2 ある日、私はあなたに恋をした。

 ……眠れない。……どうしてだろう? 真っ暗な夜の中でそんなことを叶は思った。

 ……すごく、疲れているはずなのに。頭もぼんやりするし、からだ中くたくたで、疲れているのに。足だって両足とも、棒みたいになっているのに。

 暗い夜の中で、ベットの中に潜り込んでも、まだ眠りにつくことができない。

 まだ、意識を失うことができない。

(それは、僕が暗闇を恐れているからだろうか? まるで小さな子供のころに戻ってしまったみたいに)

 真っ暗な部屋の中で、そのぼんやりとした暗闇を叶はじっと見つめている。

 叶は視線を動かして天井から窓のあるほうに目を向ける。(暗闇の中には天井も、窓もどちらも目には見えなかったけど)

 窓の外では、今も、ざーっという強い雨の降る音が聞こえていた。

 雨は、まだ降り続いている。

 きっと、このまま今夜の間はずっと、雨は降り続くのだろうと叶は思った。

 叶はその雨の音を聞きながら、ぎゅっと、自分の青色のジャージのポケットの中に移動させた『二つに切れてしまった赤い紐』をぎゅっと握りしめていた。


 叶は部屋の明かりを消して、初めて横になる見知らぬベットの中に入り込む前に、青色のスポーツバックの中身をもう一度、今度は隅々までしっかりと確認をしてみた。

 森を抜けた先にあった草原でスポーツバックの中身を確認したときには、祈が近くにいたので、(祈は興味津々といった様子で、じっと叶のスポーツバックの中に目を向けていた)ここまでしっかりと、スポーツバックの中を確認はしなかった。それは、もしかしたら、『祈には絶対に見られたくないもの』が、そのスポーツバックの中には入っているのかもしれないと叶がそう思ったからだった。

 記憶喪失になる前の自分が、このスポーツバックの中に『あるもの』を入れているのではないかと、思ったのだ。(それは、結構、絶対に近い予想だった。おそらくそれはきっとバックの中にある、と叶はほぼ、このとき核心をしていた)

 ……でも、スポーツバックの中をきちんと隅々まで確認しても、『そんなものはどこにも入っていなかった』。(叶はそのことをとても意外に思った)

 叶うの青色のスポーツバックの中に入っていたものはやはり、数日分の下着や靴下などの着替えと、青色のジャージと、財布と生徒手帳と、なにも文字が書かれていない真っ白な小さなメモ帳と、古典と英語と数学の教科書とノート。筆記腰部。電源の切れてしまった携帯電話だけだった。

 財布の中は、からっぽだった。(お金も、レシートも、それからカードのようなものも、なにも入っていなかった)

 叶はベットに腰を下ろして、古典と英語と数学の教科書をぱらぱらとめくってみた。(内容は、だいたい理解できていた。どうやら僕は、それなりにきちんと勉強をしていたようだ。勉強をした記憶は、まったくないのだけど……)

 それから今度は三冊あるノートを順番にぱらぱらとめくってみた。

 今度も真っ白なのかな? と叶は思ったのだけど、ノートにはきちんと途中までの(つまり、夏休みに入る八月までの、一学期分の)勉強のあとがきちんと、残っていた。

 ノートの記述は、どうやら、きちんと一学期の終わりまで、つまり夏休みに入るところまで、書かれているようだった。

 その三冊のノートの中に書いていある文字や数式を見て、叶は初めて、自分の書いた文字を確認した。(それが自分の書いた文字だとは思えなかった。なんだか不思議な感じがした。でも、確かに僕はこうして教科書を見ながらノートをとって、どこかの高校できちんとつい最近まで授業を受けていたようだった)

 叶うはそれから生徒手帳を開けて、自分の名前と写真を見た。そこには確かに、叶うの顔と『村田叶』(むらたかなう)の名前があった。

 それが発行された西暦や日時。それに高校の名前も書いていある。

 それらを叶はもう一度、確認をする。(まるで、鏡を見るようにして。自分の存在を、自分自身でもう一度、しっかりと確認するみたいに)


 叶はそれから、それらのものを青色のスポーツバックの中に大切にしまった。

 叶は一人でため息をついて、小さく笑った。

 ……よかった。と叶は思った。

 本当に、よかった。僕はそれほど、自分自身や、自分の生きてきた世界や、自分のこれまでの人生に、……『絶望していたわけじゃない』ようだった。


 それから叶は二つに切れてしまった赤い紐を取り出して、それを、真っ白な電灯の明かりの下で、じっくりと観察してみた。

 眠る前にもう一度、そんな風にして、しっかりと、赤い紐をよく観察してみると、赤い紐は結構長くてしっかりした作りをしていた。20センチくらいはあるだろうか? 両端が少し細くなっていて、そこで結び目を作ることができるような作りになっていた。

 その紐は決して、偶然に切れるような紐には思えなかった。

 でも、紐は途中で、ぷつん、と切れて二つになってしまっていた。(紐はまるで強い力で両端から引っ張ったように、……無理やりに、引き千切れるようにして、切れてしまっていた)

 ……どうしてこの紐は切れてしまったんだろう?

 その原因はなんだろう?

 手のひらの上に乗せた赤い紐を見ながら、そんなことを叶は思った。

 でも、いくら考えても、その答えはわからなかった。

 叶は赤い紐をじっくりと観察する。それは本当によく、丁寧に編まれた紐だった。ただの紐ではない。やはりこれは、なにかのお守りなのだろうと思った。

 人の手で編んだような、そんなぬくもりを感じる。

 赤い紐。

 ……赤い、糸。

 ……切れしまった糸。

 結び目。

 その紐は、何度見ても、とても丈夫そうに見えて、やはり、偶然に切れるようなものには見えない。きっと紐は『必然的に』切れたのだと叶は思う。

 なにかの拍子に、『運命的に』紐は切れたのだと思った。

 ……二つに。別れてしまったのだと思った。

 それは、僕の記憶喪失となにか関係があるのだろうか? 

 確証はないけど、それは関係があるように思えた。『この赤い紐が切れてしまったせいで、僕は記憶を失ったのだと思った』。

 理由はわからないけど、なぜか、そんな気がした。

(もし、怪我でも病気でもなくて、僕の記憶喪失になにかの理由があるのなら、それは、きっとこのせいだと思った)

 叶は切れてしまった赤い紐を、『あまり上手ではないけれど、とりあえず結び直して』、それを不器用だけど、二つの結び目のある一本の赤い紐に戻した。

(結び直してから少しの間、待ったのだけど、赤い紐を一本の紐に戻したことで、叶の記憶が急に戻ったりするようなことはなかった。叶は、笑いながら、小さくため息をついた)

 叶はその赤い紐のお守りを一瞬だけ、(おそらくだけど)元のように『自分の手首』に巻こうとして、それから、それをやっぱりやめて、少しの間、悩んでから、結局叶はその赤い紐を、青色のスポーツバックの中にではなくて、青色のジャージのポケットの中にしまった。

 それから叶は部屋の電気を紐を引っ張ることで、(壁にスイッチがあったけど、紐も付いていた)消して、世界を真っ暗にしたあとで、祈の用意してくれた真っ白な毛布に包まって、ベットの中で静かに目をつぶった。

 でも、それからいくら時間が経っても、叶に安らかな眠りは訪れなかった。


 それからしばらくして、叶は眠ることを諦めて、(自然に眠くなるのを待つことにしたのだ)暗闇の中で、じっと外に降るざーっという強い雨の音だけに耳をかたむけていた。

 その雨の音を聞きながら、叶は、暗い雨降りの森の中で一人でさまよっている、もう一人の自分のことを思った。

 彼は、真っ暗な夜と強い雨の中で、安心して眠れる場所を探して、森の中をさまよい歩いていた。

 でも、そんな場所は、なかなか見つけることはできなかった。


 このままだと、彼は空腹と寒さと疲れで、森の中で倒れるようにして、意識を失ってしまうかもしれない。そうしたら、彼はもしかしたら、もう二度と、深い森の中で目覚めることはないのかもしれなかった。

 ……でも、彼に幸運が訪れた。

 彼は雨の降る暗く深い森の中にあって、本当に偶然にも、そこにある『洞穴』を見つけたのだった。

 そこは森の中にあって、大地が隆起しているような場所で、その隆起した緑の植物に覆われた大きな岩のようなごつごつとした剥き出しの大地の表面には、一つの暗い穴が空いていた。

 熊のような大きな動物が住処にするような、あるいは、蛇などが大量に隠れ住んでいるかもしれないと思うような、そんな不気味な洞穴だった。

 でも、少なくとも今は、その洞穴になにかの生き物が、存在している様子はなかった。

 彼は少し迷ってから、強い雨の降る真っ暗な空を一度見上げて、自分の凍える体と、ずぶ濡れになった様子を確認して、覚悟をして、その洞穴の中に入っていった。

 洞穴の中は、随分と暖かかった。

 このまま、この場所で雨を過ごすことができれば、なんとか夜を超えることができそうだと彼は思った。

 彼は簡単に洞穴の入り口付近の安全を確認してから、(その洞穴は、そこから、向こう側を確認することができないくらいに、……ずっと、奥まで続いていた)ほっと、一息をついてから、青色のスポーツバックを枕にするようにして、体を丸めて、眠りについた。

 ……彼は、本当に、本当にすごく疲れていた。

 だから、森の中にいる彼は、今、こうして安心できる場所から、もう一人の自分自身である彼のことを思っている、ずっと(暗闇を恐れながら)眠れないでいる叶とは違って、そのままぐっすりと、その洞穴の中で、すぐに深い眠りについた。

 ……彼は、とても幸せそうな寝顔をしていた。


 叶は、ぱちっと目を開けた。

 すると、世界は真っ暗なままだった。

 ……叶は一瞬、自分がどこにいるのか、よくわからなかった。(……もしかしたら、僕は少しの間だけ、本当に眠っていたのかもしれなかった)

 それから叶は自分が今、祈の家の中にいることを思い出した。

 祈の用意してくれた、昔、まだ生きていたころに、祈のおじさんが使っていた部屋の中にあるベットの中にいるだと思い出した。

 それから叶は、……僕は今、すごく安心できる場所にいるのだと、心からそう思った。

 叶うは真っ暗闇の中で、じっと天井を見つめた。

 ……ざーっという、強い雨の降る音が聞こえる。

 そのまま、しばらくの間、叶はずっと雨の音を聞いていた。なにも考えずに、ただ、雨の音だけに耳をかたむけていた。

 ……それからもう少しして、叶は、そのざーっという雨の降る音の中に混ざって、ぎい、ぎい、という誰かの歩く足音が聞こえてきた。

 ……足音? ……祈かな?

 叶は思う。

 この家の中で、自分以外の誰かの足音が聞こえるとしたから、それは祈以外にはありえなかった。

 その考えを証明するように、その足音は奥の部屋である、祈の部屋のほうから聞こえてきた。

 そのぎいぎい、と言う足音は、叶の部屋の前を通り過ぎて、そのまま階段を降りて、どうやら一階まで、移動をしたようだった。(その少しあとで、小さくドアの開く音も聞こえた気がした)

 ……最初はトイレに行ったのか? あるいは、キッチンに水でも飲みに行ったのだろう、と思って、あまり気にしていなかったのだけど、それから随分と時間が経っても、祈の足音はいつまでたっても、一向に、二階に向かって戻ってくる音が聞こえてこなかった。

 叶はなんだか祈のことが心配になった。

 あの、玄関の先に広がっていた、この家を取り巻いている永遠の完全な闇の中から不気味で恐ろしい、ないか、が、鍵のかかっていないドアから、家の中に訪れて、一階にいる祈を『あの暗い闇の中に今にも引きずり込もうとしている』のではないかと思った。

(それは、もちろん、ただの空想だし、実際には、そんなことはないと思うのだけど……)

 叶はなんだかすごくいやな予感がした。


 あるいは、祈は、『家の玄関から外に出て、そのまま、あの真っ暗な闇の中に、雨の降る夜の中に自分から出て行ってしまったのではないか?』 と叶は思った。

 なにかに引き寄せられるように。

 魔法にかかったように。

 ……あるいは、彼に、会いに行くために。

 祈は一人で、この雨の中を歩いて、深い森の中にまで、戻って行ってしまったのではないかと思ったのだ。(そういえば、どうして祈は、僕と出会ったときに、あんなに深い森の中にいたのだろう? その理由をまだ祈に叶は聞いていなかった)


 叶はゆっくりと、ベットから起きて(……どうせ、眠れないのだし)このまま、一階に行って、下の階にいる祈の様子をみることにした。

 それに、なにもなかったとしても、少し、祈と話をすれば、そのあとで安心して、ぐっすりと眠りにつくことができるような気がした。

 叶は一階まで移動をしようとした。

 でも、そのとき、叶が部屋の電気をつけようと、電灯の紐に手を伸ばしたときだった。祈が、こちらに戻ってくる足音が小さく聞こえてきた。

 その足音を聞いて、叶はほっとする。

 それから、自分のいやな予感が外れて良かった、と心からそう思った。

 でも、それからまた、叶の予想外のことが起こった。

 祈の足音は、奥にある祈りの部屋まで戻らずに、階段を上がってから、手前にある叶の部屋の前で、ぴたっと止まった。

 再び、真っ暗な闇の中で、ベットの中に潜り込んでいた叶は、そのことを変だと思った。

 叶は暗闇の中でじっと自分の部屋のドアのほうに視線を向けた。

 それからすぐに、とんとん、と叶の部屋のドアをノックする音が聞こえた。


「はい」と叶は返事をした。

 でも、ドアの向こう側から返事はない。

 叶はじっと、暗闇の中で、ノックされたドアのあるほうを見つめる。

 少し目が慣れてきたのか、暗闇の中でも、ぼんやりとだけどドアの輪郭を闇の中で見ることができた。

 今も、ドアの向こう側から、返事はない。

 叶はそこにいるはずの祈を迎えるために、部屋の明かりをつけて、ベットから出てドアのところまで移動をしようとした。

 でも、そのとき、ふと、叶の頭の中に変な考えが一瞬だけ浮かんだ。

 なぜかこのとき、叶は、そのドアの向こう側にいるのが、もしかして『祈ではない違う誰か』なのではないか、とふとそんなことを思った。

 そこに立っている人物が、祈ではなく、あるいは、人間ではない違うなにかであるような気がした。

 叶はあの、家の周囲に広がっている真っ暗な闇を思い出した。

 そこからやってくる不気味で恐ろしいなにか、が、今、そこに立っているのではないか、とそんなことを叶は思った。

 ……自分を、暗い夜の中に引きずり込むために。


 ざーっという強い雨の降る音が真っ暗闇の中に聞こえる。


 叶は闇の中で、じっと、そのぼんやりと見える部屋のドアに目を向けていた。

 ドアの向こう側から返事はない。

 ノックの音もしない。 

 でも、ここから遠ざかっていくような足音も聞こえなかった。

 部屋のドアをノックした人物は(あるいは、なにか、は)まだ、そこにいる。

 叶はベットから抜け出して、暗闇の中で電灯の紐を引っ張って、部屋の中に真っ白な明かりをともした。

 急に明るくなった世界の中で、叶は眩しそうにその目を細める。

 それから叶は部屋の中をゆっくりと歩いてドアの前まで移動をした。

 叶は、そのドアを開けようと思った。

 なぜなら、このドアの向こう側にいるのは、祈であるかもしれないからだった。

 暗い闇の中に潜んでいる、不気味で恐ろしいなにか、はあくまで叶の想像であり、そこにいるのは、普通に考えれば祈であるはずだった。

 すると、祈は今、部屋のドアをノックしてからずっと、一人で暗い通路の中に立っている、ということになる。(明かりをつける前に、ドアの隙間から外の明かりは差し込んでこなかった。電気をつけない理由はわからないけれど、階段のところの電気は消えたままになっているようだった)

 そんな暗くて怖くて、危ない場所に、いつまでも祈をひとりにさせておけるわけがなかった。

 叶は、部屋のドアをゆっくりと開けた。

(闇の中に不気味で恐ろしいものなんて、そんなものはどこにもいない。すべて自分の生み出した勝手な想像にすぎない。それはわかっているのだけど、それでも、叶の心臓はどきどきしていた)


 叶が部屋のドアを開けると、やっぱり通路は真っ暗なままだった。その真っ暗な空間の中に叶の部屋の明かりが溢れて、廊下の一部分を照らし出した。

 ドアを開けた先。

 ……そこには、誰の姿もなかった。

 不気味で恐ろしいなにか、はおろか、部屋のドアをノックした人物であるはずの祈の姿も見えなかった。

 叶は、そんな光景を見て、……変だな、と思った。

 ドアの前から誰かが歩いて移動をした足音は確かに聞こえなかった。その人物はまるでふわっと、それこそ幽霊のように、この場から一人でに消えてしまったかのようだった。

 でも、その叶の疑問はすぐに解決した。

 なぜなら、暗い通路のドアのあるほうの壁には、そこに体育座りの格好で、ぎゅっと両足を抱え込むようにして、頭を下に向けて隠して、小さく、丸く縮こまって座っている、祈の姿があったからだった。(ドアをノックしたのは、やっぱり祈本人だったようだ)

 叶がドアを開けてからも、祈はずっと、その姿勢のままだった。


「そんなところで、なにしているの?」と優しい声で叶は言った。

 すると、「……私にもよくわからないんだ」と小さな声で祈は言った。

 それから祈はゆっくりとその顔をあげて、そっと、叶のほうに向けた。

 その祈の顔を見て、叶はとてもびっくりしてしまった。なぜなら、祈は、その暗い夜の中で一人で静かに、涙を流していたからだった。


「……部屋の中、入ってもいい?」とても不安そうな声で、涙を流しながら祈は言った。

「……いいよ。もちろん」

 優しい声で、叶は言う。

「……ありがとう」と祈は言った。

 祈はなんだかとても小さい女の子のようだった。年齢で言えば、たぶん、十歳くらいの女の子。

 ……一人で夜中に家の中を歩くことができないような年頃の女の子だ。

 叶は部屋の中に移動をしようとしたのだけど、なぜか祈はその場を動こうとしなかった。(あるいは、動くことができないのかもしれなかった)

