死人と刃

琥珀ひな

死人と刃



 真冬の夜道。


 深々と降り積もる氷の綿を、その青年は手で払う。


 真冬の夜道。


 堕ちゆく白い塊を、その女は踏み潰して進む。


 そして2人は、対峙した。


 2人の間を隔てるものは、街灯の挿す白い光のみ。


 女が言った。



 ───いい夜ね。



 青年は困惑した。その言葉が、単なる彼女の独り言なのか。それとも、他でもない自分に同意を求めるものなのか。


 しかし青年と女は初対面。女は何気ない一言のつもりなのかもしれないが、青年の方は既に逆ナンを疑い始めている。


 …それとも、青年が覚えていないだけで、実は面識があったのかも。そう考えると、眼前に佇む女の顔。作り物のように整ったその顔立ちに、心なしか見覚えがあるような気がしてきた。


 青年は言った。


 ───雪、お好きなんですか。


 女は「別に」とだけ答えると、スタスタと青年の脇をくぐり抜けて行ってしまう。


 不完全燃焼というか、形容しづらい不満というか。


 青年は女の行く先に首を捻じり、彼女に向かい問を投げた。



 ───僕たち、どこかで会っていませんか。



 女の足は、青年の声を受けピタッと止まる。


 そしてその台詞を待っていた、と言わんばかりに女は口元を吊り上げ、真っ黒に塗り潰された黒真珠の瞳をギラつかせながら青年に迫る。


 そして女と青年との間隔がm単位を切ったところで、女は青年に囁いた。


 吐く息を白く染めながら。



「私の顔をどこかで見たとするのなら───」



 台詞の完結を待つこともせず、気が付けば女の右腕はある一点に向かい伸びていた。


 その瞬間、この空間にだけ、青年と女の足元には " 彼岸花 " が咲き乱れる。


 美しいものの一部が変質したようなその花は、どこまでも新鮮で、どこまでも熱く、そしてどこまでも赤黒い…。



 ───私の顔をどこかで見たとするのなら、そこはきっと「交番」でしょうね。



 女の掌から肩にかけて付着した花弁は、やがて重力に逆らえきれず滴り落ちる。


 ポタ、ポタ、と。真っ白なキャンパスに赤い絵の具を垂らす女は、さながら美を愛す芸術家。


 しかし本当の彼女は、己の所業に美など見出してはいない。ただ「やりたい」ことを「やりたいだけ」慾る獣の類。


 青い顔で横たわる青年を一瞥すると、女は何事もなかったかのように再び歩き始める。


 そんな彼女の背を血塗られた絵画と称し額に収めるとするならば、人はきっと彼女に名付ける。



 「殺人姫」という、タイトルを。

 

 

 ………そしてまた、人はもう片方にも名を与えるだろう。


 げんに女は数十秒と少しした後、 " その " 有り得ない光景に驚愕し、そしてその現象もとい我々から見た「もう片方」に名を付けた。押し付けた。…そうとしか、形容のしようがなかった。


 ───あれ、生きてる。


 背中から聞こえてしまったその声に、女は先程得たはずの満足感、心の安寧、快感、それら全てを吸い取られてしまう。


 女は振り返る。



「───バケモノ」



 女は声の主を、そう称した。


 そこには青年が立っていた。…立っていたのだ。血塗られたその身を支えながら。


 女の全身に、忘れかけていた人間らしい感情が這って抜ける。


 『恐怖』


 女はいつぶりかに訪れた恐怖に身震いした。


 それと同時に、恐怖とは別の「何か」が女の脳天で熱を帯びる。


 それは一体何なのか。───『怒り』だ。


 女は自分が恐怖しているというその事実に怒っていた。そしてそれを隠そうとすればするほどに、今度は怒りではなく『不快感』が、女の心臓にまとわりつく。


 まるで蛆に集られる腐肉のようだ。端的に言って、非常に気持ちが悪い。


 女は青年に駆け寄った。


 そして青年の手を引き、白い絨毯を汚しながら闇夜を駆けた。道中青年は何か言っていたようだが、そんな雑音は女の耳には欠片も入らない。


 青年は女に引かれるがまま歩き続け、歩き続け、歩き続け………夜も明ける頃、ようやくひっきりなしに動かされていた足は動きを止めた。


 今2人の前には、およそ2人の身長の何倍もの大きさを誇る灰の直方体が、空を突き刺すように高く伸びている。


 その直方体を見上げたとき、青年は初めて夜が明けていたことを知った。


 灼熱の代名詞である宇宙の光球は、青年と、そして女の眼に朝を告げる。


 青年は目を細め、女の方は特に気にする素振りも見せず、再び青年を手を引いて直方体の中へと入っていく。



 ………暗い。冷たい。そして何よりも埃っぽい。


 青年は辺りを見回して、思ったことをそのまま口にした。


 女に連れられてやってきたこの建物は、とにかく不気味な所だった。白い壁紙の一部は爛れ、荒っぽいコンクリートが露出している。


 天井からこちらを覗く配電線が行き場を無くしていることを鑑みるに、照明やエアコンはきっと使い物にならない。


 更に気色が悪いことに、ギシギシと悲鳴を上げるフローリングの所々には、誰が何のために施したのかわからないテーピング………和風ファンタジーな伝奇物でよく見るような「封印の札」が、ベッタリと張り付けられているではないか。


