大行灯に滴る血

桜零

大行灯に滴る血

 三味線によるお囃子が弾き鳴らされた。まもなく夜見世が始まるようだ。遊女たちは大行燈のもと照らされ、妖艶な気配を漂わせる。

 いつもの光景を、離れた場所で萩夏は見下ろしていた。

「萩ちゃん、うちら心中しよか?」

 不意に、柊花魁が言った。まるで一緒に湯あみをしようと誘うかのように。

 本気とも冗談ともとれるその発言に、柊の髪を梳いていた萩夏の手が一瞬止まる。

「わっちなんかとするのはもったいないよ。せっかく良い人に見初められたんだから、主さんはそっちで幸せにならなきゃダメ」

 同郷の柊に対して使う必要もない廓言葉をつい口に出しながら、萩夏は一息に言う。

 その返答を聞いて、傷ついたように目を落とす。萩夏はそれに気づいた様子だったが、気持ちを押し込めるようにこう言った。

「柊、約束しよう。うちもあんたもそれぞれ幸せになるんよ。あんたはそのお侍さんのもとで。うちもいつか花魁になって、それであんたみたいにいい人に身請けされて、幸せになる。どうよ、悪くない話でしょ?」

 悪くないと言っておきながら、萩夏の声に生気はない。どうしようもないんよ、と小声で付け足す。数秒間、重苦しい沈黙が二人の間に流れた。それを破ったのは柊だった。

「萩ちゃん。それなら、指切りげんまんしましょう」

 急に振り返って言った。

「指切り?」

 萩夏はいぶかし気な表情で聞きなおす。

 遊女の間で通常「指切り」というのは、小指の第一関節を切り落として客に渡すことで愛を示すことだ。とはいっても、実際本当に自分の指を切る人は滅多におらず、たいていの人は死体の指や模型品を使っている。いくら柊が相手でも、できればやりたくないと萩夏は思った。だがそれを見透かしたように柊は、そういうのじゃないのよ、とにこやかに言う。

「小指出して」

 恐る恐る小指を突き出す。その指を柊は自分の小指で絡めとった。そして、声に節をつけながら歌い始めた。


 〽指切りげんまん 嘘ついたら針千本のーます 指切った


 唖然とする萩夏の指を離す。

「なによこれ」

「あら、萩ちゃん知らないの?何か約束するときに歌う唄よ。最近流行っているのよ。たぶん、例の指切りが由来ね」

 萩夏はまた怪訝な顔になるも、柊が楽しそうに笑っているのでこれこそ悪い気はしなかった。そして、どちらともなく口づけを交わして、萩夏はそこを後にした。

 ねっとりと絡みつくようで、それでいて少しだけ塩辛い口づけだった。

 

 柊の死体が見つかったのはその翌朝だった。遊女の身投げは珍しいことでもないが、花魁となれば話は違った。妓楼の人々は様々なうわさをした。きっと、あの子を妬んだ娘に殺されたのよ。きっと、男と身投げしたけれど男のほうだけ助かったのよ。きっと――

 だが、人一人死んだとしても妓楼の人々の暮らしは変わらない。朝からせわしく飯を炊き、大浴場を賑わす。萩夏にそのことが伝えられたのは幾分か時間が経ってからだった。

「柊……が?」

「萩夏さん、あんた柊花魁と仲良うしとったでしょ。だから早く伝えてあげたかったけど、まだお客さんが帰ってなかったから、どうにもできんくてね」

 萩夏は茫然と虚空を見つめた。無気力に。無感動に。

「ほんと、例のお侍さんになんて説明すればよいのやら。あんた、何か知らないかい?」

「知らない」

 柊の体は物置小屋の外にひっそりと置かれていた。まだ、着物が艶やかに水を滴らせている。萩夏は近づいて、顔にかかっている筵をはぎ取った。眠っているのかと錯覚するくらい安らかな顔だった、と言えたらよかったのだが実際その表情は淡い悲壮に歪んでいる。それを萩夏は冷ややかに見下ろした。だが、ふと違和感を感じて萩夏は胸の上で組まれた左手に目をやった。その手には小指がなかったのだ。まさか、柊は死ぬ前に自分で小指を切り落としたとでもいうのか。幸せになるという約束を破ったから、本当に指を切ったとでもいうのか。

「馬鹿っ、そんなことするくらいなら……」

 柊の小指は小さくて形が整っていた。とてもかわいらしかった。それを思い出したかのように、萩夏は止め処なく涙を流した。先ほどまでの冷ややかな視線とは対照的に熱い涙を。後悔、憤怒、悔悟、憎悪、傷心、そして溢れんばかりの恋慕の情のすべてをその涙に込めて――

 そのとき、どこからともなく指切りの唄が聞こえてきた。


 〽指切りげんまん 嘘ついたら針千本のーます 指切った 死んだらごめん

 

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