 祈はじっと、救いを求めるような目をして、涙で潤んだ透明な二つの大きな瞳で、叶のことを見つめていた。(その大きな黒い瞳の中には、はっきりと叶の顔が映りこんでいた)

「祈。ほら」

 そう言って、叶は自分の手を祈に向けて差し出した。

「……うん。ありがとう」

 そう言って、祈は叶の差し出してくれた手をそっと握った。(祈の手は、森の中や草原の中で手を握っていたときと同じように、祈の家にたどり着いた今も、……ひんやりとして、……すごく、冷たいままだった)

 叶の手を借りて、ようやく祈はその場によろよろと立ち上がることができた。

 それから二人は、ゆっくりと手をつないだまま歩いて、叶の部屋のベットのところまで移動をした。(部屋のドアは叶が移動するときに、そっと閉めた。そのドアが閉まるときに、ぱたん、と言う小さな音がした)

 叶はベットに腰を下ろして、その隣に祈のことを座らせた。

 そうやって移動している、その間、祈はずっと、黙ったままだった。

 叶は無理に話をせずにしばらくの間そのままその場所に座っていた。(でも、手はつないだままだった)

 二人はそのまま、しばらくの間、ずっと無言のままだった。


 祈は、お風呂上がりからずっと頭に巻いていたカチューシャのような動物の耳みたいに見える青色と白色のしましまのタオルを、いつの間にか、とっていた。祈の腰の辺りまである長い黒髪が、そのままになっている。(寝るときに、髪を結んだりはしないようだった)

 格好はさっきまでと一緒で、大きなゆったりとした白いTシャツに、青色のハーフパンツ。

 そして、足元にはふかふかの白いスリッパを履いている。

 その白い頬の上に、透明な涙を流していること以外は、叶の知っている、いつもの祈そのままだった。


「……ときどき、こんな風に、急に心が壊れちゃうんじゃないかって、思うときがあるんだ」

 しばらくして、そんなことを祈が言った。

「心が?」叶は言う。

「うん。私の心が、ばらばらになっちゃうんじゃないかって、そう思うときがあるの。自分がめちゃくちゃになっちゃうんじゃないかって、すごく不安になるときがある」

 叶を見て、祈は言う。

「不思議だよね。暮らしていける家があって、安心できる居場所があって、毎日の穏やかな生活があって、私はこんなにも幸せなのに。こんなにも恵まれているはずなのに。でも、ときどき、本当に怖くなるときがある」

 祈は天井にある真っ白な電灯を見つめる。

「……僕も、そういうときがあるよ。すごく不安になる夜がある」下を向いて、木の床を見ながら叶は言う。

「叶くんにも?」

 驚いた顔をして祈は言う。

「うん。ある。すごく怖くなる。……今日も、そうなのかもしれない。すごく疲れているはずなのに、全然眠りにつくことができなかった」

 祈を見て、叶は言う。

「なんだ。じゃあ、叶くんも私と一緒だね」にっこりと笑って、祈は言う。

「うん。僕たち、同じだね」小さく笑って、叶は言う。

 ようやく祈が笑ってくれて、叶はすごく嬉しかった。


 それから二人はまた、少しの間無言になった。


「……あのさ、叶くん。お願いがあるんだけど、聞いてもらってもいいかな?」となんだか恥ずかしそうな顔をして、すごく言いにくそうな声で、祈は言った。

「それはお願いにもよるけど、でも、僕にできることなら、可能な限り聞くよ」と叶は言った。

 すると祈は、その顔を真っ赤にして、「……あのね、今日、このまま、叶くんの部屋で、叶くんのベットの中で、一緒に寝てもいいかな?」と祈は言った。

 その言葉を聞いて、叶はすごく驚いた。


 私は、きっと救われていたんだと思う。あなたに。……ずっと。私が全然、気がつかないうちに。なんども、なんども、救われていたんだと思う。


「あ、誤解しないでね。違うの! あのね、そういう変な意味で言ってるわけじゃないんだよ。あのね、一人だと、絶対に眠れないような気がして、叶くんに一緒にいてもらいたいって、思ったんだ」と少し慌てた様子で、祈は言った。

「誰かと一緒だと安心して眠れるってこと?」叶は言う。

「……うん。まあ」

 とこくんとうなずいて、祈は言った。

 そんな祈は、まるで憑き物が落ちたように、叶のよく知っているいつもの祈にいつの間にか戻っていたようだった。

「あのね、お願いだから、笑わないで聞いてね。えっと、一人で眠ることが、本当に怖くなっちゃって、昨日までは全然大丈夫だったのに、今日は、もうすごく怖くて、寝られないの。毎日、一人で生活をして、毎日、夜に一人で眠りについて、毎日、朝に一人で起きることが当たり前だったのに、その当たり前のことが今日はできそうもないの。変だよね。でも、本当に怖いの。なんだか急にひとりぼっちの夜が怖くなっちゃって、今日はなんだか一人で眠ることができないの。 

 すごく眠いのに、全然眠ることができない。

 だから、……お願い。

 叶くん。今日は、……その、一緒に寝てもらってもいいかな? 明日までには、なんとか一人で眠れるように努力してみるからさ」と、その真っ白な顔を、本当に真っ赤にして祈は言った。 

 叶は最初、そんな祈の言葉をずっと真面目に聞いていた。

 でも途中から、ついにこらえきれなくなって、頑張って我慢していたのだけど、つい、くすくすと噴き出すようにして笑い出してしまった。

「あ、叶くん! 笑わないでね、ってお願いしたでしょ!?」と、怒った顔をして、両ほほをリスみたいに膨らませるようにして、祈は言った。

 祈の顔は、まだ真っ赤なままだった。(さっきまでよりも、さらに赤くなったように見えた)

「……ご、ごめん。……でも、つい。祈が小さな女の子みたいなことをいうから……」と笑いをこらえながら叶は言った。

 すると祈は、「私、やっぱり、部屋に戻る。部屋に戻って、一人で寝る!」と怒った顔をしたまま、叶のベットからすくっと立ち上がった。

(そんな祈はなんだか、すごく元気になったように見えた)

「あ、ごめん。本当にごめん。心から謝るよ。真っ暗な夜が不安なのは僕も一緒なんだ。だから怒らないでほしい。僕も一人で不安だったんだ。だから、祈がまだ、僕と一緒に眠りたいと思ってくれているのなら、二人で一緒に眠りたいと僕も思う」

 と祈の手を握ったまま、叶うは言った。

「本当?」

「うん。本当」叶うは言う。

「嬉しい。じゃあ、今日は一緒に寝よう」と祈は言った。

 そして、二人は叶のベットの中で、二人だけで一緒に眠りにつくことになった。


「じゃあ、お邪魔します」

 へへ、となんだか少し、わざとらしくいやらしい笑いかたをして、一度、二人で、手をつないだまま、夜の中を冒険するみたいにして、(祈は元気にはしゃいでいた)祈の部屋まで一緒に行って、自分の枕を持ってきた祈は、その自分の枕をぽんぽんと叩くようにして、気に入った場所に置くと、先に叶が潜り込んでいた叶のベットの中にもそもそと嬉しそうな顔をして、入ってきた。

「お、すごい。あったかい。叶くんの温もりがある。それに、なんだかいい匂いがする。叶くんの匂い」と毛布の中で丸くなりながら、くんくんとベットの匂いを嗅いで祈は言った。

「すごく安心する」

 と、本当に安心した小さな女の子みたいな顔で祈は言った。

「あんまり、変なこと言わないでよ。恥ずかしくなるから」と叶は言う。(祈に自分の温もりがあると言われたり、匂いを嗅がれたりして、叶は本当に恥ずかしかった)

「嫌だよ。せっかくの機会だもん。もっと叶くんのベットの中を堪能しないとね」と嬉しそうな声で、祈は言った。(それは、もしかしたらさっき祈を小さい女の子みたいだと笑ったことに対する仕返しなのかもしれないと思った)

 祈は本当にはしゃいでいた。

 まるで本当に十歳くらいの女の子を相手にしているみたいだと叶は思った。


「じゃあ、電気消すよ」と叶は言った。

「うん。わかった。早く消して」とうきうきした顔で、ベットの中から顔を上半分だけ出している祈は言った。

 それから叶は電灯の紐を引っ張って、部屋の明かりを消した。

 すると、世界は真っ暗になった。

 それから、叶はベットの中に潜り込んだ。

 すると、あんまり目には見えないけれど、隣に祈がいることが体がぶつかったことで、よくわかった。二人の距離はとても近くて、お互いの肩と肩がくっ付くくらいの距離だった。(それでも、ぴったりとお互いの体が密着しないように、二人は意識的にベットの端の限界まで、距離を開けるようにしていた)

 部屋の中が真っ暗なになると、途端に、祈りはなにも言葉を話さなくなった。


 ……真っ暗闇の中に、ざーっという、強い雨の降る音だけが聞こえていた。


「……なんだか、緊張するね」

 少しして、すぐ隣で、祈が言った。(お互いに、息がかかるような距離だ)

「……うん。僕も、すごく緊張する」と本当に緊張している声で、真っ暗な闇の中で、叶は言った。


「本当に?」真っ暗な闇の中で叶を見て、祈は言う。

「本当に。すごく緊張している。さっきから心臓がすごくどきどきしている」叶は言う。(叶は真っ暗な闇の中で祈を見る。目には見えないけれど、でも確かに叶はその闇の中に祈の視線を感じている)

「……胸に耳を当ててもいい?」

「え?」

 叶は祈の言葉に一瞬、驚いたのだけど、それから直ぐに、「もちろん。いいよ」と優しい声で叶はいった。

「ありがとう」と祈は言う。

 それから祈は自分の耳を叶の胸に当ててみた。

 すると確かに叶の心臓はどきどきと、普通の状態よりもずっと速く鼓動をしていた。

「本当だ。すごくどきどきしている」と嬉しそうな声で祈は言った。

 二人で一緒に、(まるで真っ暗や夜や強い雨から、二人で一緒に逃げるようにして)同じ叶のベットの中にもぐりこんでから、さっきまでの真っ暗な闇の中で泣いていた祈とは全然違って、祈はすごく安心しているようだった。


 それが叶は本当に、……本当に嬉しかった。


 祈が安心してくれるのなら、泣き止んでくれるのなら(真っ暗で顔は見えないけど、きっと祈はもう泣いていないと叶は思った)それ以上の自分の幸せはないと思った。

 もちろん、叶自身も、こうして、祈が隣にいてくれると、すごく安心することができた。

 それも、もちろん嬉しかったのだけど、でも、それ以上に、祈が無事(そう。無事だ。祈はきっと、僕と同じように、ううん。あるいは『それ以上に危険な場所に今、たった一人で立っているのに違いない』と思った)でいてくれることがなりよりも、嬉しかった。

 こうして一緒に眠ることで、ずっと近くにいることで、祈がすごく安心できるなら、あるいは、祈を僕が守ることができるのなら、『祈を救うことができるのだとしたら』、それ以上の安らぎや幸せなはいと思ったのだ。


「……叶くん。今、なにを考えているの?」と真っ暗な闇の中で祈は言った。

「君のこと」と叶は真っ暗な闇の中で祈を見て、そう言った。


 そう言ってから、叶は、……ああ。そうか。と思った。

 ……初めからわかってはいたことだけど、……僕は、やっぱり、『祈のことが好きなんだ』。と叶は改めてそう思った。

 僕は、……『この森の中で出会ったばかりの、鈴木祈という僕よりも一つ年上の一人の女性のことを、本当に心から愛しているだ』と思った。

(そのことがわかって、叶は真っ暗な闇の中で、一人、にっこりと笑った)


 少ししてから、祈は、「……本当? 嬉しい。実は、……私も今、叶くんのことを考えていたの。頭の中で、……ずっと。叶くんのことだけを考えていた」と静かな声で祈は言った。

「僕の、たとえば、どんなこと?」叶は言う。

「たとえば、叶くんの普段の生活のこと。どんな街に住んでいて、どんな高校に通っていて、どんな家に住んでいて、その場所で、どんな生活をしているのか。そんなことをずっと考えていた。いつもの叶くんがどんな風なんだろうって、そんなことがすごく気になったの」

「別に普通だよ。特別なことはなにもない」叶は言う。

「記憶がないのにわかるの?」

「わかるよ。なんとなくだけど、わかる。記憶はないけど、……だって、自分自身のことだから」叶は言う。

 それから、少し間をおいて(きっと、今の叶の言葉の意味を考えていたのだろう)「……そっか。自分自身のことだもんね」と祈は言った。

「そろそろ、眠ろうか? 明日は朝、早くに起きたんだ。朝ごはんの準備をしないといけないから」叶は言った。

「明日の朝ごはんも作ってくれるの? 私のために?」

「うん。そのつもりだけど、……いけない?」

「ううん。いけなくないよ。すごく嬉しい。本当に嬉しい」と本当に嬉しそうな声で祈は言った。

「じゃあ、そろそろ眠ろう?」叶は言った。

「うん。わかった。……おとなしく眠る」祈は言った。


 ……それから、二人は少しの間、沈黙する。


「ねえ、叶くん。……手、握っていてもいい?」

 でも、それからしばらくして、まるで十歳のくらいの女の子みたいな声で、祈は言う。

「……手を?」

 かすかに眠りかけていた叶は、真っ暗な闇の中で、そんな祈の声を聞いて、そう言った。(叶は十歳の女の子のころの祈の姿を少し間、想像してみた。すると、十歳のころから祈は、今と同じで、緑色の草原や森の中を一日中、駆け回って遊んでいるような、すごく元気いっぱいの女の子だった)

「うん。森の中みたいに。草原の上でそうしたように。ついさっき、私の手を握ってくれたみたいに、今も、叶くんの手を握ってもいいかな? さっき、ずっと目をつむっていたのだけど、……なんだか、まだうまく眠れそうにないの。でも、叶くんの手を握っていれば、きっとうまく眠れると思うんだ」と祈は言った。

「そうすれば、うまく、上手に眠れるの?」叶は言う。

「……うん。きっと、うまく、上手に眠れる。すごく安心できると思うから」

 祈は言う。

「……わかった。じゃあ、いいよ」

 叶は言う。

「本当に? ありがとう。叶くん」とにっこりと笑って、祈は言った。

 それから叶は自分の手を祈が握りやすいように、ベットの中で自分の胸の前あたりにまで動かした。

 それから祈は自分の手を動かして、叶の胸の前あたりにある叶の手を探して、それを見つけて、その見つけた手を、……ぎゅっと握った。(その手を、ぎゅっと、叶も優しくにぎり返した)


「叶くんの手。やっぱり、すごくあったかい」すごくほっとしたような、安心したような、そんな穏やかな声で祈は言った。

 祈の手は、……相変わらず、とても冷たかった。その手の冷たさを、自分の手の温かさで、少しでも温めてあげたいと叶は思った。


 二人はそれから眠りについた。

 二人だけで。

 ……同じベットの中で。

 遠慮がちにお互いの体を避けながら、……でも、可能なかぎり体を寄り添うようにして、ベットの端っこと端っこに横になりながら。

 お互いの手をぎゅっと握ったままで……。

 

 それは、とても幸せな夜だった。


(いつの間にか、叶の耳には、ずっと聞こえていた真っ暗な夜の中に降る、ざーっという強い雨の音は聞こえなくなっていた)


 ……それは、祈がずっと一緒にいてくれたおかげなのだろうか?

 その日の夜。

 叶は本当にぐっすりと眠ることができた。

 そして叶が、窓から差し込んでくる太陽の光の中で目覚めたとき、どうやら時間は、朝の時間をもうとっくに過ぎていて、お昼の時間帯になっていたようだった。(時計はないのだけど、起きてから窓を開けてみた、夏の八月の青色の空の中に輝くちょうど、真上にある太陽の位置でそれが叶にはわかった) 

 叶は窓を閉めて、部屋の中を確認する。

 ……ベットの中は、もぬけの殻だった。そこに祈の姿はない。(叶が目を覚ましたときから、ずっとそこには誰もいなかった)

 どうやら祈は、寝過ごしてしまった叶よりもずっと先に、起きていたようだった。

 叶はまだ眠たい目をこすりながら、ぼんやりとする頭をうまく動かすことができないままで(叶は朝によても弱かった)部屋を出て、階段を降りて、木のドアを開けて、一階のリビングまで移動をした。

 すると、そこにも祈の姿はなかった。

 でも、誰かがついさっきまでこの部屋にいた痕跡、あるいは、証拠のようなものはたくさんあった。リビングのテーブルの上に出しっぱなしになっていたはずの古いロウソクと立派なロウソク立てはなくなっていたし、キッチンには料理をした形跡のようなものがあった。

 それになによりも、リビングのテーブルの上には、一人分の朝ごはんが置いてあった。

 綺麗にラップをされた朝ごはん。

 それは、ご飯、卵焼き。ベーコン。サラダ。の朝ごはんだった。(ちょうど、叶が朝起きられていたら、それを作ろうと思っていた献立の朝ごはんだった)


 その(おそらく叶の分であろう)一人分の朝ごはんの前まで叶が移動をして、じっと、そのラップのかかった朝ごはんをぼんやりとした顔で見てると、後ろのほうでがちゃっという音がして、木のドアの開く音が聞こえた。

 その音を聞いて叶が後ろを向くと、ちょうど祈が裏口に続いているお風呂場のあるほうの木のドアを開けて、リビングの中に入ってくるところだった。

 祈はその両手に麦で編まれた大きな洗濯籠を持っていた。

 その洗濯籠の中には、どうやらお風呂場の中に干してあったはずの、(叶の制服を含む)昨日の洗濯物が入っているようだった。

「あ、叶くん。ようやく起きたんだ。もうお昼だよ。叶くん。いくら起こしても、全然起きないんだもん。気持ち良さそうな顔しちゃってさ。無理やり起こしてやろうかとも思ったんだけど、……でも、まあ、疲れていたみたいだし、……それに、昨日は無理を言って一緒に寝かせてもらったわけだしさ、(そう言ったとき、祈は、すごく恥ずかしそうな顔をした)まあ、しょうがないから、もう少し寝かせておいてあげようと思ってね。自分だけ先に起きたんだ。