 青年は入室早々帰りたくなった。


「細かいことは気にするな。とりあえず座れ」


 女に言われるがまま、青年は渋々近くにあった埃だらけの机に腰をかける。ちなみに、机に座ったのは決して青年の育ちが悪かったからではない。単に椅子がなかったのだ。


 女の方も、薄汚れた窓を開け放ちその縁に腰をおろしている。


「ここはいわゆる『廃ホテル』というやつでね。ここなら追手からもそうそうバレない」


「追手…とは」


「もちろんアレだよ、ケーサツ」


 女はこの施設について軽く語り、青年は女がこの場所を利用する理由に目眩を覚えた。


 『ケーサツ』って、また物騒な。


 見たところ、品の良いコートに身を包んだ彼女の容姿は20代半ばのお嬢様といった感じ。黒髪ロングに黒のコートがよく合っている。


 パッチリとした、それでいて鋭い眼光を放つ黒真珠の瞳は、見ているだけで意識が吸い込まれてしまいそう。さらにその冷たい雰囲気を引き立てる泣きぼくろがまた、いい。


 罪人だと言われればそうとも思えるし、逆に被害者だと言われても簡単に信じてしまえる。そんなビジュアルだ。



 密かに女を観察する青年と対し、女もまた青年のことを観察していた。


 …高校生、いや、大学生くらいの年齢か。着ている服もジーパンに白いTシャツ、深緑のジャンパー。まぁ、さっき赤くしちゃったんだけど。


 容姿だけ見れば、本当にどこにでも居そうな好青年。でも、あの光景を私は絶対に忘れない。


 ───確かにあのとき、私はこの子の胸を突き刺した。


 苦悶に満ちたあの顔。肋骨を掻き、血流ポンプを押して潰したあの感触。その全てが馴染みのある、紛れもない「死」でできていたはずだったのだ。


 それなのに、私の殺したその青年は、今も尚私の目の前に在り続ける。それに、ただ居るだけなのであればまだマシだ。


 でも、彼は私に刺し続ける。この場この空間に撒き散らすのだ。得体のしれない、恐怖という名のそれを。


 私にはそれが許せない。


 私は「与える側」で、それ以外は「られる側」。そしてその逆もまた然り。


 上でもなければ下でもない。かといって、隣に立つことも叶わない。私と私以外は、常にそう在るべきなのだ。


 ………それなのに。


 この青年は、それらの理を無視したのだ。


 この青年は、「私以外」には部類されないような位置に居座る。私の定義を、ジリジリと脅かして迫る。


 だから私は、彼をこのテリトリーに招き入れた。


 ───どうすれば「これ」を殺せるか。


 ───どうすれば「これ」を在るべき姿に矯正できるか。


 それを、調べるために。



 女は青年に名を尋ねた。


「『柏』です」


「『カシワ』…か。私は『セン』、こう見えて立派な犯罪者さ。よろしく」


「あまりよろしくしたくない肩書きですね」


「奇遇だな。私も本当なら君みたいな人間とは関わりたくない」


 なら何故───と柏は言いかけるが、彼の言葉はセンの行動によってせき止められた。


 パンッと、乾いた音がコンクリートの露出した壁を反響する。


 センの手には、 " まるで本物のような " リボルバーが一丁、白銀色の光沢を滑らせている。…その銃口から、薄い煙を上げながら。


 そして銃口の先には丁度、柏の額がピタリと位置する。いや、位置していた。


 音の鳴った10分の1秒後には、その銃口が柏を捉えることはなかった。柏は崩れ落ち、穿かれた風穴からは鮮血が吹き出る。


 しばらく痙攣する柏だったが、続けて一発、ニ発とセンに鉛玉を撃ち込まれ、いずれ動かなくなってしまった。


 今度こそ、柏はセンによって殺されたのだ。



 ───そう信じたかった、と、センはボソリと呟く。



 頭に銃弾を食らったはずの柏は、センの期待に反し、そしてセンの予想通りにむくりと身体を持ち上げた。


「…僕、もしかしたら幽霊なのかも」


 そう言いながら、柏は立ち上がりセンを見る。


 その何でもないような表情が、センにとっては憎らしくて仕方がなかった。


 殺したはずなのに、と顔を顰めるセンに、殺されたはずなのにと頭を掻く柏。


「───犯罪者改め、私は絶賛逃亡中の連続殺人犯、知る人ぞ知る『殺人姫』だ。柏、お前は何者だ?」


 センの正体に驚きつつも、なぜか柏は彼女を怖がらなかった。


 柏は笑いながら、「多分、ゾンビか『幽霊』…なんでしょうね。死なないし」とそう答える。そんな、自分のことをまるで他人のことのように話す柏にセンは小さく舌打ちし、そして彼に布告する。


「たとえお前が不死身の吸血鬼だったとしても、私はお前を殺さなくちゃいけない」


「何故です?」


「私にとって都合が悪いと思ったから。それだけ」


「狂人的思考ですね」


「何度殺しても死なない、お前のほうが狂ってるよ」


 言い終えてから、センは再び苛立ちに駆られる。


 何でこの私が、こんな奴を自分と同列に考えなければならないのか。人外は私であって、柏じゃない。そうでなければ、おかしいのだ。


 そう自分に言いつけて、センは再び口を開いた。


「私が『殺人姫』と呼称されるようになってはや数年。今まで自分の歳の数以上、人を殺し歩いてきたが…私はじきに逮捕されるだろう」


「なんでまた。言い方悪いですけど、その数年間は逃げ切れてたんでしょ?」


「最近、ここ近辺でのパトカーの巡回がいやに多い。それに私という存在も、少しずつ世間から認知され始めてる」


 サインでもせがまれましたか、という柏のジョークに、センは真顔で「噂になってんだよ。『この廃ホテルにはナイフを握る怨霊が出る』だと」と抑揚なく答える。


「追われ続けるのは性に合わない。隠れ家が割れたってんなら私は逃げも隠れもせず堂々と歓迎してやる。どっちが鬼だったか、きっと鳴いて答えてくれるさ」


 ───が。


 流石のセンも、対凶悪犯罪者仕様の警官及び機動隊員の相手には骨を折る。更にはそれが数十人。勝てる見込みなんてゼロに等しい。


 ここいらが潮時なのかもしれないな。と、センは初めて例の噂を耳にした日、夕闇の中で薄く笑ったことを未だ覚えている。


 しかしセンは出会ってしまった。眼の前の好敵手、殺すことのできない他者という、絵に描いた餅のような青年は、センの狂人たる定義を揺るがすと同時にセンの殺人欲求を駆り立てる。


 「落ちない女の方が燃える」とよく言うだろう。センの心情は正しくそれだ。


 不思議と、ケーサツから逃げて少しでも生き長らえようという考えは浮かばなかった。その代わり、センの中には唯一つだけの決意…いや、「願望」と言った方がいいのかもしれない。


