白い獣

黒川魁

白い獣

 私は白に包まれて育った。純白の工場と、時折同じく白色の研究機関の二つの白の中を行き来して祖国のためという大義のもとで。


“国民にやさしい工場”


真っ白な垂れ幕にゴシック体で書かれたその一文に言いようのない嫌悪感が身を包む。


「私が見に来る必要なんてあるのかな」


私のきょうだいの流れるベルトコンベアーをじっと見つめ呟く。


「なくても来るのでしょう」


振り返ると男の姿があった。私は彼を“男”と呼ぶ。昔は誰のことも固有名詞より細かい名前でより明確に識別されていたらしい。


「それは、これが私の義務、らしいから」


「人というのは更新されていなくても意思を放棄するんですね」


「更新されていても嫌味は言えるのね」


「今の僕のするべきことはあなたと交流することなので、今はこうするべきだからこうしているというだけですよ」


「そう」


不快だ。


殆どすべての国民、世界政府に更新された人間たちは頭が固くてまるで会話をする気が湧かない。人間。いや、社会そのものと。


ベルトコンベアーの上を延々と流れ続けるきょうだいたちは揃って瞼を閉じ、人工羊水のパックの中で丸くなっている。彼らはこの国の主な食糧だ。彼らを決して絶やさないようにするために私は生きている。私の体を構成するひとかけらの遺伝子を飲み込んだ、武骨で無機質なこの箱がきょうだいたちの母親だ。娼婦のように恥ずかしげもなく股を開き、私と全く同じ遺伝子を持つたくさんのきょうだいたちを孕んでは産みだしている。この母親にはこの社会へ向けるものの次に嫌悪感を抱いている。


「人間以外の生き物も、殺したり生物兵器なんかにするんじゃなくて少しは残しておけばよかったのに」


流れていくきょうだいを一人つついて横にずらす。


「あなたは己の社会における立場がなくなってしまってもいいんですか? 」


「私はね、あなた達と違って個性とプライバシーがあるの。それに、この世界が食べ物に溢れていれば社会もさして重要じゃなくなるのよ」


つつかれたきょうだいはベルトコンベアーの下から生えてきたアームに押し出され、規格外ごみ箱へ落ちた。食糧として消費される前に死んでしまえば、きょうだいたちも人間として産まれて死んだことになるかもしれない。そう思ったがこれではごみとして廃棄されただけで、ちっとも人間らしくない。大事な食糧になんてことを、と男に叱責された。きょうだいが落ちた時のゴッという鈍い音がやけに耳に残った。


人間というのは食事を楽しむ生き物だ。更新された人間も本能には抗えない。ほかの動物が滅び、わずかな植物以外の食糧を同じ人間で補っているこの時代、様々な人種を培養することで少しでも形を変え楽しんでいる。例えば性別の差。赤ん坊に男も女もあるものかと思うが、大抵の人間が料理するときに使い分けている。


そういう理由で私と同じように培養されるために更新されていない人間は居る。限りなく少ないが、この培養工場一つに一人。黒、白、黄色人種、女性、男性。


私は一番近くの工場にいるナレという男の子と交流を持っていた。私たちはきょうだいたちと違って食糧ではないので人間として人権がある。だから、交友関係の制限がない。ナレは齢十四の黒人の男の子だ。女性より需要の低い男性肉の工場は、ナレの居るところを含めて、国全体には片手で数えられるほどしかない。


私たちはしょっちゅうお互いの工場を行き来しては二人きりで過ごしている。ナレはしばしば不思議な立ち振舞いをするので、遠くからでもすぐに見つけられる。


「久しぶりだね、ナレ」

「うん」


今日は白洲の石をせっせとポケットいっぱいに詰め込んでいる。真っ白なシャツが汚れているが、彼はおかまいなしだ。


「そうだ、聞いてよリンリ。僕すごいこと知っちゃった」


「ヘビって生き物のことなら先週聞いたよ」


「そうじゃなくて僕たちのお母さんとお父さんのことだよ。動物は生殖活動のために必ず番になるんだ。だから、僕たちの両親も絶対にどこかにいるはずなんだよ」


興奮して顔を紅潮させている。そんな当たり前のことを、ナレの工場の人たちは教えていなかったのだろうか。


「そうだよナレ。動物は番になるし人間は人間から産まれているの。東洋にあった島国では、蛙の子は蛙っていう諺があったくらいだし」


「だから、それは知ってるよ。それに蛙の子はオタマジャクシって言って、蛙と違って色も黒だ。僕が言いたいのはそういうことじゃなくてね、僕たちにも両親のもとで生活する権利があるんじゃないかってことだ」


