金木犀

もちもち

***


「蝶になった気分」


 ロックグラスの黄金色の液体に沈んだ宝石のような氷を指先で転がし、彼女は口端だけで笑った。

 彼女が揺らす水面は桂花陳酒。甘く華やかな香りの酒だ。


「花の蜜を吸うようだって言ってるの」


 黄金色は透き通った金木犀の花の色だ。それは白ワインに金木犀の花を三年漬け込んでいる。

 花の蜜というよりも、花そのものをんでいると言った方が相応しい。

 照明を控えめに落とされたバーのカウンターで、彼女の白い指先がほんのりとグラスの色に照らされているようにも見えた。


「海を渡る蝶もいるって聞いたわ」


 少し酔っているのか、いまいち彼女の話したいところを掴みかねていた。

 その自分の様子を察したのか、彼女はそこで初めてグラスからこちらへ視線を寄越した。

 にこりと笑う。完璧な笑顔なのに、笑う前後で目だけが変わらない。


「私があなただったら、きっともっと、好きなように好きなところへ行ってしまうでしょう」


 海を渡り、花の生まれた地まで───?


「私の実家に金木犀の花があったの。

 最近、よく思い出すわ。子どもの頃のこと。


 湿った土の匂いや、生暖かい夜に漂う花の香り、爆ぜる焚火の音と光、雪の上に佇む静寂も。

 いつも郷愁が隣にいてこちらを見ている」


 まるでそれが、自由である彼女の足を繋いでいるように聞こえた。

 変わらない彼女の双眸は、怒っていながら致命的な諦観があった。


「人は繰り返す生き物だと。

 私の恩師がね、話してくれたのよ。教師とは、自分の青春を繰り返す職業なのだ、て。

 生徒と一緒に何度も同じ時間を繰り返している」


 終わりのない時間を繰り返している、と聞けば恐ろしい雰囲気もあるのだが、彼女の口ぶりは焦がれているようだった。


「人は隣に自分の過去を置いておきたいのよ。

 それをもう一度トレースしたい。過去の美しい記憶を、その媒体を通して見たい。

 生徒だったり、子どもだったり。

 疑似的に生まれ直したいのね」


 そこで、初めて彼女はくしゃりと相貌を細めた。

 ああ、と思う。

 

 自分の記憶を繰り返し、先に進むしかない。

 …… それを選んだのだ。


「”さよならだけが人生だ”」


 彼女が進むのは、再会の無い道になるだろう。

 この先に待つのがすべて「さようなら別離」だとしても。


 花に嵐の喩えがあるように、桂花陳酒の熱は彼女の胎内で渦巻き、何にもならず、ただ彼女の足を動かしていく。

 この先を独りで往くならば、喉を焼くことになっても、必要な熱になるだろう。

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金木犀 もちもち @tico_tico

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