「喜べ、カシワ。最後の晩餐にはお前を頂くことにした。終われば好きに成仏するといい」


 柏は素直に分かったと頷く。…こいつ、本当にわかってるんだろうな。


「………お前、流石に受け身が過ぎるぞ」


「だって、ここでセンの魔の手から逃れたところで僕にとってなんの利点もないじゃないですか。僕自身が生きた人間なら話は別だけど」


「私に殺されるの、怖くないのか」


「だってもう2回、あなたに殺されてるんですよ? 更に、僕が過去に一度死んでいると考えて計3回。今更怖がったりしませんって」


 『怖がったりしない』という柏の文言に、センはまた引っかかる。


 ───やはりコイツは、生かしておけない。…いや、もう死んでるのか。あぁ、ややこしい。


「それに、こんな綺麗な人に殺してもらえるならむしろラッキーです。誰にも看取られず孤独に老衰…なんて最期よりよっぽどいい」


「………………『綺麗』なんて世辞で延命を図ろうとか、そんな小細工は通用しないぞ」


 センは苛立ちを顕に、あっけらかんと言う柏を眼で殺しにかかる。しかしそんなセンの眼力に動じることもせず、柏はふざけるように続けた。


「もう死んでる身なんだから、延命はおろか命乞いのしようだってないじゃないですか。僕からすれば、あなたはさしずめ『天へと導く可憐な天使』───」


「五月蝿い」


 言うのと同時に、センは窓の縁から降りそして柏の首元を掴む。柏が「え?」と声を漏らした瞬間には、既に柏の身体は建物の外へと飛び出ていた。


 柏はセンによって窓の外に放り投げられてしまった。ちなみにセンの顔が覗く窓は建物五階分の高さに位置する。普通の人間なら即死だろう。


 センはひょっこりと窓の内から顔を出し、そして不服そうな顔で再び部屋の中に引っ込んだ。


「やっぱり死なないか」


 廃ホテルの外では、柏が困ったような顔で血塗れの頭を掻いている。



 その日の日中、放り投げられた柏があの後どうやって過ごしたのかセンは知らない。柏を殺せなかったことを確認すると、センはすぐに眠ってしまったからだ。

 

 センが目を覚ます頃には、窓の外はすっかりと暗くなっていた。一般的な人間と違い、センは朝日による陽気でなく夜の冷気で目を覚ます。持ち上げられた瞼に潜む眼球は、相変わらず黒よりも黒く、闇夜より深い。


 そんな彼女の瞳は、窓の外から視線を外すと同時にある人物の全貌を映す。


 柏だ。


 柏はさも当然のように、部屋にある簡易的なキッチンで火を起こしている。


 ───鼻孔を擽るこの匂い、カレーか。


 よくよく見れば、柏の足元で炊飯器と思しきものも稼働している。柏は鼻歌を交えながら、ぐつぐつと音をたてる鍋を掻き混ぜる。センが目覚めたことには、まるで気が付いていない様子だ。


 センは瞳孔を大きく開き、そして目を細めゆっくりと起き上がる。胸元に忍ばせていたナイフは、すでに手中に収めていた。


 狙うはあの無防備な背中のみ。センは、まるでガゼルを狙うチーターのように姿勢を低くし、つま先のみで体重を支える。


 呼吸を整え、鋭い目つきのままセンはフローリングを蹴った。


 が、狩りは失敗に終わる。


 ドテッと、コケたのだ。センは顔面から地面にダイヴすると、すぐさま顔を上げ自分の足元を凝視する。


「電気の………コード?」


 そこには見覚えのない、比較的新しい物と推察できる真っ白なコードが、この部屋でよく見る封印の札によってフローリングと固着させられていた。


 なんでこんなものが…と舌を鳴らしながらコードを辿ると、その先には絶賛稼働中である炊飯器が鎮座している。そしてさらに、炊飯器の位置から少し上に目線を向けた先、バツの悪そうな顔で柏がこちらを見ていた。


「あー…、もう夕食時だから手料理でも振る舞おうかと調理器具を持参したのはいいものの、この部屋電気もガスも通ってなくて。勝手に配線工事させてもらったんですけど………その御札、マスキングテープに使っちゃだめでした?」


 「いいわけないだろ」という気持ちと、「他に謝ることがあるだろ」という気持ち。あと、「醜態を晒してしまった」という気持ちとが混ざり合い、センは声にならない声を上げた。


「………とりあえず、ご飯にしましょうか?」


 イラッ。そしてブチッ。


 センは鬼の形相を面に宿すと、ゆっくりと柏の顔を見る。流石の柏も、「まずいことをした」と顔面から血の気が引いていく。


「とりあえず、コロス」


 結局、柏は通算5回目の死を迎えることとなった。



「ところで、センは何で人を殺すことにこだわるんですか」


「………は?」


 手製のカレーを頬張りながら、柏はセンに言った。


 ちなみに、センは柏のカレーに口をつけてはいない。なんでも彼女は味覚が弱いらしく、何を食べても美味しいと思えないのだ。必要最低限の栄養はサプリで摂取し、あとは水分さえあれば事足りる。センにとって食事とはそういうものなのである。


「私は別に殺したくて人を殺してるわけじゃない。こだわってもいないし、執着があるわけでもない。言うなれば生理現象だ。私の意思は関与しないよ」


「矛盾ですね」


 咀嚼音に混じって、柏のその声はセンの耳にはっきりと届いた。


「言ってみろ」


「だって、センは僕のことを最後の晩餐に選んだ。でもそれって、自分の意思で決めたことじゃないですか。最後の晩餐なんて、自分の一番食べたいものを頼むものですし」


「それは的はずれな見解だ。───私の場合、一般的な『食欲』が『殺人欲求』のそれなんだよ。お前だってお腹が空いても、何を食べるかは自分の意思で決めるだろ。それと一緒さ」


 そう言ってセンは、柏の皿に盛られたカレーをひとつまみ指ですくうと、それをペロリと舌で舐める。瞬間、センは表情を曇らせた。やはり、センにとってはどんなボンカレーもただの雑味でしかないらしい。


 そんなセンの行動を一瞥し、柏は続ける。


「僕は最後の晩餐に、絶対に食べることのできない絵に描いた餅なんて所望しませんけどね。食べられる雪見だいふくの方がいいです」


「………何が言いたい?」


 センは柏をギロリと睨む。柏は決して臆さない。


「僕が訊きたいのは、人殺しに対する動機じゃない。人殺しに対して何を見出しているのか、です」


「そんなこと知って、一体どうする。価値観の押し付けなら容赦しないぞ。私は他人に何かを押し付けられるのが大嫌いなんだ」


 ほとんど答えみたいなもんだ。この人は殺人に対して何かしらの大義を持っていて、そしてそれは自分と他人との関係に関連することだ。


 ───何故、彼女のような殺人鬼が生まれてしまったのか。それさえ掴むことができれば………。


「もういい、わかった。そこまでして私の『邪魔者』になりたいってんならこっちにも考えがあるぞ」

 

