最終話

 湯浴みを終え、古城の侍女に簡単なワンピースを着付けてもらう。亜麻色の髪はまだすこし湿っていたが、早く殿下にお会いしたい。髪の毛は軽く溶かしてもらい背中に流してから、殿下が待つ居室に移動した。


 殿下とひとしきり抱きしめ合ったあと、私は用意されていた客間へ移動し、旅装を解いて湯浴みをすることになったのだ。殿下はその間ずっと待っていてくださったようで、続き部屋のソファーで本に視線を落としていた。


 扉を開けた瞬間に、私の訪れに気付いたようだ。彼はすっと立ち上がり私の目の前まで歩み寄ると、何気ない仕草で腰を抱いた。まるで歩くのが不自由だったときのようにエスコートしてくれるつもりらしいが、あのころよりいっそう距離が近くなった気がして緊張してしまう。


 殿下に誘導されるようにして、彼が先ほどまで腰掛けていたソファーに並んで座った。


 もう、以前のようにふたりの間に距離が開くことはない。殿下は私の腰を抱いたまま引き寄せるようにして、私の顔を覗き込んだ。長い指先がそっと、くちびるに触れる。


「……痛むか?」


 先ほど、くちづけのときに殿下に噛まれた傷について言っているのだろう。あの濃密な時間を思い出して、それだけでかあっと頬が熱くなるのを感じた。


「今は、もうそれほどでもありません」


「それなら、くちづけてもいいか?」


 吐息が触れ合うような距離で、殿下は小さく微笑みながら許可を強請った。


 そんなふうに言われて、断れるはずがない。震えるまつ毛を閉じれば、そっと唇を重ねるだけの優しいくちづけを落とされた。


「……殿下は、くちづけがお好きなのですね」


「十年近く我慢してきたから、まだまだ足りない」


 ……やっぱり、殿下はさらりと大胆なことをおっしゃるから敵わないわ。


 湯浴みの直後だからか、のぼせるように体が熱かった。それを宥めるように、殿下の右手が私の頬を撫でる。


 ひやりとして心地よかったが、ふと、滑らかな手のひらの中心に違和感があることに気がついて、そっと彼の手を引き剥がした。


 両手で支えながら彼の手のひらを観察すれば、真ん中に、何か鋭いもので切ったような傷痕がある。ほとんど塞がっているが、痛々しい傷だった。こんな傷は、最後にお会いしたときにはなかったはずだ。


「……お怪我をされたのですね。何があったのですか?」


「大した理由じゃない」


 ……それでも、殿下のことならば知りたいと思うのに。


 ほんのすこし不満は覚えたが、言いたくないことならば仕方がない。彼の手のひらに頬を擦り寄せながら、目を瞑って早く良くなるよう祈った。


 その直後、ふわりと体が浮き上がるような感覚に見舞われ、目を開けたときには殿下の膝の上に座っていた。いくら婚約者とはいえあまりに恐れ多い体勢に、座面に戻ろうともがいたが、腰に回された腕がそれを許してくれなかった。


「それで、どうして僕を避けていたんだ? 何が嫌で一週間も姿を見せなかった?」


 尋問のような鋭い響きに、このところの私の行動は相当彼を困らせていたのだと察する。殿下を避けていたころは、ほんのすこし殿下を恨むような気持ちもあったけれど、殿下とローゼの関係の真実を知った今、彼を責められるはずもなかった。


「褒められた話ではありませんが……王城へ一晩お邪魔したあの夜、殿下と従者の方のお話が聞こえてしまったのです。殿下が、ローゼと夜を共にするほど深い仲だったことを――」


「――っそれは誤解だ。信じてもらえないかもしれないが……あれは――」


 珍しく私の言葉を遮った殿下の唇に、そっと人差し指を当てる。


「はい、存じております。……ローゼから、すべて聞いて参りましたから」


 彼の不意をついて、するりと床におり、膝をつく。


 この先の話は、殿下の婚約者としてではなく、ローゼの姉として、真摯に報告しなければならない内容だ。


「レイラ……そんなところに座るな」


「いいえ、この話だけは、どうかこのままお話しさせてください。……この一週間、私はある親切な方々の手を借りて、ローゼの行方を追っておりました。そして今日、本人に会うことが叶ったのです」


「……ローゼに?」


 殿下までソファーから降り、私の目の前で膝をつくようにして肩に手を置かれてしまった。私だけを床に座らせまいとしているのだろう。一国の王太子ともあろう人が。


 ……本当に、あなたというひとは。


 彼への想いがまたひとつ深まるのを感じたが、ローゼの処遇次第では、この恋はまもなく終わる。それを心苦しく思いながらも、まっすぐに殿下の目を見据えた。


「殿下、あなたにはなんと謝罪すればよいのか……どうか、すべてお聞き届けください」


 その前置きを皮切りに、私はひとつひとつ殿下に報告した。


 二年半前のあの事故は、ローゼの作為によるものだったこと。ローゼは殿下の婚約者という立場でありながら、殿下以外の男性と密通し、子を宿していたこと。そしてその事実を隠蔽するために、殿下との既成事実を捏造しようとしたこと。


 そのすべてを、余すところなく報告した。最後には声が震えてしまったが、伝えるべき事実はすべて伝えられただろう。


 殿下は、しばし沈黙を保っていたが、やがて乾いた笑みを浮かべた。


「そうか……あの事故も、あの女のせいだったんだな。よくもレイラに傷をつけてくれたものだ……」


 怜悧な蒼色の瞳が、憎悪に深く翳る。その対象が自分ではないとわかっていても、背筋がぞわりとした。


 そのまま殿下は暗い眼差しで私に微笑みかけると、再び私を抱き上げて膝の上に抱え込むような形でソファーに座り直した。そのまま前髪を掻き上げられ、傷痕を慰めるように何度もくちづける。


