蒼氷

 視界が黒く瞬いたと思うと、次の瞬間には紫の空の下にいた。

 刹那、痛いほどの冷たさが身体を刺し貫いた。

(何とか、逃げ出せたか)

 ラサンテとて不死身ではない。傷を受け続ければ、いつか死ぬ。兄の命のためには逃げるしかなかった。転移は成功したようだ。

(本当に戻って来た。白き故郷……お前はまだ、我が友か、それとも)

 倒れたときに分かるだろう。

 吹雪の中、重い身体を引きずってラサンテは歩き始めた。来た道を赤く染めながら、遠く霞む城の影に背を向け、聳える氷の山へ。幼き日の、住処へと。


 深い雪に足を取られ、次第に前へ進めなくなった。身体は冷え切り、何も感じられなくなった。燃えるような烈しい怒りでさえ凍てついて失意に変わり、ラサンテは己を嗤って雪に倒れ込んだ。

(喰らうならば喰らえ。そうでなければ俺を救え、あの日のように)

 身体が沈む。白い、白い混濁――

 そして意識を、手放した。


 目を覚ませば、美しい青に囲まれていた。蒼氷の天井。風のない、暖かにさえ思える静謐な洞窟。

 身を起こして辺りを見回せば、所々にわだかまっていた雪がさわさわと這い寄って来、ラサンテの身体を愛撫した。「おかえり」と言わんばかりに。

 救われたのだ。

 気付けば傷も塞がっている。兄のいない今、彼を慰めてくれるのは白き友人のみ。それでも、独りではなかったことに感謝した。

「礼を言う、モルス・アルバよ……我が偉大なる友」

 谺して和する声。外で啼く風。再び彼は、幾度目かの眠りに落ちた。


 一体どれだけの時間を過ごしたのだろうか。そこには昼も夜もない。皆目見当が付かなかった。

 さて、これからどうすべきか。

(レセーン……俺が戻ればお前の立場は苦しくなるだろう。困らせたくはない。それに、また人質に取られては、俺は何もできん。だが……お前を取り戻したい)

 そのときだった。

「誰だ」

 はっと顔を上げる。呼ばれた、気がした。だがこんな人外境に誰がいようはずもない。空耳か、と思い直すも――

 やはり、何か声がする。音としてではなく、身体の髄に直接呼びかけてくる魔力の波動。確かに感じた。

 しかしどこから?

 注意深く探ると、己を呼ぶ声が漏れ出てくる場所に大体の見当がついた。その方向に目を向けてみれば、果たして氷の壁に穴が開いている。

 ラサンテは迷わず壁際に歩み寄った。何とか通れるかどうかという隘路が続いていた。

(こんな道などあったか? まあいい、ここにいても仕方がない)

 彼はマールム・グラキエスの腹の奥深くへと入り込んでいった。


 道は一本だった。故に迷うことなく、ラサンテは着々と進んでゆく。声はより一層大きくなり、彼を急き立てる。

 どれくらい進んだろうか。一向に途切れる気配のない道だったが、奥から漂ってくる魔力が息苦しいほどに強まった頃、不意に開けた場所に出た。 

 そして彼は出会った。

 氷の虚、その中心に、ただ無造作に落ちている石。何の変哲もないただの石、しかしそれが、ラサンテを呼ぶ。強く、強く惹きつける。信じられぬほどの魔力で以て。

(まさか)

 兄の部屋で読んだ書物を思い出した。世界を滅ぼし得る魔石。あるはずがないと、嘲笑った魔石。

「グレントール」

 訝しむようにその名を口にすれば、応えるように一際強い波動が身体の芯にぶつかる。肯定であろう。

 紅い瞳が輝きを増し、彼は口端をゆっくりと吊り上げた。


 伸ばした指の先。流れる血潮は、どくり、どくりと熱く脈打った。何者かの胎動が己の生命の秒針に合わさったかのようであった。彼ではない誰か――得体の知れぬ存在を、その指は確かに感じ取っていたのかもしれぬ。

 しかし微かな怪訝も、永年の深き欲望の成就を前にした陶酔の前には、その手を止めさせるに及ばなかった。

(これで、俺は)

