紅炎

 闇が地を覆い、紅の月が空に笑う頃。

 妙に眠りにつくことができず、レセーンは起き上がった。大して暑い訳でもないのに背が湿っぽい。ここのところ気が立って仕方がなく、それに寝苦しさが更なる追い討ちを掛け、思わず掛け布をぐしゃぐしゃと掻き乱して投げ捨てた。決して物に当たることがなかった彼が、である。

「……」

 毎晩のように邪魔しに来る弟を、これほど恋しく思う日が来るとはついぞ思わなかった。ついこの前までは、常に傍らにいたというのが嘘のようだ。己の半身を失ったに等しく、たまらなく空虚に感じられるのも無理からぬことであった。

(ラサンテ……お前がいないと、寂しいものだ)

 できることならば、彼に会いに城を飛び出していきたかった。彼がモルス・アルバに逃れたということは分かっていたのだ。彼を殺そうとしていた者たちが転移魔術の痕跡を辿ってそう突き止めたのだが、まさか死の雪原まで追いかけに行ける強者がいるはずもない。しかし、レセーンならばモルス・アルバの中に入り込み、ラサンテを救ってしまいかねないということで、一族に厳しく監視され、到底外に出られそうにないのであった。居場所が分かっているにも関わらず助けに行けぬというもどかしさが、レセーンの苛立ちをより一層募らせた。

(いつか、必ずお前を迎えに……)

 そのときだった。

 はっと振り返れば、カツ、カツ、と窓を叩く音がする。カーテンを勢いよく開ければ、そこには炯々と輝く一対の赤い目。

 叫びかけたレセーンを、彼は人差し指を口に当てて制した。

(開けろ)

 そう囁く、窓の外の瞳。言われるがままにそっと硝子を押し開けると、黒い影はするりと部屋の中に入り込んだ。

 懐かしい、身を切るような覇気。

 彼は戻って来たのだ。瀕死の重傷を負いながら氷雪の地獄に投げ出されたと言うのに、今、完全に回復してここにいる。失踪から、まだ五日しか経っていなかった。

「ラサンテ……」

 立ち尽くすレセーン。何と言葉にしてよいか分からぬ思いがこみ上げ、彼の瞼と口元を震わせた。歓喜、しかし純粋な歓喜ではなく、悲しみと、後悔と、様々混じり合った複雑な情念は、喉の奥につかえて出てこない。

 対するラサンテもまた物言わず、いつかのように、兄を寝床へと誘った。

 言葉はいらなかった。心通じ合った兄弟には、固い抱擁と、貪るような口づけだけで十分だった。


「兄貴。ザッハータを殺す、手伝え」

「ああ」

 愛は目を潰す。レセーンは、ラサンテの復讐心に潜む魔物に気付かなかった。

 元より欲しくもなかった玉座を投げ出すため、その障害になるものを排除するため。全てはラサンテの為に、レセーンは初めてその手を血に汚すことを決めた。何の迷いもなかった。


 それから数日後のことだ。

「父上。いらっしゃいますか」

「やっと出てきたな、レセーンよ。機嫌は直ったか?」

「……部屋を出ると色々な奴に絡まれて、鬱陶しくて仕方ありません」

 悲嘆に暮れ、ザッハータ一派の所業に憤り、自室に引きこもって出てこなかった彼である。おまけにいざ出てきてみれば、妹のエリーファやら、監視役であろう一族の者やらにずっと付き纏われては、皮肉の一つも言いたくなるに違いない。

「それで、何の用だ」

「託宣です。神殿まで来て頂きたく」

 ザッハータの目が、あからさまな不審の色を隠すことなくレセーンを睨んだ。

「託宣だと?」

「今から向かいます。……私が信用できないのであれば、一族の者を何人か連れて来ても構いませんが。しかし来て頂かなければ、父上が呪われるか、或いは巻き添えを恐れた赫血の者たちに襲われてしまうと思いますので」

 レセーンはあくまで淡々と告げる。祖霊の呼び出しには必ず応じなければならない、それが掟だった。来ないという選択肢を与える気は更々なかった。ザッハータは祖霊の呪いなど信じてはおらぬのだろうが、掟を破れば当人のみならず赫血の全員が何らかの報いを受けることになっている。その前に当人を一族から追放する、つまり殺せばその限りではないとも伝わっている。元よりザッハータと一族の他の者が結託したのはひとえにラサンテという共通の敵を駆逐するため、そのラサンテがいなくなったとされている今、ザッハータが掟を破ったと知れれば皆、すぐさま手のひらを返すだろう。

「どうなさいますか。誰かお呼びになりますか」

「無用」

 ザッハータは、レセーンの性格もよく解しているつもりでいた。魔術、剣技共に優れた技倆を有することは知っていたが、所詮そんなものは個人の武勇。争いを嫌い、私欲をほぼ持たぬ。裏の世界でも悪名高きラサンテとは違い、人脈も、他人を籠絡して味方につけ、上に立とうという気概もない。弟の庇護の許に、安穏と暮らす隠者。傀儡にはうってつけのよくできた異端児、そんな認識であった。事実、その通りであった。誰が見ようとも。