 これでも朝は毎日結構、忙しくてさ、いろいろとやらなきゃいけないことがあるんだ。畑の野菜にお水をやったり、家の空気を入れ替えたり、簡単に家の中を掃除をしたり、こうして洗濯物を取り込んだり、それに誰かが作ってくれるって言った約束を寝坊して守ってくれなかった朝ごはんを自分で作ったりね。ちゃんと叶くんの分の朝ごはん、そこにとってあるよ」と元気いっぱいの祈は、まだ眠そうな顔をしている叶に言った。

 祈はその長くて美しい黒髪を今日はポニーテールの髪型にしていた。白いふわふわとした髪留めで、髪を一つにまとめている。

 服は大きめの真っ白のパーカーに、ピンク色の短めのハーフパンツという格好だった。

 足元にはいつもの白いふかふかのスリッパを履いている。

 祈はまだぼんやりとしている叶のところまでぱたぱたと足音を立ててやって来ると、(移動のとき、祈の長いポニーテールの髪が空中で左右に揺れていた。その猫の尻尾のような髪の動きを、叶の目はずっと追っていた)「朝ごはん、作ってくれうんじゃなかったの?」と、叶の顔を覗きこむようにして、にっこりと笑って祈は言う。

「……ごめん。起きれると思ったんだけど、寝過ごしちゃったみたいだ」とぼんやりとした顔のまま、祈を見て叶は言った。


 そんないつまでもきちんと目を覚まさない朝に弱い叶のことを見て、祈はあきれたと言った顔をして、はぁーと、一度、大きなため息をつくと、「ほら。叶くん。いつまでもぼんやりしていないで、まずは、顔を洗って、それから歯も磨いて。もし自分の歯ブラシがないのなら、歯ブラシは予備のものが洗面台のところにあるからそれを使ってね。それが終わったら、きちんと朝ごはんを食べて、一緒にコーヒーを飲んでさ。そのあとで、ゆっくりお話でもしようよ。私さ、叶くんに聞いてもらいたい話がいっぱいあるんだ」と、にっこりと笑って祈は言った。

 その笑顔は、(今日の雨上がりの天気のように)とても爽やかな笑顔だった。

 そんな祈の笑顔を見て、そうか。『雨は夜のうちに上がったんだ』。とそんなことをあらためて叶は思った。

「わかった。洗面台で顔を洗って、歯を磨いてくる」にっこりと笑って、叶は言う。

「うん。いってらっしゃい」祈はいう。

 それから叶は祈に歯ブラシと歯磨き粉を使わせてもらうことを一応、自分からも確認してから、そのあとで言われた通り、顔を洗ってから歯を磨くために洗面台のあるお風呂場のところまで、木のドアを開けて移動をした。

 お風呂場はとても綺麗に片付いていた。

(叶が初めて見たときと同じだった)


 叶は、洗面台のしたの扉を開けて、その中から新しい青色の歯ブラシを取り出した。

 それから、祈の使っている歯磨き粉を使わせてもらって、丁寧に鏡の前で歯を磨いた。

(昨日は、夜寝る前に歯を磨くことを忘れていた)

 歯を磨いたあとで、口の中をゆすいで、それから歯ブラシを洗面台の物置の場所においてから、冷たい水で顔を洗った。

 洗面台に置いてある洗いたてのふわふわの白いタオルで顔を拭くと、眠気はすっきりと吹き飛んだ。鏡の中に写っている叶の顔は、とてもさっぱりとした顔をしていた。

「叶くん、入るよ」そんな祈の声がした。

 ドアを開けて、お風呂場に入っていた祈は、その両手に大きな麦で編んだ洗濯籠を持っていた。「これ、着替え。ジャージから、着替えちゃんでしょ? ここに置いておくね」と祈りは言って、叶の制服が入っている(と、思われる)大きな麦で編んだ洗濯籠を空いている場所においた。

「ありがとう」

 と、ようやくすっきりとした、目が覚めた顔をして叶は言った。

「男の人の洗濯物洗うの。初めてだから、緊張しちゃった。あ、でも、あんまりじろじろとは見てないから、安心してね」と祈は最後に余計なことを言ってから、ふふっと笑って、木のドアを閉めた。(そんなことを祈に言われて、叶は少し、恥ずかくして顔を赤く染めた)

 それから叶は、(気を取り直して)自分の制服に着替えをした。制服の中には昨日の叶の下着と靴下も挟んであった。叶は下着まで祈に洗濯をしてもらって、申し訳ないと思いながら、下着を新しいものに変えて、靴下をはいた。

 さっきまで着ていた青色のジャージと下着は、祈が置いていった大きな麦の洗濯籠の中に入れた。

 その際に叶はジャージのズボンのポケットから、赤い紐を取り出して、それを制服のズボンのポケットの中に、しっかりと、なくさないように大切にしまった。

 それから叶は、やり残したことがないことを確認してから、木のドアを開けてリビングに戻った。

 

 リビングに戻ると、淹れたてのコーヒーのいい匂いがした。

 どうやら祈がコーヒーを二人分、叶が朝の準備をしている間に、淹れてくれていたようだった。

 それだけではなくて、リビングの上に置いてある朝ごはんからも、いい匂いが漂っている。

 ラップも取られていて、朝ごはんからは白い湯気が立っていた。(祈が電子レンジで温めてくれていたようだった)

 叶は朝ごはんを用意してくれた祈に「ありがとう」を言った。

 すると祈は、頬を赤くして「どういたしまして」とにっこりと笑って叶に言った。キッチンに立っている祈は、その服の上に今日は白いエプロンをつけていた。(大きなポケットが一つ、おかなのところにある、まるでカンガルーみたいなエプロンだった)

 それから二人はリビングの席に座った。(昨日と同じ場所だ)


 叶の前には朝ごはんと淹れたてのコーヒー。

 祈の前には淹れたてのコーヒーだけが置いてあった。


「じゃあ、いただきます」と叶は言った。

「どうぞ。遠慮なく」とにっこりと笑って祈は言った。

 それから叶は一人で、祈の作ってくれた、遅めの朝ごはん(もう、お昼ご飯かな?)を食べ始めた。

「どう? 美味しい?」と祈は言った。

 祈は両肘をテーブルの上について、両手で顔を支えるようにして、じっと叶のことを見ている。料理の感想が聞きたくてうずうずしているといった顔をしている。

「うん。すごくおいしい」と卵焼きを食べてから、叶は言った。

(それは嘘やお世辞やはなかった。祈の作ってくれた朝ごはんは、どれも本当に美味しかった)

「よかったー。叶くんにそう言ってもらえて、すごくほっとした」と本当に嬉しそうな顔をして、にっこりと笑って、祈は言った。

 それから祈は手を出して、そのまま叶の卵焼きを一つ摘んでそのまま自分の口の中に運んだ。

 祈はそれを美味しそうに食べた。

「うん。我ながら、すごくおいしい!」と口を大きくもぐもぐさせながら、にっこりと笑って、祈は言った。


「叶くん。青色のジャージ姿も似合っていたけど、やっぱりそのブレザーの制服が一番似合うね。かっこいいよ。すごく」と祈は言った。

「どうも、ありがとう。祈も、ポニーテールの髪型。よく似合ってるよ」と叶は言った。

「それは、それは。お褒めいただいて、どうもありがとうございます」とにっこりと笑って祈は言った。(今日は動物の耳のようなタオルは頭についていなかったけど、もし、そのタオルが巻いてあったら、その動物の耳がぴくぴくと動いたんじゃないかと思うくらい、祈は嬉しそうな顔をしていた)

「祈はご飯食べないの? もう、お昼みたいだけど」とかりかりに焼いてあるベーコンを食べながら叶は言った。

(ベーコンは厚切りで、とても美味しかった)

「うん。私は大丈夫。そんなにお腹減ってないから。叶くんと一緒に晩御飯を食べるまで我慢する」と卵焼きをもう一つ、指でつまみながら祈は言った。

 叶が朝ごはんを食べ終わるころになると、二人の会話は途切れ途切れになっていた。(叶はそれほどおしゃべりなほうではないし、祈も、そんなにおしゃべりな性格ではないようだった。話したいことはいっぱいあるとのことだったけど、どうやら、その話は叶が朝ごはんを食べ終わったあとで、落ち着いてから、ゆっくりとするつもりらしい)

 すると、なんだか祈は一人そわそわとし始めた。

 ……なんだろう? と叶は思う。

 祈はきょろきょろといろんなところを見て、それから叶を見て、叶と目があうと、その顔を、すぐに真っ赤に染めた。

 そして、そのままじっと下を向いてしまった。

(結局、叶はその祈のそわそわした理由を理解できなかったのだけど、このとき、祈りは昨日の夜のことを思い出していた。ずっと、なんでもないというふりをしていたのだけど、祈りは朝、叶うのベットで目覚めたときに、本当に死んでしまうかと思うくらい恥ずかしい思いをした。なんで私は昨日、あんなことを言ってしまったのだろう? なんで私は、昨日、叶くんの前であんなに泣いてしまったのだろう? と、すっごく、すっごく後悔した。……まあ、結果的には、良かったとは思っているのだけど……)


「ごちそうさま」

「お粗末様でした」

 そう言ってあとで、二人で一緒に朝ごはんの後片付けをして、二人はコーヒーをもう一杯ずつ、リビングの席に戻ってから、飲んだ。

 その間も、祈はあんまり話をしなかった。

「祈は僕に聞いてもらいたい、いろんな話があるんじゃなかったの?」と叶は言った。(やっぱり、こういう話は、自分からは言いづらいのかと思ったからだ)

「うん。ある。聞いて欲しい話がいっぱいある」と祈は言った。

「僕で良かったら、いくらでも聞くよ」叶は言う。

「ありがとう。でも、その前に一緒に行って欲しいところがあるんだ。……いいかな?」と祈は言う。

「一緒に行って欲しいところ? それって、どこ?」

 不思議そうな顔をして、叶は言う。

 それから祈は「……黙って私に、ついてきてくれる?」と叶に言った。

 叶は「いいよ。どこにでもついていくよ」と優しい声で、祈に言った。

 すると祈は「ありがとう。叶くん」と静かな声で言ってから、「じゃあ、私についてきて!」とにっこりと笑いながら、元気よく叶に言って、コーヒーを飲み終わって、もう空っぽになったカップを持って、席から立ち上がった。

「うん。わかった」と叶は言って、叶は残っていたコーヒーを急いで飲み干して、空っぽになったカップを持って、祈のあとについて行った。(もちろん、叶の歩みに迷いはなかった)


 祈は、裏口から自分の家を出る。

 叶のぼろぼろの高校の革靴は、いつの間にか祈の白いスニーカーと一緒に玄関ではなくて、裏口に置いてあった。それに、靴の汚れが綺麗になっている。どうやら祈が自分の靴と一緒に叶の靴も、今朝のうちに綺麗に洗ってくれていたようだった。そのことについて、叶はもちろん、ありがとう、と祈にお礼を言った。(どういたしまして、と祈は言った)

 叶も、そんな祈についていって、祈の家の外に出た。

 外に出ると、世界は本当に美しく、きらきらとあらゆるものが、夏の八月の太陽のしたで、綺麗に輝いていた。

 叶は青色の空を見て、眩しい太陽に目を細めてから、優しい風の吹く、緑色の草原を見渡した。

 その美しい風景の先には深い緑色の森が見える。(叶が目を覚ました森だ)

 叶は家の裏にある祈りの野菜畑に目をやった。

 一番目立つのはやっぱりスイカだった。

 その野菜畑の野菜たちは、すくすくと元気いっぱいに育っている。

 祈が朝に水をやったせいなのか、水滴のようなものが、緑色の葉っぱの上には残っていた。

 今朝は寝過ごしてしまったのだけど、今度はその野菜畑の水やりを自分もやってみたいと叶は思った。

「こっちだよ」

 と祈は言った。

「うん。今いくよ」

 そう言って、叶はその場所を移動する。

 祈は家の前にある土色の小道まで移動をした。

 叶もその後ろについて移動をする。

 二人は、今日は、移動の間にずっと手をつないだりはしなかった。祈はその両手を腰の後ろあたりで組んでいたし、叶から手をつなごうよ、とは言わなかった。(恥ずかしかったからだ)

 祈はそのまま、森とは反対側にずっと続いているほうの小道の上を歩き始めた。

 そのとき、祈は一度、家の前にある赤いポストの蓋を開けて、その中身を確認した。(小さな赤い家のような形をしたポストだった)

「手紙がくるの?」

 叶は聞いた。

「ううん。あんまりこない。でも、『そろそろ手紙がくるころ』かなって、ちょっと思ってさ」と叶を見て、祈は言った。

 その言葉の意味が、叶にはよく理解できなかった。

 空を見上げると、青色の空の中を一羽の白い鳥が飛んでいた。その鳥を見て、叶うは、あるいはこの森の奥の家に手紙を運んでくるのは、白い伝書鳩なのかもしれない、とそんなことを思った。

 二人はそのまま、祈を先頭にして、叶がその後ろについていくようにして、土色の小道の上を歩いて進んだ。 

 その間、叶はじっと周囲の美しい風景を見ながら歩いていた。太陽が、雲が、風が、叶の周囲で、すごくゆっくりと動いている。とても穏やかな時間が好きていく。それは平凡で、穏やかで、静かで、難しいことがなにもおこらない、とても幸せな時間だった。

 そんな時間を、ずっと求めていたような気がした。

 ふと、そんな叶の耳に、……なんども、打ち寄せる、波の弾ける音が聞こえる。

 波の弾ける音?

 どうしてそんな音が聞こえたのかは、わからない。

 でも、その音はやけに鮮明に、はっきりとした音で、叶の耳に確かに聞こえた。

 叶が前を見ると、いつの間にか祈がこちらを向いて叶うのことをじっと見ていた。

 叶は祈と目が合うと、大丈夫だよ。……僕は大丈夫。と祈に言うようにして、にっこりと幸せそうな顔で笑った。


 祈が歩いて行った土色の小道の先には、小高い丘があった。

 周囲に広がる薄緑色の草原の風景を一望できる、とても景色の良い場所だ。(草原の周囲には深い森と、さらにその先には、うっすらと見える山々の姿があった)

 そこには大きな木が一本だけ立っていた。

 とても立派な緑色の葉を茂らせている大きな木だ。

 その木の木陰には、白いベンチがあった。一目で手作りだとわかる、白いペンキで塗られた木で作られたベンチだ。

 丘の上には、静かな風が吹いていた。

 その風が、大きな木の葉を揺らして、小さな音を立てていた。

(こんなところにある、ベンチに座ったら、すぐに居眠りをしてしまいそうになるような、そんな気持ちの良い場所だった)

 土色の道はここでも二股に分かれていて、もう一本の道は、さらにずっと先まで伸びているようだったけど、その先がどこまで続いているのかまでは、わからなかった。(それがわからないくらい、ずっと、ずっと視界の果てまでその道は続いていた)

 その丘の上には小さなお墓があった。

 その小さな石の置かれた土の盛られた場所の前に祈は静かに座り込んだ。

 叶はそんな祈の隣に立っていた。


「このお墓ね。昔、おじさんの家で私が飼っていた猫ちゃんのお墓なんだ。『名前は命(みこと)』って言うの。すごく可愛い猫だった。すっごくわがままだったけど」

 とくすっと笑って祈は言った。

「じゃあ、きっと飼い主に似ていたんだね。その猫は」叶は言う。

 するとむっとした顔をして、祈は叶のことを見た。

 叶はしまった、失言だったかな? と少し慌てた。

 でも、そのあとで祈は、くすっとまた笑って、「そうかもしれない。確かに『私たちは似た者同士だった』」と言った。

「この場所におじさんが猫ちゃんを埋めてくれたんだ。ここが一番、この辺りの風景をよく見渡せる場所だからって、おじさんはそう言ってた。猫ちゃんが寿命で死んでしまったときも、猫ちゃんをこの場所に埋めるときも、私はずっと泣いていた」

 遠くの景色を見て、祈は言った。

「優しいおじさんだね」叶は言う。

「うん。すごく優しいおじさんだった。私にも、奥さんにも、猫ちゃんにも、みんなに平等に優しくしてくれた」 

 そう言ってから祈は猫のお墓の前で目を閉じて、そっとその手を合わせた。叶も同じように、祈の横にしゃがみこんで、目を閉じて、両手を合わせて、猫のお墓にお参りをした。

 祈は少しして、目を開けると叶に、「ありがとう。猫ちゃんもきっと、天国ですごく喜んでいると思う」と言って笑ってから、その場にゆっくりと立ち上がった。

「どういたしまして」

 と叶は言って、祈の横に立ち上がった。

 二人のいる、二人だけの世界の上に、少し強い風が吹いた。

 ……その風が、祈のポニーテールの髪を大きく揺らした。


「そこのベンチに座りましょう」叶を見て、祈は言った。

「わかった。そうしよう」と夏の八月の風の中で、叶は言った。


 家に帰ってくると、二人はまず、お風呂場まで移動をして、そこの洗面台でしっかりと手を洗ってから、もう一度、リビングにまで戻ってきた。

 ……ずっと裏口から出入りをしていたのだけど、このとき、叶は初めて、家の正面にある玄関の白いドアから、祈の家の中に入った。(スポーツバックの掃除のときに、出入りは一度だけしたけど……)

 そのせいだろうか? このとき、初めて、叶は正式に、祈の家に自分が受け入れてもらえたのだと思った。(この家に、自分がいてもいいような気がした。それが、すごく嬉しかった)

 そこで古いレコードをかけて、その古い音楽を聞きながら、温かいコーヒーを淹れて、それを二人でテーブルの椅子に腰を下ろして、いろんな話をしながらゆっくりと飲んだ。

 白いベンチのところでも、帰りの土色の道の上でも、二人は(あるいは、祈は)あまり会話をしなかった。

 でも、レコードをかけて、(レコードは今日も、祈が選んだ。とても澄んだ声をしている、女性の歌う、ゆったりとした曲調の夏らしい音楽だった。昨日はわからなかったのだけど、どうやら祈は、ジャケットに描かれている絵でレコードを選んでいるようだった)コーヒーを淹れて、リビングにあるテーブルの椅子に座ってからは、祈はまるで堰を切ったかのように、たくさんのことを話し始めた。

