第4話 アップルパイ

 雲がない。

ほんと青でしかない。

そんなに澄んでるとアタシに何か言いたいのか、と思う。

なんせ昼の世界はまだ新入りだ

 夜の仕事をやめて2ヶ月、日差しにもだいぶ慣れた。

(バスタオルと肌着と…、あとなんだっけ)

 ドンキで必要なものを揃える。

面会の開始まではまだ時間がある。

 先月買ったアクアに乗り込むとタバコに火をつけた。燃費がいいからと今の職場のおばちゃんに勧められて買ったけれど、考えたら車を持ったことがないので比べようがわからない。

リッター何キロ走れば燃費良しの部類なのか。もちろん見た目なんてどうでもいいし、何なら軽トラックでも気にならない。

 免許を取って1ヶ月、車の運転にはまだ慣れない。病院に向かう時しか使うことがないので道もあまり覚えていないし、仕事には電車で通っている。

(パンでも食べるか…。アイツにも買ってかないとな)

 新宿ミロード近くのタイムズに車を停めて少し歩いた。

風が吹くと冷たくて耳が痛い。

 カントリーロードの前まで行くと暖かい香りがする。

中から高川さんがこちらに気付いて手を振った。

持って帰りたいくらいの笑顔を発している。なるほどこりゃモテるはずだ。

こちらも慣れない笑顔で手を振りかえした。

 店のドアを開けるとさらにいい香りに包まれる。

ここに来るとなぜかいつも母さんを思い出す。「おはよーう美月さん!駿くんとこ行くんでしょ?ごめんまだ並べきれてないんだよね」

「うん、アップルパイ焼けてんならちょうだい。アタシのはなんか適当に。てかごめんね開店前に」

「いーよそんなの。それより駿くんもアップルパイばっかで飽きちゃうよ!いくら大好きだって言ってもさー」

「大丈夫だよ。食べれないから」

「……もー。そんなこと言わない。…ごめん私もか…」

「いーのいーの。目が覚めたら死ぬほど食わせてやるから」

「うん。……だねだね」

(こりゃまた高川さん泣くな…)

 いくつかパンを買って店を出る。

相変わらず空は青い。

車に乗ってすぐにアップルパイを頬張った。

「お先ね」

シナモンが効いていてやっぱり美味い。

 子供の頃マックのアップルパイにかじりついて口の中が火傷したのを思い出す。

 病院に向かう途中でガソリンスタンドに寄った。セルフは面倒くさいからいつも店員が対応する所を選んでいる。

 そういえばこの車を買ってからまだ数えるほどしかスタンドに来ていない。みんなどれくらいのペースで注いでいるのだろうか。

 病院の駐車場に車を停めてから、他のパンにも手をつける。

「もういっちょお先ね」

 あそこのパンは何でも美味しい。

鶯豆のパンなんて何があっても食べないと思っていたけれど、駿に勧められて食べたら見事にハマった。

 ナースステーションで受け付けを済ませると、もうすっかり顔馴染みの島村という看護婦が部屋までついてくる。

「えっとぉ……、そうだな、尿便の回数は変わりなし…かな。あとはあれだ、腰の湿疹はキレイになってましたよ。数値も以上なーし。」

「うっす。ねー、てか看護婦さんたちって看護婦と看護士だとどっちで呼ばれたいの?アタシ今だに看護婦って呼んじゃうんだけど」

「はははは。うーん、正直どっちでもいいかなぁ。でもどうせなら白衣の天使さんって呼んで欲しいな」

「あ、そうだ白衣さんパン食べる?また買いすぎちゃったよ。アイツにはアップルパイ」

「えーすみません受け取れないんですよー……からのもらっちゃいます。いつもありがとー。

ちょいちょい、そこはせめて天使さんでしょーよ」

 いつもの報告を受けると部屋まではバカ話。昼動くようになってからコミュニケーション力が上がったと自分でも思う。SMクラブの時は店の女の子と話すのも煩わしかった。日光は大事なのだろうか。今考えると南に行くほど日を浴びていて陽気な奴が多い気がする。どうでもいいが。

 部屋に着くとまずカーテンと窓を開ける。風は冷たいが天気が良くて気持ちいい。何だか部屋の邪気も払ってくれそうな気がしてきた。

「駿おはよ。……おーい。聞こえてるかー。パンだぞー。今日は天気いいぞー。今日も車で来たぞー。タオルと肌着も買ってきたぞー」

「ふふふふ。もー、ちゃんと報告してあげてください。たまにいるんだよ、目が覚めたら何て声かけられたか覚えてる人」

「へー…そうなんだ。あ、天使ちょっとあっちむいててよ。熱ーいキスすっから」

 「はいはい。ごゆっくり。天使って呼び捨てになっちゃったけど」

 相変わらずコイツは色が白い。寝たきりになってからそれが増している。本当に同じ人種だろうか?