 だがそれも、ラサンテが関わってくれば別なのだ。

 ザッハータは、明らかに普段と違うレセーンの態度を、未だ機嫌が悪いせいだろうと受け取った。

「そうですか。では、お願い致します」

 父を伴い、神殿へと向かうレセーン――暗黒に閉ざされた迷路へと入っていくとき、彼の瞳もまた海淵の青い闇を宿していた。


 虚ろな足音が時を刻む。踊る鬼火が、狂宴へと導く。

「どうぞ」

 神殿に入り、祭壇の前まで進む二人。懐からナイフを取り出し、レセーンは指先を少し切って血を垂らした。

「……父上の番です」

 ナイフを受け取ろうと、ザッハータが手を差し出す。

 次の瞬間、手首が落ちた。


 迸った血が跳ねる。祭壇にこれでもかというほど血が降りかかる。

「託宣だ、ザッハータ。死ね」

 剣を手に、忽然と現れてそう告げたのはラサンテであった。


「レセーン、貴様!!」

 そう言うが早いか、己を謀った息子に掴みかかろうとするザッハータ――そこに割り込むラサンテの刃。

「俺を見ろ、ザッハータ。貴様を殺すのは俺だ……貴様を呪うのは俺だ!!」

 剣閃が新たな血飛沫を上げる。もう片方の手も斬り落とされ、ごとりと地に落ちる。魔力を込めた斬撃は傷口を焼き、組織の再生を許さぬ。

 壁際に退いたレセーンは、ザッハータを拘束せんと術を張る。何も治癒の術だけが取り柄ではない、攻撃の技はそこまで目覚ましいものではなくとも妨害ならばお手の物だ。使う機会がなかったため一般には知られていないが。

 妖しく輝く青い瞳がザッハータを縛る。炎の光を受けて剣が光る。焼けた鉄のように。

 両手を失ったザッハータは魔術で対抗する他ない。噴き出す血は鎌となって宙を切り裂いた。斬り払われようと障壁に阻まれて霧散しようと、再び凝結してラサンテに向かってゆく。その数は増えてゆくばかり――

 しかしラサンテは攻撃の手を緩めぬ。幾つか命中し、身体が裂けようとも構わずに剣を振るい、それどころか、血を鎖に変えて鎌を絡め取り、飲み込んでゆく。

「くたばれ、老いぼれ!!」

 苛烈さを増す紅の瞳。烈しく燃え盛る炎。横薙ぎに一閃、ザッハータの両足首を断つ。そして片翼の抱える眼球に、剣を突き立てる。

 耳を劈く、おぞましい叫声――そして潰れた眼球から、ずるずると赤黒い触手が飛び出した!

「気色が悪い、化け物めッ」

 容赦なく斬り捨てれば、散らばった切れ端がびたびたとのたくり、芋虫のように蠢いてラサンテに群がる。その間にも新たな触手が伸びてくる。炎の蛇で迎え撃ち、蛭のように吸い付いてくる夥しい数の虫を焼き払い、狂ったように回るもう一つの目玉を潰す。

 激痛の中、何故ラサンテに対抗できぬのだろうとザッハータは必死に疑った。彼の知り得る限りでは、彼の息子はここまで強大な力を持ち合わせてはいなかった。ラサンテが極めたのは剣、対するザッハータが磨き上げたのは魔術による攻撃の術。剣は魔術には勝てぬ、故に負けるはずはないと信じていた。しかし実際に戦ってみればどうだ? 全くもって歯が立たぬ。

 これがグレントールに憑かれる前のラサンテならば、事の趨勢はまた変わっていただろうが、彼に与えられた邪悪なる力は、ザッハータとの力量差を補って余りある。それどころか、例えザッハータが何人いようと敵わぬほどの差を生んだ。

 幼き頃から凶暴な王者として、弱者を踏みにじる側で過ごしてきた嘗ての魔王は、このとき初めて、恐怖と言うものを感じていた。

「どうだ、信じられぬか。苦しいだろう、恐ろしいだろう!! とくと味わえ、復讐の味をな!!」

 剣を捨て、のたうつ触手を素手で引き千切り、食い千切ってラサンテは笑う。その手を、牙を、全身を真っ赤に染めて。ありったけの嘲りを込めた嗤笑で以て、正気を打ち砕く。狂気を呼び覚ます。

「苦しめ。そして死ね、永劫の苦痛と共に死ね!!」

 殺戮の、狂気を――


 どくり。


 辺りに立ち込める、噎せ返るような血の匂いが魔物を呼ぶ。

 一帯を染め上げる紅が魔物を呼ぶ。

 猛る復讐心が、憎悪が、怒りが、侮蔑の快楽が、魔物を呼ぶ。


 どくり。


 拍動と共に、四肢の先まで侵される。抗い難き衝動に。

 弾ける狂笑。苦悶の呻き。身を捩る哀れな生贄、耳障りな絶叫。限界を迎えたのか、ザッハータの黒く硬い表皮はぼろぼろと剥がれ落ち、真っ赤な真皮が覗く。そこにぼこぼこと浮かび上がる無数の眼球――それをラサンテは片端から鋭い爪で貫いた。今までずっと無表情で見守っていたレセーンがぴくりと顔を引き攣らせる。ラサンテの呼吸が早まる。裂けた口から笑声が迸る。何度も、何度も刺して、抉り出す。

「おい、ラサンテ、流石にもう……」

 レセーンの声は絶笑に掻き消される。血に飢えた魔物は止まらぬ。断末魔が途切れても尚、ひたすらに切り裂き、殴打し、血を浴びる。

 弟が抱いた憎しみの深さは理解していたつもりでいたが、流石にここまで来ると目に余る。ザッハータは既に息絶えて久しい、何も原型を留めぬほど破壊する必要はない。何かがおかしい、彼の狂気じみた行動を止めなければ、とレセーンは戦慄した。

「ラサンテ。もう十分だ、それ以上は……」

 冒瀆を止めぬラサンテの肩に手を掛け、揺さぶる。血濡れた顔が振り向く。

 そのとき何が起こったのだろうか――レセーンは、鈍い衝撃を受けて倒れ伏した。父親の屍、と言うより残骸の横に。血溜まりの中に。

 閉ざされた闇の中には暫くの間、壊れた笑声だけが響き渡っていた。

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