私は目を丸くした。


「両親のもとで生活するってつまり、普通の子供みたいに過ごせるってこと。それって工場から出られるってこと。でもそんなのここに居なきゃいけない義務が。ねえ、どういうことなの」


「そう、その通りだよ。僕たちの両親は更新されているかもしれないけど、この白い世界とはおさらばできるんだ。子供に義務なんて要らない」


私とナレはよく工場の窓から、外で遊んでいる子供たちを眺めていた。なにか投げたり蹴ったりしていて、とても楽しそうだった。私たちの価値は細胞にある。


だから、体に傷のつくことはさせてもらえない。しかし、私たちに両親がいて、真っ白な工場ではない小さな家に住んで、細胞のひとつひとつを切り売りされず生活できたら。友達が更新されていたとしても楽しいのだろう。ナレ以外のたくさんの子供たち。私も彼らのように笑顔でこの壁の外側を駆け回りたい。


「リンリはよく外の子供たちのようになりたいって言っていたから考えたんだ」


「ナレ……」


ナレの見せる笑顔は輝いている。エナメル質の歯の白さに、背後の工場を透かしてみているような錯覚を起こしそうになる。


「ねえリンリ、一緒に外に行こうよ」


「……どうしてナレまで外へ出たがるの。私たちが外へ出たら処分されるかもしれないんだよ」


きっと食糧の違法育成だと思われる。違法育成によって過成長したきょうだいは、国によって回収されることになっているが、回収されたあと、どこへ行くのかは知らない。私たちには知らせたくない方法で何かに利用されているのか処分されているのだろう。外へ出れば私たちときょうだいの差は何もない。だからこそ今まで外への脱走は実行できなかった。


「僕は外に出て学校を作りたい。皆に自我があることは悪いことじゃないんだ。更新は昔はロボトミー手術って言って脳を破壊して感情を殺してしまったりするから忌避されたんだよ。戦争も終わったのに、強制的に抑圧されている社会は異常だよ。学校を作って、産まれてくる子供への更新を廃止して、自我のある子供たちに可能性を見いだすんだ」


「可能性。何の」


この国に勝る技術はない。なんの可能性もあるものか。


「“芸術”だよ」


「ゲイジュツって、革命の前の娯楽とか文化のこと? 」


更新された人間たちに娯楽は必要とされていないため、今日までに随分衰退した。音楽のように形のないものは勿論、技術はおろか、娯楽のための道具のほとんどは戦時中に兵器に変えられたはずだ。スポーツも運動機能低下防止の為に残っているだけなのに。


「芸術はすごいんだよ。昔の人たちは皆悩みや苦しみがあって、それを形に残して共有して。感動したんだ。皆っていう単位は今よりもっと小さくて全員同じじゃなくてもよかったんだ。来て、リンリ。君も見たら分かるはずだよ」


「皆が悩みを抱える……」


頭を垂れ、考え込んでしまいそうになった私の袖をナレが強く引いた。このままついていったら、工場の巡回に間に合わない。


「ごめんね、私のきょうだいたち」


ナレの工場の人間も、私の工場の人間たちと同じように顔色ひとつ変えず動き回っている。


どの工場に行っても違いがないのは誰も悩まないからなんだろうか。


ついていった先で見せられたのは古い紙切れが入ったアクリルの小箱だった。文字ではない不思議な突起も横にならんでいる。これが音楽だよ、とナレは小さなぜんまいを回してみせた。サイレンのような音が部屋に響く。聴いていて心地よい。懐かしく、すっと穏やかな気持ちになるのを感じた。


「ねえナレ。私、悩みはないけれど、私、どうしてもしたいことがあるの。それを果たすのを手伝ってくれるなら外に出てもいいよ」


本当はリスクを侵してまで外に出るのは御免だけど。

「本当?僕なんでもするよ」


純粋な瞳を向けられた。


「私たちと他の人たちの違いってなんだと思う」


「違い? 」


「そう、決定的な違い。更新されてるか否かじゃなくて産まれたときからの違い」


「……わからない」


「うん。私にもわからない。私たちだけがこうしてたくさん増やされて、食べられて。他の人間とは見た目はなんにも変わらないのに。だから、他の人たちのこともきょうだいたちのように食べてやろうって」


