呪われ公爵と身代わり令嬢 (第一章完結 第二章検討中)

歪牙龍尾

第一章

1-1

「ーーというわけでピエリス、婚約は破棄してもらえないかな?」

 昼過ぎの柔らかな陽光が差しこむ館の一室で、ピエリスは眼前の婚約者が放った言葉を聞いて固まった。

 ぱちぱちと数度瞬きをして心を落ち着かせながら、ピエリスはゆっくりと口を開く。

「フィサリス。あと数週間で結婚式だったのよ? そんな突然、どうして……」

「さっきも言っただろう? もっといい女性を見つけたんだ。あのセイフォンテイン伯爵令嬢が僕と結婚したいと言っている。これは素晴らしい好機なんだよ」

 別れ話を切り出しているにも関わらず、フィサリスの表情は喜びに満ちていた。爛々と輝くフィサリスの瞳には、ピエリスに対する罪悪感など微塵もない。あるのは、この先の未来に対する期待感だけだった。

「おかしいわ……。貴方は、私を愛してるって言ってたじゃない。私の辛さを、貴方だけはわかってくれるって!」

 辛い時や苦しい時、フィサリスはいつもピエリスに心配の言葉をかけてくれていた。それがピエリスにとって唯一の心の支えだったのだ。

 今、その支えが地盤から崩れかけていた。

「だって君はウォドール辺境伯令嬢じゃないか。ドラグセラ男爵家の嫡男である僕からすれば、君でも十分な結婚相手だったからね。優しくするのは当然だろう?」

「なっ……。それでは、貴方はただウォドール家の後ろ盾を得るために婚約を?」

「いや、君が美しかったからというのも理由の一つだとも。君を抱くのも悪くないとね」

 にやりとフィサリスはいやらしい笑みを浮かべる。その笑顔を見た瞬間、ピエリスの抱いていたフィサリスとの穏やかな結婚生活という幻想は儚くも砕け散った。

「騙していたのね。私ならば簡単に貴方のものになると思って!」

「騙していたとは人聞きの悪い。仮病令嬢だなんて言われる君をもらってくれる人なんていないのだから、甘い夢を見れただけでも君は僕に感謝すべきだろ? なんなら今からでも僕と寝るかい? そしたら君との関係も考えてあげないこともないよ?」

 ちらと寝台に目を向けてフィサリスは微笑む。

 その態度を見た瞬間に、ピエリスはフィサリスに対する今までの感情を全て捨て去った。優しさや愛だと思っていたものは全て野心と性欲だったのだと怒りが湧き上がり、ピエリスは罵声を吐き捨てようと口を開く。

 しかし、その直後に強い頭痛と気分の悪さがピエリスを襲った。

「うっ……」

 口元を押さえてピエリスは少し前屈みになる。少しでも油断すれば、罵声ではなく少し前に食べた物が口から漏れてしまいそうだった。

 フィサリスはそんなピエリスの様子をただ眺めて、呆れたように深く息を吐いた。

「またそれかい? 今度は何かな。気分が悪い? 頭痛? それとも腹痛かな。君の仮病を見るのも飽き飽きしてたんだ。僕と寝たくないならそう言えばいいものを。そうやって誘いを何度も断るから、僕も別の女性を選んだんだよ」

 トントンと機嫌悪く机を指で叩きながらフィサリスはピエリスに冷たい視線を向ける。

 だがピエリスにはそんな視線を気にしている余裕もなかった。深く息を吸って、魔力を整えながらピエリスはただ祈る。そうすることで、ピエリスの身体を蝕む苦痛が少し和らいだ。

 フィサリスはピエリスが黙っているのを見ると、少し機嫌を良くしたように微笑んで話を続けた。

「セイフォンテイン令嬢は可愛らしくてね。その上、聖女に選ばれるんじゃないかとまで巷じゃ噂なんだよ。セイフォンテイン領に湧く聖なる泉のおかげでね。そんな彼女が、あのユーラリア公爵殿との婚約を破棄したと聞いて僕は彼女に会いに行ったわけさ!」

