第17話

 正門までたどり着くと、心得たように黒いお仕着せをきた侍女たちが出迎えてくれた。


 シャルロッテさんは、今日の夕暮れまでに私がここに到着する、という旨の手紙を古城に出してくれていたらしい。どうやら無事に伝わっているようだった。


 ……王都へは、もう知らせが届いているかしら。


 取り組まなければならない問題が、山ほどある。思わずぎゅう、とローゼの髪が入っている鞄を握りしめた。殿下に彼女の罪を告白することを考えただけで、気が重くなるようだ。


 侍女の先導で、玄関広間から繋がっている大階段を上り始める。この世を焼き尽くすかのようなまがまがしい夕焼けが、階上の廊下の窓から差し込んで、白い階段を赤く染めていた。


 その階段の先に、夕焼けを背にする黒い人影を見た。薄いレースが幾重にも重ねられた美しいドレスを纏った、華奢な女性の姿だ。


 こつり、と細い靴音を立てながら、そのひとは一段降りてきた。新緑の瞳は、薄暗い古城の中で浮かび上がるように神秘的な光をたたえている。言葉より先に、階段の脇に逸れて深く礼をした。


 ……王妃さまだわ。どうしてここに。


 今までにも数えるほどしか対面したことがない相手なだけに、ひどく緊張していた。思いがけない相手との邂逅に、ばくばくと心臓が高鳴っている。


 ……療養にいらしているのかしら。


 こつり、とまた一段彼女が階段を下りて、こちらに近づいてくるのがわかった。そこにいるだけで空気が張り詰めるほどに、厳かな雰囲気を纏ったひとだ。


「……知らせは受けているわ、レイラ・アシュベリー公爵令嬢。無事で何より」


 消え入りそうでありながら、決して聞きづらくはない不思議な声だった。


「突然の訪問にもかかわらず、受け入れてくださりありがとうございます」


「……あなたは、ここに――王家に、戻ってきてしまってよかったの?」


 こつり、とまた一歩彼女が私との距離を詰めるのがわかった。彼女の質問の意図を捉えるべく、深く礼をしたままあらゆる考えをめぐらせる。


 だがその思考を中断させるかのように、王妃さまの細い手が、そっと私の肩に添えられた。そのまま顔を上げるように促され、身体が震えそうになるのを堪えながら彼女の目を見据える。


 その冷たく整った美貌に、殿下を思い出してしまう。


 王家の直径の証でもある殿下の銀髪と蒼の瞳は紛れもなく国王陛下譲りだが、怖いくらいに整った目鼻立ちも、静謐な雰囲気も、王妃さまとよく似ていた。


「あなたが目覚めてから……あの子が私と陛下に懇願してきたわ。『異例なこととは承知な上で、もういちどレイラ・アシュベリー公爵令嬢と婚約させてほしい』と……」


「……え?」


 ……婚約は、王家の意向じゃなかったの?


 殿下が、自ら両陛下に直談判しただなんて。すこしも考えたことがなかった。


「陛下はすぐに承諾してしまったけれど……私は反対だったわ。可哀想なあなたを、逃がしてあげたかった……せっかく目覚めたのに、鎖をつけられるなんて……」


「鎖、ですか……?」


 新緑の瞳に、怯えの色が混じる。彼女は自らの体を掻き抱くように、ぎゅうと両腕に自らの手を食い込ませていた。繊細なレースに指が食い込むほどの強さだ。


「……逃げるなら、きっとこれが最後の機会よ。……公爵令嬢としての義務なんてすべて捨てて、あの子の手の届かない遠くへお逃げなさい。これを逃せば、二度と自由になれないわ。……私のように、なってしまうわ」


 そう諭す彼女は、ひどく苦しげだった。まるで、彼女自身が何かに囚われているかのように見える。

 

 ……王妃さまにとって、陛下との結婚は望まぬものだったのかしら。


 困惑していると、縋るように両肩を強く掴まれる。この華奢な体のどこにこんな力が眠っているのかと驚いてしまった。


「王妃さま……?」


「王家の人間はみんなおかしいわ……。王家や、王家に近しい家の人間は、みんなそう……。いちど執着したものを、絶対に離そうとしない。捕まったが最後、どれだけ傷付けられようが、心を閉ざそうが、決して手放してはくれないの……」