 頬に触れる。唇にも。そっとキスをした。カサカサしている。あとで濡らしてやろう。

アップルパイを枕に置いておく。

「おし、オッケー。白衣さんこっち向いていーよ。…あ、それとあとで唇濡らすのちょーだい」

「あ、そだね。駿くん乾燥しやすいからなー。まぁ冬だし経口できないからしょうがないっちゃないけどね。ていうか呼び方定まんないね。もう本名に戻そうよ」

 駿が目を覚まさなくなってから約三か月。ほぼ毎日仕事前と終わりに顔を出している。

 病名は蜂窩織炎の合併症。SMの性具で負った尻の傷から入った細菌が血栓を作り、脳にまで影響を与えた。

 アタシのせいだった。全て。

駿をSMという世界に誘ったのもアタシ。

 あの頃は駿から与えられるモノ全てに戸惑った。

 優しさや言葉、笑顔、それらは全部母さんが亡くなってから一度も受けてないモノだった。

 駿は本当によく泣く。他人のことであろうが、自分のことであろうが、とにかく涙腺が日本で一番緩い。

 でもその涙に何度も救われた。

ただそれと同時に、どうしてもそんな彼の仏のような人間性を壊してグニャグニャに曲げてみたい衝動にも駆られた。

 自分の色に、形に、白や水色なんかではなく、澱のような油の混ざった色に染めたい。

 歪で、醜悪で、尖った形に。

 駿自身がそのことで性的に満たされるということもアタシは最初からわかっていた。

 そしてそのうち駿は自分から求めてくるようになった。

 それがまさかこんなことになるとは思わなかった。

 アタシにとって彼の見せる弱さや余計なお節介は全てが生きる活力に変わった。

 アタシの注文を手にぶら下げ、息を切らして玄関を開けるあの情けなさそうで嬉しそうな顔。

 貞操もクソもあったもんじゃない今の時代に、それも男が女の前で服を脱ぐのを恥ずかしがるという衝撃の展開。

 全部が愛おしすぎて可笑しくて腹を抱えた。

首の皮一枚ギリギリで世の中に残っていたアタシが、やっと爪先くらいは地に足ついたと思ったのにあのバカヤロウは。

 いや、バカヤロウはアタシだ。

駿が急に意識を失ってから入院が決まった時、その日に仕事を辞めた。

「ホンマかっこ悪いよねぇこの子は…。ちっちゃい時から間が悪い子じゃったけど、お尻から菌が入ったんじゃって…。現実はドラマとは違うんじゃねぇ」

 病室で初めて駿の母親と顔を合わせた時、罵られ、殴られることまで覚悟したが、母親から出たのはこんな言葉だった。

 母親は病室にいる間駿の手を一度も離さなかった。

そしてあたしの手もずっと握ってくれていた。

暖かいパンダのような手で。

 「美月ちゃんお母さん亡くなったんとねぇ…。ごめんね又聞きじゃけど駿から電話でお父さんのこともちいと聞いたよ…。大変じゃったねぇ…。うちゃあ駿と美月ちゃんが結婚すりゃあ娘ができる思うて楽しみじゃったのに」

心からの言葉だと感じた。

 「いけんいけん!ほいでもまだ死んどらんもんね!この子は未練がましい女の子みたいなところがあるけん美月ちゃん置いて死にゃあせんけん!ほいじゃけ美月ちゃんも元気出さにゃダメよ!駿が起きたらみんなで宮島行くんじゃけんね!」

 いい家族だと思った。彼の優しさは親から授かったものなのだろうとも。

 これからの人生を全て、駿のために使おうと決めた。

 見舞いを終えて病院を出ると、職場のある葛飾に向かう。時間や融通も病院に行くことが前提で働ける職場にした。給料はあまり高くないので色々と切り詰めることにはなるが、男に鞭打って貯めた女王の貯金は少々ではなくならない。

 錦糸町を越えたあたりで電話が鳴る。

 それはクソ野郎が死んで以来の叔母からの電話だった。



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SとM 鬼瓦権蔵 @6dai6

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