 祈が話してくれたことは、自分がこの森にやってきて、この一人暮らしの家の中で、どんな暮らしてをしているのか、ということがほとんどだった。

 自分の家族のことや、(どうやら、祈にはお姉さんが一人、いるようだった)おじさんやおじさんの奥さんのこと、この家で飼っていた猫の命のことなどは、少し話に出てきたのだけど、この森にやってくる前の自分の話は、祈はまったく話さなかった。(意識的に避けている。あるいは、黙っているようだった)叶は正直にいうと、(この森にやってくる前の祈の話が聞けるのかも? と)少し期待もしていたし、すごく興味もあったのだけど、もちろん、それを自分から積極的に祈に聞いたりはしなかった。祈が話したくなったら話してくれればいいし、話したくないのなら、永遠に黙ったままでいても、全然構わないと思った。

「最初はずっと失敗ばかりだったな。自分でも笑っちゃうくらいに、なんにもできなかった。私、本当の本当に、一人じゃなんにもできない子供なんだなって、そう思った」

 とすごく楽しそうな顔をして、自分の失敗話を祈は言った。

「料理も、掃除も、洗濯も、家の手入れも、ものの保管や保存の仕方も、畑で野菜を育てることも、なにもかもが初めてで、失敗ばかりしていた。一人で泣いちゃうときもあったんだ。私、なにやってるんだろうって、そう思ってね。……そんなに前の出来事じゃないはずなのに、なんだか随分と昔の話をしているような気がする。本当に懐かしいな」と、本当に遠い目をして、祈は言った。

「今の祈からは想像できないね」

 温かいコーヒーを飲みながら、叶は言った。

「今も失敗はよくするよ。間違いもたくさんある。でも、生活が楽しいと思えるし、……なによりも、それらをきちんと学びたい。自分でできるようになりたいって、思うんだ。それが一番嬉しいかもしれない。昔の私は、そんなこと、ちっとも思わなかったから。全部、お父さんとお母さんにやってもらっていた。それが当たり前だと思っていたの。ね、本当に子供でしょ?」

 と、湯気の出ているコーヒーにふーふーと息をかけながら、猫舌の祈はそういった。

「そんなことないよ。みんな、そんなものだよ。僕は十七歳で、祈は十八歳。子供なんだから、子供のままでいいんだと思う。もちろん、いつかは僕たちは大人になるんだけど、そんなにすぐには大人になれないし、たとえば、成人したら、大人になるってわけじゃない。一人で生きていける人なんてきっとどこにもいないよ。祈りはすごくよくやってると思うよ。本当に頑張っていると思う」

 叶うは言う。

「本当にそう思う?」いつの間にか、とても真剣な目をして、叶の話を聞いていた祈は言う。

「本当にそう思うよ。この家で一人で生活をしている祈を見ていると、僕も、もっと頑張らなくちゃいけないって、すごく思う」叶は言う。

 祈は少しの間、無言になった。

 それから、祈は「……嬉しいな。叶くんにそういってもらえて、本当に私、嬉しい」と叶を見て、にっこりと笑って祈は言った。

 それから祈は、コーヒーをひと口だけ、ゆっくりと飲んだ。


 祈は自分のこの森やこの家での生活の話をしたあとに、自分の趣味の遊びの話を叶にした。

 その話によると、『祈の趣味はランニングと森の中を探検すること』、だということだった。

 祈は暇があれば、この辺りの永遠に広がっている草原の中を、どこにも歩くための道のない薄緑色の大地の上を、真っ白な運動靴をはいて、(髪を今のようにポニーテールにして)気の済むまで走っているのだそうだ。

 今朝も雨上がりの草原の中を、少しだけランニングをしたらしい。

 叶は、薄緑色の草原の上を走っている祈の姿を想像してみた。

 その姿はとても絵になるものだった。

 背が高くて、足の長い祈が、長い黒髪をポニーテールにして、草原の上に吹く風の中をまっすぐに前を見て、夏の眩しい太陽の光に照らされながら、……全身に汗をかきながら、懸命に大地の上を走っている。

 それは本当に美しい光景だった。

「走っていると、いろんなことを考えなくていいから、気持ちがいいんだ。ただ、走ることだけを考えていればいい。だから、すごく気持ちが楽になるの」と祈は言った。


 祈のもう一つの趣味の遊びは森の中の探検だった。

 祈は森の中を昨日のように、(森の中で迷子にならない範囲で)興味本位で探検をしているのだと叶に言った。

 ちょっとずつ、探検の範囲を広げて、まるで地図を描くように森の中を歩いて、探検する。

 それがすごく面白いのだと、祈は言った。

 その祈の話を聞いて、叶の思っいた疑問が一つ、解けた。

 それは、どうして祈が、僕と出会ったとき、あんなに深い森の中にいたのか? という疑問だった。

 祈は、森の探検という趣味の遊びの最中だったのだ。

 その趣味の遊びの途中で、祈は森の中で倒れていた叶を見つけた。

 祈は最初、倒れている叶を見たときに『うわ、本物の死体を見つけちゃった』と思ってすごくびっくりしたそうだ。

 それから、今度は、いや、あれは死体じゃなくて、本物の幽霊かもしれないと祈は思った。(そのことは、初めて出会ったときに、言っていた)

 こんなところに人間(あるいは、死体)がいるわけないと思い直して、幽霊だと思ったのだそうだ。

 でも、実際にはそれは生きている人間だった。(つまり、叶のことだ)

 森の木の陰から、どきどきしながら様子を伺っていると、叶はむっくりと体を起こして、それからしばらくして、自分の手のひらを見つめるようにして、なにかを考え始めた。

 叶は、思ったよりも平気そうに見えたのだそうだ。

 すると、だんだんと腹が立ってきた。

 驚かさせた分、驚かせてやろうと思ったのだ。

 それで、祈は、そこにいる男の子に、気づかれないように近づいて、思いっきり驚かせてやることにした。

 そして、実際に祈はそれを行動に移して、二人は森の中で出会ったのだった。


「そんなに前から、僕のことを森の木の陰に隠れて見てたんだ。人が悪いな」と叶は言った。

「だって、しょうがないでしょ? こんな辺鄙なところに生きている人がくるわけないと思ってたんだから」と頬を膨らませて祈は言った。

「そういえばさ。あれ、なにしてたの? 叶くん。自分の手そうでも占ってたの?」と祈は言った。

「ああ、あれは……」と言いかけて、叶は、そうだ。祈にこの赤い紐を一度、見てもらおう、と思った。

 もしかしたら、祈は、この赤い紐のことを知っているかもしれない、と思った。

 叶の失われた記憶の中にぼんやりと存在している、『祈によく似ている女の子』。

 その正体を叶は知りたいと思っていた。

 その祈によく似ている女の子は、この(僕がしっかりと、無くさないようにぎゅっと握りしめていた)赤い紐ととても強い関係があるような気がした。

 叶は、この赤い紐は、(お守りは)きっと、『僕がその女の子からもらったもの』なのではないだろうか? と今、そんなことを予想をしていた。(ずっと考えていた結果、きっとそうに違いない、と叶は思うようになった。その考えは、とても正しいように思えた)

 なら、その女の子によく似ている祈なら、なにかを知っているかもしれないと思った。

 飛躍した考えかもしれないけれど、ただの他人の空似とはどうしても思えない。

 あの『女の子と、祈には、絶対になにか深いつながり、あるいは関係がある』と叶は思っていた。

 叶は制服のポケットに手を入れて、そこにある赤い紐をぎゅっと握ると、それをポケットの中から取り出して、手のひらを握りしめたまま、テーブルの上に出して、祈のほうに差し出した。

 そんな叶の突然の行動を見て、「なになに? 手品? その手を開けると、中に綺麗な花でも入っているの? それとも、もしかして私に永遠の愛を告白するための『結婚指輪』でも入っているとか?」とわくわくした顔をして、叶のぎゅっと握られている手を見ながら、祈は言った。

(なんだか祈は本当に楽しそうだった)


 叶がそっとその手のひらを開けると、そこには不器用に輪っかの形に結ばれている、(結び目の二つある)赤い紐があった。

 祈は、その叶の手の中から出てきた赤い紐をじっと見ている。

「これ、なんだかわかる?」

「これ、なに?」

 二人がその言葉を言ったのは、ほぼ同時のことだった。(そしてその答えで、祈がこの赤い紐に見覚えがないことがわかってしまった。その事実が、叶は少し残念だった)

 二人はお互いの顔をじっと見つめあった。


「この赤い紐に見覚えはない?」と叶は言った。

「ううん。ないよ。叶くん。もしかして、森の中でこの赤い輪っかの紐をずっと見てたの?」祈は言った。

 それから叶は、自分がこの赤い紐をぎゅっと右手の手のひらの中に、なくさないように大切に握っていたことを祈に話した。

「そうなんだ。じゃあ、この赤い紐。叶くんのすごく大切なものなんだね」

 と、叶の手のひらの上にある赤い紐を見ながら、祈は言った。

「これ、いったいなんだろう? 髪留めかな? でも、この赤い紐は叶くんの持ち物だし、手首に巻いたりするアクセサリー? あとは、……うーん、なんだろう?」と祈は眉を八の字にして、考えている。

「僕は、この赤い紐はお守りなんじゃないかって思うんだ」叶は言う。

「お守り? この赤い紐が?」

 叶を見て、祈は言う。

「うん。よく見ると、シンプルな作りだけど、すごく丁寧に赤い糸が編み込んであるでしょ? 手編みなんじゃないかって思うんだ。だとしたら、すごく値段の高いものになるだろうし、そんなに高価な髪留めやアクセサリーは僕は買えないと思うから、じゃあ、もしかして、お守りかなって。そう思ったんだ」叶は言う。

「なるほどねー。そう言われてみると、お守りに見えなくもないかな?」

 うんうんと感心したようにうなずきながら、祈は言った。

「これ、私が触ってもいい?」祈は言う。

「もちろん。いいよ」と叶は言って、その赤い紐をそっと、いつの間にか、両手を受け皿のようにしている、祈の手のひらの上に、その赤い紐を落とすようにして、慎重に移動させた。

「どうもありがとう」とにっこりと笑って祈は言った。

 それから祈はその赤い紐を指でつまんで、じっくりと観察をした。

「……うん。すごく綺麗な紐だね。確かに髪留めや、アクセサリーっていうよりは、お守りのほうが正解かも」と祈は言った。

 それから、「でも、それにしてもなんだかすごくぶきっちょに結んであるね。この赤い紐。せっかくすごく綺麗なのにすごくもったいないな。それになぜか、結び目が二つもあるし」と口をへの字にして、祈は言う。

「言い忘れてたけど、その赤い紐は、僕の手のひらの中で、『二つに切れてしまっていたんだ』。ちょうど紐の真ん中のあたりから、千切れるようにして、切れてしまっていたんだ」と叶は言った。

「二つに? この丈夫そうな紐が?」と驚いた顔をして祈は言った。

「うん。自然には切れたりはしないと思うんだけど、実際に切れてしまっていた。だから結び目が二つあるんだ。切れてしまっているところと、本来結ぶべきはずのところの二つの結び目がある」と叶は言う。

「……そうなんだ。不思議なこともあるもんだね」とその赤い輪っかの紐をじっと見ながら祈は言った。


 それから少しして、「ねえ、この赤い紐。『私が元の一本の紐に直して』あげようか?」と祈は叶を見て、そう言った。

 その言葉を聞いて、叶は本当に驚いた。

「え? そんなことできるの?」と驚いた表情のまま、叶は言った。

「もちろん。できるよ。まったく元通りってわけには行かないけど、一本の紐に結び直すことはできる。大丈夫。この祈お姉ちゃんに任せなさい」

 と大きく胸を貼って、自信満々の顔で祈は言った。(そんな祈を見て、急に叶はなんだかすごく不安な気持ちになった)


 それから祈はキッチンの奥にある階段を降りて、その地下にある倉庫から小さな白い箱を持ってきた。

 祈はその白い箱をリビングのテーブルの上におくと、叶の見ている前でそっとその箱の蓋を開けた。

 すると、それは裁縫箱だった。

 その白い箱の中には、幾つかの針と、幾つかの種類の色とりどりの繭のような糸が入っていた。その中から祈は銀色の針と赤い糸を選んで白い裁縫箱の中から取り出した。

「祈。本当に裁縫できるの?」と驚いた顔をして叶は言った。

「失礼なこと言うね。裁縫ぐらいできるよ。すっごく練習したんだから」と祈は言った。

「じゃあ、叶くん。赤い紐。貸して。直してあげるから」とにっこりと笑って祈は言った。

「わかった。……じゃあ、お願いします」と叶は言って、赤い紐を祈に手渡した。

「ふふ。任せておいてよ」と得意げな顔で祈は言って、赤い紐の修復作業を開始した。

 叶は椅子を祈りの横まで移動させて、横から祈りの作業を覗き込むようにして観察した。その作業に入る前に、レコードが一度、終わったので、曲を変えた。「今、手が離せないから、叶くん。好きな曲かけていいよ」と祈に言われて、叶はレコードを選曲して、新しい音楽をかけた。

 その音楽は、『愛の歌』だったのだけど、外国の女性が歌う外国の言葉の曲なので、その曲の内容に、祈はずっと気づかないままのようだった。「これ、いい曲だね。すごくいい」と嬉しそうな声で感想を言っただけだった。

 叶の見ている前で、その言葉通りに祈はてきぱきとした迷いのない動きで、一度、結び目を二つともほどいて、途中で切れて、二つになってしまった赤い紐を、真剣な目をしながら、赤い紐を赤い糸で縫っていった。

「すごい。本当に上手だね。祈」と感心した様子で叶はいった。

「ありがとう。そう言ってもらえると、練習した甲斐があったよ。元は洋服のボタン付けとか、裾の直しとかさ、将来的には、洋服とか自分で作れるようになったらいいなって、思いながら、そういうことばっかりやっていたんだけど、……まさか急に、『こんなに重要な仕事』が突然、私に回ってくるなんて、人生なにが役に立つかわかんないね」とちくちくと赤い糸を紡ぐ作業をしながら、祈は言った。

 叶はそんな祈の作業をずっと隣で見ていたのだけど、途中で一度、コーヒーを二人分、淹れ直しに行って、それからまた、じっと祈りの横に座って、祈りの作業を見続けた。

 それは、案外、すごく楽しい時間だった。

 祈は真剣で、最初こそ、少し話をしていたのだけど、途中からまったくしゃべらなくなった。

 叶はそんな祈の両手の動きと、二つに切れて離れ離れになってしまった赤い紐が、祈りの手の中で、一本の紐に戻っていく様子と、それからときどき、祈の綺麗な形をしている白い耳の出ている綺麗な横顔を見たりして、コーヒーを飲みながら時間を過ごしていた。

 窓から差し込む光が、だんだんと傾いて言った。

 時計はずっと12の数字をさしたまま止まっているから、どれくらいの時間が経過したのかはわからないけれど、二人の時間は、とてもゆっくりと流れていた。(あるいは、案外時間はあっという間に過ぎていたのかもしれない。幸せな時間は、いつも、あっという間に過ぎ去って行ってしまうものだから……)

 

「……できた」

 と、一気に赤い糸を紡ぐ作業を終えた祈りは、その元通りに一本の紐に戻った赤い紐を見て、嬉しそうな顔で、そう言った。

「できたよ、叶くん。見てみて!! ほら、思ったよりも上手にできた!」

 と言って、祈が横を見ると、そこにはテーブルの上に顔を横にして、ぐっすりと眠りについている村田叶の姿があった。

「叶くん。寝ちゃったの?」と叶の寝顔を見て、呆れた顔をして祈は言った。(つんつんと指で頬をさしても叶はまったく起きなかった)

「あんなにずっと眠っていたのに、また寝ちゃうなんて……。もう、本当に子供なんだね。叶くんはさ」

 としょうがないな。というような顔をして、祈は言った。

 それから祈は、自分のそこで、叶の眠っている顔を見ながら、少しの間、仮眠をとることにした。

 ……起きて、切れてしまった赤い紐が綺麗に直っているの見たら、叶くん。きっとすごくびっくりするだろうな。……叶くん。すごく喜んでくれるかな? とそんなことを思いながら、祈はテーブルの上で、眠っている叶の横で、叶の寝顔を見ながら、ゆっくりと眠りについた。

 そして、次に祈が目をさますと、周囲は真っ暗な夜になっていた。祈は寝過ごしてしまったと思って、びっくりした。(……時間は、それは、本当にあっとう間に過ぎ去っていった)


 真っ暗なリビングの中で、ふと横を見ると、そこに村田叶の姿はなかった。

「……叶くん?」と祈は言った。

 ……先に起きて、どこかにいったのかな? トイレかな? と真っ暗なリビングの椅子の上で、祈は思った。

 祈は椅子から立ち上がると、ぱたぱたという足音を立てながら、リビングの中を移動して、まずリビングとキッチンの電気をつけた。

 世界は、すぐに明るくなった。

 でも、その明るい世界のどこにも、村田叶の姿はなかった。

 ……なんだか、急に祈はとても『不安な気持ち』になった。

「叶くん。いる?」

 二階に続く階段のある木のドアを開けて、その先にあるトイレのドアをノックしながら、祈は言う。でも、返事はない。ドアを開けてみても、トイレの中には誰の姿もなかった。

 祈りは木のドアを開けて、リビングに戻ると、今度はもう一つの裏口に続いている木のドアを開けて、お風呂場のほうに行ってみた。

 でも、そこにも、叶の姿はなかった。

 ……どくん、と祈の心臓が不安で一度、大きく高鳴った。

 祈は少し早歩きをして、木のドアを開けて、階段を上がって二階に行くと、そこでとんとんとノックをしてから、「叶うくん。ここにいるの?」となんだか、今にも泣き出しそうな小さな女の子のような声でそう言った。

 でも、部屋の中から返事はなかった。

「叶くん。入るよ」

 そう言ってから、祈は叶の部屋のドアを開けた。

 ……すると、そこは、『もぬけのから』だった。

 叶の姿は部屋の中になかった。

 それだけではなくて、部屋の中には、村田叶という少年がこの部屋にいた、ということを証明するような痕跡は、本当にどこにも、部屋のいたるところを見ても、見つけることはできなかった。

 まるで初めから、『村田叶という少年がこの部屋の中にいなかったかのように』、部屋の中は祈が掃除をして、叶がこの部屋の中でぐっすりと安心して眠れるように毛布などを用意した状態のままで、まるで昨日の午後にまで時間が巻き戻ったみたいに、止まっていた。(元の、あの優しい親戚のおじさんの部屋に戻っていた)

 叶の青色のスポーツバックもなくなっていた。

 祈は叶の部屋のドアを閉めると、廊下を走り出して、ばたばたと階段を駆け下りて、急いで一階に戻った。


 がちゃっ!! と少し乱暴に木のドアを開けてリビングに戻ってきた祈は玄関にあるはずの叶うの靴を確認した。

 ……でも、そこに叶のはいている高校の革靴はなかった。

 祈はそのまま、すぐに自分の白いスニーカーをはいて、叶を探すために、家の外に飛び出そうとした。でも、白いスニーカーを両方とも履いたところで、祈は、はっと、あの赤い紐のことを思い出した。

 ……叶くんの大切にしている、大事な持ち物である赤い紐。私が赤い糸で縫って元通りにした、あの赤い紐は、どうしたんだっけ?

