森の中の小道
雨世界
1 あなたと出会ったとき、私は本当に驚いた。
森の中の小道
本編
あなたと出会ったとき、私は本当に驚いた。
叶が目をさますと、そこは深い森の中だった。見たこともない、深い森の中。その緑色の木々に囲まれた草の生える焦げ茶色の大地の上に、叶は一人で眠るようにして倒れていた。
……ここは、どこだろう?
目を覚ました叶は、上半身だけ体を起こすと、ぼんやりとする頭を軽く左右に振ってから、周囲の様子を観察してみた。
すると、そこにあるのは森の木々だけだった。
緑色の葉を茂られせている、ずっと続いている森の木々。そんな風景が叶の周囲には永遠と広がっているだけだった。
大地を観察してみても、地面の上には道もない。それだけではなくて、自分がここまで歩いてきた足跡、あるいは移動をしてきた痕跡のようなものもどこにも見当たらなかった。
叶がそんな風景を見てぼんやりとしていると、空の上で、鳥が小さな声で鳴いた。
……僕はどうしてこんなところにいるんだろう? どうやって僕はこの場所までやってきたんだろうか?
叶はそんなことを考えてみる。でも『なにも思い出せない』。
……うん? あれ? おかしいな。えっと、僕は……。
そうやって自分の頭の中にある様々な記憶をたどってみる。でも、その道筋はどれも行き止まりばっかりだった。
叶は、やっぱり『なにも、自分の過去が思い出せなかった』。
叶が覚えているのは、叶(かなう)と言う自分の名前と、自分がどこかの高等学校に通っている現役の高校生であるということだけだった。(叶のきている服装は、高校のブレザーの制服だった。そのことも叶の記憶が間違っていないことを裏付けていた)
それ以外はなにも思い出せない。
ただ、幸いなことにこんな状況でも、『記憶はなくても、知識はちゃんと叶の頭の中に残っていた』。
これからとりあえず森の中を移動したり、あるいはこの場所で助けを待つためにしばらくの間生活するとしても、とにかく、この場所で、生きていくために必要な知識は、ちゃんと叶の中に残っていた。(叶は、ほっとした)
叶の倒れていた地面のすぐ近くの場所には、叶うの愛用している大きめのサイズのバックが落ちていた。(それが自分の荷物であると、一目で叶にはわかった)
青い色をしたスポーツタイプの肩にかけるタイプのバックだ。
中にどんな荷物が入っているのか、それを確かめるために、その青色のスポーツバックに手を伸ばそうとしたときに、叶は自分の右手がぎゅっと閉じられていて、その右手のひらの中に、自分が『なにか』をしっかりと握りしめていることに気がついた。
……眠っている間、あるいは気を失っている間かもしれないけれど、僕が、ぎゅっと無意識に握りしめていたもの。(それは、……つまり、この握りしめているものが、僕にとって『とても大切なもの』だということだろうか?)
叶の頭の中にその握りしめているものの記憶はなかったのだけれど、それを確かめてみることは簡単だった。手を開けばいいだけだ。叶はそっと、自分の右の手のひらをゆっくりと開いてみた。
すると、そこには、『赤い紐』が一本あった。
綺麗な赤色をした結び目のある一本の長い紐。
……これはなんだろう? アクセサリー? いや、……もしかして、お守りかな?
その赤い紐は、どうやら体の一部に巻きつけることのできる(髪留めでもいいのかもしれないけれど)お守りのようだった。
でも、よく見てみると、その赤い紐のお守りは、その結び目のところではなくて、その紐の途中のところから、『ぷつん、と切れて半分に』なってしまっていた。
赤い紐のお守りはちぎれて二つになってしまった。
きっとそのせいで、たぶん自分の右手に身につけていた叶の手から、この赤い紐は落ちてしまったのだと思った。
だから叶は、その切れてしまった赤い紐を無くさないように、ぎゅっと自分の右手の中に握っていたのだと、そう思った。(記憶はなかったけど、その考えは、なぜかとても正しいように思えた)
叶はしばらくの間、その二つに切れた赤い紐の姿をじっと見つめた。
その赤い紐を見ていると、なんだかとても懐かしい気持ちになった。誰かの、すごく大切な思いのようなものが、その紐には込められている気がした。
叶は、なんだかその赤い紐から目をそらすことができなくなった。
そうして叶が赤い紐をじっと見ていると、叶の近くの森の中でがさっという音がした。
なにかが森の中で動いた音だ。
その音を聞いて叶は、はっとして、その意識を覚醒させた。
……危ない、危ない。ぼんやりしている場合じゃない。僕は今、かなり危険な状態にいることは間違いないのだ。(ただでさえ、記憶がなくて困っているのに……)
叶はとりあえず赤い紐を自分の制服のスボンのポケットの中に無くさないように大切にしまった。
それから叶は自分の青色のスポーツバックを肩に背負うと、音のしたほうに体を向けた。
叶はいつでも走り出せるように、前傾姿勢をとる。(誰だろう? それとも森の動物たちだろうか? 猿や鹿ならともかくとして、犬や、最悪熊とからだったら、……本当にやばいな)
叶は、神経を研ぎ澄ませる。
目を凝らして、森を見つめて、耳を済ませて、風の音を聞こうとする。森の匂いを嗅いで、そこにいる何者かの正体を探ろうとする。
がさっと、また音がした。
やはり、なにかがいる。
……武器。木の棒でもいいから、なにか手頃なものはどこかに落ちていないだろうか?