「レイラは、どうしたい? ……君を殺しかけた人間だ。僕に処遇を委ねると、最終的には殺すしかなくなるが……君に嫌われたくないから、君の望むかたちで収めよう」


 その言葉を言い終わるや否や、殿下はくるりと私の体の向きを変え、背後から抱きしめるような体勢をとった。そのまま肩に頭を預けられ、どくん、と心臓が跳ね上がるのがわかった。


「ありがたいお話ですが……私の私情で殿下の意思を決定していては、殿下はとんでもない暴君になってしまわれます」


 殿下はくすくすと笑いながら、そっと私の髪を耳にかけ、あらわになった耳朶に音を立ててくちづけた。思わずびくりと肩を跳ねさせれば、それすらも封じ込めるように強く抱きしめられてしまった。


「あの女の命ひとつで国が揺らぐわけでもない。それに……あいつを殺そうとするのだって僕の私情だ。余計なことを考えず、レイラの望みを言うんだ。……あいつの死を願うほど恨んでいるのであれば、生きているうちに出来うる限りの苦痛を与えた後で、殺してあげよう」


 ぞわりとした寒気が背筋を這う。吐息を溶かすように囁かれた言葉は、まるで毒のようだった。


 ……この方は、私が願えばきっと本当にやってのけてしまうのでしょうね。


 それがたとえ人の道に外れたことであっても、彼は実現してしまうのだろう。彼にはそれだけの力も意思もあるのだ。


 だが、それに頼って私が自分の思いを無理矢理通そうとするのは、許されることではない。


 ……だから、わがままをいうのはこれが最初で最後よ。


 そう自分に言い聞かせ、殿下の腕の中でどうにか体を捻り、彼の顔を見上げた。


「私にしたことはともかく、ローゼが殿下に犯した罪は決して許されることではありません。本来ならば、彼女の命だけでは到底償えないような大罪です。でも――」


 ローゼと彼女の護衛騎士に抱かれていた、小さな赤子を思い出す。どんな重苦しい空気も切り裂くように元気な声で泣く様は、とても愛おしかった。


「――彼女のためではなく、彼女の子どものために……彼女は病死と公表し、見逃していただけないでしょうか。子どもに、罪はないでしょうから……」


 本来ならば、許されない願いだとわかっている。だが殿下は小さく微笑んで、そっと私を抱きしめた。


「わかった。明日にでも、あの女の病死を公表しよう。王家と公爵家には、君が持ってきたあの女の髪を遺髪として提出する。それで、この問題は終わりだ」


「……っ殿下のご恩情に、感謝申し上げます」


 抱きしめられている体勢なのできちんとした礼はできないのが悔やまれる。静かに目を瞑り、祈るように殿下への感謝の念を捧げた。


「先ほどからまた殿下、と繰り返しているが……名前で呼ぶように言ったはずだ」


 咎めるような言葉に、はっと顔をあげる。すぐに、蒼色の瞳に捉えられ、彼がずっとこちらを見つめていたのだと知った。


「申し訳ありません。今のお話は、殿下の婚約者としてではなく、ローゼの姉としてお話しするべきと考えておりましたので……」


「それなら、そろそろ僕の婚約者に戻ってくれ、レイラ」


 笑うように告げて、彼は私の額にくちづけた。そのまま唇が、目尻に、頬に移動していき、やがて彼の指先が唇に触れる。


「……はい、ルイス」


 気恥ずかしさで微笑みがぎこちなくなったが、それもすぐに気にならなくなった。彼が、吸いつくように唇を重ねたからだ。


 くちづけは次第に深くなり、ルイスの体重を支えきれず、ソファーに押し倒されるような体勢になる。彼は私の顔に影を落とすように見下ろして、ふっと小さな笑みを見せた。今まで見たどの笑顔よりも、満ち足りた表情をしている。


「……ようやく、君が僕のものになった」


 慈しむように頬を撫でられ、その心地よさに頬が緩んでいく。


「ふふ、おかしなことをおっしゃいます。私はずっと、あなたのものなのに」


 私もまた、彼の頬に手を伸ばし、彼の存在を確かめるように撫でた。すこしくすぐったそうに目を細める姿に、じわりと胸が温かくなる。


「私の初恋は、あなたですよ、ルイス。……今までも、これからもずっと、お慕い申し上げております」


「嬉しいことばかり言ってくれる。……僕も同じ言葉を返したいが、あいにく、君のように綺麗な感情ではなさそうだ。ただ――」


 殿下は、私と両手の指をすべて絡めると、祈るようにまつ毛を伏せ、こつりと額同士を擦り合わせた。


「――君は、紛れもなく僕のすべてだ」


 それは不思議と、どんな愛の言葉よりも、すとんと胸の内に入り込んできた。「愛している」よりも、なんだか彼らしい気がする。


 ……もう決して、離れないわ。


 逃げることも、彼から隠れることもしない。私の居場所は、彼の隣にあるのだ。


 吸い寄せられるように、どちらからともなく唇を重ねる。夢のように甘いくちづけに酔いしれながら、永い初恋がようやく報われた喜びに、どちらのものとも知れぬ涙が一粒こぼれ落ちていった。

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傷心公爵令嬢レイラの逃避行 ルイス編 染井由乃 @Yoshino02

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