 本当に、この不遜な願い――努力で得られる強さの限界を超えた、圧倒的な力が欲しいという禁じられた願望、それが今、叶おうとしている。眼前の、握り拳程の大きさしかない、しかし強烈な魔力を放つ石によって。

 来る瞬間を待つ、熱っぽく甘美な時間を長引かせようというのか、心做しか打ち震える武骨な指は、静かに、そろそろと近付いていく――己が何に手を伸ばしているのか、知る由もなく。

 強さが欲しい。ただそれだけの妄執に突き動かされて生きてきた。弱さが嫌いで、誰も知らぬところで無様に這い蹲り、血を吐き、ひたすらに鍛えてきた。それでも満たせなかった飽くなき飢え。しかし遂に、報われる。


 強さを。そして、復讐を――

 僥倖であると信じた。


 ああ、何故に彼は思い出さなかったのだろう。血塗れの日々と苦痛とを代償にして、今の強さを得たということを。新たな力を得るならば、それにも当然代償が伴うということに、何故気付かなかったのだろう。

 欲望に伸ばされた手が、今、禁忌に触れる。


 刹那。


 灼熱の痛みが指先から脳天へ走った。それは外へ抜けることなく、身体の中をめちゃくちゃに駆け巡った。

 苦悶の叫びはしかし声にならぬ。溢れてきたのはただ、目に鮮やかな血のみ。

 何かが侵略して来る。雑草を引き抜くが如く、まとめて神経を引き千切るような凄絶な痛みと共に、無理矢理。触れてはならなかった、点滅する視界がそう告げるも、もう遅い。

 のたうち回りつつ己の右手を見れば、何と石が手のひらを食い破り、体内に入り込まんとしている。信じ難き光景に慄然とするも、すぐに訪れた新たな激痛が思考を吹き飛ばす。

(おのれ、モルス・アルバ……マールム・グラキエス!! 貴様ら、初めからこのつもりで、俺を……!!)

 世の初めより幾星霜。怪物と、その社は待っていた。憑代たり得る強者を。

 息ができぬ。身体が熱い。痛い。痛い。痛い。痛い――

 凄まじい叫号が、氷の山を震わせた。


 戦いの末に彼は敗北した。屈したのだ、グレントールに。己の欲望の前に。

 血の泥濘に沈んだラサンテが、かっと目を見開く。

(立テ)

 声がする。

(復讐ダ。オ前ヲ邪魔シタ者達ニ、天誅ヲ。侮辱シタ者共ニ、地獄ノ苦痛ヲ)

 ああ、これは悪魔の囁きだ。そう思ったのも束の間、脳内に響く声が割れんばかりに大きくなる。

 復讐ヲ。虐殺ヲ。破壊ノ限リヲ。血ノ宴ヲ。奴等ニ死ヲ。

「煩い、黙れ!!」

 声は止まぬ。ラサンテの心の奥深く、鬱屈の蓋をこじ開け、厭悪と瞋恚と欲望とを引きずり出す。彼を狂わせんと、己の深淵を覗き込ませ、突き落とす。光の見えぬ深みへ。破滅の淵へ。


 弱者ガ嫌イダロウ? 

 ――ああ、嫌いだ。

 ソウダロウ。醜イ奴ガ憎イダロウ? 

 ――憎い。憎くて堪らぬ。

 ソウダロウ。強サガ欲シイダロウ? 

 ――欲しい。俺が今までに得た力など塵と消し飛ぶような、並外れた力が。

 ソウダロウ。今ノオ前ナラバ、手ニ入レラレル。サア、怒レ。憎メ。壊セ。殺セ。殺セ、殺セ、殺セ――


『殺せ』


 どくり。

 打ち震える。熱い身体が、石と化した心臓が。

 雄叫びを上げる復讐心。彼を酩酊させる殺意。最早、破壊的な衝動に身を委ねたくて垂涎するのが誰なのか、はっきりせぬ。

 そして彼らは、立ち上がり。


『殺せ』


 ああ、これが、欲に憑られた者の末路。哀れ哀しき、罪人。

 その日、モルス・アルバの空は血のような紅に染まった。

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