1-7
『誰か気がついて……』
気がつけばピエリスは深い水底からぼんやりと明るい水面を見上げていた。
水中の居心地はそれほど悪くなかったが、暗さと孤独がピエリスの身を凍えさせる。溢れる涙が水に溶けてキラキラと煌めくのだけを心の拠り所に、ピエリスは水底で震えているのだ。
『陽の光を浴びたい……。人の温かさに触れていたい』
温もりだけを求めてピエリスは水面をひたすらに見つめるが、誰の手も差し伸べられることはなかった。
『どうか、この願いが誰かに……』
つぅと涙がピエリスの頬を流れる。その涙の感触は先ほどまで水を煌めかせていたものとは違った。少し温かくて頬の上ですぐ冷える雫は間違いなくピエリス自身の涙だ。
その感触でピエリスはこれが夢なのだと気がついた。
「……ここは?」
夢から目を覚ましたピエリスはぱちぱちと瞬きをして周囲を見渡すと、小さく首を傾げた。
ピエリスは自分の物ではない大きめの寝衣に身を包み、見知らぬ部屋の寝台で寝ていたのだ。
「私は、気を失って……。そうだ、今の時間は!」
ピエリスは寝台から飛び上がると、急いで部屋を見回して窓を探した。
「月の光……」
すぐに見つけた窓から差しこむ僅かな光と、その奥の暗闇をみてピエリスは顔を青く染めた。
気を失っている間に公爵が死んでいる可能性が思い浮かんでしまったのだ。
「早く公爵様を探さないと!」
「いや、その必要はない」
ピエリスが部屋にあった唯一の扉を開けて慌てて廊下へと飛び出そうとした瞬間、扉の先から穏やかな声が響いた。
「……目が覚めたみたいだな。体調はよくなったのか?」
「はい、十分に休ませていただきました。ところで、その……。公爵様はお部屋には入らないのですか?」
扉を開けずに声だけを響かせる公爵にピエリスは少し困惑しながらそっと扉を開くと、隙間から公爵を覗き見た。
「こんな時間に女性が一人でいる部屋に入るべきではないだろう。君を見守るべきかと悩みはしたがな」
気を失う前に見た礼服とは違う着慣れた様子の服に身を包んだ公爵は、扉に背を向けて廊下に立っていた。
「安心するといい。君をその寝台に運ぶ以外に私は何もしていない。看病や君の着替えに関しては医者と使用人に任せていたが、夜も遅いからと休ませたのだ」
「そうなのですね。ありがとうございます」
ピエリスが囁くような感謝をすると、公爵は背を向けたまま扉から一歩離れた。
「私は何もしていない。ただ心配で少しここに立っていただけだ。だから、あまり気にしないでまた休むといい」
公爵は穏やかな声でそこまで言うと、懐から聖水の瓶を取り出して一本飲み干した。
よく見れば、廊下には空の聖水瓶が複数並んでいる。少しと言うが、そうなるだけの時間を公爵が廊下にいたのは明白だった。
「私は本当にもう大丈夫です。ですから、公爵様。その……公爵様の呪いを解きませんか」
「いや、しかし……」
ピエリスの言葉に公爵は困ったような声を漏らすと、ゆっくりと扉に振り返った。
「あまり私を困らせないでくれ。私を止めてくれる者がもういないんだ」
公爵は手で顔を覆いながら、部屋の扉を閉めようともう片方の手を伸ばしていた。
その手にピエリスは指を絡め、そして公爵の顔を隠す方の手の袖を摘んだ。
「いいんです。私を幸せにすると誓ってくれるなら、私は構いません」
袖を軽く引いただけで、まるで力が入らないかのように公爵の手が下されて顔が露わになる。
少し潤んだ蒼の瞳が煌めきながらピエリスを見つめ、妙に熱い吐息が公爵の口から漏れた。
「敵わないな」
「わっ」
困ったように微笑んだ公爵に抱き上げられて、ピエリスが驚きの声を上げる。
そのままピエリスは寝台に寝かされ、その隣に公爵が腰を下ろした。
暗い部屋で見上げる公爵の顔は異様なほどに蠱惑的で、ピエリスは高鳴る心臓を抑えながらにごくりと唾を飲みこんだ。
「公爵様……」
「リシンだ。リシンと呼んで欲しい」
「はい、リシン様。私はピエリスです。どうか好きなように呼んでください」
「様は……いや、いい。ピエリスか、いい名前だ」
リシンはゆっくりとピエリスの耳元に顔を近づけると、首に優しく口づけをした。
「私は持つ全てを使って君を幸せにすると誓おう。だから、ピエリス。私の妻になってくれないか」
「はい、リシン様。私も微力ながら貴方を支えたいと思います」
二人は見つめ合い、そして口づけを交わした。
その瞬間だった。
「あ、待ってください。リシン様、なんか変な感じが……」
ピエリスは自分の体に起きた異常に驚いて咄嗟にリシンから離れた。
今までピエリスを襲っていたあらゆる痛みが消え去り、代わりに別の感覚が押し寄せたのだ。
それは、疼くほどに身を焦がす情欲だった。
「熱い、です。身体が疼くように熱いんです、リシン様」
身体が目の前の相手を欲しているのがピエリスにはわかった。熱く、そして切ない疼きが身体を駆け巡る。
ピエリスはその感覚が怖くて、咄嗟に祈るように魔力を身体に巡らせた。
「呪いが、消えた……。違う、まさか移ったのか? 少し待ってろ、ピエリス!」
ピエリスが祈る最中、驚いたように目を見開いたリシンは部屋の扉横に置かれた鈴を鳴らした。
「どうしましたか、当主様!」