 あああ、と彼女は嘆きの声を上げ、その場に崩れ落ちた。ここは階段の半ばだ。慌てて私もしゃがみ込み、彼女の肩を支える。すぐに、階上に控えていたらしい侍女たちも駆け寄って王妃さまの周りを取り囲んだ。


「ねえ……逃げて、あなただけは。あなたまで、こんな思いをする必要はないの。息もできないような場所で、生きていく必要はないの……」


 ひたすらに「逃げて」を繰り返す彼女に、ひどく困惑してしまった。


 王妃さまの心の状態が、ここまで不安定だとは思わなかった。少なくとも公務で見かけるときには、威厳のある凛然とした姿を見せているのに。


 話の流れから察するに、王妃さまは陛下に執着されて王家に囚われたということなのだろうか。そしてその苦しみは、今も続いているということなのだろうか。


 ――特別な場所……と言えばそうなのかもしれないが、母にとっていい思い出がある場所なのかはよくわからない。この温室にいたのは、おそらく母の意思ではなかっただろうから。


 温室で、殿下が語った言葉を思い出す。あれは、陛下の意向で、温室に閉じ込められていたということなのだろうか。


 ぞわり、と背筋を寒気が抜けていった。王妃さまは、殿下も、同じようなことを私にすると言いたいのだろうか。


 ……すごく、怖いわ。でも……。


「王妃さま、私は――」


「逃げて、早くお逃げなさい。あの子が来てしまう前に、逃げなさい!」


「――困ります、母上。僕の花嫁を、勝手に逃がそうとなさるなんて」


 階下から、冷たい声が響き渡る。大きな声を出しているわけでもないのに、恐ろしいほどよく通る声だった。


 ……殿下?


 夕闇の中で、彼の銀色の髪は浮かび上がるように輝いていた。まるで月の光が溶け込んでいるかのようだ。


 殿下と再会するのは、王都に帰ってからだと思っていた。


 ……まさかここまで、迎えに来てくださったの?


 呆然としている間に、気づけば殿下は私のすぐそばまで階段を駆け上がっていた。そのまま無言で私の腕を掴み、強く引いて立ち上がらせる。


「殿下……」


「――母上、レイラとの話はまた後日にお願いします」


 それだけ告げて、殿下は私の手を引いて歩き出した。王妃さまにろくな挨拶もできなかった、と階段を駆け下りながらも半身で振り返れば、ひどく物悲しい新緑の瞳が私たちを見つめていた。


 ……王妃さま、ありがとうございます。でも私、大丈夫です。


 心の中で言葉を紡いで、前を向く。私は、私の意思でここに帰ってきたのだ。そもそも結果的に一週間ほど姿を晦ますことになってしまっただけで、逃げ出すつもりもなかった。


 殿下に、どうお伝えしようかと悩んでいるうちに、彼は重厚な扉を蹴破るように開け、客室らしき広い部屋に飛び込んだ。大きな窓からは庭園が望める仕様になっているようだが、今は薄暗くてよく見えない。


 てっきり部屋の中心に据えられたソファーに座るものと思ったが、彼は続き部屋のほうまで歩みを進め、強引に扉を開けた。そのまま、突き飛ばされるように寝台の上に投げ出されてしまう。


「……っ」


 かちゃり、と響いた金属音は、殿下が後ろ手に扉の鍵を閉めた音のようだった。沈みかけた暗い夕焼けだけが照らし出す寝室の中で、彼は躊躇いなく私に覆い被さった。


「ルイス――」


 事情を説明しようと開いた口は、温かく柔らかな何かに塞がれてしまった。何が起きているのかわからず、はっと目を見開いてしまう。


 数瞬遅れて、彼にくちづけられているのだとわかった。呼吸も許されないほどに深くなっていくくちづけに、びくりと肩が跳ねる。


 額や頬には何度もくちづけられたが、唇は初めてで息の仕方がよくわからない。息苦しさにぎゅう、と目を瞑れば、閉じたまつ毛の間からじわりと涙がにじみだした。


 あまりの苦しさに、思わず殿下の肩に手を添えて引き剥がそうともがくも、すぐに彼の手に手首を押さえつけられてしまった。寝台の上に縫いとめられるような体勢で、呼吸を奪うようなくちづけに耐える。