叶は、自分の周囲の地面を見る。でも手頃な大きさの木の枝や、あるいは石のようなものはどこにも落ちていなかった。
これは、もう熊だったら逃げるしかないな。
叶は思う。(そして、なぜか小さく笑った)
案外落ち着いている。どうしてだろう? 怖いことは怖い。ほら、足だってちゃんと震えている。(叶の両足は、さっきからずっと小さく震えていた)でも、なぜか心は思ったよりは落ち着いている。
僕は死ぬのが怖くないのか? ……いや、そんなことはない。『死ぬのは怖い』。じゃあどうして僕の心は、こんなに落ち着いているのだろう?
……もしかして、『やり残したことがないからだろうか』?
記憶がないからわからないけど、もしかして記憶をなくす前の僕は、すでに『僕のやるべきこと』をやったあとなんじゃないだろうか?
だから、僕は落ちついるのか?
だから僕は、こんな深い森の中にたった一人でやってきたのだろうか?
僕は、……もしかしてこの場所で、……。いや、でも。そんなはずはない。きっと、絶対、違う。僕は……。でも……。じゃあ、どうして僕はこんな場所にいるんだ?
とそこまで叶が考えたところだった。
急に自分のすぐ目の前になにかの気配を感じた。
その気配を感じて叶はしまったと思った。考えに集中しすぎた。森の中にいるないんかの気配を探ることをすっかりと忘れていた。
叶は、無意識に下げていた視線を上にあげた。
するとその瞬間「わ!!」という『人間』の声がした。
「うわ!!」
叶は本当に驚いて、そのまま後ろに尻餅をつくような格好で倒れこんでしまった。(震える足で、前傾姿勢を突堤ことが仇になってしまった)
すると、そんな叶を見て、自分の顔の前でまるで花が咲くようにな格好で両方の手のひらを広げている、口を大きく、わ、の形で開いている叶と同年代くらいの女の子が、その情けない叶の格好を見て、にやっと口の形を変えて、それから大声で笑った。
「……な、なんだよ」驚いた表情のまま腰が抜けている叶は言った。
腹を抱えて笑っている女の子はそのまままだ大地の上に尻餅をついている叶のことを指差して「……き、君、面白い。……それに、すっごくかっこ悪いね」と笑いながら、そう言った。
(叶は、顔には出さないように我慢していたけど、初対面の自分と同い年くらいの女の子にそんな失礼なこと言われて、内心かなりむっとしていた)
「あれ? 怒った?」
女の子は叶に言う。
「別に怒ってないよ」むっとしながら、叶は言う。
「怒ってるじゃん」笑ながら女の子は言う。「怒ってない」怒りながら、叶は言う。
「はいはい。わかった。怒ってない。君は全然怒ってない」うんうんと一人で納得しながらその女の子は言った。
それから女の子は地面の上に尻餅をついている叶の前に両膝を抱えるようにして座り込むと、そこからじっと叶のことを見つめた。
叶もその女の子のことを見る
二入はお互いの顔を見つめ合うような格好になった。
……その森の中で出会った不思議な女の子は、とても綺麗な顔をした美人の子だった。
長い黒髪をした、雪のように白い肌の背の高い女の子。(叶の前に座り込む前に見えた女の子の身長は、間違いなく160センチ以上はあった。おそらく165とか、168とか、それくらいはあると思う)その女の子は、モデルとかをやっていても全然違和感のないような美しい顔と細く整った体をしていた。
着ている服は真っ白な無地のフード付きのパーカーと白のハーフパンツ。足元は黄色のスニーカーを履いていた。荷物はなにも持っていない。アクセサリーのようなものも、腕時計なども、余計なものはなにひとつ身につけていなかった。
その女の子はとても印象的な目をしていた。大きくて綺麗な目。(まるでガラス細工のようだと叶は思った)
その瞳に見つめられていると、なんだか、自分の心がすべてその女の子に読まれてしまうのではないか? 伝わってしまうのではないか? と思えるような透明で綺麗な、……そんな純粋な瞳を女の子はしていた。女の子の大きな黒目の中に写り込んでいる自分の顔を見ながら、叶はそんなことを考えていた。
「どうしたの? じっと見つめちゃって。私に一目惚れでもしたの?」
少し首をかしげて女の子は言った。
女の子が首を動かすとその長い髪の毛がかすかに叶の目の前で揺れ動いた。
その女の子の長い髪の毛からは、とてもいい匂いがした。凛と咲く白い花のような匂い。あるいは、雨上がりの少し湿気を残した、森の匂い。……残り香のような、雨の匂い。そんな匂いがその女の子の長い黒髪からは漂っていた。
確かにその女の子は美しかった。叶でなくても、この年頃の男の子なら、ほとんどの男の子がその女の子を見て一目惚れをしてしまうような姿をその女の子はしていた。
でも、叶がその女の子の顔から目をそらすことができなくなったのには、別の理由があった。
「違うよ。そうじゃない。……ただ」
「ただ?」
もう一度今度は逆の方向に首をかしげて女の子は言う。
「……僕たち、以前にどこかであったことないかな?」とその女の子の顔をじっと見つめながら、叶は言った。
記憶喪失のはずの叶は、なぜか、その女の子の顔に見覚えがあった。その女の子のことを以前どこかで見たことがあるような気がしたのだ。
叶はじっと女の子の顔を見つめた。
すると、その女の子はそんな叶の言葉を聞いて、「……ねえ、それってもしかして君は私のことを口説こうとしているの? なんだ、やっぱり私に一目惚れじゃん。君、素直じゃないね」
と、一度ため息をついたあとに、その女の子は叶に言った。
