コユビブツケタ

そうざ

I Bumped My Little Toe

 異常気象が常態になった十四時二十一分五十七秒頃の事だった。

 炎天下、汗だくになった一人娘が片足コサックダンスを踊りながら帰宅したので、縁側でくつろいでいた半裸の父は「本場ロシアでもそんな器用な奴はいないんじゃないか?」と冷やかし気味に称賛した。

 つらを歪ませた娘は、右足で父に回し蹴りを食らわせる。蹴りは左肘辺りにヒット。父は大袈裟にのた打ち回ってみせた。娘は独学でムエタイ、カポエイラを習得しているのである。

 娘は、左足の小指をぶつけたんだよっ、というニュアンスを声にならない声で伝え、じんじんするサンダル履きの左足をしきりに中空でぶらつかせている。

箪笥たんすの角にでもぶつけたか」と父がへらへらと問うたので、娘は「もういっちょ食らいたいのか」と凄んだ。大袈裟に堪忍、堪忍と詫びる父。

 縁側に突っ伏した娘は、まだ意味不明の言語ともうめきとも付かない声を発しながら痛みと孤軍奮闘している。

 確かに、外から帰って来たばかりの娘が箪笥たんすと遭遇する確立は低かろうと考えた父は、「一体、何にぶつけたんだ」と普通に訊ねた。

 娘は「駅前のぉ、駅前のぉ」と繰り返すばかり。

「ガードレールか?」と父。

 ぶるぶるっと顔を振る娘。

「電柱か?」

 ぶるぶる。

「ポストか?」

 ぶるぶるぶる。

「地球か?」

 娘が、ふざけんなっ、の蹴りを繰り出す。既に見切っていた父は、ひょいと交わしながら、こいつもいつの間にか女っぽくなったなぁ、と蹴りを繰り出し中の娘の肢体を動体視力で感慨深く眺めた。学生時代に卓球をたしなんでいたので、昔取った杵柄きねづかである。

 カモシカのように毛深くはないがスラリと伸びた脚、白魚のようにひれは付いていないが白く長い指、実際にはち切れたりはしないが、はち切れそうに隆起した乳房――容姿とおつむは下の下だが、その他はすっかり成熟した立派な女である。

 おまけに、その性的な肉体を惜しげもなく露出させた服だ。いつからこの国は慢性的生地不足になったのかという問い掛けを誘発するミニスカートもる事ながら、タンクトップの肩口からブラ紐をこぼれさせるのは西暦何年何月何日に施行された『ブラジャー及びその着こなしに関する諸規定』からOKになったのかと考察したくなる。こんな娘が町を歩けば、発情した男共が群がるのは必定である。

 そう言えば、今日は帰りが遅くなるかもと言って娘は家を出た。もし夜分までうろうろしていたら危険度は更に倍増するだろう。娘が小指をぶつけた所為せいで早々に帰宅したとすれば、不幸中の幸いと考えるのが真っ当な父親なのではないだろうか。

「良かった、良かった」

 心底良かったと感じていた父は、思わず心の中のつぶやきを物理的に発声してしまった。

 蓮っ葉な娘が父の内面の真意を推し量れる筈もなく、ただ単純に、小指をぶつけて良かったね、と額面通りの意味で解釈してしまったから、さあ大変。

 ぶうぅん。

 ばごっ。

 意識が『娘をおもんばかる良識的父親モード』に入っていた為、父は再び娘の間合いを見切れず、その蹴りを米神こめかみにまともに受けてしまった。

 父の身体は、後ろでんぐり返しで縁側から地面へと一回転して転げ落ち、犬走りと呼ばれる建物の外壁とその外側にある溝との間に設けられたコンクリート敷きの狭い通路部分に、しこたま後頭部を打ち付けた。但し、犬走りは一般家屋だけの専門用語ではない。築地や城郭、堤防においても該当箇所が存在し、コンビニエンスストアの店先にたむろす育ちの悪そうな餓鬼共がぺっと唾を吐くような場所だったりするのである。

 自家製の五芒星ごぼうせいを自らの頭部を中心に公転させながら、ふらふらと立ち上がる父。自分の意図以上のダメージを父に与えてしまった事を自覚した娘は、(これはちょっと流石さすがにヤバいかもと思った時になる得も言われぬ表情)になり、小指の痛みさえ忘れ、いつの間にか一星ひとほし増えた六芒星ろくぼうせいを頭頂部で再生産し続ける父を恐る恐る観察した。

 父はあまりの激痛に、自分達が遺伝子的に繋がりのない親子であるという機密事項をぶっちゃけそうになったが、この事実はここぞという時の切り札として今の所は温存しておこうと思い返す程度の理性が働く余裕はあった。

 しかし、打ち所が良かったのか悪かったのかその中間くらいなのか、ざらついた視界に映る娘を見た父は、ややっ、おおっ、ええっと思った。

 露出率70%~80%だった娘が、今や100%のそれにグレードアップしているではないか。いな、露出率というよりも透過率だった。まとっている衣服自体は先程と同じデザイン、同じ色合いであるが、同時に、薄皮の如く柔肌にまとわり付いているに過ぎず、かすみおおっているような状態だった。

