【シュロ編】腕無し半狼

 俺はなぜ、この地に立っているのか――そんな疑問ばかりが頭の中を巡っていた。

 飛び交う叫びと、ぶつかり合う剣と剣。

 鈍色の空に立ち昇る黒煙と、雪のように降り注ぐ紅い火の粉。

 そこに広がる光景の全てが、悪い夢を見ているようだった。この足は確かに地面を踏みしめているのに、俺の魂が別の人間の体に入り込んで、内側からそれを垣間見ているような、そんな不思議な感覚だった。

 そのせいなのだろうか。焼けた大地に横たわる仲間や敵の亡骸を目にしても、それが今起こっている現実なのだということが、どうしても受け入れられなかった。


「早く、終わらせなければ……早く終わらせて、城に戻って……総長から剣術を教えてもらわないと」


 ここに立ち、俺を突き動かしているのは、その想いただ一つ。どんな理由でもいい、ただ終わらせたかった。

 剣の柄を緩く握っていた手に力を込め、どこへ向かうわけでもなく歩き出す。振り出した雨に目を細めながら、叫びと怒号が飛び交う方へ向かっていった。

 それから間もなく。水溜りに踏み込んだ足音が背後で聞こえると同時に、悪寒にも似た気配が背中を撫でた。吸い寄せられるように振り返り、視界に飛び込んできた光景に息を呑んだ。


「これはまた……弱そうなガキがいたものだ」


 どこから現れたのか。そこにいたのは、夜叉の軍勢を率いる大将だった。

 身の丈は壁のように大きく、剣を手にした腕は、俺とは比べものにならないほど太く、見下ろす黄金の瞳は怪しく光り、薄らと開いた口からは鋭い牙が覗く。

 風に煽られ、靡く長い髪は白に近い銀色。それはまさに、獣そのもの。

 逃げなければ。その姿を目にした瞬間、ここから一刻も早く離れなければと思った。

 黒獅子に入隊して一年足らずの俺が、適うような相手ではない。意思よりも先に体がそう訴えている。それでも、この場に立っている以上は逃げるわけにはいかない。そう思った時初めて、横たわる仲間たちの姿がはっきりと認識できた。

 怒りや焦り、痛み、失いつつあった感情が一気に溢れだす。

 ここで俺が引けば、戦場に立つ仲間の誰かが、この男と戦わなければならなくなる。自分を失うことよりも、誰かを失う瞬間を目の当たりにする方が辛い。

 ならばここで、俺が立ちはだかろう。どれだけ時間を稼げるのかはわからない。少しでも足止めできればそれでいい。

 自らをふるい立たせて剣を構えると、大将はニヤリと怪しく笑った。


「相手をしてくれるのか、小僧」

「もう、何も失いたくないんだ……そのためには、俺が立ちはだかるしかないんだ」

「剣を持つ手が震えているようでは、何の説得力もないがな」


 大将はニッと牙を見せ、ククッと喉を鳴らした。

 そうは言うが、大将自身も満身創痍。誰と対峙してそうなったのかはわからないが、体に負った傷は相当深い。脇腹の辺りは赤く染まり、伝い落ちた雫が足元で血溜まりを作るほどだった。

 それでも纏う殺気は鋭く、俺は完全に圧倒されていた。

 どう見積もっても勝算が見つからない。それでも戦う姿勢を保っていたが、大将は剣を構えようともしない。呆れたように冷笑して、立ち昇る黒煙を見上げていた。


「お前のような小僧を相手にしている暇などない。さっさと失せろ」

「断る……ここで俺が仕留められなくても、少しでも傷を負わせられれば、次に立ちはだかる仲間の誰かの手助けくらいにはなれるから」


 そうだ。次に繋がればそれでいい。今、俺ができることはそれしかない。

 震える手を抑えるように力を込め、再び剣を構える。大将は面倒そうに舌打ちをし、ようやく剣を構えた。

 それからは無我夢中だった。

 振り下ろされる剣は圧倒的な力の差があった。受け止め、弾き飛ばされ、立ち向かえば向かうほど傷が増えていく。それでも俺は向かっていった。


 剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。

 やがて雨足は強まり、遠くで響く怒号も叫びも、その音にかき消されていく。その中で、乱れた自らの呼吸と、激しく脈を打つ鼓動がやけに大きく耳に響いていた。

 それから自分がどう戦って、どう剣を振ったのか、はっきりと覚えていない。気がつけば、俺が突き上げた剣が大将の腹を貫いていた。それとほぼ同時に、両肩に走る強烈な痛みに、俺は膝から崩れ落ちた。