「君は弱虫だね。それに、素直じゃないし、臆病者だね」
そう言って、君は情けなく腰を抜かしている僕を見て、本当に幸せそうな顔でにっこりと笑った。その君の笑顔を僕は今も覚えている。そして、きっと一生忘れることはないはずだと思う。
……叶はまた、その女の子の『どこか見覚えのある顔』に、視線が釘付けになった。
「はい。どうぞ。弱虫くん」
そう言って女の子はその細くて白い小さな手を叶に向けて差し出した。どうやら叶が立ち上がることを女の子は手伝ってくれるみたいだった。
「……ありがとう」
そう言って叶はその女の子の差し出してくれた手を握った。
……女の子の手はすごく冷たかった。
叶は女の子の手を借りて地面の上に立ち上がった。(でも、まだ叶の両足はぶるぶると震えたままだった。そんな叶のことを見て、女の子はまた腹を抱えて笑った。叶はその顔を真っ赤にした)
「それで、なんであんなことしたんだよ?」と制服を両手ではたいて、土の汚れを落としながら、叶は言った。(叶の顔はまだ真っ赤だった。叶の言葉には若干の照れ隠しの意味もあった)
「あんなことって?」言っている意味がわかんないよ、と言った表情をして女の子は言う。
「僕を突然、驚かしたこと。こんな森の中であんなことをされたら、誰だって腰を抜かすよ。僕じゃなくてもね」強がって叶は言った。(弱虫と言われたことを叶は気にしていた)
「ああ、あれね。あれはね……。そうすれば君が元気になるかなって思って」とにっこりと笑って女の子は言った。
「元気に? 僕が?」叶は言う
「そう。元気になって、少しは明るくなるかなって。そう思ってわって大声をだして君を驚かすことにしたんだよ?」なにか文句ある? と言いたげな表情で女の子は言った。
「君に驚かされなくても、僕はもともと元気だよ」まあ、記憶はないけどね、と心の中でつぶやきながら、呆れた顔をして叶は言う。
それから叶はちょっと気になって、自分の頭を髪の毛の上から触ってみた。もしかしたら自分が記憶喪失になったのは、なにかの拍子で森の中で強く頭を打ったからではないのか? と思ったからだった。
でも確認してみると、どうやら頭に怪我とかしているわけではないようだった。叶は安心したのだけど、ではなぜ僕は記憶喪失なのだろう? と言う叶の疑問は残ったままになってしまった。
「そうかな? そうは見えなかったけどな。さっきの君は本当に『深刻な顔』をしていたよ? 『すっごく不安そうで、思いつめた顔』をしていた。まるで『生きているって感じがしなかった』。私、最初に君を森の中で見つけたとき、『あの人は幽霊かもしれない』、……うわ、私、もしかして幽霊を見ちゃった? ……って思ってすごく驚いたくらいだったんだからね」
と女の子は言った。
女の子にそう言われて、叶は驚いた表情をする。
……幽霊かもしれない? 誰かにそう思われるくらい、僕はそんなひどい顔をしていたのか? ……自分では全然気がつかなかった。
叶はそう思ってから、「じゃあ、君は結構前から僕のことをこの森の中から見ていたの?」と女の子に聞いた。すると女の子は「そうだよ。ずっと見てた。君のこと。森の中から」と全然悪気もない表情で、今度は呆れた顔をしている叶にそう言った。
「どう? 少しは元気になった?」にっこりと笑って女の子は言った。
よく考えてみると、叶はその女の子の顔だけではなくて、その女の子の声にも、聞き覚えがあった。女の子の声は、叶がどこかで叶が聞いた覚えのある声だった。
「うん。……まあ、少しは」と叶は言った。その言葉は嘘ではなかった。叶は女の子と出会ってから、確かに結構、元気になっていた。(まあ、だからと言って人をいきなり、驚かしていいというわけではないのだけど……)
「ならよかった」本当によかったというような顔をして、女の子は叶に言った。
……そのあと、二人はそのまましばらくの間、お互いに相手の顔を見つめ合うようにして、なんとなく黙ったまま、じっとしていた。
叶は女の子に手を引かれて、地面の上に立ち上がっていたので、(もう足もぶるぶると震えてはいなかった)叶と女の子は深い緑色をした静かな森の中で向かい合うような格好になっていた。
女の子の背はやっぱり高くて、身長が180センチ近くある叶の胸のあたりに女の子の顔があった。おそらく168センチはあるだろう。最初の叶の予想はだいたい当たっていたことになる。
長く真っ直ぐな(まるで絹のように綺麗で特徴的な美しい)黒髪は腰のあたりまで伸びている。
とても大きな黒い目が叶のことをじっと見ている。
白い綺麗な形をした耳が、長い黒髪の外に出ている。
細くて整った眉。
小さい鼻。そして、……小さな赤い唇。
見れば見るほど、女の子はとても綺麗な女の子だった。
女の子の言う通り、この女の子に一目惚れをしても全然おかしくはなかった。でも、違う。僕は女の子に一目惚れをしたわけではない。本当に、この女の子の顔に見覚えがあった。叶は本当に、『以前にどこかでこの女の子と会ったことがある』ような気がした。
そんな風にして、ずっと叶が女の子のことを見ている間、その女の子はずっと叶のことを見て、優しい顔で微笑んでいた。
「どうかしたの? 私の顔になにか付いている? それとも私の顔、どこかおかしい?」と女の子は言った。
「いや、どこも変じゃないよ。本当にすごく綺麗だ」と叶は言った。そう言ってから叶は、自分の言葉にとても驚いた。初対面の女の子に綺麗だなんて言うなんて、本当にこの女の子を口説いているみたいだと思った。