廊下を駆ける音の後にピエリスにも聞き覚えのある護衛の声がした。
「呪診師を呼べ、今すぐだ! それと、あるだけの聖水を持ってこい!」
リシンの荒げた声を聞きながらピエリスは祈りに意識を注ぐ。そうしていれば、情欲の炎は少しずつ鎮まっていった。
「ピエリス、聖水を飲め。少しは楽になるはずだ。いや、それともこのまま解呪すべきなのか……?」
慌てながらリシンは聖水の瓶をピエリスの口元まで運び、困ったように片手で自らの頭を抱える。
丁度その時、部屋に一人の男が入ってきた。
「来たよ、リシン。それで僕に何の……おや?」
男は片眼鏡越しにピエリスを見つめて驚いたように固まった。
「何が起きているのかわかるか、キア」
キアと呼ばれたその男は片眼鏡を外してリシンとピエリスを見比べると、大きく頷いた。
「あぁ、わかるとも。何とも珍しい。彼女は君の呪いの身代わりとなっているんだ」
「やはり呪いが移っているのか……。それで、余命はどうなってる。私と同じで今日なのか?」
「いや、違う。というよりも……」
キアは静かにピエリスを見つめてから、小さく笑い声を漏らした。
「何を笑っているんだ! 彼女を幸せにすると私は誓ったんだ! 私はどうすればいい、教えてくれキア!」
「何もする必要はないさ。もう辛くもないだろう、ピエリス嬢?」
「まさかもう死んで……」
「違います! ……違います、リシン様」
「あぁ、大丈夫かピエリス!」
リシンの声が部屋に大きく響く。その声を聞いて、ピエリスは嬉しさと恥ずかしさに頬を赤く染めて枕に顔を埋めた。
キアが小さく笑った時には既に、ピエリスを襲った情欲の鎮火はほぼ終わっていたのだ。けれど、リシンの焦った様子にピエリスは口を挟む機会を見つけられずにいたのである。
「はい、もう大丈夫ですリシン様。その、お騒がせしました」
「お騒がせも何も……。呪いはどうなったんだ」
「浄化したんだよ、彼女が」
キアが片眼鏡を着けなおしながら、何ということはないように言う。しかし、その言葉にピエリスもリシンも驚きを隠せずにキアに視線を向けた。
「つまりピエリスは……」
「そうだね。定義上は聖女ということになるのかな」
「私が、聖女……?」
ピエリスが呆然と声を漏らす。
聖女とは、魔力を用いて他者の呪いを解くことのできる稀有な能力を持った女性のことだ。ピエリスは自分が王国にも一人しかいない聖女なのだとは夢にも思っていなかった。
「とにかく命の危険はないんだ。もう夜も遅いし、寝かせてもらっていいかな?」
「……お前がそう言うのなら。ピエリスもそれでいいか?」
「大丈夫です」
「じゃ、僕はもう寝るね。また明日」
キアがひらひらと手を振って部屋から出て行く。その姿を寝台に座った二人は見送って、どちらともなくお互いに顔を見合わせた。
「どう、しましょうか。もう解呪のために寝る必要はないんですよね?」
「そのはずだが……。いや、そうだな。私は自室に戻るとしよう」
リシンは立ちあがり、少しはだけていた自分の服を整える。そしてピエリスに振り返って毛布をかけると、リシンはそのまま部屋を去ろう一歩踏み出そうとした。
しかしその歩みはすぐに止まることになる。ピエリスがリシンの袖を掴んで引き止めたのだ。
「その、待ってください」
ピエリスは微かに声を震わせてリシンを見上げた。
「リシン様さえ嫌じゃなければ、今日は一緒に寝てほしいんです。色々なことがありましたので、少し不安で……」
ピエリスはリシンの蒼の瞳を見つめながら返事を待った。
自分は用済みとして捨てられてしまうのではないか。リシンはそんな人ではないだろうと思うものの、信じていた元婚約者に裏切られたばかりのピエリスはそんな猜疑心を拭えずにいたのだ。
しかしそんな不安を打ち消すように、リシンはピエリスの手を握ると寝台に腰を下ろした。
「……君が望むなら私はここで君が眠るまで見守っていよう。それとも、隣に寝た方がいいか?」
「リシン様も寝ないと疲れてしまうはずです。なので、その……」
リシンの顔を見つめている内に、まるで幼い子どものようなお願いだと気恥ずかしくなったピエリスが言葉を濁す。
するとリシンは小さく頷いて、ピエリスの横に寝転がった。
「少し狭いかもしれないが、そこは許してくれ」
「はい、ありがとうございます」
横になったリシンと手を繋いだまま、ピエリスは僅かに頬を染めて微笑んだ。
リシンはその笑みを受けて、「気にするな」とだけ呟くと天井を見上げて目を閉じた。
それから間もなく、リシンが静かな寝息を漏らし始めたのを横目にピエリスは安堵の息を吐く。
知りもしない人と結婚するとなった時はどうなるかと思ったが、リシンは父の言う通り人格者だった。
少なくとも悲惨な結婚生活にはならないだろう。それどころか新たな幸せを見つけ出せるかもしれないと、繋いだ手の温もりに胸が高鳴るのを感じながらピエリスは思った。
「祈らず眠れるのは、いつぶりだろうな」
普段から苛まされていた痛みが何一つないことに感謝しながら、ピエリスは眠りに落ちていった。
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