蒼波

 徐々に、広間に喧騒が戻り始める。

 二人の戦いの終幕に拍手が湧き起こる訳ではない。ただ剣戟の最中の、一挙手一投足に集まる視線と、張り詰めた静寂こそが賞賛であった。

 再び人波を割り、壁際へ寄る。遊びのない斬り合いの後だ、流石に足取りが少し重そうである。

「敵わんな。四肢が千切れそうだ」

 壁に凭れ掛かって喘ぐ。酷使した身体は凄まじい疲労と痛みに襲われていた。

「だから言ってるだろう。部屋に籠りっ放しだからすぐへたばるのだと……とは言え、日頃本ばかり読んでいてそれだけ動けるとは大したものだがな」

 褒めているのか貶しているのか分からない台詞である。

「分かっているさ。分かっているが……」

 渋面になるレセーンに、ラサンテは取り成すように言った。

「まあいい。己が極めるものなど、そいつの自由だ。兄貴のそれが剣でなかったに過ぎん」

 自らは剣の伎倆を絶対の基準としているラサンテだが、その価値観を他人に押し付けることはない。何かを極めようとする姿勢があれば構わぬらしい。

「しかし、腕を上げたな。まさか足癖にやられるとは思わなかった。嫌いではないぞ」

「我ながら汚いと思ったが。妙なことはやるものではないな、しっかり倍になって返ってくる。おかげで歩けんぞ、これは……」

 強かに蹴られた腰もずきずきと痛んだ。座っていても痛くなる、動いても痛くなるのでは困ってしまう。レセーンはまだ若い。腰痛で臥せるには少々情けない年齢であった。

「それは悪かった」

 全く悪びれる風もなくラサンテは笑う。何度弟の怪力が恨めしいと思ったか知れない。

「さて、兄上もお疲れのようだ、看病してやらねば。ほら、掴まれ」

 満身創痍の兄に肩を貸す。二人は剣戟の喧騒を後にし、広間を出た。


「とりあえず水浴びでいいな、兄貴?」

「ああ。傷もそこで治す」

 剣の間から出てきた者が血を滴らせながら歩いていくことは日常茶飯事である。この兄弟も例外ではなく廊下を汚した。血で塗り固められた城、という比喩もあながち間違いではない。

 そして、回廊はともかく私室は汚したくないので、先に風呂場へ行くということであった。

 角を曲がりかけたそのとき──

「いやぁっ」

 飛び出してきた黒い影がラサンテにぶつかった。

「おう、いい度胸だな馬鹿者」

 びくともせぬラサンテに弾き飛ばされるようにしてよろめいた女。褐色の肌、眩い金の髪、耳の脇から覗く角――きっとラサンテを睨む、艶やかながらも勝ち気な顔。

「何だ貴様か。急に曲がったらぶつかるだろう、そんなことも分からんのか。阿呆」

 相手の顔を見るや否や、ラサンテは嘲弄を滲ませながら吐き捨てた。女も負けじと言い返す。

「はあ? あんたの図体が無駄に大きいのが悪いんだわ」

「ほう。やたら態度だけがでかい貴様よりましだと思うがな」

「あんたに言われたかないわよ、この……」

「やめんか、エリーファ。ラサンテもだ」

 うんざりしたように止めに入るレセーンであった。エリーファ――恐れ気もなくラサンテを罵る彼女は、ザッハータの妾腹の子、彼ら兄弟の義理の妹である。

「だって、お兄様……」

「ラサンテの言う通りだ。危ないだろう、怪我したらどうする……ラサンテもいちいち挑発するな」

「悪いな。つい口に出てしまうのだ、あまりに憎たらしい不細工なもので」

「ふざけんじゃないわ、あんたの方が余程不細工よ!」

「やめろと言ってるだろう、黙らんか二人共」

 出くわせば必ず罵詈雑言の嵐。まさに犬猿の仲である二人の間にレセーンが割って入るのもいつものことだ。果てなきこの兄妹喧嘩には辟易している彼である。

「全く……勘弁してくれ」

「だってお兄様が全然構ってくださらないんですもの。ほとんどお部屋に籠もりっぱなし、たまに出てきてもこんな無粋な男ばっかり。お相手なんて、私がいくらでもして差し上げますのに」