女の子は叶の言葉を聞いて少し驚いたみたいだった。女の子はその大きな目をぱちぱちとさせた。(長いまつげがとても魅力的だった)
それから女の子は、顔を赤くして、ちょっとだけ照れながら「どうもありがとう」と叶に言った。
「どういたしまして」と女の子に叶は言った。
二人は、また沈黙した。
叶は、一度、思わずその視線を女の子からそらして一瞬だけ斜め上の緑の森の風景を見たが、(女の子も、視線を地面の上に向けたようだった)それからまたすぐに、やっぱり見覚えのあるその女の子の綺麗な顔を見る。
すると女の子も、いつの間にか、じっと叶のことを見つめていた。
二人の視線は、また自然と重なった。(そういう力が二人の間にあるかのように、引き合った)
叶と同じ年頃に見える、高校生くらいの年齢の、背の高い、長い黒髪をした、とても美しくて、綺麗で、魅力的で、そして以前にどこかであったことがあるような気がする不思議な女の子。
どうしても、君の顔から目をそらすことができない。叶はまたその女の子の顔から視線を動かすことができなくなった。(もしかしたら、本当に僕はこの女の子が言っている通りに、一目惚れの恋をしているのかもしれないと叶は思った)
叶がじっと女の子のことを見ていると、やがて女の子はにっこりと笑って、さっきと同じようにもう一度、その右手を叶に向かって差し出した。
「……えー、では、いつまでもこうしていても仕方がないので、改めまして、私から自己紹介をします。やあ、こんにちは。私の名前は祈(いのり)です。鈴木祈。よろしくね。弱虫くん」
そう言って祈は叶を見て、にっこりと笑った。
口調は少しふざけているけど、その笑顔は相変わらず、本当に魅力的な笑顔だった。
……いのり。鈴木祈。すずきいのり、……か。
この女の子の名前は鈴木祈というのか。
いのり。いのり……。
もしかしたらこの女の子の名前を聞けば、この女の子のことを僕はなにか思い出すかもしれないと、叶は少しだけそう思って期待していたのだけど、祈の名前を聞いても、叶はなにも思い出すことはなかった。
そのことが叶は少し、(いや、かなり)残念だった。
それに叶は、(その顔や姿形や声と違って)……その名前にはまったく聞き覚えがなかった。
やっぱり僕の思い違いなのかな? 記憶喪失といい、僕は今、自分で思っている以上にかなり混乱している状態にあるのかもしれない。
森の中で偶然出会った綺麗な女の子を見て、その女の子にデジャビュのような、あるいは運命のようなものを感じてしまうくらいに……。(あるいは、生まれたばかりの赤ん坊が初めて見る動くものを自分の母親だと勘違いしてしまうみたいに、記憶を失った僕は、それから初めて出会った人間である祈に対して、あるいは、『運命のような気持ち』を感じているのかもしれない)
「ほら、じゃあ、次」
「え?」叶は言う。
「だから、次は、弱虫くんの自己紹介だよ。私が名前を名乗ったんだから、君も自分の名前を私に名乗るの。それが、普通。当たり前でしょ? それとも君はずっと私の中で弱虫くんのままでもいいの?」と笑顔のままで、祈は言った。
それは確かに嫌だった。
僕は弱虫じゃないし、弱虫くんという名前でもない。
僕にはちゃんと村田叶という名前があった。(叶という名前は自分でも気に入っている名前だった。少なくとも弱虫くんよりはずっといいと思った)
「それに握手。ほら、早く手を握ってよ。いつまで私はこうして君に手を差し出していればいいの?」
今度は、ちょっと不満そうな顔をして、祈は言う。
「え? ……あ、うん。ごめん」
ぼんやりしていた叶は、はっとなって、祈に言う。
「君は弱虫くんでもあって、ぼんやりくんでもあるんだね。さっきからなんども、ぼんやりしてるよ。なんだか、『心がここにないって顔』している」にやにやと笑いながら、祈は言った。
祈にそう言われて、恥ずかしさで顔を赤くしながら、叶は、そっと祈の差し出してくれた手を遠慮がちに握った。(祈の手はやっぱりすごく冷たかった)
それから叶は、「えっと、こんにちは。僕の名前は弱虫くんでもぼんやりくんでもなくて、叶です。村田叶。よろしく。……えっと、鈴木さん」と一度咳払いをして照れ隠しをしてから、叶は祈にそう言って、自分の自己紹介をした。
「……叶(かなう)。……村田叶(むらたかなう)」
祈は、叶の顔をじっと見ながら、叶の名前をそんな風にして、まるで呪文のように、小さな声で口にした。
「そう。村田叶。それが僕の名前だよ」とにっこりと笑って叶は言った。(恥ずかしがってしまったさっきの自己紹介とは違って、今度はちゃんと自分の名前を照れずに祈に伝えることができて、よかったと叶は思った)
「……叶。……村田叶くん」
祈はまた、叶の名前を小さな声で言った。
祈の視線はどこか遠いところを見ているような、そんな風に見えた。叶のことをじっと見ているようで、まったく別の、どこか違うものを見ているように思えた。視点もあっていないように見える。明らかに祈の様子は今までとは違っていた。
「? ……どうかしたの? 僕の名前、どこか変かな?」と叶は言った。
すると祈はその叶の言葉を聞いてはっとすると、いつもの調子に戻って、「……あ、ううん。そんなことないよ! 全然変じゃない! すごく、本当にすっごく素敵な名前だと思うよ! 叶っていう名前」と慌てた様子でにっこりと笑って、叶に言った。(そんな祈を見て、叶はまるでついさっきの自分のようだと思って、なんだかちょっとだけ、そんな自分たちの似ているぼんやりとした反応のことを面白いと思った)
