第3話 駿と美月
彼女が肩を小突く。
「ねー、ちょい、ジャンケン」
「え、うん、いいよ」
「あたしグー出すから」
「…了解」
いつものように僕はチョキを出す。
「のり塩とハイボール。ウィルキンソンもね」
「はいよ、行ってくるね」
「お金あとで渡すから」
「いいってば、行ってきます」
「あい」
美月ちゃんと付き合うようになって2ヶ月が経つ。彼女が忘れ物をしたあの日、生まれて初めて自分から女性を誘った。あの時の彼女の顔が今でも忘れられない。
僕の顔がそうだからか、まるでキツネに摘まれたようなあの呆け顔。
不思議なくらい愛おしく感じた。
付き合ってほしいと切り出したのも僕。
「あんた変わってんね。アタシもか。まぁ別にいいよ」
彼女の仕事を聞いた時も全く気持ちは変わらなかった。むしろ興奮した。それは性的な意味ではなく、なんと言っていいか、未知のものに出会えたような。
2週間後には一緒に暮らし始めた。
「アンタ車の免許あるんでしょ?駅前のレンタカー借りて荷物持ってきなよ。」
「え、…荷物?」
「服とか生活にいる物だよ。日曜日昼まで寝るから14時ね。」
それで決まった。
僕は美月ちゃんについて色々知りたがったけど、彼女はなかなか話してくれなかった。それは決して、自分の過去が凄惨で知られたくないからではなく、単に面倒くさいからだということが一緒に生活していてよくわかった。一度だけ彼女がひどく酔っ払って自分から語ってくれたことがある。
「そういやアタシさー。実のオヤジに昔犯られそうになってんだよ。小6だよ、小6。さすがに初めてがオヤジなんてシャレになんないから中学上がって速攻捨てちゃったよ。まぁ知らない奴だけど。」
まるで世間話をするように笑いながら彼女は語った。その件があってからは毎日布団に包丁を忍ばせて寝ていたらしい。他にも小5の時ペンケースを学校に持って行ったら父親が勝手に注射器をしまう道具にしていて、開けた瞬間に学校を飛び出した話、タンスとタンスの2センチくらいの隙間から人が見ているから出てこないように見てろと朝まで見張らされた話、AVに出ている女優が母親に似ているから確認しろと無理矢理見させられた挙句、絶対に違う、そんなわけないと言い張ったら顔が腫れ上がるまで殴られた話、僕にはとても信じられない事ばかりだけど、薬の影響だよ、と彼女は言っていた。
何にせよどれもこれも僕には想像もしたことのない話ばかりで、ついに最後には僕はあまりに哀れで号泣してしまった。
それを見た彼女はなんとゲラゲラ笑っていた。
たくさん涙を流すほど笑っていた。
しまいにはなぜか肩を思いっきり殴られた。
それも笑いながら。
泣きながら。
買い物を終えて部屋に帰ると、彼女がダイニングテーブルに肘をついて待っている。髪をゴムでまとめたせいか、少し顔がきつく見えた。「ん」
彼女が5000円札を放り投げる。いつも必ず頼んだ物の金額よりも多い。最初はいらないと断っていたけれど、無理矢理返そうとすると殴られた。だから最近はクローゼットの奥にある小さな箱に貯めるようにした。もちろん自分でもちょくちょくその箱に入れている。
そしてその貯金が貯まったら2人で旅行に行きたいと密かに考えている。
彼女は遠出も昼も嫌いだからどこにしようか。もちろん年中夜なんて場所は存在しないし、ついでに暑いのも寒いのも嫌いだから場所は慎重に考えないとな。
そもそも一緒に旅行なんてしてくれるのだろうか。
もしか行けたならば僕は嫌がる彼女と無理矢理手を繋ぐ。
必死に頼み込んで渋々な彼女と2人でゆっくりと温泉に浸かる。
きっといつものように服を脱ぐのを恥ずかしがるのは僕なんだろうな…。
「ダメだ、あっつい。先上がるわ」
文句を言う彼女の肩を抑えながら僕はもうちょっとだけ、とお願いする。…そして殴られる。
ご飯を食べるのが遅いと怒られる。せっかくの旅館のご飯なのに。
2人で日本酒を飲む。お酒が弱すぎると肩を殴られる。
イビキがうるさいと口を叩かれる。離れて寝ろとお尻を蹴られる。
起きたらいつの間にか彼女が同じ布団にいる。想像するだけでなんとも幸せだ。
「…い!おい!」
おでこを強く殴られた。それもグーで。我にかえる。
「聞いてんの?にやにや、にやにや。バカそうな顔で」
「ごめん、いろいろ考えちゃって」
「あそ。今日酒付き合いなよ」
「え、うん。じゃあ足らないね。買ってくるよ」
彼女が休みの日は一緒に飲もうと誘ってくれる。誘うと言うより命令に近い。でもそれでもすごく嬉しい。
今日、彼女はいつもより酔っ払った。
僕に体を預けてくれるのは酔った時だけ。
セックスをする。彼女は部屋が明るくても平気なのでいつも電気はつけっぱなし。
はじめて彼女の体に触れた日は、乳首よりも先に胸の蜘蛛の巣を指でなぞった。
性器より先に内腿のピストルに触れた。
首筋にキスをしようとしたらピエロに睨まれ少し怯んだ。
「さっきから何やってんの?入れたらいいじゃん」
「あ、ごめん…。実は初めてで…。そういえばコンドームもないよ…」
「チンチンじゃねーよ。刺青の話だよ」
最中、彼女は何度か思い出し笑いをしていた。
「そっかそっか。なんか初めてがアタシとかウケるわー。」
結局その日は彼女に任せっきりで、僕はどうしたらいいかわからず、ただただ横になっていた。
ハイボールを2人で飲みながら話をする。
僕が持ってきたTVではニュースが流れていた。
隣の家の犬を家主が留守中に叩いていたオジサンが逮捕されたらしい。
「ストレスたまってんだろーなー。うちの店来りゃいいのに。叩かれる快感教えてやるんだけどね」
「でもこのオジサン叩く側だよ。あ、蹴った」
全く脈絡も何もない会話をする。
「そーいやあんたゴリゴリのMだよね。一回客で来てみる?」
「いやいや、いいよ。だいたいSMってどこに気持ちよさを感じるのかわかんないよ。痛いだけだと思うけど」
「おい。アタシはそれで飯食ってんだよ。ひっぱたくよ」
「…ごめん」
「なんか腹立ってきた。決定。明日ウチ来な。金は出したげるから」
「え…。本気?」
「当たり前でしょーよ。21時に来な。予約しとくから。キャンセルしたらマジで百万払わすからね」
いや、それは払えない。冗談か本気かわからないけど多分本気だ。
「わかった。絶対痛くしないでね」
「女子かお前は」
その時は話の流れで、ここまできたら一度だけならと考えていた。ここまでがどこまでかよくわからないけど。
何より彼女に拗ねられて口を聞いてもらえなくなっては困る。それに百万も払えるわけない。
一度だけなら…。
結局僕はその後、SMという沼にどっぷりとはまってしまうのだけれど。
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