 意識が飛びかけて倒れそうになっても、大将はそれを許してはくれない。

 体がふわりと持ち上がる感覚に驚いて顔を上げると、俺の胸倉をつかんで体を持ち上げ、じっと睨みつける大将の顔が目の前にあった。

 おそらく、俺が負わせた傷がそうさせているのだろう。俺を見つめる目は鋭いものの、すでに焦点を失いかけていた。


「小僧だと思って、油断したらしい……まさか、ここで朽ちようとはな」

「これで……仲間のところに、あんたが行くことも、誰かを失うこともないな……」


 力なく笑って、胸倉をつかんでいる大将の腕を掴み返そうと手を伸ばした――つもりだった。だが、何度やっても、そこに手が届かない。

 腕を持ち上げる感覚は確かにあった。だが、それは肩の辺りから途切れていた。

 目をやると、そこにあるはずの腕がなかった。肩に走るこの焼けるような痛みは、両腕を失ったからなのだと、その時になってわかった。


「あんたのせいで、二度と……反撃できなくなったな」

「まぁ、そう言うな。ワシがここで朽ちるのだ……その代償だと思えば安い」

「それも、そうか」

「ただ、ワシとしては面白くもない。小僧……ワシの命を持って行くのだ。ついでにもう一つ、持って行け」


 もう一方の手を俺の顔の上に翳し、グッと拳を握りしめた。そこから滲み、指先から伝い、滴る赤い雫が一滴。うっすらと開けていた俺の唇に落ち、するりと口の中へ流れていった。

 内側で蠢き、焼きつくような熱が体の中を駆け巡る。跳ね上がる鼓動に合わせるように感覚が鋭敏になり、雨音で掻き消されていた仲間たちの声がはっきりと聞こえる。自分の体の中で何が起こっていた。


「っ!」

「土産だ……しっかり、受け取れ……」


 大将が倒れると同時に、俺の意識もまた、ふつりと途切れた。

 


 ◆◆◆◆



 ギシッと何かが軋む音がして、深い眠りの底に落ちていた意識が引き上げられた。

 瞼の上がやけに眩しくて、俺は恐る恐る目を開けた。ぼやけた視界に映ったのは、見慣れた寄宿舎の天井だった。

 どうして天井があるのか。そう考えている内に、背中や頭に触れる布の感触から、寝台に横たわっていることに気づく。そしてそこに漂う空気の匂いから、ここが自分の部屋だということがわかった。

 ふとそこに気配を感じて、俺は視線を右へやった。椅子に腰かけ、険しい顔で腕を組んだまま、うつらうつらしている渡会さんの姿があった。


「渡会さん……」

「……ん? おおっ、シュロ! やっと気づいたか!」


 呼びかけで目を覚ました渡会さんは、椅子を倒して立ち上がった。

 腹減ってないか、水飲むかと、渡会さんが甲斐甲斐しくする姿が新鮮で、ぼんやりとしていた意識もすぐに冴えた。


「半月ほど眠ったままだったから、さすがのわしも心配したが……もう安心だな」

「俺、どうしてここに……戦は……?」

「心配するな。全て終わった」


 そう言って寝台脇にある机を見た。そこには俺が使っていた剣が置かれていた。

 俺が夜叉の大将を仕留めたことで、夜叉の軍勢は戦意喪失。降伏する形で終結したらしい。緊張状態は続いているものの、あの大きな戦は終わったそうだ。

 これで、目の前で仲間を失うこともない。いつものように帝都の警邏をして、剣術の訓練をして――そう思ってハッとした。今の俺には、それができない。

 包帯の巻かれた体は嫌でも視界に映った。肩より先にあるはずのものが、そこには存在しない。俺の「いつも」は、あの戦と共に失ってしまった。


「今はゆっくり休め。傷が治ったら、お前の稽古をつけねばならん」

「渡会さん、それは無理ですよ。俺はもう、剣だって握れ――」

「んぁ? 馬鹿か、お前は!」

「っ!」


 仮にも、負傷して目覚めたばかりの怪我人に対する扱いとは思えないほど、渡会さんは何の遠慮もなく俺の頭を叩いた。叩かれた箇所がズキズキと痛み、条件反射で腕を上げたものの、肩が動くだけで摩ることも押えることもできない。ただただ、目を丸くして驚くことしかできなかった。