 言い放つと、センは立ち上がり脇の洋服ダンスから大きな箱を持ち出す。そしてその箱がメタルケースだと気づくまで、柏はあまり時間を要さなかった。


 センはメタルケースを開けると、目にも留まらぬ速さで取り出した中身を柏の方へ投げつける。


 ビュン、と空を切る音が耳元で囁いたかと思うと、それは柏の背に位置する壁に突き刺さっていた。センが投げた物の正体は、折りたたみ式の、長いノコギリだった。


「不死身の幽霊だろうが、こっちの攻撃が一時的であれ通るならやりようはある。胴と頭を切り離されてもなお動くなら、お前は幽霊じゃなくゴキブリだな」


 センの目は本気だった。どうやらこのノコギリこそが、彼女の本命らしい。


「待ってください、僕はそんなつもりでこの話を持ち掛けた訳じゃ───」


「言ったはずさ。お前は私にとって都合が悪い。だから殺す」


「自分から逃げないでください! あなたはそんな単純な理由で、狂人になったわけじゃないはずだ」


「カシワ。お前が私に何を期待しているのか知らないが、私は自分が『殺したい』と思うから殺す。それと同時に、身体が『殺したい』と望む。そこに私の意思なんて存在しない。…気持ち悪いんだよ。私が、お前という存在に恐怖してることも、お前が私という領域に侵食してくる感覚も」


 そしてセン自身でもわからない。なぜ「セン」という人間が、執拗なまでに他者と自分を区別したがるのか。なぜ目に見える線引き、境界線に安心を覚えるのか。


 ………もしかしてその答えが、柏の言う『単純じゃない理由』、『殺人に何を見出すのか』だというのか。まったく馬鹿な話じゃないか。そんなもの解明して、一体何がどうなる。それら諸々を処理するために、「本能」とか「性質」とか、それら便利な言葉が作られたんじゃないのか。


「私は誰かを殺して悦に浸るようなことは望んじゃいない。───けど、『セン』は人殺しを望んでいる。どっちが本物の『私』なのか………私の場合、考えるより先に手が動く」


 また、センの瞳孔が大きく開かれる。その黒真珠には、やはり一点の曇もなかった。そんなセンと相対し、柏はたまらず目を瞑った。


 瞬間。



 ドゴゴコゴゴゴゴゴゴゴ………!



 鈍い音と共に、建物全身が大きく揺れる。露出したコンクリートには亀裂が走り、フローリングが悲鳴を上げる。


「じ、地震…!?」


「───いや、違うな」


 身に纏っていた殺気を取り払ったセンは、少し考えるような素振りをみせ、そして何も言わず柏の手首を掴む。


 逃げるぞ、とセンは短く告げると、柏を引きずって廊下へと飛び出した。


 非常階段を目指し、柏とセンはひたすらに走る。…が、今度は先程のものと比べ更に一段大きな爆発音が響き渡る。二人は歩みを止め、崩壊の兆しをみせる廊下の真ん中に一時留まる。


「やったくれたな、カシワ」


 眉間に皺を寄せ、センは視線で柏を責める。しかし、柏にはまるで心当たりがない。柏は恐る恐る尋ねた。


「僕、何かやっちゃいました…?」


「『何か』どころの話じゃない。お前、炊飯器を使うためにここの配線いじったよな。多分それが原因だ」


「いや、配線工事っていっても簡易的なものですよ? それにコードは切られていただけで、電気は元から通るようになってましたし」


「………今だから言うけど、このホテルを廻る電気系統の配線を切断したのは私だ」


 「なんでわざわざそんなことを…」と、まるで意味が分からないといった面持ちで柏はセンを見る。


 そんな柏に、センはピシャリと言う。


「電線を生かしたままにしておけば、この建物は爆発する恐れがあったからだよ」


「爆発!?」


「そう、爆発。このホテルはもともと解体される予定だったんだが…大人の事情ってやつでな、解体準備だけは整えられたものの、結局壊されずに残ってしまった」


 ───まさか。


 柏の脳裏に一瞬、嫌な考えが流れる。そしてその考えは間違ってなどいなかったことを、柏はセンの口から知らされる。


「その『解体準備』…って」


「無論、電気信号によって一斉に起動する、無線式の " 爆弾 " さ。そしてその爆弾は今もなお建物の電線に接続され、始業の合図を待ちわびていた」


「じゃあ今さっきの爆発は………」


「下手に電気を通したことで、何十機かあるうちの数機が誤作動を起こしたんだろう。爆破装置自体も随分劣化してたみたいだし、おそらく連鎖的に残りの爆弾も起動するぞ」


 こうなることがある程度予想できたから、あえて電線は切っておいたんだ。と、センはさらに付け加える。


 柏はその場にへたり込み、力なく呟いた。


 なんだよ、そのガバガバ設計。せめて爆発物くらいは処理しろってんだ。


「───まぁ、時代が時代だったしな。丁度バブルが崩壊したあたりの話だと聞いている。気にせずとも、外にはバリケードが張られてるし第一ここは山の中。最悪何かあろうとも人的被害は私一人分だけで済む。カシワは不死身の幽霊なんだから、そんなに危機感を持つこともないだろう」


「そういう問題じゃないです…」


 センの慰めも、今の柏にとっては傷口に塩でしかなかった。優しさが逆に辛い。さらにそれがセンの口から出たものだというのなら尚更だ。


「とりあえず、まずはここから脱出することを考え…───」


 不意にセンの言葉が途切れる。「どうしたんですか」と見上げる柏の目には、驚愕に満ちたセンの表情が克明に映し出される。


 これは、一体…。


 センの視線の先、そこには「何か」がゆらゆらと立っている。


 そして、その「何か」は明確な意志をもって、こちら側へとにじり寄ってくる。


 輪郭全体が酷く歪で、まるで蛍の群が人の形を成しているようなそれは、どうやら一体だけではないらしい。奥から一体、もう一体と姿を現しては、ゆっくりと歩みを進めセンと柏に迫る。