そんな祈を見て、くすっと思わず『叶は笑った』。
「あ、叶くんが笑った」
と驚いた顔をして祈は言った。
「ずっと無表情のままで、全然笑わないから、叶くんのこと、ああ、この人は『笑わない人』なんだって、私、勝手に思ってた」
「……え?」叶は言う。
……笑っていない? そんなことはない。僕は笑うことが大好きだったはずだ。僕はずっと一日中、楽しくて、幸せで、ずっと笑っているような子供だったはずだった。……でも、確かにさっきからずっと、僕は笑っていなかったような気がする。どこかで少しだけ笑ったような気もするけど、確かに思い返してみると、僕は森の中で目覚めてから、ずっと無表情のままだった。
……こうして祈に出会うまでは。
「まあ、笑った理由については、この際、今回だけは大目に見てあげよう。なんだかちょっとだけだけど、本当に私のおかげで、叶くんは元気になったみたいだからね。それに叶くんが笑ってくれると、なんだか私も嬉しいしさ」と本当に嬉しそうな顔をして祈は言った。(でも、そう言いながらも、祈は握手をしている手の力をぎゅっと思いっきり強めていたのだけど……。どうやらぼんやりしている祈を見て叶が笑ったのだと、祈自身はそう勘違いをしているみたいだった)
「……なるほど。村田叶くんか。君は弱虫くんでも、ぼんやりくんでもなくて、村田叶くんっていう名前なんだ。村田叶くん。……うん。本当にいい名前だね。本当に叶くんにぴったりの名前だと思う」
思いっきり叶の手を握ったあとで、満足がいったのか、あるいは気が済んだのか、いつもの調子に戻った祈は、笑顔でもう一度、そう言って、叶の名前を褒めてくれた。
「ありがとう。鈴木さん」と叶は言う。
「それ。さっきからずっと気になってた。鈴木さんじゃなくて、祈。祈でいいよ。私も叶くんのこと、もう叶くんって名前で呼んでいるんだからさ。私も鈴木さんじゃなくて、祈。ね? そのほうがお互いに遠慮しなくていいでしょ? 私たち、年齢も同じくらいみたいだしさ」
祈にそう言われて、叶は少し困ってしまった。
叶は誰かのことを名前で呼ぶことにあまり慣れていなかったのだ。
「……祈さん」照れながら、叶は言う。
「祈。さんはいらないよ」と不満そうな顔をして祈は言う。
「……祈」叶は言う
すると祈は嬉しそうな顔をして、「うん! それでいいよ。叶くん!」とにっこりと笑って、そう言った。
二人はそんな会話をしながら、ずっと手を繋いだままだった。
なんとなくだけど、二人とも、……このままお互いの繋いでいる手をすぐに離すことができないでいた。
それから少しして、二人は握手をしていた手を離した。
……それは、どちらから手を離したのだろうか? よくわからない。叶からだったような気もするし、祈からだったような気もする。でも、とりあえず二人はお互いの手を離した。そして、自分と祈の手が離れてしまったことを、叶はなんだかすごく悲しいことだと思った。
「どうかしたの?」そんな気持ちが顔に出ていたのかもしれない。優しい顔で祈が言った。
「……ううん。なんでもない」にっこりと笑って、叶は言った。
叶が自分が記憶喪失であるということを祈に話すと、祈はまた、腹を抱えて爆笑した。
「そんなに笑うことないだろ」顔を真っ赤にしながら叶は言う。
「……ご、ごめん。ごめんなさい。でも、だって、……叶くん。君、面白すぎるよ。ここがどこだかわからない。なんで自分がこんな場所に一人でいるのかもわからない。おまけに弱虫くんだし、ぼんやりくんだし、さっきまで全然笑わないし、さらに、『記憶喪失』なんだって。……本当に叶くん。君は最高に面白いよ。……もう、ちょっと待ってよ。それ私のことからかっているわけじゃないんだよね? 本当のことなんだよね?」
と笑いながら、祈は言った。
「本当だよ。全部本当のことだよ」と祈の背中を追いながら、森の中を歩いている叶は言う。
するとまた、祈は腹を抱えて爆笑した。
「ちょっと待って。死ぬ。死んじゃう。……笑い死にしちゃう。……本当に死んじゃう」
と笑いながら祈は言った。
顔を真っ赤にしたままの叶は、「おい。そんなに笑うなよ。僕は本当に困っているんだよ」と祈に文句を言った。
「ごめん。ごめんなさい。……でもさ、そんなことってある? ふふ。叶くん。最高だね。君は本当に」と祈は言った。
そんな祈のことを見て、叶は(二人が初めて出会ったときのように、また)内心、むっとした。
どうやら祈は、叶が元気がないように見えたから、叶のことを元気付けるために、あえて、叶のことを驚かせたり、叶うの前で笑って見せたりしていたようだったけど、でも、どう見ても今の祈は、心の底から笑っていた。明らかに叶のことを馬鹿にしていた。
「僕、先にいくよ。こっちに歩いていけばいいんでしょ?」と少し早歩きをして叶は祈に言った。
「あ、こらこら。待ちなさい。森の中は危険なんだよ。まずはこの森のことに詳しい祈お姉さんに任せておきなさい。叶くんは私の後ろについてくること。いい、わかった? ちゃんとお姉さんと約束できる?」
と叶のことを見て、祈は言った。
歩きながらの会話で判明したことなのだけど、祈は十八歳で、今、十七歳の叶の一個上の年齢のお姉さんだった。
そのことが判明してから、ずっと祈は叶のことを一個下の年下の男の子扱いしてからかっていた。
叶のほうも、祈が同い年ではなくて、一個上の年上のお姉さんだとわかると、今までのように、あんまり強く祈に反論することができなくなった。
「どうしたの? 叶くん。もしかして怒ったの?」と笑いながら祈は言った。