 祈は自分の両手を見る。

 眠りから覚めたとき、祈は赤い紐を持っていかなった。

 ……じゃあ、リビングのテーブルの上に置いてあるのかな? 真っ暗だったので、記憶にはないのだけど、叶くんが持ち出していないのなら、そうとしか考えられなかった。

 祈は白いスニーカーを脱いで、リビングのテーブルの前まで戻った。

 ……でも、そこに、なぜか赤い紐はなかった。

 赤い紐は消えてしまった。

 ……突然、いなくなってしまった村田叶と一緒に、この広い世界のどこかに消えてなくなってしまったのだった。

 祈はそこで、ずっと我慢をしていた涙を、その白い頬の上に一粒だけ溢れるように、……流した。

 そのまま、祈は、なんだか急に全身の力が抜けてしまって、その場から一歩も動くことができなくなって、その場所に疼くなって、小さくなって、一人で、(いつものように)泣き始めてしまった。

 ……でも、いくら泣いても、泣きわめいても、「どうしたの? 大丈夫?」という、あの優しい叶くんの声は、……いつも叶くんが差し出してくれる、あの優しい大きな手は、いつまでたっても、今度は祈を救い出しに来てくれることはなかった。


 一人ぼっちになった祈はリビングのところで、ただひたすらに泣き続けた。この世界の中に、一人ぼっちになってしまった、絶対の孤独の中にいる、……本当の十歳の女の子みたいに、ずっと、ずっとしゃがみこんで、小さくなって、泣いていた。

 もうリビングには、古いレコードの音楽は流れてはいなかった。

 美味しい料理の匂いや、淹れたてのコーヒーのいい香りもしてこなかった。

 祈の近くには、リビングのテーブルがあって、そこには、もう誰も座っていない、並んで置いてある二つの背もたれのある椅子があるだけだった。(私と叶くんがさっきまで、……そして、おじさんとおばさんが、二人がまだ生きているころに、ずっと仲良くずっと座っていた椅子だ)

 もう誰も座っていない。空っぽになってしまった二つの椅子。

 ついさっきまで、……ぐっすりとした安心した眠りにつく前まで、そこで、叶と一緒に、幸せな時間を過ごしていたことが信じられなかった。

 祈はいなくなった叶のことを思い出して、また大粒の涙を流し始めた。

 祈は、このままもう自分はなにもすることができなくなると思った。

 動くことも、言葉をしゃべることも、思考することも、……もしかしたら、生きることすらできなくなるかもしれないと思った。

 手がずっと震えていた。足はしびれていて、いうことを聞いてくれなかった。……胸の奥が、本当に痛かった。

 ……どうしよう? 叶くん。私、もう、なんにもできないよ。……悲しくて、動けないの。ちっとも、体が、いうことを聞いてくれないんだよ。ねえ、叶くん。……私、これから、どうしたら良いの? この場所で一人で、私はこれからどうすればいいの?

 ……ねえ、お願い。なにか言って。叶くん。お願いだから、……私の前から消えないで。

 ……もう誰も、私の前からいなくならないで。

 祈は泣き続けている。

 ずっと、嗚咽を漏らしながら、号泣している。

 祈は悲しくて仕方がなかった。なんだか頭が割れそうだった。心がこのまばらばらになってしまうのではないかと思った。

 このまま自分の心が壊れてしまうのだと思った。

 ……でも、それでも、しばらくして、祈は涙を手で乱暴に拭きながら、ふらふらとした足取りで、ゆっくりと、でも確かに、リビングのテーブルに捕まるようにして、立ち上がった。

 泣き虫の私に、一人じゃなにもできないはずの子供の私に、そんな奇跡みたいなことができた理由。

 それは、……叶くんを探すためだった。

 叶くんを助けるためだった。 

 あの『深い森の中』に。

(あの、叶くんと初めて出会った、……『深い森』だ)

 叶くんが帰って行ってしまった、あの森の中に、もう一度、叶くんを迎えにいくためだった。

 祈は叶のことを思う。

 村田叶のことを、本当に強く思う。

 祈の中にいる、叶は、ずっと笑っている。

 その笑顔を見ていると、祈はなんだか急に勇気が湧いてきた。

 涙をぬぐった祈は、すぐに行動を開始した。(……時間はあまり、残されていない)

 かちっという音がして、ずっと止まっていた時計の針が動き始める。

 その動き出した時計を見て、祈は、その覚悟を決めた。


 祈はそのまま、先ほどと同じように玄関まで移動して、白いスニーカーを履くと、勢いよく白いドアを開けて、家の外に飛び出した。

 ……すると、世界は『本当に』真っ暗だった。

 ずっと、この森の近くに住んでいる祈でも、見たことがないような、本当に本当に真っ暗な闇が、真っ暗な夜がそこには永遠に広がっていた。(思わず、祈は、なにか不気味な体の奥から湧き上がってくるような、恐怖のようなものを感じて、ぶるっと、その身を震わせた)

 世界は夜の時間を迎え、周囲は真っ暗な色に染まっている。視界はゼロに近い。これでは、さすがにこのあたりの地理に詳しい祈だとしても、このままなんの明かりも持たずに夜の中に飛び出すことはできなかった。(いつもなら、家を出る前にそのことに気がつくはずなのに、全然気がつくことができなかった)

 祈は悔しそうな顔をして、もう一度、家の中に戻ると、急いで、キッチンの奥にある階段を駆け下りて、そこにある倉庫の中から、懐中電灯を取り出した。

 小さな懐中電灯。(心細いけど仕方がない)

 その電気のスイッチをぱちぱちとつけたり消したりしてみると、懐中電灯の明かりは正確に作動した。

 そのことを確認してから、祈は再び玄関に向かって移動をする。


 家の明かりはつけたまま。 

 玄関の白いドアにも、(家の鍵は一応、今も持ち歩いているけど……)いつものように鍵をかけたりしなかった。

 ……もし、万が一、可能性は本当に低いのだけど、なにかの偶然や奇跡によって、この真っ暗な夜の中で叶が一人でこの家の近くまで戻ってきたときに、明かりがついていないことでこの家の場所が真っ暗な夜の中でわからなくなったり、あるいは、この家まで叶が一人で帰ってきたときに家のドアに鍵がかかっていたら、家の中に入れなくて、叶が困ると思ったからだ。

 祈はそのまま、明かりのついた懐中電灯だけを持って、真っ暗な夜の中に飛び出して行った。

 祈のそのまっすぐな、獲物を狙う肉食獣のような目の見ている先に、その風のように大地の上を走る足に、懐中電灯を持ちながらも、勢いよく動いている両手の動きに、迷いはなかった。

 祈は森に向かって、迷いもなく、一直線に真っ暗な闇の中を突き進んでいた。

 ……叶くんは、きっとあの場所にいる。

 私と叶くんが初めて出会った、あの深い森の中にいる。

 祈は思う。

 祈は走る。

 ただ、叶にもう一度、会いたいという思いだけが、叶の命を助けたいという強い思いだけが、今の祈を走らせている。祈の体をこんなにも力強く動かす力になっている。


 祈は真っ暗な夜の中をたった一人で走り続けた。

 祈の目に見えるのは、永遠に続いている深い闇。

 そして、その闇の中にぽっかりと浮かんだ、……丸い、小さな懐中電灯の明かりだけだった。

「はぁ、はぁ」と息を切らせながら、祈は走る。

 薄緑色の草原の上を。

 ……昨日、叶と一緒に、二人で歩いた小さな土色の道の上を、今度はいつものように、孤独に、たった一人で、走り続けた。

 そして、それから少しして、祈の手に持っている懐中電灯の明かりが、大きな壁のような深い緑色の木々の姿を照らし出し始めた。

 ……森に到着したのだ。

 その不気味な風景を見て、祈は、……森だ。森についた。でも、いつもとは全然違う。太陽の光のもとで見る、私の知っているあの優しい森とは大違いた。

 肩で息をしながら、昼間とはあまりにも違う夜の森の姿に祈りは驚いた。

 祈はおじさんから、絶対に夜に外を出歩いちゃいけない。とくに夜の森には絶対に近寄ってはいけない。立ち入ってはならない。と子供のころから、きつく言われていた。

 もし、夜の森の中に一度でも足を踏み入れてしまえば、『もう二度と、絶対にその森から外に出てくることはできない』。と祈はおじさんから聞かされていた。

 そのことを祈りはおじさんと『約束』していた。(「うん。わかった。約束する。私は絶対に、夜には出歩かない。夜の森の中に入ったりしない」と祈はおじさんと指切りげんまんの約束をした)

 大好きなおじさんから、言われた約束。

 でも、この森の中に叶くんはいる。……絶対にいる。

「ごめんなさい。おじさん。でも、私、叶くんのことが好きなの。本当に大好きなの。だから、約束、破ってしまうことになるけど、この夜の森の中に行くね。約束を守れない悪い子でごめんなさい。おじさん。でも、もし、そんな私のことを、それでも許してくれるのなら、……今も、愛してくれるのなら。……おじさん。おじさんのいる天国から、おばさんと一緒に、私のことを、ううん。私と叶くんの二人のことを、どうか見守っていてください。私たちの無事を祈ってください。……私と叶くんの二人がこれから幸せになれるように、思っていてください。お願いします。おじさん。おばさん」

 と祈は真っ暗な空を見ながら、言った。


 祈の見上げる夏の夜空に星は一つも見えない。

 昼間は晴れていたのだけど、(本当なら、今頃、満天の明るい夏の星空が祈の頭上には永遠と広がっているはずだった。その美しい星空を、叶に「どう? すっごく綺麗でしょ?」と笑顔で自慢しながら、祈は今夜、叶と二人で家の近い場所に出て、そこからそんな美しい星空を二人で眺めて過ごすつもりだった)夜には、空には暗く厚い雲が覆っているみたいだった。

(もしかしたら、昨日のように突然の雨が降ってくるかもしれない) 

 それはまるで、おじさんとおばさんのいる天国と、真っ暗な地上にいる祈との間にある、厚い、とても分厚い壁のようなものに思えた。

 祈はぱん! と自分の両頬を叩いて気合いを入れた。

 それから「よし。いけるよね。祈」と自分自身にそう言ってから(すると、嬉しいことに、「大丈夫。なんとかやれそうだよ」と言う自分自身の明るい声が自分の内側から返ってきた。その声を聞いて、祈はちょっとだけびっくりした)再び大地の上を駆け出して、迷いも躊躇もなく、暗い夜の森の中に、入っていった。

 鈴木祈の姿はそれからすぐに見えなくなった。

 あとにはとても深い、夏の真っ暗な夜の暗闇だけが、……残った。

 その夜の真っ暗な闇の中に真っ白な、なにかぼんやりとした人の形をしたものが二つ浮かび上がった。

 その二つの人間の形をした白い影は、お互いにそっと、手を握りあっているようだった。

 男性と女性だと思われる形をした不思議な白い影。

 二つの人間の形をした白い影は、闇の中に消えていった祈に向かって(お互いに手をつないでいないほうの、空いている手を上げて)大きく、大きく、手を降った。

(その白い影たちは、なんだか幸せそうに笑っているように見えた)


 祈は真っ暗な森の中の道を走り続けていた。

 昨日の大雨の影響で、森の中の土の道は泥だらけの道に変化していた。(草原の上の道も少しぬかるんでいたけど、これほどじゃなかった。よく見えないけど、きっと私の白いスニーカーは、もう土の汚れで、どろどろになっているはずだ)周囲の森も、水分を含んだ、湿った匂いがしている。

 木々も、緑色の葉も、ところどころが、まだ雨に濡れたままになっていた。 

 周囲にはなんの生き物の気配も感じない。

 森は、まるで夜の中でぐっすりと眠りについているようだった。(どうやら森は、まだ侵入者である祈のことに気がついていないようだった)

 真っ暗な森の中を小さな懐中電灯の明かりだけを頼りにして、走りながら、祈は、自分の気持ちをさっきからずっと、(それは恐怖をごまかすためでもあったのだけど)なんどもなんども、まるで呪文のように頭の中でつぶやきながら、確かめていた。


 私は、……叶くんのことが好きなんだ。

 私は、……叶くんのことが、本当に大好きなんだ。

 叶くんのことを愛しているんだ。

 本当に、本当に……心の底から、愛しているんだ。

「はぁ、はぁ」と息を切らせながら、祈は走り続ける。

 好き。

 本当に大好き。

 叶くん。

 叶。

 私はあなたのことが好き。

 本当に大好きなの。


 祈はあるところまで小さな道の上を走ったところで、方向を変えて、思いっきり、なんの迷いもなく道を外れて、真っ暗な深い森のさらに深い場所を目指して、真っ暗な森の中の道なき道の上を走り始めた。

 ……それは昨日、叶と一緒に歩いたはずの場所だった。

 たぶん、間違ってはいないと思う。

 この辺りはなんども探検したから、……この辺りで間違いないはず。……でも。

 確証が持てない。夜の森は昼の森とはまるで、その雰囲気が違っていた。見覚えるのある風景でも、違った場所のように見えるのだ。

 いつくか特徴的な木々や地形をした場所がある。それらを目印にしてこれからは慎重に進んでいかなくてはいけない。

 森に慣れている祈も、さすがにもう、道のない場所を走ることはできなかった。

 森の深い場所に入ったところで、祈は走ることをやめて、周囲の木々に手をついたり、足元を慎重に確認するようにして、祈りは周囲の風景を懐中電灯の明かりで照らし出しながら自分の居場所を確認するようにして、森の中を歩き始めた。

 ……焦っちゃだめ。

 私まで、迷子になっちゃったら、本当に叶くんは助からない。 

 慎重に、……昨日、二人で楽しく歩いた道を今度はもう一度、引き返すようにして、あの場所までいんだ。

 ……あの、叶くんと、私が初めて出会った、あの場所まで。

 ……祈は深い森の中を慎重に歩いて進んでいく。

 すると、しばらくして、祈の見ている明るい懐中電灯の光の中に、特徴的な、二つの大きな木の枝が見え始めた。それは昨日、祈と叶が二人で、その大きな木の枝の上で休憩をとった場所だった。

 あ、あった。よかった。間違っていなかった。

 嬉しさのあまり、祈は思わず笑顔になった。

 でも、その笑顔は、すぐに消えてしまうことになる。

 なぜなら、そのとき、真っ暗な空の上からは、ぽつぽつと、冷たい夏の突然の雨が昨日のように、降り出し始めたからだった。


 村田叶が目をさますと、そこは真っ暗な森の中だった。

 叶は、その森の中に倒れるようにして、目を覚ました。

 目を覚ました叶は、なぜ『自分がこんな場所にいるのか、その理由がよくわからなかった』。

 なぜなら、叶は、記憶を失っていたからだった。

 真っ暗な森の中で目を覚ました叶は、完全に記憶をなくしていた。ただ、記憶はなくても、知識のようなものは残っていたので、叶は自分がなんでこんな真っ暗な森の中で、とても寒くて寂しい場所で、たった一人でまるで眠るようにして、倒れていたのか、その理由を考えてみることにした。

 最近、強い雨が降ったのか、森の中はどこもぬかるんでた。周囲にある深い高い木々も、じっと濡れているようだった。

 近くの大地の上を見ると、そこには青色のスポーツバックがあった。それが自分の荷物であると、叶は、一目見て、そのことを理解することができた。

 とりあえず、叶はその青色のスポーツバックの中身を確認してみることにした。(なにか使える道具が入っているかもしれないと思った。できれば、明かりが欲しい。少し冷えるので、服があれば重ね着をしたいし、もしくは食料か、飲み物が欲しかった)

 そして、叶がその場所を動こうとしたときだった。

 叶が自分がその右手の手のひらの中に『なにかをぎゅっと』、握りしめていることに気がついた。

 叶はそのぎゅっと握られてる右の手のひらをそっと開けてみた。

 するとそこには、『一本の紐』があった。

 ……輪っかになっている、赤い紐。

 硬い結び目で『ぎゅっと結ばれている、赤い紐』がその手のひらの中にはあった。

 なんだろう? これ?

 ……髪留め? いや、アクセサリー? ……もしかして、なにかのお守り、かな?