 楽しそうに話すフィサリスを横目に、ピエリスは燃えるような魔力を身体に巡らせて息を整えた。

 そうして魔力を巡らせていけば少しずつ身体の不調が消えていくことを、ピエリスは経験から学んでいたのだ。

 そんなピエリスの様子には気がつくこともなく、フィサリスは話を続ける。

「ドラグセラ家は商売で平民から男爵まで辿り着いた家だからね。泉の水について商談があると言えば、簡単に令嬢に会うことができたんだ。そしたら後はもう簡単さ。僕の美貌に惚れた彼女は、泉の水を高く買い取ることを条件に婚約してくれたんだ。凄いだろう?」

 悪びれる様子もなく笑うフィサリスの顔は確かに整っていた。少し前まではピエリスもその表情に胸を高鳴らせていたほどだ。

 しかしその本性を知ってしまえば、どんな顔であろうともかっこいいなどとはもう思えなくなっていた。

「もう、いいわ。貴方が私をどう思っていたのかはもうわかったから。婚約破棄でもなんでもして、さっさと私の前から消えて」

 フィサリスとこれ以上話す気力もなくして、ピエリスは目の前に置かれた婚約破棄の同意書に名前を記した。

「ふむ。もう少し縋りついてくるかとも思ったが、案外簡単に受け入れるんだね」

「当然よ。貴方との婚約を破棄したところでウォドール家には何一つ害がないもの。後は私の気持ち次第でしょ? なら私の答えは一つよ。だから早くここから消えて、二度と現れないで!」

 ピエリスは書類を受け取ったフィサリスに鋭い視線を向けて、扉を指差す。

 怒りを露わにするピエリスの姿を初めて見たフィサリスは、その勢いに気圧されながら何も言わずに慌てて部屋から出て行った。

「……結局、私を信じてくれる人は誰もいなかったのね」

 静かになった部屋の中で、いつも通りの頭痛に苛まされながらピエリスはつぅと涙を流した。

「仮病、ね……」

 ピエリスはその言葉が心底嫌いだった。

 一度として、ピエリスが仮病をつかったことはない。物心ついた頃から絶えず体調不良に苦しめられてきたピエリスは、病を偽る余裕さえなかった。体の部位を問わず痛みが襲い、眩暈や吐き気が意識を狂わせる。