「なんでもないよ。なんでもない」とそっぽを向いて叶は言った。
森の中には、気持ちのいい澄んだ風が吹いていた。その透明な風が生い茂る森の木々の葉を揺らして、さらさらという小さな音を立てている。
遠くの空では相変わらず、鳥が小さな声で鳴いている。
最初は突然のことで、そんなことを考えている余裕は全然なかったのだけど、こうしてあらためてこの森の中を見ていると、ここはとても素敵な場所だと叶は思った。
……とても静かで、清らかで、本当に素晴らしい場所だった。
道のない森の地面の上には、ところどころに綺麗な花が咲いていた。
真っ白な花だ。
その花を見て、叶はすごく綺麗だ、と思ったのだけど、花の知識を持たない(記憶喪失とは関係なく、叶は草花にまったく興味がなかった)叶にはその花の名前がわからなかった。そのことがとても残念に思える。(少しくらいは勉強しておけばよかった)
その白い花の名前を祈に聞こうかとも思ったのだけど、叶はやめることにした。(また祈に、君はそんなことも知らないの? と言われて、馬鹿にされるかもしれないと思ったからだ)
真っ白なパーカーに真っ白なハーフパンツ姿の祈の後ろ姿は、どこかその森の中に咲いている白い花の姿に似ていた。
祈は叶よりも先に道のない森の中の焦げ茶色の地面の上を軽快なリズムで足を動かして進んでいた。祈が森に慣れているという言葉は、どうやら本当のことのようだった。祈はまるでずっとこの森の中で生活してきた人のように、まったく迷うことなく、木々の間を歩いて、だんだんと少し上り坂になっている森の中の地面の上を一定のペースを守って進んでいた。(祈はその華奢な見かけによらず、とても体力があった。叶は息を切らせて歩いていたけど、祈は全然、そんなことはなかった)
祈は時折、後ろを振り返って、「大丈夫? 叶くん」と言って、森に不慣れな叶のことを気にしてくれた。
祈が後ろを振り向くたびに、叶は祈に「大丈夫だよ」と言って、にっこりと笑って返事をした。
すると祈は安心したように笑って、また前を向いて深い緑色の森の中を進んだ。叶はそんな祈の背中を見失わないように、必死に歩き慣れない森の中を歩いて進んでいた。(叶の少し前にある風景では、ずっと、祈の腰まである長くて美しい黒髪が、ゆらゆらと祈の歩くリズムに合わせて揺れていた)
でも、いつまで歩いても、周囲の風景はほとんどなにも変わらなかった。
……この森は、まるでどこまでもどこまでも、永遠に続いているかのように叶には思えた。(あるいは、もし自分一人であったならば、本当に森は永遠に続いていたのかもしれないと思った)
でも、この森にはちゃんと『終わり』があって、深い緑色の森の先には広い薄緑色の草原が広がっているということだった。
その薄緑色の草原の中にある一軒の古い小屋で、祈はずっと一人で生活をしているらしい。
森の中で倒れていた叶に「とりあえず、用事がないなら、一緒に私の暮らしている家にこない? ずっと一人で暮らしていて、最近、少し暇だったんだ」と言って、自分の住んでいる小屋に祈は叶を誘った。
森の中は叶が思っている以上に危険な場所だし、この辺りには祈の住んでいる小屋以外に、人の生活している場所はないということだった。(どうやらほかに選択肢はないらしい)
そんな風にして、いきなり私の家にこない? と祈に誘われて、叶は最初、本当に戸惑ってしまった。
祈は本当に優しくて、森の中で知り合いになったばかりの叶にも、すごく親切にしてくれるけど、でも、だからと言って、その優しさに素直に甘えて、一人で暮らしている女の子の家に出会ったばかりの男の子である自分がお世話になってしまっていいのか? と考えたからだった。
叶がそんな風にして一人で考え込んでいると、祈はそんな叶の考えをその表情から感じ取ったようで、「今は緊急事態なんだから、そんなに深く考える必要はないよ。それに叶くんだって、このままこの深い森の中で、一晩過ごすつもりじゃないんでしょ? それに大丈夫だよ。別に叶くんのことを、捕まえて、食べよう、なんて私はちっとも思っていないからさ」
とその歯をがじがじと動かしてから、にっこりと笑って祈は言った。
もちろん叶は自分が祈に食べられてしまうとは、これっぽっちも思っていなかったけど、でも祈は全然そんな風には思っていないようだけど、叶だって、一応、立派な十七歳の男の子だった。(弱虫でも、ぼんやりしていても、記憶がなくても、男の子であることには変わりがなかった)
女の子の祈にそう誘われて、「じゃあ、わかった。すごく困っているから、今日は君の家にお世話になるよ」と言って、ほいほいと出会ったばかりの一人暮らしの女の子の家に転がり込むわけには行かなかった。
……でも、こうして、祈と一緒に森の中を歩いていることからも(ある程度)わかるように、叶は結局、しばらくの間、悩んだあとで、祈の親切なお誘いを受けることにした。
それはもちろん、祈が言ったように、森に慣れていない都会育ちの叶にはこれから森の中で、どっちに進んでいいのか、まったくわからなかったし、それに、あるいは奇跡的に、もし本当に、この深い森の中を偶然、外に出られたとしても、記憶喪失の叶にはもう、帰る家も、場所も、友達も、家族のことも、つまり叶を待ってくれている人がこの世界のどこかにいるのかどうかも、本当になにもわからない状態だったからだ。(そういう意味では、叶は迷子だった。帰る場所がない、待つ人のいない、永遠の迷子だ)