 そんなことを叶は思った。

 よくわからないけれど、この赤い紐は、記憶を失う前の僕にとって、とても大切なものなんだろうと思った。(だからこそ、こんなに大切に、絶対に無くさないように、意識を失っている間も、ぎゅっと握りしめていたのだろう)

 自分の荷物は放り出しているくせに、とそんなことを思って、くすっと叶は一人、真っ暗な森の中で笑った。

 それから叶はその赤い紐を無くさないように、そっと制服のズボンのポケットの中にしまいこんだ。

 それから叶うは青色のスポーツバックを手にとって、その中身を確認した。

 すると、そのとき、空から冷たい雨が降ってきた。

 その雨はすぐに大雨に変わった。

「……雨か。まいったな」と雨降りの真っ暗な空を見上げて、叶は言った。(しかも、残念なことに、叶の荷物の中には、傘は入っていなかった)

 叶は仕方なく、どこかで雨宿りをするために、その場所を移動することにした。

 ざーっという強い雨の中を、ぱしゃぱしゃと大地の上のぬかるんだ泥を跳ね飛ばしながら、叶は、森の、もっと、……もっと奥深い場所に向かって、走り始めた。


(……そうやって、二人の距離は、だんだんと遠いところに離れていった)


 叶が森の奥へ奥へと進んでいくと、そこには大きな岩の塊のようなものがあった。 

 それはまるでごつごつとした岩の壁のように、森の中に隆起して、まるで叶の進む道をそこで、通せんぼでもするようにして、その場所に存在していた。

 最初、その大きな岩の塊を見たときに、まいったな、これじゃあ、先に進めない。回り道をするにしても、周囲はさらに険しい森の木々や山や谷のようになってる場所ばかりで、この強い雨の中をこんな普通の服装(高校の制服とぼろぼろの革靴)のままで進んでいけば、最悪、土砂崩れにあうか、もしくは、大きな崖のような場所や、穴が空いているようになってる場所などに落ちて、そのまま僕は意識を失ってしまうかもしれない。

 ……それは本当にやばい。

 そうなったら、まず、この森の中で僕は助からない。(もっとも、今の状態でも、僕がこのまま無事にこの森を出られるとはとても思えないけれど……)

 でも、ほかに選択肢はない。

 だから叶は、その大きな岩の右側に広がっている、崖のように大地が下に向けて斜めになっている雨の流れる泥だらけの大地の上を木々に捕まるようにして無理に降っていこうとした。(長い頑丈なロープのようなものがあればすごく助かったのだけど、『僕の青色のスポーツバックの中に、長い頑丈なロープは入っていなかった』)

 叶がそんなことを考えながら、一応、ほかにも、進めそうな場所はないかと、真っ暗な雨降りの夜の中を、びしょ濡れになりながら見渡していると、(ざーっ、という強い雨の音や、全身がびしょ濡れになって動きづらいし、だんだんと体温が奪われて、寒くなるし、本当に周囲の状況をうまく把握することができなかった)叶うの進む道を塞いでいた大きな岩の下の方の部分には、ぽっかりと、大きな穴が空いていた。

 ……洞穴だ。

 映画とか、ドラマとかで、見るような、洞穴があった。

 真っ暗な闇の中だけど、その洞穴は確かにそこに存在していた。目が、少しは夜の闇に慣れてきたせいで、その洞穴の存在を叶うは見逃すことなく、ちゃんと見つけ出すことができた。

 やった。見知らぬ森の中で、記憶喪失になった状態で目覚めたり、そんな悪いことばかりじゃない。

 ……やっぱり、いいこともあるもんだな。

 と思って叶は一人で、にっこりと笑った。

 叶は崖のような下り坂を降りることをやめて、その洞穴の中で、雨宿りをすることにした。

 念のためもう一度周囲の状況を確認したあとで、慎重に真っ暗な洞穴の中の様子を入っても大丈夫かどうか確認してから(熊とか、蛇とかに襲われたら、それこそ、もうどうにもならない。ここは彼らの縄張りなのだ)叶は、なるべく音を立てないように、静かに、……その真っ暗な洞穴の中に入っていった。

 ……洞穴の中はとても静かで、そして空気がひんやりとしてすごく冷たかった。

 叶の周囲が無音になると、その変わり、洞穴の外に降る、ざーっという、とても強い雨の音がやけに(洞穴の壁に反響しているのかもしれない)さっきよりもずっと強く、はっきりと聞こえた。


 叶は洞穴の入り口近くの壁に背を預けるようにして、座り込んだ。

 すると、どっと、とても強い疲労が叶の全身にのしかかった。(……まるで見えない大量の荷物をその背中に背負っているかのようだった)

 洞穴の奥を見ると、その穴は本当にずっと、先を見通すことができないくらい、ずっと奥まで続いているようだった。

 そこには、『……暗く、深い、まるで質量を持っているかのように錯覚するような、……本当の闇』があった。(それほど深い闇を、本当の闇を、見たのは、叶は生まれてはじめてだった。記憶はないけど、なぜか叶にはそれがわかった)

 ……この奥には進めないな。進んでしまったら、きっと、もう一生僕は、この本当の闇の中から出てくることはできなくなる。この闇はそういう闇だ。入ってしまったら、もう二度と、出ることができなくなる、闇。絶対に近寄ってはならない場所。

 僕はそんな場所のすぐ近くに、入り口のところに今、こうして座っているんだ。 

 叶は、しばらくの間、その闇をじっと、まるで魅入られたように見たあとで、意識を強制的に切り替えて、闇から目を離して、(一応、危険な生き物がいないかの確認も兼ねていたのだけど、どうやら、本当にこの洞穴には、今のところ、叶う以外の生きているものは、どこにもいないようだった)洞穴の外に降り続く強い雨の降る真っ暗な夜の風景を見つめた。

 真っ暗な夜の中にぼんやりと木々の姿や洞穴のごつごつとした岩肌、ぬかるんだ雨の流れ続ける焦げ茶色の大地などが見える。(闇に目が慣れれば、案外、結構よく物が見えるものだな、と叶うはちょっとだけ感心した)

 青色のスポーツバックの中に入っていた荷物は着替えや、生徒手帳(これは自分の存在を確かめるために役にたった。確かに僕は、『村田叶』だった。ほかの誰でもない。僕の思い違いでもない。僕は確かに叶だった)空っぽの財布、電源の切れた携帯電話、勉強道具にノート、といった高校生活に使う、ありふれたものばかりだった。

 オイルランプとか、ライターとか、マッチとか、携帯用の食料や、ペットボトルの水や飲み物とか、長くて頑丈なロープとか、雨降り用の傘とかカッパとか、登山靴とか、軍手とか、遭難者の居場所を知らせる発煙筒とか、ラジオとか、寝袋とか、暇つぶし用のお気に入りの古い小説とか、そういったものは、どこにも、なにも入ってはいなかった。(記憶喪失になる前の僕は、本当に気が利かないと思った。苦労するのは、記憶喪失になった僕だというのに。……まったく、好い気なもんだと思った)

 叶はすることもないので、体力の温存を兼ねて、そこでできるだけ体を丸くしながら、少しの間、眠りにつくことにした。

 ……大丈夫。まずはこの雨が止むのを待つ。そして、夜を超えて、朝を待つのだ。太陽が世界に登るのを待って、それから、行動すればいい。大丈夫。きっと、うまくいく。一晩眠れば、体力もだいぶ回復するはずだ。

 食事は一日くらいなんてことない。まだ、僕は結構長い距離を歩くことができるはずだ。(僕は十七歳だ。これくらいのことで、体はへこたれたりはしない。……それに、きっと僕の心だって、これくらいのことで、ぽきっと折れてしまったりすることはないはずだ。……きっと)

 ざーっという強い雨ふりの音を聞きながら叶は眠ろうと思った。

 だけど、いくら目をつぶっても、体は疲れているはずなのに、一向に叶うは眠りにつくことができなかった。

 ……眠れない。

 ……どうしてだろう?

 叶は不思議に思った。

 それから、そっと目を開ける。僕はどれくらいの間、目をつぶっていたのだろう? そんなことを確認しようとして、叶は、……そういえば、もう一つ、重要なものがない。僕は『時計』を持っていなかった。(きっと、携帯電話で時間を確認していたのだとは思うけど)

 だから、叶は今現在の時刻も、自分がさっき、どれくらいの間、目をつぶって眠れないでいたのかも、その正確な時間を確認することができなかった。 

 叶は目を開けたまま、頭を片方の肩に預けて、丸くなったまま少しだけ体の向きを洞穴の外側のほうに向けて、じっと雨降りの夜の森の風景を見つめていた。

 ……眠くなるまでの間、どうして僕がこんな森の中にいるのか、そして、どうして僕は記憶喪失になってしまったのか、暇だから、その理由を考えてみよう。と叶は思った。

 でも、いくら考えても考えても、その答えは一向に見つからなかった。(あるいは、もしかしたら、答えなんて、最初から、どこにもないのかもしれなかった)

 ……ざーっという強い雨はいつまでたっても降り止むことはなかった。

 ……真っ暗な夜は、いつまでたっても、決して、明けることはないように、今の森の奥にある、真っ暗な洞穴の中にいる叶には、……思えた。


(……僕はまだ、死にたくないんだ。……死ぬのは、怖い。……本当に、怖いよ)


 降り出した雨は、すぐにとても強い雨に変わった。

 鈴木祈は、そんな強い雨の中を、とても急な崖のようになってる急な下り坂を(叶と二人のときには二人で縦に並んで一緒に登ったあの崖のような場所だ)ゆっくりとちょっとずつ慎重に、滑り落ちるようにして、大きな木の枝や、周辺に生えている木々や草に手をかけながら、もう全身、顔も髪も服も靴も全部が泥だらけになって、夜に降る強い雨にびしょ濡れに濡れて森の中を奥へ奥へと進んで行った。

 ようやくそうやって、崖のような下り坂を降りた祈は、ほっとするのと同時に自分の泥だらけの両手を見て、はぁー、とため息をついた。

 ……真っ暗でよく見えないけど、もう自分は全身、泥だらけになってしまっているはずだった。(こんなんじゃ、せっかく叶くんに会えても嫌われてしまうかもしれない)

 ただ、降り続く強い雨が、その泥の汚れを少しは落としてくれた。

 祈は一人、目をつぶって、強い雨降りの真っ暗な空を見上げる。

 そして、しばらくの間、(体力を回復するための休息も兼ねて)……その雨の雫で、体の泥をできるだけ落とした。

「よし」

 とつぶやいて、目をそっと開けた祈は、再び、手に持った小さな懐中電灯の丸い明かりだけを頼りに暗い森の中を奥に奥に進んでいく。

 さっきの崖のような下り坂を越えて仕舞えば、あとは、叶くんが倒れていたあの森の中で少し盆地のようになってる場所まで、それほど進むのに大変な場所はないはずだった。

(あとは、このまま、森の中をまっすぐに進んでいけばいいはずだった) 

 ……この真っ暗な森の中をまっすぐ進んでいけば、叶くんと初めて出会った場所に出ることができる。もう一度、叶くんと会うことができる。(……きっと、できる)

 祈の両足は、次第に歩きから、早歩きになって、そして再び、森の中の道のない、泥だらけの雨でぬかるんだ大地の上を、自然と走り出した。

 祈の走りは、すぐに加速度を増していき、トップスピードになった。

「はぁ、はぁ」と息を吐きながら、ばしゃばしゃと大地の上のぬかるんだ泥を弾きながら、祈は走った。

 祈はふっと、真っ暗な星の見えない、雨降りの空を見上げた。

 ……今のところ、(降り出すかもとは思っていたけど……)雨が降り出してしまったこと以外には、大きなトラブルはない。

 恐ろしい森の動物たち(熊や猿や鹿や猪や狼などだ。この深い森には彼らもきちんと生息しているはずだった)に出会うことはないし、森も、侵入者である私の存在にまだ気がついていないように思える。(それは、もしかしたら、この強い雨のおかげかもしれない。この雨が私の存在を森から隠してくれているのかもしれない。そうだとしたら、この雨はもしかしたら恵みの雨なのかもしれない)

 なら、このまま叶くんと出会うことができたら、私たちは無事に夜の森の外にまで出ることができるかもしれない。

 また、二人で、おじさんの家で、一緒に生活することができるかもしれない。

(……幸せに手がとどくかもしれない)

 祈は走りなあがら、真っ暗な雨降りの星の見えない夜に向かって、にっこりと笑いながら、その片手を伸ばした。


 祈は走る。

 叶の元へ向かって。

 愛している人の元に向かって。

 ただひたすら走る。

 ……降り続く強い雨の中を。

 ……真っ暗な夜の中を。

 暗い、不気味な森の中を。

 その奥に向かって、走り続ける。

 そして、やがて祈は、目的の場所に到着した。

 村田叶が倒れていた、森の奥にある、周囲の地形が、少し盆地のように窪みになっている場所までやってきたのだ。

 ……着いた。

 にっこりと笑って、祈は思った。

 祈はゆっくりと走ることをやめて、「……はぁ、はぁ」と荒い息を整えながら、森の木々の間を抜けて、真っ暗な盆地の窪みのところをじっと見つめた。

 叶くん。

 叶くんに会ったらなんて言おう。

 ……叶くんは、私のことを、ちゃんと覚えていてくれるかな?

 それとも、もう忘れちゃっているのかな?

(そうだったら、ちょっと悲しいな)

 でも、それでもいいんだ。

 忘れちゃっていてもいい。

 そうしたら、また、覚えてもらえばいいんだから。

 私の名前も、私の顔も、私の声も、私の性格も、私の家のことも、おじさんやおばさんのことも、猫の命のことも、全部、また、一から自己紹介をして、覚えてもらえばいいんだから……。

 一からまた、二人でやり直せばいいんだから。

 ね? そうだよね。叶くん。

 祈はゆっくりと盆地のところに歩いていく。

 村田叶ともう一度、出会うために。

 叶と再会するために。

 でも、そこに村田叶の姿はなかった。

 二人が初めて出会った場所で、祈は今、一人ぼっちだった。

「叶くん?」

 きょろきょろと周囲の真っ暗な闇を見渡しながら、祈は言う。

「叶くん、どこ?」

 祈はいう。

 ……でも、叶から返事はない。

「叶くん。……叶くん!! いないの!! ねえ、お願い。私に返事をして!! 私の前に、もう一度、ちゃんと顔を見せて!! ……もう、私を一人ぼっちにしないで!!」

 真っ暗な闇の中で、強い雨の降る中で、びしょ濡れになりながら、泥だらけになりながら、祈は力一杯、そう叫ぶ。

 でも、やっぱり返事はどこからもかえってこない。

 鈴木祈は『村田叶を見失った』。

 自分の愛している人を見失ってしまった。

 強い雨の中で。

 真っ暗な夜の中で。

 真っ暗な森の中で。

 本当に大切な人を見失ってしまったのだ。

 ……そして、鈴木祈は、そのまま真っ暗な夜の闇の中で『迷子』になった。

 祈はまるで、神様に跪くようにして、その場所にしゃがみ込むと、そのまま両手で顔を覆って、大きな声を出して、雨の中で、……たった一人で、泣き始めた。

(その祈の泣き声は、叶のところまで、届かなかった)

 私の悲鳴は、きっと誰の耳にも聞こえない。……届かない。それはいつものことだった。


 ……いつの間にか、少しの間、叶は洞穴の中で眠りについていた。

 そんな叶が、ゆっくりと目を開けると、世界の様子が変わっていた。

 ……雨が、止んでいる。

 叶が見る洞穴の外の世界では、いつの間にか雨が止んでいた。

 それに、それだけじゃなくて、外がなんだすごく明るく見えた。でも、それは太陽の光じゃない。

 今はまだ、『夜明けではない』。

 まだ、世界は、みんながぐっすりと眠りについている、夜の時間だった。

 でも、そんな、まだ世界が真っ暗な時間のはずなのに、外は明るかった。

 叶はよろよろとした足取りで、洞穴のごつごつとした岩肌の壁に手をつきながら、その場所に立ち上がると、ゆっくりと洞穴の外に出てみることにした。

 すると、すぐに明かりの正体がわかった。

 そこには、『満天の星空』が広がっていた。

 満天の、……天を埋め尽くすような、明るい、星々の光が、……そこには、あった。

 まるで宝石のように光り輝く星々があった。

 青色の夜があった。

 夏の、……星座の夜。

 星空を見て、叶はすぐに、それが夏の星空であることが、わかった。

 同時に叶は、……そうだ。今の季節は、夏だったんだ。ということを思い出した。

 叶は、その場所に立ち尽くしていた。

 なにもすることなく、ただ、じっと顔を上にあげて、その美しい、……本当に美しい星空をじっと見つめていた。 

 綺麗だ。……本当に、綺麗だ。

 そんな美しい星空を見たことは初めてだった。

 だから、叶は一歩も動くことができなくなった。

 その夏の美しい満天の星空から、目を離すことができなくなったのだ。

 そうやって、どれくらいの時間、叶は星を眺めていたのだろう? ふと、我に返った叶は、自分のいる森の近くの場所に、少し高い山のようになっている、小高い岩山のような場所があることに気がついた。

(叶が雨宿りをした大きな岩も、その岩山の一部になっているようだった)

 あの場所に登れば、星がもっとよく見えるかな?

 そんなことを考えると、叶の心はなんだかとても、わくわくした。

 だから、叶はあの場所に行ってみることにした。

 そう決めると、叶の行動は早かった。

 叶うはすぐに洞穴の中にある自分の青色のスポーツバックを手に取ると、それからとても軽い足取りで、歩き出して、その小高い岩山に向かって移動をすると、それからすぐに、まるで公園にあるジャングルジムや、あるいは、スポーツ施設にあるロッククライミングの遊具でも登る子供のようにして、とても楽しそうな顔をして、その岩山をせっせと登り始めた。

 そうやって、岩山を登りながら、叶は、まるで子供に戻ったみたいだ。小さいころの、きっと小学校の高学年くらいの、十歳くらいのころの自分に戻ったみたいだと思った。


 ……誰かの大きな手が、そっと強い雨の中で泣き続けている祈の頭に優しく撫でるように、触れた。

 ……叶くん?

 その手の感触に、祈は覚えがあった。

 その手の感触は、間違いなく叶くんの手だと思った。(でも、実際に頭をなでられたことはないから、絶対にそうだとは言い切れないのだけど……)

「叶くん!! そこにいるの!!」

 祈は、はっととても驚いた顔をして、大声で、まるで悲鳴でもあげるようにして、そう叫ぶと、そのまま、その溢れ出る涙でぐしゃぐしゃになった顔を久しぶりに上に向けた。

 でも、そこには誰の姿もなかった。

 ……そのことに祈は(周囲に叶の姿を探しながら、でも、やっぱり見つからなくて)すごくがっかりした。

 でも、そのまま、叶を探してその場所を駆け出していこうとしたときに、同時に祈は『ある大切なこと』に気がついた。

 いつの間にか、祈が泣き続けている間に、世界にはある大きな変化が訪れ始めていた。

 祈は空を見上げる。

 すると、降り続いていた強い雨が次第に弱くなっていった。

 そしてそれは次第にぽつぽつとした弱い雨に変わり、そしてその雨は、すぐに完全に降りやんだ。(祈はとても驚いた。雨は永遠に降り続くと思っていた。でも、当たり前だけど、雨はいつか止むものなのだ)

 ……雨が、止んでる。

 ……ずっと降り続いていた雨が止んでいる。

 私はどれくらいこの場所で泣いていたんだろう?