 そう言って兄にすり寄る仕草はなかなかに扇情的であった――尤も、レセーンは却って煙たがるだけであるが。

「俺も『お兄様』だぞ、え?」

「うるさいわね、私にとってのお兄様はレセーン兄様だけよ」

 ラサンテがからかう度に、甲高い声で言い返すエリーファである。レセーンはどうもそれが好かぬ。耳が痛くて敵わぬのだ。

「また後でな。……行こう、ラサンテ」

「おうよ」

 さり気なく絡みついたエリーファの腕を振り解き、ラサンテに支えられたまま再び歩き出す。

 愛する長兄と憎き次兄、二人の後姿を見送るエリーファの瞳に燃えるのは、紛れもなく、恋と嫉妬の炎であった。


「災難だったな、兄貴」

「火に油を注いだお前が言うな。頼むから適当に流してくれ」

「断る。卑しい売女の分際で兄貴にべたべたと……反吐が出る」

「……」

 吐き捨てるラサンテの声音が先程とは打って変わって低く、凄みを帯びていたので、レセーンは黙らざるを得なかった。

 ラサンテ曰く、レセーンにまとわりつくエリーファのことが目障りで仕方がなく、軽口でも叩いていなければ苛立ってどうしようもないのだという。要するに彼も、妹のそれとは違うが兄を深く愛しており、互いに兄を取り合っているのだ。そして当のレセーンはと言えば、完全にラサンテ寄りである。

「兄貴も早く奴を切り捨ててくれ。中途半端に生返事をくれてやるからそうなる、とんだ茶番を見せられる俺の気にもなれ」

「そう言われてもな……」

 心做しか早くなったラサンテの歩調。沈黙が痛い。ああ、怒らせたな、と些か申し訳なく思いつつ、レセーンは半ば引きずられるようにして風呂場へと入っていった。


 浴室と言っても内実は岩窟であった。飛沫を上げて流れ落ちる滝で身体を洗い流すのだ。

 誰かの趣向か、自然の悪戯か分からぬが、燐光を発する水晶と苔とが岩から生えており、水簾は青いヴェールに、滝壺は神秘の泉と見えた。おかげで洞窟内に明かりはなくとも、辺りを見るのに支障はない。

 剣を置き、服を脱ぎ、足先を浸す。そして水に身を投じる。

 痺れるような冷感が身体を駆け抜け、脳天を突き上げた。水は凍るように冷たく、火照った身体が一瞬にして引き締まる。感覚がなくなり、痛みさえも溶ける。深く息をし、血流に乗せて魔力を流し込めば、皮膚がゆっくりと再生し、傷が塞がってゆく。

 青く迸る水流に打たれながら、二人は並んで立っていた。

「……すまん、ラサンテ」

「どうした?」

 声が水音に掻き消されずに届く距離であった。

「お前がエリーファを嫌っているのは重々承知だが……それでもやはり、母親は違えど妹だ。無下にはできん」

「はっ」

 決まり悪そうに詫びる兄にラサンテは失笑した。

「奴か。安心しろ、兄貴に免じて許してやっているのだ……そうでなかったら疾うに殺っているさ」

 昏い微笑を湛えつつ、喉の奥でくつくつと笑う。その様にはどこか背筋が寒くなるものがあった。

「だがな」

 ばしゃりと水音を立て、ラサンテが迫る。己よりも一回り、二回り逞しい身体がレセーンの視界を塞ぐかに思われる。肩に置かれた弟の手には徐々に力が籠もり、がっちりと掴んで来る。

「あの女のことを俺の前で話すな。虫酸が走る」

 鼻面を突き合わせてレセーンを射貫く紅の瞳は、炎のように熱くも、氷のように冷たくもあり。如何に形容したものか、しかしレセーンでさえ気圧されるような、得体の知れぬ迫力があったことには違いない。静かなる怒りが、陽炎のように揺らめくのが見えそうだった。

「……分かった。もう止めよう」

 ラサンテは無言のまま兄を見つめていたが、やがて手を放し、ふいと身を翻した。

「冷える。出るぞ」

「ああ」

 何となく複雑な心持ちのまま、二人は青い洞窟を後にした。水から上がって暫く経とうと、薄ら寒さはなかなか消えなかった。

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