……あと、それにもっとも大きな理由として、やはり『鈴木祈』という森の中で出会った一人の不思議な女の子の存在があった。
叶は今でも、どうしても以前にどこかで、祈と会ったことがあるような気がしてならなかった。
鈴木祈という自分と同じ年頃の一人の女の子のことを、自分が以前から知っているような気が、祈と初めて出会ったときから、ずっとしていた。
だから叶は、祈のお誘いを受けたのだ。
……もう少し祈のそばにいれば、祈のことについて、なにかを思い出すかもしれないと思った。
そう思った叶は「わかった。じゃあ、本当に申し訳ないけど、……今日のところは、祈の家で、その、……お世話になってもいいかな?」と遠慮がちに祈に言った。
すると祈は「……うん。それがいいよ。すっごくいい。今までで一番いい答えだよ。その答えがきっと正解だよ。たった一つの本当の答え。……そのことは叶くんに私が保証してあげる」とにっこりと本当に嬉しそうな顔で笑って、叶に言った。
「ねえ、祈。僕と君は、以前にどこか出会ったことないかな?」
森の中を歩きながら、叶は言った。
「まだそんなこと言っているの? 会ったことないよ。叶くんと私が出会ったのは、ついさっきの森の中で会ったことが初めてだよ」
後ろを見て、祈は言った。
二人の進んでいる森の中の道なき道は、だんだんとその上方向への傾斜を増していき、今、二人は四つん這いになるような格好で、木の幹や丈夫そうな緑色の草に掴まったりしながら、焦げ茶色の地面の上を、無理やり、よじ登るようにして進んでいた。
はじめは気がつかなかったのだけど、森の木々はどこか湿気のようなものを多く含んでいるようだった。つい最近、雨が降ったのかもしれない。
そういえば、森の木々からは、雨の匂いがした。
気持ちのいい夏の風が運んでくる、木の香りと土の匂いと、雨の匂い。
(そう、今、季節は夏だった。そんなことをその匂いを嗅いで、村田叶は思い出した)
その匂いは、祈の長くて美しい黒髪から漂っていた匂いと同じ匂いだった。
雨の降ったあとの、雨上がりの森の香りのする女の子。
そんな女の子は、今、叶の少し前の場所を、まるで野生の小猿のように、機敏な動きで、森の木々や草をかき分けるようにして、斜めになった地面の上を軽快な動きで進み続けていた。
「まだ気にしてたんだ。そんなこと」
と祈は木の幹に手をかけながら、叶に言った。
地面の傾斜はさらにきつくなって、そろそろ急な上り坂と言うよりは緩やかな崖とでも言ったほうがいいくらいに、地面の向きは険しく、厳しくなった。(叶はそろそろ限界に近かった。もともと体力があるほうではないけれど、それだけではなくて、どうやら思った以上に、気を失っている間に、体力を消耗していたようだった)
「本当に僕と君は会ったことがない?」
「ないよ。本当にない」
祈は言う。
「本当に?」
「本当だよ。本当にない」祈は言う。
それから祈は「よいしょっと」と言って、地面から斜めに生えている、大きな木の枝の上に腰を下ろすようにして、座った。
それからその手を後ろから登ってきた叶に差し出して、「ここでちょっとだけ休憩しよう」と叶に言った。
「わかった。そうする」と叶は言った。
叶はにっこりと笑って、まだ余裕がある、と言ったような表情をしたけど、実際には、もう手が木をしっかりと掴むことも難しくなっていた。
叶が祈の差し出してくれた手を掴むと、叶の手はふるふると小さく震えていた。
「叶くん。手、震えてるよ」
にっこりと笑って祈は言った。
「高いところが苦手なんだ。ただそれだけだよ」と一度、自分のいるところから、下の地面を見てから、叶は言った。
二人のいる場所は、いつの間にか、最初にいた地面から、だいぶ高い位置に変わっていた。(本当に高いところが苦手な人なら、たぶん、この場所にくることはできないくらいの高さはあった)
「強がっちゃって。疲れたなら疲れたって正直に言えばいいのに」にっこりと笑って、祈は言う。
そんな祈の手からは、新鮮な土の香りがした。
祈の座っている大きな木の枝の横に座った叶がはぁはぁと荒い息を整えながら、自分の泥だらけの手のひらの匂いを嗅いでみると、そんな祈と同じ、新鮮な土の香りが漂っていた。
……悪くない。いい香りだ。
にっこりと笑って、そんなことを全身、泥だらけで、汗だくの叶は思った。
「……叶くんはさ、記憶喪失の割には、すごく落ち着いているね。どうしてだろう?」
その祈の声を聞いて、叶が隣に座っている祈のほうにその顔を向けると、祈はじっと森の奥のほうにその目を向けていた。
森の中に吹く風に、祈の長い黒髪が、美しく揺れている。祈の白くて小さい綺麗な耳が、その揺れている黒髪の中で見え隠れしている。
叶は、そんな祈りの美しい、まるで一枚の絵画のような横顔をじっと見つめる。
二人の周囲に吹く、小さな風の音が聞こえる。
「……そうかな? 僕、そんなに落ち着いてるかな?」叶が言う。
「うん。落ち着いているよ。すごく落ち着いている」視線を動かして、叶の顔を正面から見て、祈は言う。
祈の大きな黒い瞳がじっと叶のことを見つめている。
……そう言われてみると、確かにそうかも知れない、と叶は思った。
確かに僕は、記憶をなくした割には、すごく落ち着いてるかも知れない。
本来ならもっと慌てるべきなのかも知れない。
本当なら、もっと、僕は『自分の身に起こった不可解な出来事』について、真剣に考えるべきなのかも知れない。
でも、僕はそんなこと全然考えていない。
……あんまり、気にもなっていない。(気になるのは、祈のことばかりだった)
