黒冥

 そうしてまた、幾らかの月日が過ぎ。

「兄貴」

 この日も勢いよく扉が開き、ラサンテが部屋に現れた。

「何だ。鍛錬か?」

 レセーンは物を書く手を止めずに応える。が、次の言葉を聞いた瞬間、顔を上げて固まった。

「ザッハータの奴に呼び出された。赫血全員だ」

 そう告げるラサンテの顔も心做しか険しい。

「黙殺する訳にもいくまい。行くぞ」

 見れば、ラサンテは動きやすさを重んじた黒の平服ではなく、相応にきちんと礼装し威儀を正している。

 レセーンも衣装棚の奥から体裁のよいローブを引っ張り出し、手早く袖を通す。サンダルからブーツに履き替え、帯剣して慌ただしく部屋を出た。

 無造作に置かれたペンの先から、インクが黒々と広がっていった。


 廊下を照らす炎が揺れ、影が伸び上がっては縮む。虚空に浮かぶ青白い炎、魔術によって照明として灯されるそれは、兄弟の進む方向でひとりでに燃え上がり、彼らが通り過ぎるとふっと消える。人影は他にない。

 彼らは、玉座の間の更に奥、城の最奥部にある地下神殿へ向かっていた。

 闇に閉ざされた通路は毎度、形を変えるのだという。呼ばれし者だけを炎が導き、許されざる者は出口のない闇の中を彷徨い、やがて骨となって朽ち果てる。案内をする火の玉は、永久に迷宮に閉じ込められることとなった者達の霊魂にも思えた。反響する足音に、彷徊する死者のものが混じっている気にさえなる。怯える彼らではないが、居心地が良くないのは確かだった。

 篝火が見えてくる。立ち並ぶ柱の奥には、無数の影が蠢く。

 脇に控える親族たちの間を通り、祭壇の前に跪く。ラサンテも至って不服そうであるが、何とか鉄の仮面で取り繕い、何も言わず無表情のまま兄の横に膝をつく。

「御召しによりまして、魔王ザッハータが嫡子レセーン、ラサンテ共に、ここに参上仕り候」

 やはりザッハータに会うときは、自然と背筋が伸びた。父は仮にもこの魔界の支配者であり、玉座に見合うだけの力量と貫禄は備えている。レセーンと雖も、一対一で戦って勝てる気はしない。

「……遅かったな」

「は。御無礼の段、平に御容赦の程を」

「まあよい、今日の主役は貴様らだ。……集まったな」

 平伏する一同を見下ろすザッハータの声が、火影揺らめく深層の神殿に重苦しく響いた。来る大事と策謀とを思い、暗く張り詰めた一族の顔を薄闇が覆い隠す。そう、主賓をもてなす準備は調っている――。

「託宣が下った」

 ざわめきが走る。

 託宣。それは、この暗黒神殿に祀られた遠き赫血の祖霊が下すものだ。夢で啓示を受けると、王はこの神殿にやって来て自らの血を祭壇に垂らし、お告げの言葉を聞く。それは神聖不可侵にして遵奉せねばならぬものであり、もし背けば、必ず呪いの虜となり、死して後も未来永劫、魂を責め苛まれる。故に、誰であろうと託宣には逆らわぬ。

 そして託宣が下るのは大概、王が変わるときである。そのとき最も強い者に魔王の座が引き渡されるのだ。

「代替わりだ。次の王は……レセーン、お前だ」

 兄弟は跳ね起きた。


 滅多に冷静さを失わぬレセーンでさえ、目に見えて狼狽した。

「憚りながら、然様な筈は御座いませぬ。私は既に継承者としての権利を放棄しておりますれば」

「関係ない」

「然れども先にこの場にてそう誓っております故、違えば必ずや天誅が」

「下らぬ。お前の指名も宣託のうちぞ」

「なっ……」

 見開かれた青い瞳が凍りつく。

 通常、告げられるのは交代の時宜のみ。後継者については、先王が指名するか、戦いによって相応しき者を決めるのがしきたりである。それが、まさか――

「戯言を。そんなことがあるはずなかろう」

 吐き捨てたのはラサンテだった。

「己の保身の為に祖霊の言葉を騙るな、罰当たりめが」

「何を吐かすか、貴様こそとんだ冒瀆であろう。見損なったぞ、ラサンテ……私欲に駆られて託宣を疑うとは。醜いものだ」

 流石はザッハータと言うべきか、我が子の性格はよく弁えていると見える。レセーンの小声の制止も聞かず、見事ラサンテは逆上した。

「黙れ、老いぼれ!! 俺を侮辱するか。王は俺だ」

「ならばそう証明するがよかろう。貴様がここで兄を殺せば、玉座は文句なしに貴様のものだ」

 七つの目がにたりと笑う。可笑しそうに眼球がくるくると回る。

「……ッ」

 ザッハータの愉悦の笑みの前に、ラサンテはただ歯軋りする他なかった。レセーンを、愛する兄を、殺せるはずはなかったのだ――例え玉座がかかっていようとも。

「と、言うことだ。決まりだな」

 隣で、今にも爆発しそうな殺気を、肩を震わせつつ懸命に堪える弟。嫌な汗がだらだらと額を伝う。

(謀られた。最初からこのつもりで……)

 見え透いた嘘だ。ここにいる者たちは皆、気付いているはずだ――祖霊からの、レセーンの指名などなかったということに。それでも、言い分はザッハータに理がある。だから誰も、何も言えぬ。


 果たして本当にそうか?


「者共。この不届き者を殺せ」

 控えていた者たちが、一斉に剣を抜いた。


 ラサンテも剣を抜いた。が、四方八方が敵、更に彼を拘束せんと魔術の網が幾重にもなって覆い被さる。それを弾く間に――

 レセーンも巻き付いてきた太い触手に動きを封じられ、首筋に刃を突き付けられた。反撃しようと振り向けば、そこには剣を握るザッハータと、にこやかに笑う妹エリーファがいた。

「離せ、エリーファ!! 頼む」

「嫌よ。あいつさえいなくなればいいんだもの」

 触手が、妹の腕が、胴に絡みついて絞め上げる。頬を擦り付けてくる妹を押しのけようとする手には、しかし力がこもらない。非情な悪魔の世界に、慈愛を持って生まれてきてしまったレセーンである。どこまでも、彼は甘い。

「駄目だ。そんなことをしても、俺はお前のものにはならん」

「もう遅いわ、お兄様」

 彼女の艶然たる笑みが、このときレセーンをどれだけ後悔させたか知れない。

 兄の身が危ないと見れば、ラサンテはすぐに剣を棄てた。凄まじい怒りを込めてザッハータとエリーファを睨み据えながらも抗うことなく打ち据えられ、全身を串刺しにされようと声一つ上げなかった。

「止めろ……止めてくれ、もう」

 芸術とさえ言ってよいほどに美しく鍛え上げられたラサンテの身体が、無残に切り刻まれ、赫い血に染まり。その身体に触れることを許されたのは、レセーンただ一人だった筈なのに――

 必死にラサンテに手を伸ばした。だが、届かなかった。二人の間を隔てる距離は、残酷なまでに遠かった。気高き戦士が、愛する弟が、ただ一方的に痛めつけられるのを見ていることしかできなかった。

 己の魂の潔白を保ちたくて、ラサンテにのみ手を汚させたが為に。兄を守り続けた彼は要らぬ恨みを買い、敵を増やし、今――。

「卑怯!! 返せ、俺の弟を!!」

 怒号と慟哭も虚しく、ラサンテの姿は消えた。

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