 もしかして、それほど長い時間、雨は降っていなかったのかもしれない。(ほんの数時間くらいだったのかもしれない)

 そんな通り雨のような強い雨。

 永遠に降り続くと思っていた雨。

 急に降りやんだ雨。

 ……でも、確かに雨は止んでいた。

 そして、世界に訪れた変化はそれだけではなかった。

 それから、すぐに『ある一つの奇跡』が祈の見ている前で起こった。その奇跡を目撃して、祈はまた、叶を探すために動き出そうとしていた足を元の場所に戻して、大地の上に跪くような姿勢に戻った。

 ……まるで、神様に懺悔をするように泣き続けていた祈に向かって、神様は、(もちろん、それはただの偶然である可能性が一番、高いのだけど)もう、泣かなくていいよ、と祈に言い聞かせるようにして、あるいは大地の上で懺悔し続けた祈に贈り物を贈るようにして、祈に一つの奇跡を与えてくれたのかもしれない。 

 雨が上がった真っ暗な夜空が、分厚い雨雲が、風に流されるようにして、次第にゆっくりと、……割れていく。

 その割れた暗い空の向こう側には、……星があった。輝く幾億の星々があった。

 祈は、……本当に驚いた。

 そうして、それからもともと大きな目をさらに、大きく丸く見開いている祈は、その、奇跡のような光景から目をそらすことが全然できなくなった。

 やがて、空を覆っていた分厚い雨雲はそのすべてが祈の視界から消えていき、空は完全に晴れ渡り、雲がなくなった夜空には、本当に美しい満天の星空だけが残っていた。

 ……今日、叶と一緒に見ようと思っていた美しい夏の星空が確かにそこには存在していた。(祈の体は静かに震えていた)

 ……そこには、ぼんやりとした霞のような青色をした、まるで宝石みたいな美しく光り輝く奇跡のような星空が広がっていた。

 祈はしばらくの間、ただぼんやりとしながら、強い雨によってぬかるんだ泥だらけの大地の上に跪いたまま、その奇跡のような出来事をずっと、見つめ続けていた。

 ……でも、それから祈は、しばらくして、自然に、『自分が今しなければならないことに気がついた』。祈は、その両手を自分の胸の前で合わせると、その奇跡の星空を見上げながら、涙に濡れたままのその目を星空に向けて、……静かに、本当に静かに、まだ一度も見たことも出会ったこともない、顔も、声も、名前も知らない神様に向かって星空を見たまま、祈り始めた。


 ……神様。

 お願いします。神様。

 私は、神様がこの願いを叶えてくれたのなら、どんな犠牲も払います。

 私になにか罪があるというのなら、どんな罰でも、必ず受けて、一生をかけてでも、その罪を償ってみせます。

 私はこれから、ただ、まっすぐに、正直に生きていきます。

 私が天国に旅立つときが来るまでの間、ううん、そうじゃなくてもいいです。たとえ、私の旅立つ場所が、地獄でも構いません。

 それでもいいです。

 ……とにかく、私が、この世界ではない、おじさんやおばさんや命がいる、あちら側の世界に旅立つときが来るまで、このまま私に、この世界にいる人生の中で、たとえ、これから、なんの奇跡も、幸福も、恵みも、ぬくもりも、愛も、受け取ることがなくなっても構いません。

 ……だから、神様。

 お願いします。

 ……どうか叶くんと会わせてください。『どうか私と叶くんを、もう一度だけ、この世界の中で、出会わせてください』。私がちゃんと、生きている間に、叶くんともう一度だけ、出会うチャンスを私にください。

 どうかお願いします。

 お願いします。

 ……神様。

 祈は静かに、……でも、とても強い気持ちを込めて、神様にそうお願いをした。

 すると、その祈の思いが、……強い願いが、本当に空の上にいる神様にまで届いたのかどうかはわからないけれど、まるで、祈の願いに対する神様のお返事のように、その美しい宝石みたいな夏の星空に、『光り輝く一つの流れ星』が流れ落ちた。

 まるで、さっきまで、祈がその大きな目から流していたたくさんの大粒の涙のように、きらきらと光り輝く星が、一つだけ、星空の中から滑り落ちるようにして落っこちて、やがて消えて行った。

 祈は、ずっと目を大きく開けたまま、そんな流れ星の流れ落ちた、満天の夏の星空をじっと見つめていた。

 やがて、祈はそのぬかるんだ泥だらけの大地の上に立ち上がった。

 たった一人で立ち上がった。 

 それから祈は自分の周囲に広がっている大地の上にゆっくりと目を向けた。

 ……すると、そこには『一人分の足跡』があった。

 ぬかるんだ泥だらけの大地の上に、その足跡は、雨に流されることなく、かすかにだけど、でも確かにそこに残っていた。

 この場所にいた、誰かが足跡の残っている方向に確かに歩いて、あるいは走ってかもしれないけど、移動をして行ったあとがあった。(不思議なことに足跡は、突然、ある場所から続いていた。まるで誰かが、空の上からその場所に落っこちてきたかのように。それは叶がはじめに倒れていた場所だった。始めて、祈が叶を『見つけた場所』だった)

 星空のおかげで、真っ暗な夜が明るくなったおかげで、その足跡を見つけることができた。

 祈は星空を見上げる。

 それから祈は「……ありがとうございます。神様」と本当に感謝を込めて、言ってから、ぱん! とまた、夜の森におじさんとの約束を破って足を踏み入れたときと同じように、自分の両頬を自分の両手で一度、叩いて、気合いを入れ直してから、その足跡が続いている森の奥に向かって、その場所を移動し始めた。 

 祈の歩き出した両足は、すぐに駆け足になった。

 そしてそれは、……すぐに、風のようになって、祈はトップスピードにまで、加速した。

 祈の走りには、まったく迷いはなかった。

 いつものように。

 鈴木祈は走るときだけは、いつもこうやって、いろんなものから、自由になることができた。

 ……だから祈は、いつも、走ることをやめなかった。ずっと走り続けていたのだ。

 今も、そして、これからも。(……きっと)


 叶は小高い岩の山を登り続けた。

 懸命に懸命に小高い岩の山の頂上を目指して登り続けた。

 ごつごつとした岩肌の出っ張りに手と足をかけるようにして、ゆっくりと、雨によって、まだ濡れたままになっている結構急な傾斜のある、大地を登り続けた。

 そのまま、しばらくの間、小高い岩の山を登っていくと、その中腹あたりで、ようやく岩山の斜面が緩やかになった。

 叶は久しぶりに足を大地の上にしっかりとつけて、まっすぐと立つことができた。

 ……星は、相変わらずとても美しかった。

 この美しい星があるから、僕はこんなにも元気に、この険しい(普段なら、この山を見つけたとしても、登ろうなんて思ったりはしないだろう)小高い岩の山を登ることができるんだと思った。

 頂上まで、あともう少しだった。

 このまま岩の大地の上を歩いていけば、そんなに時間をかけることなく頂上までたどり着くことができるだろう、と叶は思った。

 頂上までたどり着いたら、ゆっくりと美しい星空をながめよう。

 それから、(その美しさに、満足したら)周囲の地形を見渡してみて、どこかに人の住んでいる場所が見えないか、確認をしてみよう。

 かりに、人の住んでいる町や村、あるいは家などが見つからなかったとしても、もし、道のようなものがあったら、そこから、きっと人の暮らしている集落までたどり着けるはずだ。

 それも、なにも見つからなかったら……。

 ……ううん。今はいい。

 まだ、それを考えることはやめておこう。

 僕には『希望』が必要なのだ。

 生きる希望が。

 前に進むために、……そこに『希望』が必要なんだ。

 希望がなければ、僕は前に進めない。

 それはだめだ。

 僕は、立ち止まるわけにはいかない。

 まだ、僕は、こんな場所で、……『自分自身に絶望するわけにはいかない』んだ。

 叶はにっこりと、わざと顔を大きく動かして、笑ってみた。

 笑うんだ。

 笑って生きるんだよ。

 どんなときでも、僕は笑うんだ。

 なにがあっても、希望を見失わないように。

 未来を信じていけるように。

 最後の最後には、きっと勝利を手にすることができるように。

 笑うんだ。笑うんだよ。 

 叶は、にっこりと笑った。それは無理やりの笑顔のはずだったのだけど、最後のほうは、叶は本当に笑っていた。

 なんだかとても楽しい気持ちになっていた。

 叶は再び、岩の大地の上を歩き始めた。

 頂上を目指して。

 叶は歩き続けた。

 すると、空の星空の中に、いつの間にか綺麗な満月が見えるようになった。

 真っ白な色をした、丸い月がそこには浮かんでいた。

 さっきまでは、月は星空の中に見えなかった。

(小高い岩の山によって、その存在が隠されていたのかもしれない)

 その綺麗な満月を見て、叶は、なんだかすごく嬉しい気持ちになった。

 綺麗な白い満月を見て、叶はなんだか子供みたいにわくわくしながら、その足をさら元気よく動かして、小高い岩の山の頂上に向けてまっすぐに進んだ。手は(岩肌を掴んで急な斜面を登ったせいで)ところどころ怪我をしていて、ずっと岩の上を歩いてきたことで、足の裏がすごく痛くなっていたけれど、そんなことはちっとも気にならなかった。

 空に輝く丸い満月とたくさんの星が、叶のことを夜の中で明るく照らし出してくれている。

 その淡い真っ白な光のおかげで、叶は、本来なら光の差し込まないはずの、真っ暗な夜の中でも、迷子にならずにすんでいた。(……希望は、確かにそこにあった)


「……叶くん!!」

 すると、少しして、そんな誰かの自分の名前を呼ぶ小さな声が、どこからか、聞こえたような気がした。

 叶は少し驚いて周囲の風景をきょろきょろと一度、見渡してみたのだけど、すぐにこんな場所で自分の名前を呼んでくれるような人がいるとは、とても思えなかったので、叶はその声を最初、疲れか寝不足からくる、ただの幻聴だと思った。

 しかし、それから少しして、また「叶くん!! どこ!! どこにいるの!?」と言う、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 今度は確かに、『はっきりと聞こえた』。

 それは、不思議と、どこかで聞いたことがあるような、女の子の声だった。

「……誰だ!? 僕の名前を呼んでいるのは誰なんだ?」

 動かし続けていた足を止めた叶は、そう大声を出しながら、その場所から周囲の風景をまた、きょろきょろと見渡してみた。

 いつの間にか小高い岩の山の上には、だんだんと霞のような薄い霧の靄が出始めていた。(……山の天気は変わりやすいというけれど、本当だと思った。もしかしたら、また急に雨が降り出したりすることもあるのかもしれない、と思った)

 その霞のような霧の靄は、すぐに叶のいる周囲の風景を包み込んだ。(まるで、雲の中にでもいるようだった)

 ……視界を完全に遮るほどじゃないけど、なにもかもが、はっきりと見えるわけではなかった。

 すると、それからすぐに、そんな霞のような霧の靄の中に、ぼんやりと人の形をした影のようなものが遠くのほうに、かすかに見えた。

 ……影? あそこに誰かいるのか? 叶は少し警戒をする。(もしかしたら、『それは人の形をしているだけで、人ではない、違う不気味で恐ろしいなにか、であるかもしれない』と叶は思った)

 叶の立っている大地のすぐ後ろには、小高い岩の山の頂上があった。(もう、あと少し、ほんの数十メートルも歩けば、頂上という場所だった)叶の周囲にあるまるで雲のような、白い、霞のような霧の靄の中に、ぼんやりと見える人の影は、まるで叶のことを追いかけるようにして、小高い岩の山の下のほうから、叶の歩いてい道と同じ道を歩いて、だんだんと叶の立っている頂上付近の場所に向かって近づいてきた。

 そして、そのぼんやりと見えていた人の影が、叶の視界の中ではっきりと、それは間違いなく人である、とわかるくらいに、ぼんやりとする影との距離が近づいたときに、不意に、……びゅー!! っという大きな音を立てて、とても強い風が急に、ぼんやりとする影と叶のいる周囲の場所を吹き抜けた。叶はその風の強さに思わずその目を閉じて、顔の正面を片手で覆った。

 次に叶が目を開けると、霞のような霧の靄は、……まるで手品のように、あとかたもなく、なくなっていた。

 その突然、小高い岩の山の山頂付近を吹き抜けたとても強い風は、叶の周囲の世界を包み込んでいた白い霧のような靄を、あっという間に全部吹き飛ばしてしまった。

 すると、雲のような白い霞のような霧の靄がなくなったところには、……いつの間にか、一人の女の子が立っていた。

 

 とても綺麗な顔立ちをした、その長い黒髪をポニーテールにしている、全身泥だらけで、全身、雨に濡れた格好をしている、(その女の子の姿は叶の姿と、とてもよく似ていた。叶の格好も、全身が泥だらけだったし、全身が雨にびしょ濡れになっていた)背の高い、叶と同い年くらいに見える女の子だ。

 その女の子はなにかとても悲しいことがあって、ずっと泣いていたのか、涙でにじんだ、ひどく潤んだ目をしていた。(その両方の頬にも、その女の子がさっきまで、ずっと泣いていた証拠として、涙の跡がはっきりと残っていた)

 ……特徴的な大きな目。(その上で、美しい曲線を描いている長いまつげが、すごく魅力的だった)

 綺麗で、とても強い輝きを放っている、まっすぐな目。(きっと、とても意志の強い女の子なのだろうと思った)

 ……それに、とても、透明な、澄んだ色をした目をしている。(その目の中にある深い悲しみを、できれば少しでも癒してあげたいと思った)

 そんな特徴的な女の子の目が、すごく大きく見開いていて、まるで磨き抜かれた自然の鏡のように、その視線の先にいる叶のことを、その女の子の目の中に写しこむようにして、……じっとなにかを懇願するかのようにして、叶のことを見つめていた。(その女の子の目の中には、確かに叶の顔が写り込んでいた。そこに写り込んでいる自分の顔を、叶ははっきりと見ることができた)


 その女の子は「……はぁ、はぁ」と最初、とても荒い息をしていたのだけど、(ずっと全速力で長い距離を走ってきたあと、みたいだった)やがて、静かに呼吸を整えながら、ゆっくりと岩の大地の上を歩いてきて、途中で一度、ふと気がついて、自分の服装の汚れや髪の乱れを確認して、顔についた泥をごしごしと拭ったり、ぱんぱんと両手で、できるだけ服についた泥を払い落としたあとで、にっこりと笑うと、もう一度歩き出して、叶のいるすぐ目の前のところまで近づいてくる。

 その間、……なんだか不思議と、ずっと叶の心臓はすごくどきどきしていた。

 ……それは、いったい、どうしてなんだろう?

 すごく不思議だった。……『初めて会うはずの、名前も顔も知らない女の子のはずなのに、なぜか叶は、その女の子のことをさっき一目見た瞬間に、……そのままあっとう間に、(まるで、本当に穴に落ちるようにして)その女の子に恋をしていた』。

 一目惚れの恋。

(……それは、きっと運命の恋だ)

 本当に、そこにぽっかりと目に見えない穴でも空いていて、その深い、……とても深い穴の中にまっすぐに、垂直に落っこちるようにして、叶は、その見知らぬ綺麗な女の子に、(確かにその女の子は誰もが一目惚れをしてもおかしくないようなすごく綺麗な女の子だったけど)あっとう間に、重力に逆らうこともできずに、人生で生まれて初めての、……恋をした。

(……それは、きっと、本物の恋だった)

 その証拠に、叶はその女の子から、目をそらすことができなくなった。

「……ようやく、君を見つけた」

 叶のすぐ目の前までやってくると、その女の子はその大きな目から大粒の涙をぽろぽろとこぼすようにして、両方の頬の上に絶え間なく流しながら、にっこりと本当に嬉しそうな顔で笑って、なんだかすごく、ぼんやりとした顔をしている叶に向かって、そう言った。(叶はその女の子に見とれてしまって、なにもすることができなかった。……『その女の子は、まるで本物の天使』のように美しかった。叶はその女の子の背中に真っ白な二枚の羽が生えていても、全然不思議じゃないと思った)

 それから、その女の子はぎゅっと、叶の手を握った。

 自分が一目惚れの恋をした、美しい天使のような、とても綺麗な女の子に、そうやっていきなり、……なんの前触れもなく自分の手を掴まれて、叶は最初、すごく驚いたのだけど、……でも、不思議と、すぐにそれは、なんだか僕と君にとって、とても自然な行為である、……と思えた。

(なんでそう思ったのかは、わからないままだったけど……)


「……私のこと、覚えている? 叶くん」と見知らぬ女の子は叶に言った。

 このときになって初めて、叶は、急に、……そういえば、この女の子はどうして僕たちは今初めて、この場所で出会ったのに、僕の名前が叶だってことを知っているのだろう? とそんなことを疑問に思った。

 ……もしかして、僕とこの綺麗な女の子はお互いのことをもう、すでに知っている友達のような関係なのだろうか? (その可能性は、すごく高いように思えた。だってこんなにも、この女の子と出会ってから、僕は、この女の子に会えて、一目惚れの恋をしただけじゃなくて、すごく嬉しい気持ちになっていたから。なにもかもを安心して過ごせるような、そんなすごく穏やかな気持ちになっていたから。でもそう考えると、僕は友達に一目惚れの恋をしてしまったということになるのだろうか? それはなんだかとてもまずいような気がした。あるいは、もしかして僕たちは、もう恋人と呼べるような関係だったのだろうか?)

