ご飯にする? お風呂にする? それとも、縄ほどいて欲しい?

麺田 トマト

夜の似合う女


「ご飯にする? お風呂にする? それとも、縄ほどいて欲しい?」


 太い縄で椅子に縛り付けられたおとこを前に、おんなは微笑みを浮かべて質問した。


 二人は近所での評判の夫婦だった。

 拘束されている夫の勝春かつはるは製薬会社の研究員をしていた。

 昔から研究一筋で女っ気がこれっぽちもない有様。三十代も半ばを迎え、見かねた友人が気をまわしてお見合いの場を設け、そこで知り合ったのが今椅子の前で頓珍漢なことを言っている妻の小夜さよだった。


 小夜は名前の通り”夜”の字が似合う静かな女だった。

 夜闇のようなしっとりした黒い髪をすっと肩に流して、勝春の精いっぱいのエピソードトークを聞いてくすっと上品に笑う。綻んだ笑顔は派手ではないが、夜道を導いてくれる街路灯のような前向きな魅力があって、女慣れしていない勝春はすぐに恋に落ちた。

 勝春の拙いながらも必死なリードに着いていこうと小夜が決心したのが三年前。

 子どもはいないが仲の良い、熟年の夫婦のような雰囲気さえまとった二人だった。


 それが何故、自宅の居間で夫は縛り付けられるような間柄になったのか。

 勝春は当然疑問に思って、目の前の小夜に問いただした。


「仕事が終わって晩に家に帰ったら後頭部を殴られて、気づいたら椅子に縛り付けられてる。これはどういうことか説明してくれるかい?」


 勝春はあくまで冷静を心がけた。

 小夜は考えも無しに人を縛るような馬鹿な女ではない。何か理由があるはずだ、と。


「……ご飯にする? お風呂にする? それとも、縄ほどいて欲しい?」


 しかし小夜は熱に浮かされたように、うふふうふふ、と笑いながら、同じ台詞を繰り返した。


 ……これはどうも様子がおかしい。


「――ご飯にしたらどうなるんだい?」


 勝春は様子を見るために、へべれけのように幸せそうな顔をした小夜に質問をした。小夜は不安定に声を揺らして答えた。


「そうねぇ~。漫画のおひたしにしようかしらぁ」


 ……勝春は耳を疑った。

 なんだ、その妙に見た目だけは想像できる食い物は。

 勝春の脳内には、雨風に晒され道路に張り付いたエロ本雑誌の光景が再生された。

 なんだか味が想像できそうなのも気味が悪い。


 やはりいつもの小夜ではない。

 そう確信して小夜に声をかけようと思った瞬間、小夜が全身をぶるりと震わせた。

 フードコートの呼び出しベルを思い起こすほどの激しいバイブレーションに戸惑っていると、小夜の雰囲気ががらりと変わった。

 いつもより雰囲気が暗い、夜というよりも海の底のような不気味な感じだ。目の下のクマが濃くなっているような気さえする。

 どうにか縄をほどけないかともがいていると、小夜が物を引きずるような低い声で言った。


「……ご飯にする? お風呂にする? それとも、縄ほどいて欲しい……?」


 もちろん勝春が望むのは拘束からの開放だったが、今の状態でそんなことを言ったら首が斬られそうに思ったので、


「お風呂にしたら、どうなるんだい?」

「……ナイトプールに行きましょう……」

「意外と軟派なんぱ!?」


 雰囲気とのギャップに驚いた勝春だった――が、勝春はそこで異変に気付いた。

 無論小夜の様子はおかしいのだが、触れるといつも冷たい白い肌が、今は頬や首のあたりが赤く染まっているのだ。

 酔っているのか? しかしアルコールの匂いはしない。

 そこで勝春はピンときた。


 ……そういや、開発中のクスリの副作用に、似たようなものがあったっけな。


 その薬の名前は『PARPOONT』という。

 精神病患者のために依存性の少ない薬として開発された、精神を高揚させるためのものなのだが、副作用があった。

 頬や首の周りが赤くなること。

 ――そして、数分おきに性格が変わってしまうこと。

 後者の副作用は致命的で、マウスに投与したところ、その気性(性格)のまま元の気性が消え去ってしまうということで、大いに研究員を戸惑わせていた代物だった。


 そのクスリのせいで何年も悩まされているのだと小夜に愚痴るために、しかし希望になるクスリでもあるのだと自慢するために、実は昨日、勝春は会社に隠れてその錠剤を家に持ち帰ってきていた。

 勝春は自らの行いを後悔した。

 恐らく、小夜はこの『PARPOONT』を飲んでしまったのだろう。

 理由は分からないが、このままでは小夜の性格が破綻してしまう!


 勝春は脂汗をだらだらと流しながら、縄を解ほどくよう小夜を説得することにした。何をするにも縄をほどかなければ話にならない。


「小夜、小夜。落ち着いて、まずこの縄を――」


 と、話を始めた瞬間、またしても小夜の体がぶるりと震えた。

 今度はやたらと舌足らずな子供のような声で、


「ねぇ、ごはんにしゅる? おふろにしゅりゅ? それとも、シルバニアファミリーしゅる?」


 なんだか本物の子どもを相手にしているみたいな気分になって、勝春は焦る気持ちを抑えてあやすように答える。


「ごめんね、シルバニアファミリーはしないんだ」

「ならしゅる?」

「野球盤もしない」

「アクアビーズしゅる?」

「……君はエポック社の製品が好きなんだね」


 大人びている小夜も、幼いころはそういった玩具で遊んでいたのだろうか。

 ……もしも子どもが出来るのなら、こんな会話もあったのかもしれない。

 ――もっとも、私は小夜がいればそれでいいのだが。


「小夜。落ち着いて、まずこの縄をほどいてほしいんだ」

「なわをほどくの?」


 小夜は黒い目で勝春を真っすぐに見つめる。その眼差しは子どものように清らかで、眩しい。


「そうだ。お願いできるかな」


 勝春は自社製品の効力の凄まじさを肌で感じながら小夜(子どもVer.)を説得する。

 小夜はこくりと頷くと、椅子に近づいてくる。いいぞ、そのまま――とその時小夜がぶるりと震えた。


「……縄をほどいたら、いなくなっちゃうじゃん」


 またもや小夜の雰囲気が変わった。

 声質は大人の小夜より少し幼く、思い悩む思春期の高校生のような独特の空気感が、言葉の合間に挟まっている。


「……いなくなんてならないよ」


 勝春は俯く小夜に対して、諭すように言う。

 本当は彼女の小さな肩に触れてやりたかったが、生憎手は後ろ手に縛られている。


「そんなの分からない。私は暗い女だし、子どもは作れないし、足りないものばかりある。縄で縛っておかないと、きっと貴方はどこかに行ってしまう」

「そんなことは――」

「ねぇ、勝春君。

 ご飯にする? お風呂にする? それとも、縄ほどいて欲しい?」


 小夜の上気した頬に涙の雫が伝う。

 勝春は、小夜が何故クスリを飲んだかが分かった気がした。

 勝春はゆっくりと息を吐くと、全身の力を抜いて、小夜がいつも見せてくれるような微笑をつくる。


「……じゃあ、ご飯にしようか」


 意外な返答に小夜は首を傾げて問う。


「なんでご飯にするの?」

「だって、夜は食らい(暗い)ものだろう」

 

 

 

 

 

 

 

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ご飯にする? お風呂にする? それとも、縄ほどいて欲しい? 麺田 トマト @tomato-menda

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