 何とか合理的解釈に達しようとする父だったが、網膜をこそぐるあられもない姿の娘に、いつしか否応なしに思考ベクトルの方向を変更せざるを得なくなっていた。

 何を隠そう、何も隠れていない状態の娘を目の当たりにするなど、ほぼ初めてだった。娘は幼児期から小学校三、四年生の頃まで、今は亡き妻と一緒に入浴していた。妻の死には不可解な点が幾つもあった。某国の諜報機関に抹殺されたとか、豆腐の角に頭をぶつけたとか、荒ぶる神の逆鱗に触れたとか、若年性老衰とか、数々の信憑性に富む与太話が国営放送やゴシップ誌、インターネットを通じて流布され、ワイドショーの歴代高視聴率のベスト3にランクインし、各局から感謝状と謝礼が届けられ、その特典で世界一周旅行をしたり、ギャンブルで全財産をすっからかんにしたりした。

 それは兎も角、妻の他界と時期を同じにして娘は一人で風呂に入るようになった。今にして思えば、最愛の母を失った事で娘の中に自然と自立心が芽生えた結果かも知れない。だとすれば、我が子ながらよく出来たしっかり者である。

 目を閉じ、うん、うん、としきりにうなずく父の仕草を見た娘は、頭を打ち付けた所為せいで首が取れ掛かっているのではないかと解釈し、多少びびった。

 自慢の娘が大病も患わず五体満足に成長し、今こうして父親の前でスケスケになっちゃっているのである。スケスケになっちゃっている状態を目の当たりにしてしまった以上、スケスケになっちゃう前の精神状態においそれと戻れない事は明々白々なのだから、もし万が一スケスケになっちゃっているこの現状が幻覚の類であったとしても、自分の主観的世界にいてはスケスケになっちゃっているように見えるのは事実なのだから、寧ろスケスケになっちゃっているこの現状を積極的に受け入れ、スケスケのスケスケによるスケスケの為のスケスケをズケズケとスゲースゲーと賞味するというのも、一興なのである。

 先程まで七芒星しちぼうせい(また増えている)の大量生産機と化していた父の瞳が一転し、嘗め回すように穴が開く程に自分の身体を注視している事に気付いた娘は、父親が頭部強打によって透視能力とスケベ心とを同時に開花させたのではないかという事実を瞬間的に直感し、またぞろ必殺の蹴りを放った。

 だが、咄嗟だったがゆえ、痛みを抱えた小指の付いた左足の方を繰り出してしまった事を、娘は約1・93秒後に自らの悲鳴によって告知された。

 再びでんぐり返る父。但し、今度は前廻り方向である。再び片足コサックダンスに興じる事になる娘。但し、冒頭の時点よりもいささか上達している。流石さすが、独学でムエタイ、カポエイラを習得しているだけの事はある。それでも痛みは阿鼻叫喚あびきょうかんに結実。

 ゆっくりと我に返った父は、自らの瞼の裏に娘の片乳首の色具合くらいは刻印されているのではないかと不安と期待の賭けに出たが、つぶった瞼には漆黒の闇しかなかった。直ぐ様、視線を娘に向けたが、幸か不幸か娘の着衣はもう本来の様相を呈していたのだった。父は、ガッカリ、ホッ、ガッカリ、ホッ、を繰り返した。

 よくよく見ると、娘は帰宅時以上のリアクションで縁側をのたくっている。余りにもいつまでも痛がっているので、これはもしや不治の病なのではと心配に至った父は、金に物を言わせてタクシーを呼び付け、金に物を言わせようと総合病院へ急いだ。

 病院に着くや否や、父が介助の手を差し出すや否や、娘はそれを無視するや否や、自力で病院内に入って行こうとするや否や、帰宅時の片足コサックダンスを再演する気力が残っているのか、いないのか、阿波踊りが関の山であるやなしや。

 父は無理矢理に娘の腕を掴み、己の肩に回した。

 娘は「汗臭っ」と一言。

 父は「お前もなっ」と一言。

 幸い大事には至らず、ぐっちゃぐちゃの小指なんかもう要らないとばかり切断して貰った娘は、ぴこたんぴこたんと平気へいき平左へいざで診察室から出て来た。

 行きと同じように父は娘に肩を貸した。今度は割と自然に娘は腕を回して来た。

「貸した肩は月末までに返せよぉ~♪」と父が作詞作曲をすれば、「肩パットを付けて返してやるわぁ~♪」と娘はすかさずアンサーソングを作詞作曲した。

 一件落着したみたいな気がしないでもないような感じになり掛けつつあったので、父は思わず自分が不治の病で余命半年の宣告を受けているという機密事項をぶっちゃけようかと思ったが、場の空気が悪くなって再び娘のローキックを食らう事態になるのを恐れ、言葉を呑み込んだ。来週の木曜日くらいに言う事にした。

 それはそうと、娘は何に小指をぶつけたのだったか。

 改めて訊こうとしたその時、娘の足の指全てに何やら派手な色遣いで絵が描かれている事に初めて気が付いた。それは亡き妻の死の秘密を解く為の暗号のようでもあり、唯の落書きのようでもあった。ちまちまとそんな小細工をしている暇があるのなら、地震予知でもしろ、或いは円周率を割り切ってみろ、もしくは全身の黒子ほくろの位地をメモしておけ、と呆れ気味に心で呟く父であった。

 それは、異常気象がまたぞろ異常に戻った十五時三十二分四十六秒頃の事だった。

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