、孔羣は特に重く扱われた、と言う感じのようです。なるほど?


孔安国のエピソードは世説新語にも見えます。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054885730923

孝武帝周りは、何と言っても「死が規定ルート」っぽかった雰囲気もあるわけで、そこでこう号泣されてもねえ……的なアレがあります。


ところで安帝の詔勅に出てくる東海王ですが、謎。東海王の祭祀は廢帝はいてい司馬奕しばえきが初め継いだけど、会稽王かいけいおうに転封となって以後、次の東海王の名前が上がらないんですよね。これを「途絶」と二十五史補編にじゅうごしほへんは書いています。が、まぁ載っていないからと言っていないはずもなく。なにせ東晋としての王の格、瑯琊ろうや会稽かいけいが最上位なのはそうだけど、東海ってその次くらいのグレードにはついてるんですよね。それだけ東晋の立ち上げにおいて東海王とうかいおう司馬越しばえつからの影響が大きいんでしょう。なら、安帝の時代にも史書に載らない東海王がいた、と考えるのが良さそうです。ただ、こうなってくると頼りになるのが墓誌しかなくなるという地獄……。


※2023/11/01追記。

司馬元顕伝、何無忌伝に依れば、ここの東海王は司馬彦章のようだ、とのこと。改めて東海郡という封地の祭祀が東晋にとって重要なのがよくわかります。

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