「食べるって、それって殺人ってこと」


「違うよナレ、これは食人。カニバリズムって言うんだよ」


カニバリズム。食人主義。人を狂わす古代からの禁忌。


「そんなの異常だ」


動揺して目が泳いでいる。でも。


「私たちのきょうだいを食糧にするこの国はみんなそうでしょ」


「……」


薄く色づいた唇が開いたり閉じたり。愛らしい。目を合わせて微笑むと、項垂れてしまった。


「わかった。僕は僕の夢のため、リンリのためになら、犯罪だってなんだって上手くやってのけてみせるよ」


「本当? 」


ナレから良い返事が返ってくるとは思っていなかった。嬉しくて目の奥が熱くなった。


「ありがとうナレ。大好き」


恥ずかしいよ、とそっぽを向いたナレの耳が赤く染まっていた。


他の人間を食べることに興味を持ったのは工場できょうだいたちの“結末”を知ったときだった。きょうだいたちに固執している理由の“道徳”は更新された人間たちにはない。道徳なんて古い価値観を持っているのは私たちのように更新されていない人間だけだ。それ以外の人間は社会の合理性のために動いている。

きょうだいたちは他の人間がとうの昔に忘れた“人の心”のせいで屠られ続けているのは、私からしたらとても可哀想で、憎たらしくて吐き気がする。きょうだいも私も他の人間もなにも変わらないただの“人間”なのにどうしてこうも立場が変わってしまうのか。

その答えは食糧難のために他ならなかった。それに加えて私はなんだかとても興奮した。人が人を食べる、捌く。そんなことを想像するとお腹の奥がぎゅっとして、とても熱くなるのを感じ、動悸が激しくなった。慈愛の情より淫らな気持ちが勝ってしまった自分が恥ずかしかった。私はこの白の外に出るために、なにも知らない男の子に私の自慰を手伝わせる。


工場に戻るとまた男に叱られた。男は叱ってすぐに機械の隣に戻った。全員が効率的に働く社会主義、これほど国が潤い人が貧しくなる体制はあるのだろうか。


私は居住スペースに戻り、ベッドの上で記録をつける。誰に見せるわけでもない日記だ。がさつに削った鉛筆を握り、ガリガリと削るように走らせる。罪を犯すのは早い方がいい。後悔や疑念が浮かんでくる前に明日、動こう。最後の行に一際大きく、思い立ったが吉日、と綴った。 吉日って何だろう、睡魔に襲われるとそんなことも気にならなくなった。


目が覚めて聞こえてきたのはサイレンだった。きょうだいたちの母が暴走を始めたらしい。見に行くと、きょうだいたちが凄い速さで産み出されていた。腕だけだったり、頭だけだったり、皮膚のない顔の、作りかけのきょうだいたちが流れてきてはゴミ箱に押し出されている。他の人間たちは疑問を持つこともなく動いている。ロボトミー手術の欠陥をたたきつけられただただ不気味だった。技術者の風貌の人間が現れてきょうだいたちの母をいじり、出来損ないのきょうだいたちでいっぱいになったゴミ箱を運び去り、嫌な顔も悲しそうな顔もしない。


「私のきょうだいたち……」


思わず腕をつかみかけ、伸ばした手が空を掴んだ。

廃棄に運ばれる姿に胸が苦しくなった。こんな冷たい機械人間どもと一緒に過ごしていたことに孤独を感じ寒気がした。


「ナレ……」


騒がしい工場ときょうだいたちを置いて、ナレの工場へ走った。


「リンリの真っ青な顔してるところ、初めて見た。風邪……ではなさそうだけど大丈夫? 」

「寒い、怖いの。私のきょうだいが、ゴミになって、産まれたのに息してなくて」


「そっか」


痛む胸を抑え、涙で歪む視界を袖で拭い走るとナレは工場の外に居た。パニックになった私を宥め、背中をさすってくれる手は、私より小さくて温かかった。よく耳を澄ませるとナレの工場からもサイレンの音がしている。慣れ親しんだ空間の異常を訴えるサイレンは、幼い頃の私の声ににていて、近づくと耳をつんざくようにけたたましく鳴り響いていて、必死で滑稽だ。


「リンリ」


「うん」


「リンリ、あれね、僕がやったんだ」


「あれって工場の。それともこの音のこと」


「サイレンの音はよくわからないけど工場の機械をいじったのは僕だよ。いじったっていうか、材料の投入口に石を投げ込んだんだ」


「どうして」


「悪いことをするんだから少しでも音を掻き消せたほうがいいでしょ?これだけうるさければどんな殺し方をしても気付かれないよ。いつもきょうだいを気にかけているリンリは嫌がるだろうけどこれが一番確実だった」