「…カシワ、あれお前の知り合いか?」


「何でそう思ったのか、聞いてもいいですか」


「私、こんな幽霊っぽいみてくれの幽霊見たことないぞ」


「僕の類だと断定するのは早いと思いますよ」


「───何でそう思ったのか、聞いてもいいか」


 そう言って、柏は奴らの足元を指差す。柏の人差し指の伸ばす点線の先、そこには嫌に見慣れた「テーピング」の跡が。


 …そういえば、廊下にも所々貼り付けられていた御札の類がまるで見当たらない。


「奴らの正体、もしかしてあの『封印の札』だって言うのか、カシワ」


「厳密には、封印の札改め『解浄ノ手綱形』と呼ばれる除霊道具です」


「………お前、何でそんなこと知ってるんだ?」


 センは驚いた様子で柏に問う。


 しかし柏が答える間もなく、さらなる爆発が建物を襲う。柏は突然の揺れに体勢を崩し、センの肩へ寄りかかる。


 スミマセンと謝る柏に、センは「幽霊らしく浮遊でもしてればいいものを」と呆れたように言う。


「───まぁ、何はともあれ。とりあえず脱出には目の前の奴らが邪魔だな。カシワ、あのモヤモヤに物理攻撃は通用するのか」


「そこまではわかりません…が、少なくとも僕には対処できません」


 なら、私がやるしかないようだな。


 呟いた次の瞬間には、センはきしむ廊下を思い切り蹴って前進していた。


 その手に握られた長ノコギリは、先頭に立つ物体の首根っこを流れるように掻っ切る。刃の餌食となったそれは、煙のように空気と同化していく…。


「こいつはいいや! やはり何かを " 殺す " 行為こそが私を私たらしめてくれるッ」


 高揚感に支配されるがまま、センは次々とそれらをなぎ倒した。それのくり出す右ストレートを軽々と避け、隙となった身体の側面めがけて思い切り刃を突き立てる。今度は背後から、別のモヤが腕を伸ばす。が、センはあたかも見えていたかのようにするりと姿勢を変え、回避と同時に迫る腕を切り飛ばした。


 そんな彼女の姿に、柏は目の前の女が本物の「殺人姫」であることを今更ながら思い知らされる。


 と、呆然と立ち尽くす柏めがけ、群れていたモヤのうち一体が接近してきた。


「カシワッ!」


 センが叫ぶ。


 鼻先ほんの数cm、振りかざされた拳が視界に飛び込んでくる。


 戦場において傍観は許されざる行為だというのに、それを忘れていた柏の自業自得だった。今からじゃ回避行動も間に合わない。………やられた。


 ───パンッ!


 聞き覚えのある、乾いた音。


 炸裂音と共に、目の前のモヤは霧となって消えた。


「馬鹿が! 私以外に殺されるなんて、死んでも許さないからな」


 遠方から、センの叱咤が聞こえる。銃口をこちら側に向け、センは言葉をぶつける。


 しかしそんな一時も束の間、がら空きとなった彼女の背中に、モヤからの攻撃が入ってしまう。


 沈むような音とともに、センは柏の側まで殴り飛ばされてしまった。


「大丈夫ですか!?」


「───ッ、連中…案外弱くないな」


 苦痛を噛みながら、センはそう溢す。


 そしてそうこうしてる間にも、奥からさらなる増援が姿を表す。よく目を凝らすと、例の札が変質して人形に成る様が観察できた。これは…このままじゃきりがない。


「仕方がない。カシワ、これ持ってろ」


「これって…何で僕にリボルバーを…?」


「いいから。お前は私の言うタイミングで、ここからあの壁に向かって撃てばいい」


 センは柏にリボルバーを手渡し、センは斜め右の壁を指差す。


 短いやり取りの後、センは再びモヤの群れへと駆けて行った。


 一体の腹に長ノコギリを押し当て、そのまま後方の数体を巻き込んで、センは前へと進み続ける。


 センの怪力によって、モヤの群れは後退を余儀なくされた。


 ───今だ、撃てカシワッ!!


 絞るようなセンの絶叫が、柏の全身に電流の如く駆け巡る。


 指先に力を込め、柏はトリガーを引いた。


 放たれた鉛玉は、見事にセンの指示した座標に命中。白い壁紙をえぐり、そしてそこから光の筋が放出される。


 バチッと火花が散ったかと思うと───


「伏せろ、カシワ!!」


 粉塵を撒き散らしながら、弾の埋め込まれた箇所が大爆発を起こした。おそらく、センは爆弾の内蔵されている場所を知っていたのだろう。単身でモヤたちを爆弾近くまで集め、そして僕に起爆させた。


 耳を劈くような轟音と、閃光。一瞬にしてセンとモヤの群れが見えなくなり、柏自身も自分が今どこに居るのか分からなくなる。


 右も左もわからぬまま、柏は反射的に後退る。しかし、体重を乗せた位置が悪かったのか、柏の足元には大きな亀裂が走り…───割れる。


 ──────あ、落ちる。


 映される景色が一定しない。ものすごい速度で、上から下へ流れるような。必死に手を伸ばすも、掴めるものはどこにもなく、ただただ、落ちていくだけ。


 頭上では相変わらず、爆発音が鳴って止まない。爆風に圧されて、息もろくにできやしない。苦しくて、眩しい。


 センは大丈夫だろうか…?


 ───いや、この程度で彼女が死ぬなんて。


  " 絶対に有り得ない " 。


 柏は瞼を下ろし、圧力に身を任せた。



 ………一体、どれほどの時が経ったのだろうか。


 柏が目を覚ますと、そこには瓦礫の荒野が広がっていた。奇跡的に助かったらしく、目に見える外傷も少ない。柏はゆっくりと起き上がり、そして辺りを見回した。


 廃ホテルのあった場所に、以前のような四角い影はない。その代わりに、一種の現代アートのような鉄骨とコンクリートでできた山が、砂塵の中で静かにこちらを見下ろしている。


 こりゃ、ひどいな。


 柏は一人歩き始める。宛がないわけではない。むしろ、柏は一人の影を探して歩いた。


 " セン " は、何処だ。


 外傷が少ないとはいえ、まだ全身がジンジンと痛む。本当なら下手に動かないほうが身体のためになるのだろうが───


 柏は痛む四肢を引きずりながら、センの姿を探し回った。…しかし、彼女の姿はどこにもない。


 柏はひとまず、その身体を休ませるため手頃な瓦礫を見つけそこに腰掛けた。


 ふぅ、と思わず声が出る。息を整えた柏は、ふと空を見上げた。


 頬に何か、冷たいものを感じたからだ。


「あぁ、雪だ」


 夜も深く、自分を取り巻く風景は黒一色で。それでも淡い月明かりが、雪の白さだけをはっきりと感じさせる。


 そう、確か彼女と出会った日もこんな───



「いい夜ね」

 


