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「行ってしまわれましたね」

 去っていく馬車をピエリスの隣で見送っていた護衛がぽつりと呟いた。

「お兄様は、忙しい人ですから」

 ピエリスは来た道を振り返って寂しそうに微笑んだ。遠目に見える馬車を少しだけ見つめて、未練を断ち切るようにピエリスは公爵邸へと向き直った。

「それで、私は何処に向かえばいいのでしょう」

「まずは衣裳室にお連れしようかと思っております。荷物をお預かりしてもよろしいですか?」

「ええ、もちろん。感謝しますね」

 護衛の差し出した手に荷物を渡して、ピエリスは軽く伸びをする。

 何故真っ先に衣裳室に向かうのかという疑問はあったが、ピエリスは自分が世の常識に疎い自覚もあったため気にしないことにした。

「……荷物はこれだけですか?」

「えぇ、そうですが……。もしかして、ドレスとか必要でしたか?」

「いえ、ある程度の用意はしてありますので大丈夫です」

 護衛は受け取った荷物の軽さに少し驚きながらも、ピエリスを先導するように公爵邸へと歩き始めた。

「それにしても、あれが噂のウォドール家の水人形なんですね。ウォドール辺境伯様が水人形の軍隊を率いて単騎で辺境伯領を勝ち取った話は聞いていましたので、少し肝が冷えました」

 前を歩く護衛がピエリスに振り返り、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。

 そのおかげで先ほどまでよりも幾分か砕けた雰囲気になったのを感じ、ピエリスは緊張を解きながら同じく苦笑いを返した。

「お兄様が作っていた水人形も十分に戦えるみたいですから、怖いですよね。脅すような形になってしまったことは、申し訳ありませんでした」

 一度歩みを止めたピエリスは護衛に向けて頭を下げた。

 ピエリスにとって今大切なのは、公爵邸での生活を快適にすることだ。謝ることで下に見られることは避けたいところだが、元より仮病令嬢として知られるピエリスにとっては下に見られてでも悪い印象を払拭していく方が大切だった。

「そんな。謝罪などしないでください! 十分な歓待ができていなかったのは事実ですので!」

 護衛は慌てて振り返ると、顔を青く染めながらピエリスを制止した。

「私達は非難を受けて当然のことをしていると理解しています。ですから、気にしないでください」

「そう言うのでしたら……。わかりました」

 想像以上に低姿勢の護衛を見てピエリスは驚きながら小さく頷いた。

 それから広い庭を歩くことしばらく。本館であろう建物から少し離れた、別館とも言うべき場所で護衛が立ち止まった。

「さて、この中が衣裳室です。ですが、この中に入る前に最終確認をさせていただきますね」

「最終確認、ですか?」

 護衛の真面目な顔を見て、ピエリスは気を引き締めながら言葉を繰り返す。ただならぬ雰囲気に思わずピエリスはごくりと唾を飲みこんだ。

「これからピエリスお嬢様には当主様と結婚式をしていただき、その後初夜を過ごしてもらう予定となっています」

「今からですか? それに初夜って……」

 結婚を急いでいることは条件からも理解していたが、それでも予想を遥かに超える展開の速さにピエリスは言葉を失った。

「悪い噂がある中、この身代わりとも呼ばれている縁談をお嬢様だけが承諾してくださりました」

 護衛は一度言葉を区切り、深く深く頭を下げた。

「事情はこの部屋に入るまで話せませんが、私達もそしておそらく当主様も全力でお嬢様が幸せに過ごせるようにすると約束します。その約束を信じて結婚の確約をしていただけるのならば、この部屋に入ってください」

 護衛はそこまで言い切ると、頭を下げたまままピエリスの反応を待っていた。

「私は……構いません」

 ピエリスは数秒の間だけ沈黙した後、扉を開いて部屋の中に入った。公爵に対する恐怖心や初夜に対する不安はあったが、ピエリスにはそもそも帰れる場所がないため覚悟を決めるしかなかったのだ。

「感謝します、ピエリスお嬢様」

 護衛の声が後ろで響くのを聞きながら、ピエリスは部屋の中を見つめる。

 視線の先には一人の男性が俯いたまま荒く吐息を漏らしながら、手を強く握り締めて震えていた。

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