「サイレンのため」


「そう、リンリのため」


「そっか」


ナレに軽蔑を覚えた。ナレにはきょうだいたちはどう見えているのだろう。優しい、造花に傷をつけることも嫌がる彼をそれほど狂わせるくらいのなにかがあるのだろうか。それのせいだとしても、今の私は受け入れられない。


「……ありがとう。ナレ」


「ふふふ、目が赤くなってるよ」


それはきょうだいたちの怒り。


「さっきまで、泣いてたから」


嘘を吐く私にも心底軽蔑する。感情の苦しみから逸脱しようとした先祖の呪縛は、更新しない限り解けない。


「リンリ、そろそろ行こう」


「うん」


工場に向かう足音は、サイレンに呑まれ、静寂のような地獄で、繋いだ手の温もりだけが私たちを繋いでいた。


私たちが選んだ男は実に呆気なく死んだ。高所から突き飛ばされても良くわかっていないような顔をして、地面が近づいてきたことに驚き、手を伸ばす間もなく死んだ。人間は鉄の雨や爆弾を降らせたり火炙りにしたりし合う生き物だ。案外しぶといかもしれない。


「本当にこんなに弱いのかな。ねえナレ、まだ生きてたりしない? 」


「大丈夫だよ、頭が潰れてる」


安堵したような呆れたような。突き飛ばされた男は、先程の工場で見たゴミ箱へ落とされたきょうだいたちと既視感のある形になって落ちている。今日産まれたきょうだいたちは皆ゴミ箱の中で死んだのかもしれない。そう考えると死んだ男が自分のきょうだいのように見えて、食欲が少し萎えてしまった。


いくら食べるためとはいえ小柄な私たちが二人がかりで運ぶのは時間も体力も使う。その場で食べることにした。服を脱がせ柔らかそうな腹に口をつけると、しょっぱくて中年男性特有の体臭がする。そのうち、死臭に変わるだろう。


「僕、ほんとうはリンリが好きなんだ」


見届けさせて、と後ろに立ってしばらく黙っていたナレが口を開いた。咀嚼をやめ、顔を向ける。


「……、それはどういう意味で」


「恋…恋愛的な意味」


「……」


男の肌に歯を立ててナイフを刺し、答える。


「私はナレの期待には答えられないかもしれないよ」


「僕は……」


口ごもり、目を泳がせ、何も言わなくなった。

私の初めての自慰行為とも呼べる食事は腹の肉と内臓ひとつ食べて終わった。


どちらも脂と血がぬるぬると口の中に残り、生きていたときの体温を残っていてあたたかかった。ぽっかり空いた穴の中に手を入れ残りの内臓をなぞる。自分の体が熱くなってくるのを感じ、引き抜いた。手についた赤は鉄の味が情欲を煽り、昂らせた。


「おいしいの。人なんて」


「ふふ、すごくまずい」


最後まで見続けたナレはそれだけ聞いて私を着替えに戻らせた。着替えを待っている間、ナレは小さくて湿っぽい声で何度も私の名前を呼んでいた。


「このゲートから出たら、約束は果たしたことになるんだよね」


「そう。ここから出たら」


白い箱を囲う、高い白い塀の唯一の出入口。お互いの工場に行き来するときに通るだけのはずだった、外界との境目。門番も怪しまず、小屋から出てこない。さすがにサイレンの音はもう届かず、それが少し気持ちを落ち着かせてくれた。


「ナレ、ここから出てもずっと友達だよ」


「友達……。僕の気持ちをリンリは拒むんだね」


「そんな言い方しないでよ……」

「冗談だよ」

「私、これからもずっと更新しないつもり。だから、ナレの気持ちは絶対に忘れない。受け入れられるときが来たら、そのときは」


そのときは、私から伝えたい。


「わかった。待ってる」


「……じゃあね、私のきょうだいたち」


「きっと僕たちがいなくなったら工場もきょうだいもなくなるよ」


「わかってる。けど、挨拶もなしなんて」


「僕、リンリのそういう優しいところ、本当に好きだよ。慈悲深くて菩薩みたい」


「私、キリストより菩薩の方が好きだから嬉しい。響きが柔らかくて」


「そろそろ、行こうか」


「そうだね」


コンクリートの床から舗装された道へ足を伸ばす。二人とも繋いだ手が震えている。きっと二人ぽっちじゃ世界は変わらないし人間たちの更新も誰かのきょうだいが食べられ続けるのは止まらない。

前を見つめ、地面の無数の足跡を踏みしめ、そして工場を二度と見ないように、前へ前へ歩いていく。もう、私の世界は白くない。


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