 背中から、記憶にある通りの声が響く。


 そしてその声と重なるように、首元にひんやりとした感覚が広がって吸い付く。


 たしかセンが手にしていたであろう長ノコギリの刃が、柏の首筋に喰らいついていたのだ。


「これで6回目…か、お前を殺すのも」


「嘘だね。センは僕のことを一度たりとも殺せていない」


 センは刃を押し付ける力をより強くする。しかし、不思議と柏に痛みはなかった。


「色々とアクシデントはあったが、話の続きだ。───私は昔から、自分という " 個 " に確信が持てなくてな。他の人間に取り込まれ、流されることが怖くて仕方がなかった」


 センは自嘲気味に話し始める。無論、柏の首に刃を立てたまま。


「自分を護ろうと、『自分という絶対』を確立させようと躍起になったもんだ。………そして、ある時気が付いた」


「邪魔者は排除すればいいと?」


「馬鹿か。私はそこまで単純かつ直線的な生き物じゃない」


 いや。きっとそこまで馬鹿になれていたのなら、あの頃のセンはこれ以上ないほど幸せだったのだろう。


 センは馬鹿になれなかった。なりきれなかった。


 そして今も、センは変わらず馬鹿を夢見ている。


 ───胸の内を白状することで、柏が何かを変えてくれるのではないかと、そんな馬鹿な期待を拭いきれずにいるんだからな。


「私は気付いたんだ。私と私以外に、決定的な高低差をつければいいってことに」


「『高低差』…ですか」


「そうだ。それは別に、私が低くても高くてもどちらでも構わない。とにかく存在そのものに " 差 " があればいいんだ。横の間隔じゃなく、縦の間隔。わかるか? 横だとどんなに離れていようと並んで歩かれてしまう。が、縦ならどうだ。決して超えられない高さ、もしくは低さを作ってしまえば、誰も私には入り込めない」


 そうすることで、センは他の誰でもない「私」を護ることができた。


 そしてその高低差を形成する要素こそが、「与える側」と「与えられる側」の肩書き。センはそのどちらかに徹することで、その高低差を維持し続けてこれたのだ。


 ───なのに。


「それなのにお前は、お前という私と同一の成分を含んだ人間が、私の前に現れた」


 センは忌々しい記憶を、頭の片隅から引き摺り出して吐き捨てる。彼女の目元に浮かぶ小さな皺が、その全てを物語っていた。


「私は初めてお前の特性に触れたとき、これ以上ないほど怖くなった。それはまるで、地の底から得体の知れない何かが這い上がってくるような恐怖。それでな、そいつは私の足首を掴みながら言うんだよ、『お前なんて怖くない』ってさ」


 柏は何も言えず、ただ黙ってされるがままにセンの言葉を浴びる。センは深く息を吸い直すと、震える声で再び言葉を続けた。


「『好敵手が現れた』と、自分を騙そうとも試みたさ。でも駄目だった。やはりお前は私にとって恐怖を " 与える側 " 、対して私も " 与える側 " のはずだった。………いつからだろうな、私が『与える側の人間』に固執するようになったのは。本当なら別に与える側でも " 与えられる側 " でも、どっちでもよかったはずなのに」


 やがて、それはセンの意思とは独立したものとして、センの心身を縛り始めた。もはや本人ですらも、その所在はわからない。


 『狂人でいなければならない』


 『自分以外を殺さなければならない』


 『絶対的な恐怖でなければならない』


 ───それらが一種の " 本能 " として、センの性質として深く根付いてしまった。


「───だから、私はお前を殺したいと思った。お前に対し怒り、嫉妬し、苛立ち、そして畏怖した」


 器の中身を、柏という侵略者に盗られてしまいそうだから。


 空っぽは嫌だ。


 無くなってしまうなんて真っ平ごめんなんだよ。


 別に殺したいわけじゃない。───ただ、私を護りたいだけなのに。


 センは泣き出してしまいそうな顔のまま、今もなおその手で刃を突き刺している対象に、縋るように問うた。


「なぁ…教えてくれカシワ。私は一体、何者なんだ」


 それが、センの全てだった。口をついて出た彼女の本性は、留まることなく溢れ続ける。


 依然として刃を立てる力が抜けることはなかったが、その手は小刻みに震え、ひどく悲しそうな色を見せた。


「───それが、あなたの残した未練だったんですね」


 振り返ることもせず、柏はポツリと言う。


「え───」


 センが声を発することよりも数秒早く、遠方から声が聞こえた。


「そこの少年、大丈夫かい!?」


 柏とセンのいる瓦礫の丘に向って、1つのシルエットが駆け寄ってくる。

 

 近づいてくるにつれ、その影の全貌は月明かりの下明らかになった。袈裟に身を包んだ、初老の坊さんだ。全速力で走ってきてくれたのだろう、玉のような汗が額から流れ落ち、坊さんはそれを裾で拭う。


 やがて身なりを整えた坊さんは、自らを「七瀬」と名乗り、それに次いで柏の安否を確認する。


「強制除霊に巻き込まれたのか。怪我はないかい?」


「………首筋が少し、冷たく感じます」


 柏の台詞に、七瀬は眉をピクリとさせる。


 「じゃあ、その子が?」と、七瀬は怪訝そうな顔で柏の背後を見つめる。


「───君、名前は」


 七瀬は柏に………ではなく、柏の背後にそう尋ねた。


「お前、一体何なんだ? 人が話してるときにズカズカと入ってきやがるかと思えば、私そっちのけでカシワをナンパか。挙げ句私に名を名乗れと。…ふざけるなよ」


 ムッとした顔でセンは七瀬を突っぱねるが、七瀬は何かを察して質問を変えた。


「なら、君は何故 " 生きているふりをする " ?」


「………………はぁ?」


 今度こそセンは七瀬に対し苦情を捲し立てる。


 ───はずだったのだが。


 センの口は七瀬の一言によって、いともたやすく閉ざされてしまった。


「刃を握るその右腕、よく見てみな」


 次の瞬間。センの眼に映ったものは、にわかには信じられない光景だった。


「………………………嘘」


 右腕が、長ノコギリが、半透明に透けて見える。


 そのありえない事象を確認してしまった瞬間と時を同じくして、柏の首を捕らえていたはずの刃がスルリと柏の首を抜けて落ちる。


 音もなく地面に落とされた長ノコギリは、やがて煙のように大気の中へ消えてしまう。


「───柏、こりゃ一体どういうことなんだ…?」


 柏は何も話さない。その代わりに、七瀬の方が口を開いた。


「君はは何やら思い違いをしていたらしいけど、この場にいる生者はただの2人だけ。───僕と、この少年だ」

 