 記憶喪失の叶には、叶が記憶を失う前の二人の関係が本当はどういうものなのか、それはよくわからなかったのだけど、でも、この女の子のすごく嬉しそうな様子からして、(この女の子は僕のことを、自分のとてもすごく大切な人、あるいは、すごく会いたい人、として見てくれているように思えた)きっと、そうに違いないと思った。

「……叶くん。私のこと覚えている? ……私の名前、なんだかわかる?」

 ぎゅっと、今度は自分の両手で叶の両手を動かして、無理やり二つの手をお互いの胸の前辺りの場所で、にぎり合うようにして、叶の目を正面から見つめながら、その女の子は叶に言った。(そのときの女の子は、まるで神様にお祈りをするような目をしていた)

 叶は、そんな目をしている女の子に対して、とても言いにくい、すごく申し訳ないと言う気持ちを感じながらも、その女の子にこう言おうとした。

『……期待に応えられなくて、ごめん。僕は君のことを覚えていない。君の名前も、なんていうのか、わからないんだ。僕はどうやら、記憶喪失になってしまったみたいなんだよ。急にこんなことを言って、すごくおかしいと思うかもしれないけど、これは本当のことなんだ。だから、……ごめん。君のことをちゃんと覚えていられなくて、本当に……ごめん』

 ……と、叶は、その女の子に言おうとしたのだ。

 でも、実際に、そんな(再び、この女の子を悲しませてしまうような)ことを言おうとして、重い口を開いた叶の口から出た実際の言葉は、叶が頭の中で考えていた言葉とは、まったく違う別の言葉だった。

「……祈(いのり)?」と叶は、ずっと自分の前で泣いている祈の大きな目をじっと見つめたままで、確かにそう言った。

 そう言ってから、……そうだ。この女の子の名前は、祈だ。鈴木祈だ。とそんな大切なことを村田叶は『確かに今、はっきりと思い出した』。

 その言葉を聞いて、はっとした祈は、その元から大きな目を、さらに大きく丸く見開いて、とても驚いた顔をした。その両目はまるで二人の立っている小高い岩の山の山頂の上に広がる満天の星空の中に浮かんでいる真っ白な満月のように、本当に、丸くなった。

(その丸い目から、また、新しい涙が溢れた)


 村田叶と鈴木祈は、美しい満天の夏の星空が広がる空の下で、丸い真っ白な満月の下で、小高い岩の山の山頂で再会をした。

「ようやく、君を見つけた。本当の君を」と叶は言った。

「本当の私?」祈は言う。

「うん。鈴木祈という名前の、僕が愛している、世界でたった一人の女の子のことを」とにっこりと笑って叶は言った。

「ようやく、夢がかなった」と泣きながら、祈は言った。

「本当に、……本当に会いたかった人に、叶くんに私の手がちゃんと届いた」

 にっこりと笑って祈は言った。

「祈」祈の目をじっと見ながら叶は言う。

「叶くん」叶のことを見つめながら祈は言う。

「君の顔がちゃんと見える」叶は言った。

「叶くんがいる。ずっと、私のそばにいてくれる」と祈は言った。

 二人はずっとお互いの両手をぎゅっと、胸の前辺りの場所で、掴んだままだった。二人はずっと、お互いの目を見つめ合ったままだった。

 叶はいつの間にか、その青色のスポーツバックを大地の上に置いていた。

 祈は、その手に持っていた懐中電灯を、自分の立っている大地の上にいつの間にか、落っことしてしまっていた。

 二人はずっと、そうしていた。

 お互いの存在を、しっかりと確かめ合うように、ずっと、ずっとそうやって、ぎゅっとお互いの手を繋いでいた。

「本当に、本当に叶くんだよね。私のこと、ちゃんと覚えてくれているだよね?」と目を潤ませながら、祈は言った。

「うん。覚えている。さっきまで、忘れてしまっていたみたいだけど、今はちゃんと覚えている。祈のこと。祈と森の中で出会ったこと。一緒に森の中を歩いて、草原に出て、祈の家に行って、そこで二人で料理をしたこと。夕食を食べたこと。二人で一緒に、一つのベットの中で眠ったこと。

 ……全部、全部ちゃんと覚えている」と叶は言った。

「嬉しい」

 と本当に嬉しそうな顔をして祈は言った。

「ねえ、叶くん。帰ろう。私の家に。ううん。『私たちの家に一緒に帰ろう』」とにっこりと笑って、祈は言った。

「うん。帰ろう。なんだか、すごく疲れた。それにすごく眠いし、それだけじゃなくて、髪も体も服も、お互いにぼろぼろだし、お風呂に入って、洗濯をして、服を着替えて、ぐっすりとベットの中で眠りたい」と叶は言った。

「うん。そうしよう」と涙を流しながら、にっこりと笑って、祈は言った。

 それから二人は一緒に小高い岩の山を降りて、手をつないだままで、二人で一緒に『二人の家』まで帰ろうとした。

 でも、そのとき、なんの前触れもなく、唐突に『二人の運命を引き裂く出来事』が起こった。(それはどうしてだろう? 神様は私たちの関係をやっぱり許してはくれなかったのかもしれない。それとも、これは試練なのかもしれない。神様から与えられた、私たちの愛を確かめる最後の試練なのかもしれない)

 ぐらぐらぐらっと、世界が揺れた。

 それは最初はゆっくりと、でも、だんだんと激しくなって、それは本当に巨大な揺れとなって、二人の立っている岩の大地の上を振動させた。

 二人はお互いの体をつかみ合うようにして、その激しく揺れる大地の上になんとか踏みとどまった。

「……地震?」

「うん。地震だ。とても大きい」と叶は言う。

「叶くん。……怖い」

 祈は言う。

「大丈夫。僕がついてる」とにっこりと笑って、叶は言った。

 でも、次の瞬間、巨大な岩の崩れ音がして、二人のいる岩の大地の上が『まるで二人のことをその場で引き裂こうとしている、二人の間に引かれた境界線のようにして割れて』、祈の立っている場所が、その下にある岩の大地ごと、真っ逆さまに遥か下に広がっている森の大地の上にゆっくりと(叶と祈には、その瞬間が、まるでスローモーションのように見えた)落っこちていった。(叶の青色のスポーツバックと祈の懐中電灯は、岩の大地と一緒に、森の大地に落ちていった)

「祈!!」

 叶はとっさに手を伸ばしながら、そう叫んだ。

「叶くん!!」

 祈は、真下に砕けた岩の大地と一緒に落下しながら、必死にその両手を叶に向けて伸ばした。

 叶の伸ばした手は、しっかりと祈の手を捕まえた。

 祈はそのまま、叶の伸ばした手に捕まるようにして、大きな崖のようになった場所にぶら下がるようにして、空中に止まっている。

 揺れはそれからすぐにおさまった。

 ……ぱらぱらと細かい岩のかけらが、崖の下に落ちていく。

 ぎりぎり落ちることなく空中に止まっている祈のことを、叶は必死に捕まえている。(その間、祈を安心させるために、叶はずっと、にっこりと優しい顔で『笑っていた』)でも、だんだんと、叶の体は、祈の体の重さに(それは、祈の命の重さだった)引きずられるようにして、じりじりと少しずつだけど、でも確実に、その崖の下に、落っこちそうになっていた。

 そんな叶の様子を、じっと、叶の手にぶら下がりながら、祈は真剣な顔をして見つめていた。

(そんな祈の真剣な顔を見て、叶はなんだかすごく嫌な予感がした)


「叶くん。手を離して」と祈は言った。

「嫌だ。絶対に離さない」とすぐに笑顔のまま、叶は言った。

「……ありがとう。……でも、このままだと二人とも下に落ちちゃう。落ちるのは、私一人でいいよ。叶くんは手を離して、それから、私たちの家で、私の分まで、叶くんはこれからも幸せに暮らして」と祈は言った。

「嫌だ。絶対に、嫌だ」と叶は言った。

 でも、そんな会話をしている間も、ずるずると、叶の体は徐々に崖の下に引っ張られうようにして、引きずられていった。

「……それでね、ときどきでいいの。いつもじゃなくてもいい。毎日じゃなくてもいいの。ときどきでいいから、私のこと、思い出して。そうしてくれるなら、私はそれで十分、幸せだよ」とにっこりと笑って(本当に満足そうな顔をして)祈は言った。

「嫌だ。祈。僕たちは二人で幸せになるんだ。あの家で二人で生活をして、今度こそ、幸せを手に入れるんだよ。君と一緒に。二人で。幸せになるんだよ。絶対に」とにっこりと笑って叶は言った。

 だけど、叶の手はぷるぷると静かに震えていた。

 ……ちくしょう。と叶は思った。

 どうして祈一人くらい、引っ張りあげることができないんだよ。……僕はなんて非力なんだ。自分の、世界で一番愛している人を、世界で一番大切な人を、助けることもできないのか。

 ……ちくしょう。……ちくしょう。

 叶は限界まで自分の手に力を入れる。

 祈りの右手を掴んでいる、自分の右の手のひらに、可能な限り、力を込める。叶の左手は岩の大地の上を掴んでいる。両手を使いたいけど、両手を崖の下に伸ばしたら、きっと、そのまま崖の下に落っこちてしまうだろう。

 崖の下に叶の手に捕まってぶら下がっている祈は、最初は右手で叶の手を掴んだのだけど、今は左手も使って、しっかりと、両手で叶の右手に捕まっている。

 でも、祈は、にっこりと叶を見て優しい顔をして笑うと、そのまま、突然、その『両方の手を同時に、叶の右の手からぱっと、自分から離した』。

 叶はもちろん、祈の手を離すつもりはなかった。

 でも、祈が自分から手を離したことで、叶はその祈のぎゅっと握り合っていたほうの右手を、自分一人の力だけで、掴み続けることができなかった。

 ……するり、と祈の右手が、……『祈の命と一緒』に、叶の右手から簡単に、あっという間に滑り落ちていった。

「祈!!!」

 悲鳴のような声を出して、叶は叫んだ。

 崖の下にある緑色の森の大地の上に真っ逆さまに落ちていく祈は、最後に、……愛している。と口を動かして、声を出さないで、叶に言った。

 そのまま、鈴木祈は、たった一人で崖の下に落っこちていくはずだった。それが祈の願いであり、望んでいたことだった。

 ……でも、現実にはそうはならなかった。

 なぜから、落ちていく祈を追いかけるようにして、村田叶もまた、自分から、その体を、……その大切な命を、崖の下に向けて、落下させたからだった。

叶は先に落ちていった祈に追いつこうとして、落ちるときに思いっきり、勢いをつけて、空の中に飛び込むようにして、崖の下に落ちていった。

 その叶の顔は、笑顔だった。

 でも、そんな叶の行動を見て、今度は先に落ちた祈のほうが、とても大きな悲鳴をあげた。

「叶くん!!! どうしてあなたまで、落っこちたりしたの!!!」と祈は、怒りにも似た感情をあらわにしながら、とても大きな声で、(今度はちゃんと声に出して)自分の少し上の空の中にいる叶に向かってそう叫んだ。

 すると叶は、「そこに君がいるからだよ!!」となんだかとても楽しそうな顔をして(まるで、崖から落下しているのではなくて、スカイダイビングでもして、遊んでいるようにして)そう言った。

 その言葉を聞いて、祈は、本当に、本当の本当に、自分でも信じられないくらいに腹がたった。(こんなに誰かに対して、怒りに似た感情を覚えたのは、本当に生まれて初めてのことだった)

 二人は一緒に落下する。(空の中を、二人で一緒に落ちていく)

 同じ速度で。

 同じ距離を保ったままで。

 同じように、二人の真下に広がっている深い緑色の森の中に落下していく。

 叶は頑張って、勢いをつけたのだけど、でもそれくらいじゃ、先に落下した祈のところまで自分の手は届かなかった。

 でも、後悔はしていない。

 これが今の僕にできる最善の選択肢だと思った。

 祈を一人にするくらいなら、自分が、一人になるくらいなら、こうして祈と一緒に、崖の下に落っこちるのも悪くないと思った。

 でも、どうやら祈はそう思ってはいないようだった。

 叶の少し下の空の中にいる祈は、すごく怒った顔をしていた。

 ごめん。祈。でもしょうがないじゃないか。僕はこれでも、全力を尽くした。ベストを尽くした結果なんだから、しょうがないじゃないか。

 ……そんなに怒らないでくれよ。祈。 

 どうして叶くんはいつもそうなの? なんで、そう無茶ばかりをするの? こんなことをして、私が喜ぶとでも本当に思っているの? もし、そう思っているのなら、叶くんはバカだよ。

 ……本当に、バカだよ。

 本当に、君はさ。

 祈は、また、ぽろぽろとその大きな目から涙を流し始めた。(なんだか自分は今日、ずっと泣いてばかりいると思った)

 それから祈は、叶の顔を見て、……でも、もしこうして二人で落っこちるのなら、手をつないだままのほうが、よかったな。最後は、叶くんに抱きしめてもらいながら、……この世界から旅立って行きたかったよ。叶くん。……それと、ありがとう。

 ……と心の中でそう思った。

「叶くん!!! 私は、あなたのことが大好き!! 本当に、本当にあなたのことを愛している!!」

 祈はにっこりと笑うと叶に向かってそう大きな声で言った。

「僕もだよ、祈!! 君のことが大好きだよ!! 君のことを、世界で一番、誰よりも愛している!!」とにっこりと笑って叶は言った。

 その言葉を聞いて、祈はにっこりと幸せそうに笑う。

 祈の笑顔を見て、叶も、またにっこりと幸せそうに笑った。

 そして、鈴木祈は、そのまま深い緑色の森の中に、落ちて、その姿が見えなくなった。

 それから、すぐに、村田叶もまた、同じ深い緑色の森の中に、祈のことを追いかけるようにして、落っこちて、その姿が見えなくなった。

 二人の姿が森の中に落ちて消えてしまうと、世界は沈黙した。 

 そこには、美しい満天の夏の星空があって、……真っ白な満月の月があって、……そして、そんな明るい天の光に照らされている、地上に広がる、明るい夜の森の風景があった。


 ある日、私はあなたに恋をした。


 長い夏が終わって、季節が変わって、秋がやってきた。

 村田叶は、一人、様々な秋の色に色ずく紅葉の葉を見ながら、ゆっくりと公園の中を歩いていた。

 叶の目指している目的の場所には、一人の女の子の姿があった。

 叶と同じ年頃に見える、実際には叶の一つ年上の女の子。

 その女の子は真っ白なベンチの上に座って、ぼんやりと、その目の先にある公園の湖の風景を見つめていた。

 女の子の名前は鈴木祈と言った。

 祈は、真っ白な秋用のコートを着ていて、クリーム色のロングスカートをはいて、足元は茶色のブーツと言う格好だった。

 叶は、秋用のらくだ色のコートをきて、白いズボンをはいて、足元は焦げ茶色の革靴を履いていた。

 叶が白いベンチのすぐ近くまで来ると、祈は叶のことに気がついて、叶を見て、小さく手をあげると「おっす。待ってたよ」と明るい声で、にっこりと笑いながら、そう言った。

 叶は一度、自分のしている腕時計で時間を確認する。すると時間は、ちょうど、約束の時間の五分前だった。

「なに見てたの?」

 祈の座っている白いベンチの横に座って、叶は言う。

「あれ。鳥だよ。白鳥かな? 白くて大きな水鳥。あれを見てたの」と湖のほうを指差しながら祈は言った。

 確かにそこには白い水鳥がいた。

 二羽の大きな白い水鳥。

 その二羽の水鳥は、でもすぐに、ぱたぱたとその大きな翼を羽ばたかせて、二人の目には見えない遠いところにまで、二羽で仲良く一緒に、飛んで行ってしまった。

「あの水鳥たち。どんな関係だと思う? 親子かな? 兄弟かな? それとも、友達同士かな? あるいは、恋人同士なのかな? ねえ、叶くんはどう思う?」と嬉しそうな顔をして祈は言った。

「うーん。難しいな。よくわからないけど、恋人同士なんじゃないかな?」と叶は言った。

「どうしてそう思うの?」

「僕と君によく似ていたから」とにっこりと笑って叶は言った。

 祈はその体の横に大きな紙袋に入った荷物を持っていた。その荷物を見て、「それいったいなに? 僕にサプライズのプレゼント?」と祈に聞いた。

「残念だけど、違うよ。あ、いや、あっているのかな? 半分だけね」とふふっと笑って祈は言った。

「半分? 半分ってどういうこと?」叶は言う。

 すると祈は嬉しそうな顔をして、「じゃーん」とまるで手品師が、なにかの手品をその手品道具の中から取り出すようにして、その紙袋の中に入っているものを叶に見せてくれた。

 ……それは、『赤い毛玉と編み物用の二本の木の編棒』だった。(赤い毛糸の先の赤い紐は、紙袋の中にまで届いている。どうやら、ある程度、編み途中のものが、その紙袋の中には入っているようだった)

「それって、編み物道具?」と叶は言った。

「もちろん。そうだよ。どう見ても、それ以外には見えないでしょ?」と祈はいう。

「祈。編み物するの?」

「うん。するよ。マフラーを編むの。すごく長いやつ。二人で一緒に巻けるくらいに長いマフラーを編むの。夏の間にいろいろと考えていたんだけど、マフラーにすることにした。『赤いマフラー』。ねえ、叶くん。マフラーは冬までには、編み終わると思うからさ、もし完成したらさ、……ちょっと恥ずかしいと思うけど、この私の手編みのマフラー、……一緒に巻いてくれる?」

 とまるで周囲にある公園の紅葉した木々の葉のように、顔を赤くしながら祈は言った。

 そんなまるで、十歳くらいの女の子みたいな、可愛らしい祈を見て、くすっと笑ってから、「もちろん。一緒に巻くよ。それに、全然恥ずかしくないよ。むしろ嬉しいくらいだよ。祈の手編みのマフラーを祈と一緒に巻けてさ」とにっこりと笑って、村田叶は、自分の大切な恋人である(自分の一つ年上の女の子)鈴木祈にそう言った。

 すると「本当!? ありがとう、叶くん!」とにっこりと笑って、本当に嬉しそうな顔をして、大げさにはしゃぎながら、祈は叶にそう返事をしてから、その頬にそっと、優しくありがとうのキスをした。


 森の中の小道 終わり

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森の中の小道 雨世界 @amesekai

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