紅塵

 それから、レセーンは研究に没頭し、ラサンテは鍛錬に励みつつ、裏では兄と己の身を守るべく敵の抹殺に勤しむという、至って真新しさのない生活を続けていた。

「よう、まだ読書中か?」

 この日もラサンテはレセーンの部屋に遊びに、と言うより研究の邪魔をしに来ていた。常のことなのでレセーンは最早ラサンテに目もくれぬ。相変わらず無遠慮に他人の部屋に入って来るラサンテは、湯浴みの後か、薄い夜着を纏っただけの軽装であった。剣も吊るしていなかった。兄を鍛錬に付き合わせようとしてやって来た訳ではないらしい。

「どうした」

「いや、別に。暇だっただけだ」

「だからと言って俺の部屋へ来ずともいいだろうに」

「何だ、俺が嫌なのか?」

「……いや、そうではない」

「はっ。優しい兄貴だ」

 人をからかうような笑みを浮かべつつも、その顔は素直だった。レセーン以外には決して見せることのない笑みであった。他人との交わりを嫌う彼も、兄にだけは心を許している。

「よく飽きんな。何が面白いのやら」

 壁に据え付けられた棚から適当に一冊の本を抜き出し、何とはなしに眺めてみるラサンテ――

 頁を繰る乾いた音だけが部屋に満ちる。

(モルス・アルバ、”白い墓場”……懐かしいな。俺と兄貴の故郷)

 彼らが幼年期を過ごした思い出深き場所に関する記述を見つけ、ラサンテは文字を追った。

 曰く、モルス・アルバは世界の中心にして始まりと終焉の地であると。その雪中に聳える氷の鋭鋒、マールム・グラキエスこそがこの世の心臓であり、かの地には大いなる力が封じられている、と。

(そんな大層な場所でもない気がするがな……まあ、妙な噂が湧くのも無理からぬことだが。何せ誰も行ったことがないのだからな、我々以外は)

 古来よりの伝承の地、未だ真の姿を伝える者なき秘境。兄弟とて、その懐に抱かれて過ごしはしたが、多くを知っている訳ではない。

(近いうちにまた行ってみるか。これで拒まれたら洒落にならんが)

 モルス・アルバが幼き彼らを救ったのは、単なる気まぐれなのか否か。かねてから確かめてみたいとは思っていた。

 書かれていたのは世に流布する擦り切れたような伝説ばかりで、これといって目を引く記述がなく、ラサンテは更にぱらぱらと紙を捲った――そして、ある頁で手を止めた。

(グレントール……聞き覚えのない名だ)

 隅の方に数行、細かな字で説明が書かれていた。それにはこうある。

『この世の何処かに眠る魔石。これを手にした者は世界を滅ぼせるほどの力を得ることができる』と。

 ラサンテの口の端が皮肉に歪んだ。

(馬鹿野郎、そんな都合のいいものがあるはずなかろう。あってたまるか)

 余りに突飛な話だ。それ以上の詳しいことは何も書かれておらず、到底信じるに値せぬ。

(だが、本当にそんなものが存在するならば……)

 紅の瞳に一瞬、炎が燃え上がったかと見えたが、ラサンテは頭を振り、ぱたりと本を閉じた。


「おい。いつまで本と睨み合ってる気だ? 俺にも構ってくれよ、寂しいだろう」

 本を棚に戻し、レセーンの寝台にどっかと腰を下ろすラサンテ。

「来いよ」

 誘うように首を傾けて笑う。

 ずっと書物から目を離さなかったレセーンだったが、観念したのか遂に立ち上がった。

「全く、お前はどれだけ俺の邪魔をすれば気が済むんだ?」

「悪かったな。いいだろう、多少俺と遊んでくれたって」

「多少じゃないだろう。お前の遊び相手は疲れる」

「何だ、つれないな」

 レセーンの傍らで、ラサンテは終始、悪戯めいた笑みを浮かべながら兄をからかう。生真面目に答えながら溜息をつくレセーンであった。足元を見つめる彼の、下がり気味の瞼がゆっくりと瞬きを繰り返している。

「……眠そうだな。本ばかり読んでいて目が疲れてるんじゃないのか」

「ああ、少しな」

 ラサンテに言われて気付いたが、かなり眠かった。書物と向き合っているときはほとんど眠気を感じないのだから不思議なものだ。

「だろう。よし、寝るか」

 ラサンテが勢いよく寝台に倒れ込む。やや遅れて、それは俺の寝床だぞとレセーンが言いかけたときであった。

「なっ……」

 突如として伸びてきた強靭な腕に、レセーンはものの見事に引き倒された。思わぬ奇襲が眠気を一気に吹き飛ばす。

 逞しい腕を兄の首に絡みつけ、頬を擦り付けんばかりのラサンテから目を逸らし、天井を眺めながらまたも溜息をついた。弟の、野生の狼のような戯れ方には辟易しているレセーンである。