 まさか。…いや、そんなまさか。だってそんな………有り得ない。


 センは再度、空いた自分の両手を眼前に持ってくる。開かれたその手のひらは、手の甲の先にあるものを透して映す。



「まだわからないのか。君はもう、死んでるんだよ」



 現実味のない現実が、あるはずのないセンの鼓膜を揺らす。


 ───まさか、私が柏を殺せなかったのも。


 ───まさか、私の攻撃が実体の無いモヤに通ったのも。


 ───まさか、私があの爆発を受けてもなお無傷でいられたのも。


 全部、全部。


 私がすでに死んでいるから………?


 事態がまだ飲み込めていないセンに、七瀬は重ねて追い打ちをかける。


「ここでさらにタネ明かしをするなら、あの廃ホテルの爆弾を起動させたのは僕だ。施設全域に貼っておいた『解浄ノ手綱形』を使って君を襲わせたのも僕。怨霊の依り代ごと潰してしまえばなんとか除霊できるだろうと踏んだんだけど…まぁ、少年の存在は完全に想定外だったね」


 『少年』………──────カシワ!!


「カシワ! まさかお前も私のこと…」


 センは言いかけて、止める。


 柏は困ったようにはにかみながら、それでいてセンの目を見つめ告げる。



「ごめん。本当は全部知ってたんだ」



 そして柏は続けた。


 センと出会い、廃ホテルに招かれたあの日、柏は真実を知って………いや、真実に辿り着いてしまった。


 センが眠ってしまった後、柏は自分が幽霊かつ不死身の存在であるということを信じきれず、一度街へ戻ったのだ。


 結果、家族や友人はいつも通りだし、街には僕の姿が見えない…なんて人はどこにもいなかった。


 となると、疑うべきは柏自身ではなくあの「殺人姫」。柏は街へくり出したその足でネットカフェに入り、そして「殺人姫」なる人物の詳細を可能な限り調べた。


 ───そして、柏は全てを知った。


「セン───いや、『鳴海 千華』さん。あなたはもう30年以上前に、 " ここ " で亡くなってるはずなんです」


 『鳴海 千華』…それがセンの本当の名であり、その名を目にしたとき、柏は全ての違和感に合点がいった。


 柏は、以前センの顔をどこかで見た気がしていた。センは交番だと言ったが、柏はその台詞に引っかかりを覚えていたのだ。それもそのはず、柏はここ数年交番になんて足を踏み入れていないのだから。


 そして柏は思い出した。


「僕がセンの顔に既視感を感じたのは、交番の手配書を見たからじゃない。夕方の報道番組だったんですよ」


 そのニュースはたしか、日本で起きた猟奇殺人をまとめたものだったと記憶している。


 《あれから〇〇年》…そんなテロップと共に映し出されたその写真には、パッチリとした、それでいて鋭い眼光を放つ黒真珠の瞳と、その冷たい雰囲気を引き立てる泣きぼくろ。罪人だと言われればそうとも思えるし、逆に被害者だと言われても簡単に信じてしまえる。


 そんなビジュアルをした綺麗な女の人が、仏頂面でこちら側を覗いていた。なんで忘れていたんだろう、彼女の顔は、紛れもなく目の前のものと同一だった。


 柏の語る真実と、明かされる自身の真名にセンはやがて力なく笑みを浮かべる。


「あの廃ホテルが取り壊されなかった理由、お前は知ってたんだな」


「…はい。丁度取り壊しが決行される前日に、死体が見つかったらしいんです。五階のとある一室に、黒のコートを着た女性の死体が」


 なるほど時代のせいではなかったんだな、とセンは一人で納得し、そしてクククと笑う。


「じゃあ、私を " 処理 " してくれたのはお前ってわけか、七瀬」


 センは七瀬にそう尋ねると、七瀬はそれに首筋をポリポリと掻きながら答える。


「御名答。でも、やっぱ半分ハズレだね。………僕はまだ君のことを処理しきれていない。君は未練の強い怨霊だったから、この廃ホテル付近に留めておくことが限界だったんだよ」


「じゃあ、今回強制的に除霊を仕掛けた理由ってのは?」


「君が現世に留まり過ぎたせいで、霊感のない一般人にもその姿が視認できてしまうようになりかけてたんだ。そうなれば大騒ぎだろ? なんせ数十年前に死んだはずの連続殺人犯が生き返ってるんだから」


 そりゃそうだと、センは七瀬の意見に同意を示す。


 七瀬が話し終わるのを待ち、今度は柏が話し始める。


「セン。わざと君の気に触れるようなこと訊いたの、怒ってるよね。…ごめん、でも本当は───」


 ───私の未練を知りたかった。


「………だろ?」


 センは小馬鹿にするような物腰で言う。


 柏は「その通りだ」と観念したように両手を上げた。…瞬間、柏のみぞおちにセンのストレートが入る。


「痛ッ!?」


「この道化が、触れてすらないのに痛がりやがって! ───どうせ、私の抱えた未練を解消できさえすれば、なんやかんやで成仏してくれるとでも考えたんだろ。違うか?」


「仰る通りです…」


「この馬鹿! いや、バカ!! 一歩間違えれば、それこそ私はお前を呪い殺してたかもしれないんだぞ。あまりにも行動が軽率すぎる」


 センは柏を叱りつけ、柏も柏ですっかりと縮こまってしまっていた。「まったく、こんな馬鹿に今まで怯えていたのかと思うと死んでも死にきれん」と嫌味を溢しながら、それでいてどこか浮かれたように爪をいじる。


「………何でちょっと嬉しそうなの」


「あぁ? そりゃ、たとえお前にその気がなくてもだな、一人の女からすれば親身になってくれる男からの好意ってのは嬉しいもんだ。悪いか」


「いえ、全然…全く」


 その後しばらく沈黙が続くが、それらは七瀬によって崩された。堪えきれないといった具合に、七瀬は口を手で抑え笑いだす。


「なんだ…連続殺人の犯人で、巷では『殺人姫』と騒がれてた女だ。一体どんなジャックザリッパーかと思って来てみれば………はは、普通の女の子じゃないか」


「なっ───」


 センは顔を赤くして反論しようとする。しかし、それを柏は手で制した。その目はセンに対し、今は喋らせまいとする抑止力を宿し訴えかけた。少しじっとしていてくれ、と。


 そして柏は言う。


「センは本当に、ただの女の子なんです。少しだけ生きることに不器用な、それ以外は本当に普通の。───僕、センと話して、短いながらも同じ時間を歩んで、そして唯一の未練を知って、思ったんです。やっぱり、センは狂人なんかじゃない…って」


 言い終えると、柏は改めてセンの方を向き、そっと彼女の肩に触れた。…もう、センの身体には触れることすらできなくなっている。柏の手はセンの外郭をすり抜け、行き場をなくして空を彷徨う。


 それが言葉では言い表せない虚無感となり、柏と、そしてセンの身にのしかかる。


 柏はセンに感謝を述べた。それはホテル爆破の一件で、身を呈して守ってくれたこと。


「すごく、嬉しかった」


 今しか言えないことだから。柏は真摯に想いを伝えた。

 

「───私も、嬉しかったよ。こんな私に、手を差し伸べてくれたこと。まぁ、そのときは気が付かなかったんだけど、お前は案外いいやつなのかもな」


 笑った。


 センが初めて、心で笑った。


 その面には、あの雪の日のような冷たさも、いつも身に纏っていた棘もなく、ただそれは本当に穏やかで。


 それは本当に、暖かかった。


 一拍おいて、柏は再び話し始める。柏はセンに、答えを与えた。


「セン、あなたは本当の自分というものを、最後まで見つけることができず死んでしまった。上なのか下なのか、れる側か、られる側か。他人を寄せ付けないことで自己の確立を図ることにのみ固執してきたせいで、護るべき自分を逆に傷付けていた」


 だから、それはつまり。


「あなたは、誰かに知ってほしかったんだと思います。実体のない、曖昧な " 個 " としての自分を、その曖昧さも含めて受け入れてほしかった。そして、それを叶えてくれる誰かを探して、あえて狂人のフリをした」


 それが、あなたの………「鳴海 千華」の、正体だ。


「なんで、そんなことが解るんだ」


 センの問いかけに、柏はまるでその台詞を待っていたと言わんばかりに、絶対の自信を添えてこう返した。


「だって僕はもう何度も、あなたに殺されてるんですよ? あなたの想いを殺人という行為が代弁するのなら、………………僕はこの世で誰よりも、あなたを理解することのできた人間になる」


「………そうか。そうだったんだな」


 満ち足りた表情で、センはそっと瞼を下ろす。両目には涙を溜め、それらは一筋の光のように頬を流れて落ちる。


 宙に放られた光のカケラは、灰の地面に触れることなく、霧の一部となって風と共に去っていく。


 痛むわけでも、苦しいわけでもない。「やっと救われた」と漏らすセンの涙には、幸福と安堵がたしかに在った。


 締め付けられるような胸の痛みに耐えきれなくなり、柏は地を蹴ってセンのもとへ駆け寄った。柏はセンを抱きしめ、センはされるがまま、柏に身をあずける。


「すまない、カシワ。…しばらく、このままがいい」


「僕も………おかしいな、 " そんな気は " なかったはずなんだけど」


「嘘つけ。言うつもりなかったけど、私と目があったあのときから、お前は私に惚れてるよ」


 でなけりゃ、得体の知れない女とここまで関わることもなかっただろう。そう、センは諭すように告げた。

 

 ───眼前で輝く彼女の黒真珠。なぜ、僕はそれから目を離すことができなかったのか。



 それは人生で初めての、「一目惚れ」だったから。



「口にはしませんよ。…でも、僕はあなたを救いたかった。あなたの笑った顔が、見てみたかった」


「そうか。───なら、私はもう行くとしよう」


「時間ですか」


「いや? これ以上ここにいると、私はいつまで経っても " お前の願いを叶えられない " 」


 私は、救われなくちゃいけないんだろ?


 そう言い残し、センは柏の腕の中から去った。暖かさの余韻が、雪の静けさによってバラバラになる。


「七瀬、道案内を頼めるか」


 傍観することに徹していた七瀬は、「もういいのか」とだけ最後に尋ねる。


「もう十分だ。未練なんてものは、そこの少年にでも預けておくよ」


 センは立ち尽くす柏を一瞥し、再び視線を七瀬に戻した。


「───じゃあ、始めるぞ」


 七瀬は懐から、一本の巻物を取り出す。そしてそれを大きく広げ、刻まれた文言を読み上げ始めた。


 センの身体は淡く輝き、徐々にその輪郭を失ってゆく。夜の空気が、形有るものとしてセンの身を何重にも覆い、その外側を、七瀬の経がなぞるように編み上げていく。


 もう、本当にこれが最後だ。


 センは、決して届かない場所………あの宇宙の向こうへと旅立ってしまう。


 七瀬の口が動きを止めれば、センとはもう二度と、会えない。



 ───センッ!!



 何を言うわけでもなく、柏はただ叫んだ。


 応えの代わりに、眩い光が、辺り一面を優しく包む。そこはとても地球上にある空間とは思えないような、明るくもあり同時に切なくもある境界線。


『それ、お前が持っててくれないか。どうやらこっちの世界には、持ち込めないらしくてな』

 

 声が聞こえたかと思うと、その次の瞬間にはさっきまでと同じ瓦礫の荒野が広がっている。七瀬の経はもう聞こえない。除霊が、終わってしまったのだ。


 空は薄明るくなり始め、夜明けが近いことを何も言わず静かに告げる。いつの間にか雪は止み、ふとした時には、七瀬の姿もそこにはなかった。


「セン。どうか君に、幸せな最期を───」


 柏は歩みを始めた。


 日の昇る方角に矢印を伸ばし、まだ月明りの残る夜に背を向けた。


 さぁ、日常が僕を待っている。僕にはまだ、営みを続けるための時間と、そして居場所が残されている。


 柏は再び前を向くと、腕に抱えた黒のコートを広げ、袖を通す。温かくて、冷たい血の匂い。雪の日の名残りを身に纏い、


 ───僕は、瓦礫の荒野を後にした。

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死人と刃 琥珀ひな @gpdamjwt

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