「勝手に弱気になるな。剣くらい、いくらでも握れるようになる」

「で、でも」

「わしが何も用意していないと思うな」


 どっこいしょ、と、その場にしゃがみ、足元に置かれていた長い木箱を寝台の上に乗せた。そこから取り出されたのは二本の義手だった。


「妖盟の義手といってな。妖術を用いた特殊な義手らしい。なんでも、本物の腕と大差ないほど、指先まで滑らかに動かせるようになるそうだ」

「……それ、信じても大丈夫なんですか?」

「物は試しだ。傷が治ったら、すぐにでも始めるぞ。これから慌ただしくなるからな。今のうちにしっかり休んで、体力つけておけよ」


 ガハハッと豪快に笑って頭に触れたかと思うと、ガシガシと少し乱暴に撫でた。少し痛いくらいだったが、なぜか妙に穏やかな気持ちになった。


「お前には教えたいことも、見せてやりたいこともたくさんある。だから、今は休め」

「わかりました……」


 傷のせいか、暖かな陽射しのせいか。それとも渡会さんのいつになく優しい言葉のせいか。眠気に誘われるまま、俺は目を閉じた。



 ◆◆◆◆



「……見さん。起きてください、シュロさん」


 聞き慣れたその声に導かれて目を覚ました。

 ぼんやりとしている俺を、アオバがふて腐れたような、どこか呆れた顔でこちらを覗き込んでいた。かち合う視線の間をヒラヒラと、金木犀の花が雪のように舞っている。濃い橙色に映える彼女の黒い髪と瞳が綺麗で、つい見入ってしまった。


「あぁ……おはようアオバ」

「おはよう、じゃありませんよ。そろそろ訓練の時間だからって、カガチさんが呼んでいました」

「もうそんな時間か……」

「遅れたらシオンに睨まれますよ」


 そう言って、アオバは急かすように腕を引いた。わかったと返事をし、立ち上がるふりをして、俺は彼女を抱き寄せ、再び金木犀の根元に座り込んだ。


「ちょっと、シュロさん! 訓練、行かないんですかっ」

「あと少し」

「……本当に、あと少しですからね」


 本当は照れているくせに、平静を装っているところも可愛い。 

 睨みつけるつもりだったのか。腕の中からアオバが見上げたのを見計らって、その額に唇を寄せる。気恥ずかしそうに目を細めながらも、心地よさそうに微笑む様は、すり寄る子猫のようにも見えた。


「夢を、見ていた」

「夢? いい夢でしたか?」

「腕を失った時の夢だ。寝覚めの悪い夢だったが、今は気分がいい」


 抱き寄せる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。

 彼女の髪から微かに香る花梨の香りに安堵する。抱きしめたまま、もう一眠りしてしまいたいと言ったら、きっと怒るだろうな。


「香を作っていたのか?」

「わりますか?」

「あぁ、俺の好きな香りがする」


 髪に顔を埋めて息を吸い込むと、アオバは「犬みたいだ」と笑っていた。そうして触れ合っているうちに、心地よいほどの安堵感が眠りを誘う。離れてしまうのが惜しくなって、彼女が逃げられないよう、さらに力強く抱きしめた。


「アオバ。悪いが、もう少しだけ付き合え」

「えっ? だ、駄目ですって!」


 返事も聞かず、俺はごろんと、抱きしめたままその場に横になった。

 地面に敷き詰められた金木犀の花が、ふわりと舞い上がってアオバの髪に降り積もっていく。その光景を目に焼きつけて、俺は再び瞼を閉じた。

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黒き龍の香術師~偽りの婚約者、承ります~ 野口祐加 @ryo_matsuba

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