紫霄
背中が疼いた。
指が、引き攣れた傷痕をなぞる。思えばその傷を負ったのはもう遥か昔のことなのだ。傷は疾うに癒えている。今は、白い刀痕が残るのみである。
しかし、時折走る痛みは、幾ら時が経とうと消えることはなかった。薄れこそしたがなくならぬ傷痕と同様、傷と共に負った過去は決して消えはしない。
それは呪縛であった。その傷が、その痛みが、彼を何度も昏い過去に引きずり込んだ。忘却の彼方に追いやりたくて仕方のない記憶から、しかし逃れることはできない。幾度も、幾度も、彼はあの日に立ち返り、地獄の責め苦に遭うのだ。
断ち切ることのできぬ連鎖に未だ深く囚われ、自嘲の笑みを浮かべつつ嘆息し、今宵もまた、繰り言を呟く。
――そうだ。忘れることなどできようか、あの夜を。忘れ得ようか、あの日々を。
ああ、分かっている。だから、しかと見据えてきた。己の罪を、犯してしまった過ちを。
全てが狂い始めたのはいつだ。あいつが壊れたのは何故だ。
憑かれたように剣を振るい、切り刻み、血を浴びて愉しそうに嗤った。お前は決して血に飢えた殺戮者などではなかったのに。ひたすらに強さを、至高の領域を追い求めた高潔な戦士であった筈なのに。
どこで道を踏み外した?
俺はあいつを連れ戻せていたかもしれない。気のせいだなどと思わずに、きちんと向き合っていたならば。目を覚ませと、本気で口説いていたならば。あの時の俺が、思いやりというものを、履き違えてさえいなければ。
どこかおかしいのは薄々感じていた。お前が一人で、何か途方もないものを抱え込んで苦しんでいるような気がした。しかし俺はみすみす見逃してしまったのだ。
……無論、今更考えても詮無きことだ。過ぎたことを悔やもうと、何も変わらぬ。だが、悔やまずにはいられぬさ。過ちに後悔はつきものだからな。
何故だ。ずっと一緒だと、誓ったのに。何があろうと傍にいると、共に生きようと、約束したのに。
ああ、ラサンテ。
お前に会いたい。もう一度、俺を兄貴と呼んで欲しい。
◇
剣が何よりも好きだった。
研ぎ澄まされ、濡れたように輝く刃は美しい。彼の剣は揺らめく殺意の焔を宿し、どんな剣よりも、強く、鋭く、冷ややかだった。
だが悲しいかな、どんなものも、行き過ぎれば歪む。
至高の領域。届きそうで届かぬ境地だった。いや、既に達していたのかもしれないが、それすら気付かぬほどに、彼の欲望には果てがなかった。
どれだけ鍛えようと肉体には限界がある。そう分かってはいようとも、常に彼の内には、今までの努力の対価など塵と消し飛ぶような、圧倒的な力が欲しいという不遜な願いが秘められていた。
その驕りが、呪いの石――グレントールを呼び、グレントールもまた彼を呼んだのだ。
力への飽くなき欲望、修羅の妄執、裏返せば弱者への厭悪。己の欲と憎しみに、喰い潰された成れの果て。
血染めの手で兄を突き飛ばしたのだ。彼と共に来ることがないよう、優しい兄を道連れにはせぬように。
あのときの兄の顔は、今でも鮮明に脳裏に浮かんだ。最後まで彼を案じ、哀しい目で、謝るような目で彼を見た。罵声の一つも浴びせてくれれば、或いはそのとき自身が完全に心を失っていれば、こうも毎夜、責め苛まれることはなかったであろう。
兄と縁を切ったのを間違ったこととは思っていない。そのまま兄に甘えていれば、いつか必ず、兄を手にかけただろうから。
しかし彼はそうして、己の半分を失った。
――一体いつ、道を踏み外したのか?
勿論、最早引き返すことの叶わぬ場所に立ったのはあのとき、禁忌に手を出し、己が呑まれた日に決まっていよう。だが俺は、生まれ落ちたその日から永劫に、狂気へ至る道を歩んでいたのではなかろうか。兄とは違う道を。
半ば狂いながら、それでも共に歩んでいた。道を外れてゆきながらも、兄の姿はまだ見えた。しかし、俺がいつの間にか迷い込んでいた隘路に見出した甘美な呪いは、俺を奈落に引きずり込んだ。
戻れることならば戻りたい。戻ってあのときの俺に怒鳴りたい。声が届くならば。
力を得るには代償が伴う。貴様が望んだ身の程知らずの力、傲慢と怠惰のために貴様が失うのは、到底贖い切れぬものなのだと。貴様自身の心と、唯一無二の友であり、理解者である兄なのだと。
俺は大馬鹿者だ。
今、お前はどうしているのだろう。俺のいない世界で、幸せに暮らせているのだろうか。それとも、未だに俺のせいで苦しんでいるのだろうか。お前はまだ捜しているのだろうか、無邪気な弟であった、嘗ての俺を。
もう捜すな。悔やむな。俺のことなどで、無駄に思い患うな。忘れてくれ、生きている間は。
ああ、レセーン。
冥土で会ったら全てを打ち明けよう。そうしてまた、お前を兄貴と呼ばせてくれ。
思い出すは、紫の空。彼らの故郷――気高き、兄弟の色。
依り、依られ。欲望に、後悔に憑られ。
愛に落ち、闇に堕ちた。
双紫相愛(部誌ver) 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます