【番外編】※本編読了後にお読みください。
【アオバ編】戦場の香術師
町を呑み込んだ深紅の炎は、明け方に降り始めた雨に消され、今は重たい鈍色の雲が広がっていた。雲の切れ間から時折覗く青空に向かって、黒煙がゆっくりと立ち昇る様子を睨みつけた。
ザーザーと寒々しい音だけが町を包み、それ以外の音は何も聞こえない。人の声も、犬の鳴き声も、鳥たちの囀りだって聞こえはしない。あるのは、地面を叩きつける雨音だけ。
この冷たい雨を凌ごうと瓦礫の陰に蹲り、雨が止むのをじっと待っていた。
膝を抱え、刻々と時が過ぎていくのを耐えるだけ。一体、どのくらいの間そうしていたのか、思い出すのも億劫になっていた。このまま、私は独り取り残されたまま朽ちていくのか。そんな言葉が脳裏を過った、そこへ――
「ちょっと、そんな所にいたら風邪引くわよ」
頭上から声が降ってきた。ついに幻聴まで聞こえ始めたかと思ったのだけれど、やはり気になって顔を上げた。
そこには黒い外套を羽織った女が立っていた。腰まである長い髪も闇夜のような漆黒で、唇に注した紅も目の覚めるような鮮やかな赤であったせいか、その姿は異様なものに見えた。
女は目の前にしゃがむと、持っていた傘を差し出し、私の顔や服についた泥を丁寧に袖で拭ってくれた。たったそれだけの仕草だったのに、今、私はここに生きているのだと、気づかされたような感情に襲われた。
「この町も相当酷くやられたものね。あんた、よく生きていたわね。他に生き残った者は?」
そう問われたとたん、瞳にじわりと涙が溢れ出した。言葉はなくても、私の表情でその涙で覚ってくれたのだろう。女は小さく頷いて、私の頬をゆっくりと撫でた。
それから女は懐から一枚の札を取り出した。「じっとしていて」と念を押したあと、札に手を翳し、宙で円を描いた。その直後、チチッと音をたてて札は燃え上がり、辺りに甘く澄んだ香りが漂う。ゆらゆらと、煙が私を包み込むように流れ始めると、膝の傷や頬の切り傷から痛みが消えていった。
「傷が……」
「もう痛くない?」
「……うん。もしかして、香術師なんですか?」
「まぁ、そんなところよ。それよりあんた、寒くない? こんな恰好じゃ体が冷えて――」
女は何気なく私の腕に手を伸ばした。敗れた袖から微かに覗いた肌と、そこに刻まれた紋章に気づき、ハッと目を見開いた。
「これって、この国の紋章よね? あんた、もしかして皇族?」
その問いに、私は押し黙った。優しくしてくれたとはいえ、相手は見ず知らずの女。安易に信用して話したとたん、何をされるかわからない。
唇を噛み締めて身構えている私を、女は呆れたようすで見つめていた。
「答えないところを見ると、間違いないわね。あんた、この国の皇女様ってわけね」
「だったら、何だって言うの? そんなもの、もう何の意味もないのに……」
町も民も、そして皇帝――大切な父と兄を失った今、皇女であったことなど意味をなさない。それを聞いてどうするのかと睨みつけると、女はそれが気に食わなかったのか、不機嫌そうなに眉間にシワを寄せた。
「あんた、子供らしくない顔してるわね」
「……それって、どんな顔ですか」
「夢も希望も無くして、もう生きているのも面倒だって顔よ。見ているだけで腹が立つわ」
そう言い放ったかと思うと、女は突然、私の首根っこを掴んで瓦礫の陰から引きずり出し、強引に立ち上がらせた。
「ちょっと、何するのよ!」
「あんた、私と一緒に来なさい」
まさかそんな言葉が出てくるとは予想していなかった。
今までの流れから何をどう判断すれば、その結論に行きつくのか。あまりにも突然だったせいか、離せと暴れていた私も抵抗する気が失せた。
「ちょうど、小間遣いが欲しかったのよね。あんたがいれば、少しは楽できそうだわ」
「こ、小間使い? そんなの――」
それ以上言わせまいとするかのように、女は私の口元に手を突き出した。そしてニヤリと、企むような不敵な笑みを返した。
「あんたをどうするかは、拾ったあたしの自由。ほら、さっさと歩く」
「えっ、ちょっと!」
女は嫌がる私ことなどお構いなしに、強引に手を引いて歩き出した。
この女は人攫いなのかと疑ったものの、荒っぽく手を引く割に、自分が羽織っていた外套を私に着せたり、濡れることなど構う様子もなく、傘を私に貸してくれたり。警戒心が徐々に解け、そして激しく揺さぶされた気がした。
「あんた、名前は?」
女は不意に振り返って訊ねた。
少し戸惑いはあったものの、私はおずおずと女を見つめた。
「……アオバ」
「アオバね。あたしは神代セツラン、よろしくね」
ニッと笑ったその姿は、黒煙の立ち昇る滅びた町の中で、強烈なほど美しく輝いて見えた。
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