第38話 おめでとう(終)


 フィオナの前で、ローグラン侯爵が足を止めた。

 周囲の好奇の視線を無視してゆっくりと片膝を床につき、フィオナが差し出した手をとって、恭しく手の甲に口付けをする。

 唇が、フィオナの手の甲に長々と触れた。

 大きく眉を動かしたフィオナを見上げる顔は、いつもの薄い笑みを浮かべているのに、どこか熱っぽかった。


「フィオナ嬢。あなたにお会いできて光栄だ」

「私も、あなたに伺いたいことがあったから、お会いできて嬉しいわ」


 フィオナは素気なく言う。

 しかし、その不機嫌そうな表情がふと変わった。

 尊大で艶やかで、どこか扇情的な笑みが浮かぶ。途端に周囲の騒めきが消え、ローグラン侯爵も笑みを消して思わず見入っていた。


「ねえ、ローグラン侯爵。あなたはすでにメディナさんと婚約していたのに、お父様のお遊びに付き合ってくれたの?」

「……あなたのためなら、不実な男という汚名も甘んじて受けるつもりだった」

「素敵な覚悟ね。やっぱりあなたは私をわくわくさせてくれるわ」


 フィオナは悪魔のように美しく笑う。

 その笑みを間近で見てしまったローグラン侯爵の頬がわずかに紅潮し、手の力も緩む。その隙を見逃さず、フィオナは自分の手を引き抜いてハラリと扇子を広げる。それから面白いことを思いついたように、楽しげに目を輝かせた。


「そうだわ。あなたに先に言いたいことがあるの」


 扇子を閉じ、フィオナは微笑む。

 エメラルドグリーンの目がきらりと輝いて、紅で彩られた唇が緩やかに動いた。


「ローグラン侯爵。通算十六回目の婚約破棄、おめでとうございます」


 その声は笑いを含んでいる。

 しかし、間近で聞いた男の耳にはひどく甘く響いたのだろう。ローグラン侯爵は微かな吐息をもらして、そっと目を閉じる。

 フィオナの言葉の余韻を堪能するように、口元に微笑みが浮かんだ。いつもの薄く不敵な笑みではない。遠い日に諦めた幸せを噛み締めるような……そんな柔らかな笑顔だった。


「……あなたは、実に私を惑わせる」

「あら、それはどういう意味なのかしら?」

「そのままだよ。理性を捨ててあなたにかしずきたくなる」

「ならば話は早いわね! ローグラン侯爵。私と結婚…………えっ?!」


 フィオナが勝ち誇ったように言いかけた時、ローグラン侯爵が素早く動いてフィオナの手を握り、軽く引っ張った。

 不意を突かれたフィオナは、一瞬体のバランスを乱す。気を取られてしまったせいで、言葉が完全に途切れてしまう。意図通りの成果に満足したのか、ローグラン侯爵は薄く微笑んだ。


「フィオナ嬢。あなたを愛している。私と結婚してほしい」

「え、ちょっと待ってよ! 私から結婚を申し込むつもりだったのに!」

「申し訳ないが、あなたを出し抜く喜びを捨てる気はないのだよ。私のつまらぬ虚栄心と自己満足のためにもね。……それで、返事はいただけるのかな?」

「もちろん、嫁いであげますわよ! ローグランの全てを私に捧げなさい!」

「——あなたが望むままに」


 ローグラン侯爵は笑い、握り込んだ細い手にゆっくりと唇を押し当てる。

 眉をひそめつつ、フィオナは憮然と不満を伝えようとした時、ローグラン侯爵は立ち上がって、いきなり抱きしめた。


「な、何をするのっ!」

「以前、最高に見苦しい姿を晒せと言ったのはあなただ」

「今夜は言っていないわよ!」


 フィオナは押し除けようとする。

 しかし大きな体はびくりともしない。腕は力強く、包み込む体は厚い。


「十歳年下の美しく若い令嬢に心を奪われ、嫉妬から全ての縁談を壊した男が、拒まれても再度思いを告げる。そんな男に見苦しくすがりつかれて、優しいあなたは心を動かす。……悪くない筋書きだろう?」

「私の好みではないわっ!」


 フィオナは小声で言いながら、男の腕の中でもがいて弟を探す。

 やっと見つけたシリルは、なぜか少し離れたところにいて、虚ろな目でどこか遠くを眺めていた。


「シリル! 助けなさいよ!」

「うん……なんと言うか……もうこれでいいんじゃないかな?」


 シリルは気が抜けた顔で笑う。

 その横で、父カーバイン公爵もそっぽを向いていた。しかし母エミリアは「あらあら」とつぶやきながら、にこにこと嬉しそうに微笑んでいる。


 ため息をつこうとしたシリルは、近付いてくる起こった足音に背後を振り返る。決死の覚悟を秘めた顔の青年たちが足速にやってくる所だった。

 あっという間にフィオナとローグラン侯爵を取り囲む。ローグラン侯爵が眉を動かしても怖気付く様子はない。緊張したように硬い顔のまま囲んだ青年たちは、なぜか突然、くるりと二人に背を向けた。


「フィオナ様、どうかご安心ください! 長年の恋の成就を我らは祝福します! 我らが盾となりますから、どうかお二人の時間を!」

「は? 何ですって?!」

「……ははは……そういうことまでしちゃうんだ……」


 シリルは苦笑し、まだもがいている姉フィオナをちらりと見る。

 その視線も気付いたのだろう。ローグラン侯爵はわずかに唇の端を吊り上げたが、すぐに真顔になってそっとフィオナを上向かせた。


「フィオナ嬢、あなたに懺悔しなければならないことがある」

「まだあるのっ?」

「夢を言えと言われた時、どうしても口にできなかった夢が、もう一つあった」

「それは……どんな夢?」


 好奇心に負けたのか、フィオナが動きを止める。

 そんなフィオナの美しい銀髪を堪能するように、硬い指がゆっくりと動いた。


「あなたが、黒髪にエメラルドグリーンの目の幼子を抱く姿だ。……きっと神々しいほど美しいだろう」


 ローグラン侯爵の囁きは熱かった。

 ……シリルはため息を吐きつつ、そっと目を逸らす。

 信奉者たちの人垣の向こうで、フィオナの顔にローグラン侯爵の顔が近寄っていく。目を見開いて動きを止めているフィオナに、一瞬ためらってから深い口付けをした。

 細い手が包み込む大きな体を押しのけようと動く。でもすぐに背の高い男の首に腕を回し……盾となった青年たちの頭や体で見えなくなった。




     ◇  終  ◇

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「婚約破棄おめでとう」から始まった公爵令嬢の残念な婚活と、その結果 ナナカ @nana_kaz

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