「勘弁してく……」

「たまには本気で遊ぼうぜ、兄貴」

 耳元で囁く声。何故だか寒気がした。

「悪ふざけもいい加減にしろ、ラサンテ」

 纏わりつく声を振り払うように語気を荒らげる。度が過ぎる絡みに、流石に苛立ち始めた様子を隠さぬ兄から漸く手を解き、身体を起こしてラサンテは言った。

「俺は本気だぞ、レセーン」

 そしてレセーンの首元に顔を埋めた。


 反射的に叩きつけた拳がラサンテの顔面を直撃した。

 頭をもたげる弟を、レセーンは呆然として凝視していた。

「あ、いや、すまん……」

 殴ってしまったことに狼狽える。それだけではなく、その動揺は首筋に残った生々しい感覚のせいでもあった。

 寒いような暑いような混乱がレセーンを襲う。

 ──ラサンテの牙が赤い。血だ。流血させてしまったのだろうか?

(……違う。俺の、血だ)

 首に手をやり、ぬめる場所に滑らせた指を見た。流れ出たばかりの鮮血と、唾液が指を伝った。

「急に動くから刺さっちまっただろうが、阿呆」

「ラサンテ、お前……」

 口元を拭う弟の笑みが急に恐ろしく見えたのも束の間。

「待てッ、何を」

 ガバッと覆い被さって来たラサンテの肩を何とか掴み、押しとどめた。眼前で牙が鳴る。

「どうした、狂ったかッ!?」

「ふ、ふ」

「おい、ラサンテッ。一体どうした!?」

「……新鮮だ。慌てるお前も、良いな……その抵抗も」

 ラサンテの喉の奥から密やかな笑声らしきものが漏れた。そしてレセーンの手首が掴まれる。

(今日が、俺の命日か)

 レセーンは必死の抵抗を試みながら、死を覚悟した。元より、ラサンテと組み合って勝てるはずはない。このまま力尽き、喉笛を食い千切られる運命なのだと悟った。

 ――幸か不幸か、全くの見当違いであったのだが。


 レセーンの腕が弛緩し、寝台に抑え付けられる。

(ラサンテの手にかかるなら、仕方ないか……)

 未練がないとは言わぬが、この世への執着も差程強くはない。玉座を欲しがるラサンテの邪魔をする気はなかった、故に、継承権の放棄を祖霊に誓っていた。であるから、ラサンテが王になり、レセーンは今まで通り弟の傍で暮らす、ということで合意していた――それでも、結局ラサンテの人生にレセーンは邪魔だったのだろうか。弟の為に死ぬならいいとさえ思った。信じて疑わなかった絆が跡形もなく崩れ去る日が来るかもしれぬという覚悟はしていたのだ。そもそも、兄弟として助け合い、共に生きていること自体がこの世では稀有なことなのだから。普通、親類は最も身近な敵である。