「っ……は」


 思い切り顔を背け、新鮮な空気を吸い込む。唇がひりひりと痛み、血の味がした。いつのまにか噛まれていたらしい。


 殿下は口もとについた私の血を舌先で舐めとりながら、珍しく明確な微笑を見せた。怖いくらいに整ったその笑みに、本能的にぞわりとしたものが背筋を駆け抜けていく。


「怯えた顔も綺麗だ、レイラ」


 恍惚の笑みを浮かべながら、彼は指先で私の唇に触れ、傷口を確かめるようになぞった。ぴりぴりとした鋭い痛みに、思わず表情が歪む。


「君を思いのままに扱うことが、こんなに気分のいいことだとは知らなかった。こうして捕まえていて初めて、安心して息ができるような気がする。……最初から、こうすればよかったんだな」


 翳るまなざしで、殿下は幸せそうに微笑んだ。軽く小首を傾げて私を見下ろす彼は、何かが吹っ切れてしまったような不吉な気配を纏っていたが、その微笑みがあまりに綺麗で逃げ出したいと思えない。


 ……殿下は、こんなふうに笑うこともできるのね。


 こんな状況でも、殿下の新たな表情を見つけられたことが嬉しかった。


 それくらい深く、私は彼に恋をしている。


 気づけば私は、自由になった左手で彼の胸もとの服を掴み、引き寄せていた。


 そのまま、血のにじんだ唇を、そっと彼の唇に重ね合わせる。まつ毛を伏せてしばらくその感触に酔いしれるも、すぐに引き離されてしまった。


「っ……そんなことをしても、もう自由にはしてやらない。母の言っていた通りだ。君はもう逃げられない。逃げようとするなら、君を殺してでも引き止める。……せいぜい、僕のような人間に愛されてしまったその身の不幸を嘆けばいい」


 自嘲気味な笑みを浮かべる彼は、よく見れば小刻みに震えているようにも見えた。


 ……殿下は、何かを恐れているのね。


 その震えをどうしても止めて差し上げたくて、もういちど彼を引き寄せてくちづける。唇からにじむ血で、彼に熱をわけ与えられたらいい。


「……レイラっ」


 繰り返されるくちづけに、殿下が抗議じみた声で私の名を呼んだ。翳る蒼色の瞳は、深い悲しみをたたえたように揺らいでいる。


「この先はもう、どこにも参りませんわ。あなたのいる場所が、私の居場所です」


「……口だけならどうとでも言える」


「だから行動で示しているのではありませんか」


 そう告げて、もういちど私からくちづけをした。その瞬間に震えがふっと収まり、どこかこわばっていた空気がほどけていくのを感じた。


 次第に殿下も私のくちづけに応えるように、くちづけは深くなっていった。息苦しさはやはり拭えなかったが、不思議と先ほどより甘い。


 やがてぽたぽたと、生ぬるい雨が降ってきた。


 わずかにくちびるを離して、彼は私を見下ろした。翳りの溶け込んだ涙の粒が、彼の目もとを伝って私の頬に落ちている。


 ……泣くところも、初めて見たわ。


 私がいなくなったせいで、彼にこんな悲しい表情をさせてしまったのだろうか。


 そう思うと、胸の奥がぎゅうと締めつけられた。これが、愛しさでなくてなんというだろう。


「突然いなくなってしまってごめんなさい。……ただいま帰りました、ルイス」


 押さえつけられていた右手は、あっけなく思うほど簡単に解放された。自由になった両腕で、そっと彼を引き寄せるように抱きしめる。


「……っ」


 彼は何も言わずに、きつく私を抱きしめ返した。ふたりで力をこめているせいで、息もできないほど苦しかったが、それすらも幸福の証のように思えてしまう。


 そのまま私たちは、何も言わずに抱きしめ合っていた。


 お互いの鼓動が、相手の体に刻み込まれるまで、ずっと。

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