黒夜

 レセーンが次に目を覚ましたとき、視界に飛び込んで来たのは自室の天井だった。

(ラサンテ)

 緩慢な動作で起き上がり、部屋を見回すも弟の姿はない。軽い目眩を覚えながらも立ち上がり、外に出て隣の部屋の戸を叩く。

「ラサンテ……」

「どうした」

 中からラサンテが顔を覗かせる。よく見知った弟と、何の変わりもないように思われた。あのときの狂気がまるで嘘のようだった。

「いや、何でもない。漸くゆっくり過ごせるな」

 ああ、これでラサンテと憂いなく暮らせる。そう思ってレセーンは笑った。

 邪魔者は消えた今、ラサンテに王座を明け渡し、再び二人で生きられると信じたのであった。


 だが、悲しいかな、平和な日常など戻って来はしなかったのだ。狂い始めた歯車は、ただ回り続けるだけ。もう二度と、元には戻らない。


 ラサンテは苦悩した。絶え間なく堕落へと彼を煽り立てるグレントールの囁きに、抑え切れなくなりそうな力に。

 レセーンは訝しんだ。やはり弟が少し変わったのを。彼の行動から感じられるようになった、微かなひずみを。

 そして、遂にその日は来てしまったのだった。


「消えろ。俺の前から消えろ!!」


 怒号と鉄の暴風が吹きつけていた。凄まじい咆哮と殺気に空気はびりびりと震えた。陽炎のように揺らめきそうなほどに。

 増えてゆく傷と膨れ上がる恐怖とでレセーンの身体はじんじんと痺れた。

 足元が滑る。傷が痛む。あまりの衝撃に脳は麻痺している。空気が足りぬ、血も足りぬ。力も足りぬ。

 石畳が赤い。何故か? 飛び散った臓物、肉片、粉々の骨。あれは何か?

 血走った目でこちらを睨みつけ、狂ったように剣を振りかざして斬りかかってくる者。これは誰か?

 ――分かっていた。だが到底受け入れられるものではなかったのだ。

 この部屋を鮮やかに汚すのは、かつては妹だったもの。目の前にいるのは妹の形を見るも無残な有様に変えた元凶。

 何が起こったというのだろうか。何故、唯一無二の友である弟が、兄である彼を殺さんと剣を振るうのか。

 決して殺し合わぬと、誓った弟が。

 これは俺の弟ではない、という思いが頭を過る。そうだ、愛する弟に恐怖を感じるはずはないのだから。これは何か他の魔物なのだ、悪夢なのだ、と言い聞かせる。しかし、荒々しく激しい太刀筋は紛うことなく、レセーンがよく知る弟――剣聖ラサンテのもの。誰にも真似はできぬ、血を吐くような鍛錬、たゆみない努力の結晶、磨き上げられた動きに彼の常人離れした膂力が加わってこそ為せる、猛々しい嵐のような剣の舞。

 疑う余地はない。

「どうした、ラサンテ! 何故エリーファを殺した。目を覚ませ、何故俺を斬……」

 必死に応戦しつつ弟を諭そうと口を開いたレセーンであったが、声は途中で絶えた。

 薙ぎ払われた剣の力と勢いに負け、指先から肩まで電撃のように痺れが走り、握っていた剣が飛ぶ。拾い上げようとするも束の間、ぬめる液体に足を取られ、その足を払われ、視界は一瞬のうちに反転し、身体は地面に叩きつけられた。

 背中で熱いものが弾ける。

 斬られた――。

 倒れ伏したレセーンは灼熱の苦痛の合間に、床に何かが落ちる音、硬く冷たい金属音を聞いた。

 ラサンテの剣だった。刀身どころか、柄までもが全てべったりと紅に染まった剣。血を吸って禍々しくぎらつく剣。彼に向けられるはずのない剣。

「ラサンテ、どうした……」

 言葉の代わりに血が溢れだす。目だけを動かして弟を見上げる。

 だが、ラサンテは目を合わせようとしなかった。ただ生気を失い、代わりに狂気の熱を宿したとんでもなく昏い目で、床に転がる己の剣を見つめるだけだった。

 おかしい。ラサンテが剣を取り落とすことなどあり得ない。死んでも放すことはない、そういう剣であるはずだ。

 ――いや、既に何もかもがおかしいのだった。

「何故、このような、ことを……」

 喋るごとに命が流れ出していくが、構わず続けた。

「何が、あった。話してくれ……何か、あるんだろう?」

 ごぼごぼと濁った音が混じる。構わない。愛する弟が先だった。

「いつも、お前は、一人、で。助けたい……のだ、お前、を」

「黙れ」

 懸命に紡ぎ出される言葉、己が地に倒れても弟を案ずる兄の愛情を無情にも叩き切るラサンテの声は、先程の怒声とは打って変わって低く、暗く、冷たい。

 そんなラサンテは知らなかった。これが敵を屠るときの顔なのだろうか、と思った。

 そうだ、いつも汚い仕事はラサンテがやってくれていた。尽きぬ敵を殺し続け、彼と彼の魂の潔白を守ってくれたのは弟であるラサンテだった。任せきりだった、故に弟の手は血に濡れるばかり、しまいには芯まで赤黒く染まり切ってしまったのだろうか、だから最近はよそよそしく、思い詰めた顔をしているのではないだろうか、と思ったレセーンであった。

(きっと何か途方もないものを一人で抱え込んでいたのだ、ラサンテは。俺の知らぬ間に)

 それが何であるのか知りたかった。兄弟なのだから打ち明けて欲しかった。何かおかしいのではないかと不安を覚え始めたとき、何度か尋ねもした。だがその度にはぐらかされ、遂には今、突き放されてしまった。

「……」

 口を動かしても、もう血反吐と喘鳴しか出てこない。身体も動かない。ラサンテは何も言ってくれない。

 最早訴える手段は目しか残っていなかった。落ちようとする瞼を必死に押しとどめ、血で濁る目を何とか見開き、弟を見上げた。

 しかしそんな努力も虚しく視界は黒く滲んでいくのだ。弟の背後に黒い穴が穿たれ、そこから闇が徐々に――

 広がってゆく。

「……」

 背筋が粟立つ。

 確信した。あの闇は意識の混濁がもたらす視覚の異常ではないのだ、と。

 異様な力を感じるのである。どろどろとおぞましく、ねっとりと邪悪で、刺すように鋭く、誘うように柔らかい。生きている闇だ。穴が、闇が、為す術なく横たわる彼を喰らわんと顎門を開く。

 いっぱいに広がった黒の中に、弟の目だけが紅く輝いている――

「……貴様は、俺の兄などではない。生まれる世界を間違ったのだ」

 冷然と響いて脳を殴るその言葉とともに、闇が襲いかかってきた。


(すまない、お前を救ってやれなくて。兄に、なれなくて)

 そう呟いた。声は出なかったが。


 ラサンテの声が震えていた、と思ったのを最後に、レセーンは意識を手放した。

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