「何だ、もう終わりか? 大人しく俺を受け入れてくれるのか」

 丁度光が当たらず、ラサンテの表情は窺えない。どんな顔をしているのか、知りたかったと思った。

「……ああ。好きにしろ」

「何だ、もっと暴れるかと思ったが。まあいい、そういうことなら話は早い」

 レセーンが観念し、無防備な首を晒け出してやると、ラサンテは嬉々として喰い付いた。

 何かがおかしいと思ったのはそのときである。

 殺意が、ない。


 一向に喉を食い破られる気配がなかった。ラサンテは代わりに先程の傷をただ舐めるだけである。

「……俺を殺しに来た訳では、ないのか?」

 ラサンテは思わず顔を上げ、堪え切れずに吹き出した。

「何故そうなる? まさか、俺が兄貴を殺しに来たと思ったのか?」

「ああ……」

「阿呆。読書のしすぎで頭がいかれたか? そんなはずないだろう」

 咳き込みながら、腹を抱えて笑い転げるラサンテ――とても馬鹿馬鹿しく壮大な勘違いをしていたことを、レセーンは漸く理解した。そして決断を翻した。

「断る。共寝なら女に頼め、相手には困らんだろう」

「生憎、今は相手がいなくてな」

「俺はそういう趣味じゃない」

「俺も別にそういう訳ではないさ。お前だからだ、レセーン」

 迫ってくる弟には、何故か強烈な色気があった。

 ──ずり落ちた夜着。透ける逞しい体躯。窓から差す光が半身に見事な影を刻み込んでいる。ふわりと、しかしがっちりと絡みついてくる手も無駄に淫靡である。

「なあ、レセーン……好きで堪らんのだ、昔から。お前のことがな」

 何よりも凄艶なのはその目だった。紅の瞳は、杯に注がれた甘美な酒のように魅惑的で、しかし奥に肉食獣の貪欲さを宿す。心を乱し、縛り付ける瞳だった。

「帰れ。どけ、この……ッ」

 レセーンは必死に起き上がろうとするが、上にのしかかったラサンテの身体は微動だにせぬ。首筋にかかる吐息の熱さと、ゆっくりと広がる喜悦の笑みに戦慄が走った。

 ラサンテは決まった女こそいないものの、レセーンとは違って女遊びはそれなりにする方だ。これが弟の夜の顔、こうして何人もの女を口説いてきたのか、と思うと空恐ろしくなるレセーンであった――尤も、ラサンテはこの破滅の微笑を未だ兄以外の何者にも向けたことはなかったのだが。ラサンテは一般的に見ればそれなりの美丈夫であり、権力も名声も持っている。特段、何をせずとも彼に惹きつけられる女性が一定数いるということだ。ちなみにレセーンにも同じことが言えるのだが、彼はと言うと全て門前払いである。どうやら色恋沙汰が、と言うより女性が苦手らしい。

 そんなレセーンが、今――百戦錬磨の弟に口説かれている。

「いいだろう、レセーン。頼む」

「離せ、触るな」

「随分酷いことを言うものだな。お前の敵を屠っているのは俺だ……褒美くらいくれても良かろう?」

 レセーンが黙り込む。彼はお人好しだ。自覚はある。例え己の命の為でも冷酷になりきれぬ彼は、汚れ仕事をほぼ全て弟に任せてきたのだ。兄弟の命を狙う者が現れたとき、剣を抜くのは常にラサンテだった。拷問で首謀者や因果関係を炙り出し、手を打つのも彼だった。レセーンはずっと、それをただ眺めて、或いは見て見ぬ振りをしてきたのである。後ろめたさは感じていた。彼がいるからこそ自分は安穏な生活を送ることができるのであって、その恩は生半可なものではない、ということも重々承知している。

 しかし弟を押しのけようとする腕は未だ力を失わなかった。

「……まあ、嫌なら良いさ」

 ラサンテは不服そうな顔で呟いたが、それも一瞬。

「抗うのもまた一興」

 にやりと笑って一気に掴みかかったのであった。


 暫くは乱闘であった。

 愛撫の代わりに拳、蜜語の代わりに罵声。荒々しく掴み合う二人に、寝台は悲鳴を上げた。

「止めろ、ラサンテ、止め……」

「力こそ理」

 もつれ合い転げ回る。が、長くは続かぬ。体重も鍛え方も違うのだ、レセーンはいよいよラサンテの下から抜け出せなくなった。

「分かった、分かったから……関節を極めるな。そして俺を潰すな、息ができん」

 荒い息をつきながら、レセーンは遂に白旗を上げた。危うく絞め殺されるところであった、全く堪ったものではない。

「降参か? よしよし」

 床に落ちた掛布。憮然とした顔で横たわる兄に絡みつき、彼の服の襟に手を伸ばし。

 兄は弟を容れた。そして二人で、宵闇の帳の中、一夜の夢に落ちていった。


 ――レセーンの隣に寝そべりながら、それは嬉しそうに、ラサンテは笑ったのだった。

 その笑みを見ていると全てがどうでもよくなった。それでラサンテが満たされるというのなら、相手をしてやるのも悪くないと思ったレセーンである。結局、彼もラサンテのことが好きなのだ。些か方向性は違うにしろ。

「お前といるときが一番幸せだ」

「そうか」

「レセーン。ずっと、俺の兄でいてくれるだろう。俺を捨てたりしないだろう?」

「どうした、急に。当たり前だろう、ずっと一緒だ」

「……幸せだ、俺は」

「そうか」

 甘やかな微睡み、思えばこの瞬間こそが、真に最も幸福なひとときであったのかもしれぬ。

 ここから、少しずつ、少しずつ――

 狂っていったのだ。愛が欲望に変わった、この日から。

 依り、依られ、どうしようもなくもつれ合い、そして奈落へ――。

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