 しかしそんな状況でありながら、数多の医師はピエリスを健康体だと診断した。

 そうして、健康体でありながら苦しみを訴え続けたピエリスに付いた呼び名こそ仮病令嬢なのだ。

「……入るぞ、ピエリス」

 コンコンと扉を叩く音の後に、低く芯の通った声が扉越しにピエリスの耳に響いた。

 その声の主は、ピエリスの父ビーデンだ。

「どうぞ、お父様」

 ピエリスが返事をすると、ゆっくりと扉が開かれた。

 現れたのは、深い青の髪と目をした偉丈夫だ。体格はしっかりとしていながら背も高く落ち着いた仕草のビーデンは、厳つさの代わりに威厳が滲んでいた。

「何か用でしょうか、お父様」

 部屋に入ってからただ静かに立つビーデンの視線に耐えかねて、ピエリスが問いかける。

 ビーデンはそれでもすぐには口を開かず、窓から少し外を眺めてから重々しく声を出した。

「……単刀直入に言おう。お前にいい縁談を持ってきた」

「……え?」

 突然のことにピエリスの思考が真っ白になる。婚約が破棄されたばかりで縁談などと言われても、ピエリスにはその言葉の意味を理解できるほどの心の余裕さえなかった。

「ユーラリア公爵が、今から三日の内に結婚できる令嬢を探している。子を産めさえすれば他に条件はないと聞いた。お前にとってまたとない好機だろう」

 ユーラリア公爵と聞き、ピエリスは先ほどまでフィサリスが話していた内容を思い出す。

 フィサリスが新たに婚約する相手がセイフォンテイン伯爵令嬢であること。そして、そのセイフォンテイン伯爵令嬢がユーラリア公爵との婚約を破棄したという話だ。

 加えてフィサリスは婚約破棄を切り出す前に、こうも話していた。ユーラリア公爵はまるで獣のように理性を失い、セイフォンテイン伯爵令嬢を襲おうとしたのだと。

 そんなユーラリア公爵との縁談を進める父の意図がピエリスには理解できなかった。

「好機と言いますが、お父様はユーラリア公爵をご存知なのですか?」

「もちろんだ。公爵殿が家督を継ぐ前に戦場を共にしたことがあるが、彼は人格者だった。きっと良い結婚生活を送れるはずだ」

 父の真意を探ろうとピエリスが問いかければ、返ってきたのはユーラリア公爵に対するビーデンの好意的な印象だった。

 その表情と言葉から悪意はないのだろうとピエリスは安堵して胸を撫で下ろす。

「では、今のユーラリア公爵の噂は知らないのですね?」

「あぁ、あの噂か。婚約者を襲おうとして婚約破棄をされたと。思うに、公爵殿は呪われているのだろう。公爵殿は我が国の英雄であるのだから、森の民達に恨まれていても不思議はないからな」

 ビーデンは窓から外を眺めて小さく息を吐き出した。その視線の先、窓の外に見えるのは広大に広がる樹海だ。

 ピエリス達が住むウォドール辺境伯領は、その名の通り国の境界に位置している。その境界を越えた先に住むのが、森の民達だ。

「我々が魔力を魔術に使うように、彼ら森の民は魔力を呪術に使う。直接戦闘では我々が有利な分、彼らは遠くから私達を呪って弱らせるのだ。おそらく公爵殿も、何かしらの呪いで錯乱でもしたのだろうな」

「そのように錯乱した方に、私が嫁ぐべきだと?」

 問いかけながらも、否定して欲しいとピエリスは願った。呪いについてをピエリスは詳しく知らなかったが、何が原因であれ誰かを襲おうとした人と結婚するのは恐ろしいとしか思えなかったのだ。

 しかしビーデンは首を厳かに縦に振った。

「そうだ。呪いならば対処法はいくらでもある。公爵殿ならば家格も人柄も良い。お前にはこれ以上を望めない相手だ」

「そんな……」

 ピエリスは言葉を失って俯いた。ビーデンの中では娘とユーラリア公爵との結婚が決定事項となっているのだと、これまでの問答でピエリスは察したのだ。

「前から思っていたが、お前はこの家から出て行くべきだ。ルシーにはお前に結婚用のドレスを用意するように伝えておいた。出立は明日だ。わかったな?」

「……はい、お父様」

 ビーデンの有無を言わさぬ気迫にピエリスはただ頷いて、父が部屋から去る後ろ姿を見送った。

「私は、邪魔者なのですね」

 誰にも聞こえないように小さく呟いて、ピエリスは崩れ落ちる。じわりと涙が溢れ出し、ピエリスは小さく嗚咽を漏らした。

 仮病令嬢と呼ばれ、社交界に出ることもなく勉学や魔術の才能も見せない自分が疎まれるのも仕方ないとピエリスも頭では理解している。それでも、実の父から家を追い出されるように嫁がされることがピエリスは悲しかった。

「うっ……いっそ、この痛みで死んでしまえたら楽だったのに」

 いつもと同じように何の前触れもなく襲ってきた頭痛に呻きながら、ピエリスは苛立ち紛れに寝台を叩く。

「これさえなければ、私は!」

 勉強や魔術が上手くいかないのも、全ては原因不明の体調不良のせいだった。

 何かを学ぶにも魔術を使うにも集中力が不可欠なのにもかかわらず、常に痛みや気分の悪さに苛まされるピエリスは集中力を保つことができなかったのだ。

「もう、いや」

 祈るように手を合わせながら寝台に横になってピエリスは目を閉じる。そうして苦痛を和らげながら、ピエリスは眠りに落ちていった。

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