……いや、むしろ気にならないどころか、……僕は。
そう考えると、なぜか叶の胸は、少しだけ痛くなった。
「もし、もしだよ。私が記憶喪失になってさ、どこにも知らない場所の中でたった一人で目を覚ましたとしたらさ、きっと、私だったら、もっと焦ってしまうと思う。きっと、ううん。絶対に怖くて泣いちゃうと思う。大声で叫んだり、悲鳴をあげながら、『誰か私を助けて!!』 って、泣きじゃくりながら、叫んじゃったりしちゃうと思う。それが普通だと思う。……でも、それなのに叶くんは、なんだかずっとどこかぼんやりしているし、……それに、ずっと私に以前に君とどこかで会ったことないかな? とか、そんな変なことばっかり聞いてくるし……。全然、泣いたり、叫んだり、助けを求めたりしない。なんだか全然真剣じゃない。まるで、自分の身に起こったことじゃないみたいに見える。全部が自分のことじゃない。全部が他人事みたいに思えるよ」
と真剣な顔で祈は言った。
「……きっと、あんまりいい思い出がなかったんだよ。記憶を失う前の僕には。きっと忘れたいことばっかりだったんだと思う。……だからじゃないかな?」
祈を見て、小さく笑って叶は言う。
二人は、その叶の言葉のあとで、少しの間、沈黙する。
「なんだか、すごく悲しいことをいうね。お姉さんは寂しいな」とまた、森の奥のほうに目を向けて、小さな声で祈は言った。
叶は、祈が見ている森の奥のほうに目を向ける。
するとそこには暗い、本当に暗い闇があった。木々の間にある、真っ暗な闇。なにもかもを飲み込んでしまいそうな闇。
……『森は叶くんが考えている以上に、危険なところなんだよ』。
そんな祈の言葉を、叶はその闇を見て思い出した。
叶はじっと、その闇をみつめた。
闇はただ、そこにあった。
……いつまでも、いつまでも、そこにあり続けた。
二人の座っている大きな木の枝は、がっしりとしていて、ちょっとやそっとのことでは、折れたり曲がったりするようには思えなかった。
でも、それでも、祈がいきなり、そんな大きな木の枝の上に勢いよく立ち上がったときは、隣にいた叶は思わず、「うわ!」と声を出して、すごくびっくりしてしまった。
「びっくりした?」
くすくすと笑うながら、楽しそうな顔で祈は必死に木の枝にしがみついている叶のことを見ている。
祈が立ち上がった衝撃で、大きな木の枝がまだぐらぐらと揺れている。
「危ないよ、祈」慌てた顔をして、叶は言う。
「大丈夫だよ。慣れているから。それより、ほら。ちゃんと見ていてよ!」
そう言って祈は「よっと!!」と掛け声を出して、大きな木の枝から躊躇なく、思いっきりジャンプをすると、そのままなにもない空中を飛び越えで、向こう側にある、もう一本の大きな木の枝の上にそのままの勢いで飛び乗った。
「危ない、祈!!」
と言って、手を伸ばした叶はすごく慌てたのだけど、祈は全然平気なようで、「おっとっと」といいながら、向こう側の大きな木の枝の上で、一本足で立ちながら、ぐらぐらと体を揺らしながらバランスをとると、そのままゆっくりと叶のほうを振り返って、「どう? すごいでしょ?」と両足を揃えてから、楽しそうな顔で言った。
そんな祈のことを見て、叶はほっとして、胸を撫で下ろしたあとで、なんだか、すごく呆れてしまった。
「祈はいつもこんなことをしているの?」
叶は言う。
「まあ、暇なときはね」にっこりと笑って祈は言う。
それから祈は向こう側の大きな木の枝の上に座った。
二人は二つの少し距離の離れた場所にある大きな木の枝の上に座って、向かい合うような格好になった。
また、二人は少しの間、無言になった。
その間、ずっとお互いの顔を、二人はじっと見つめていた。
「……きっとさ、誰かと私を間違えているんだよ。その人、きっと私によく似ていたんじゃないかな?」と叶を見て祈は言った。
「君に似ている人なんて世界中探してもどこにもいないよ」と真顔のままで叶は言った。
そんなことを言う叶を見て、祈は向こうの大きな木の枝の上で、なんだか複雑そうな顔をして、……でも、そのあとでちょっとだけ嬉しそうな顔をした。
「どうもありがとう」と顔を赤くして、祈は言った。
こうして祈にお礼を言われるのは、今日二回目のことだった。(もう! 褒めたって、なにも出ないよ!! とこのあと、真っ赤な顔の祈は大声で叶に言った)
崖のように険しく厳しい大地を越えると、地面は今度は緩やかな下り坂になった。「さっきのところが難所なんだ。あとはもうこの下り坂を進めば、森を抜けられるよ」と祈は言った。
その森の終わりが近いことと関係しているのかわからないけど、周囲の風景はさっきよりもだいぶ明るくなった。
太陽の日差しがところどころ、森の木々の間から差し込んでいるところがある。
森の木々はその光に照らされて、随分と明るい色に輝いて見えた。木々の葉は、今もたくさん二人のいる周囲には、生い茂って入るけれど、でも、さっきまでいた森と比べるとだいぶ、その数が少なくなったような、あるいは、その印象が薄くなったような気がする。(深かった森がだいぶ浅くなった気がする)
その証拠に、ここからはさっきまでは、あまりよく見えなかった空が見えた。
夏の空。
雲ひとつない、青色の空が見える。
森の中に、気持ちのいい風が吹いている。
その青色の空の色と、森の中に吹く夏の風の中で、空を見上げている叶の顔は自然と笑顔になった。
(叶は気がついていなかったけど、そんな叶のことを見て、祈は嬉しそうに小さく笑っていた)
二人は、お互いに無言のまま、森の中を歩いていた。
祈が叶の少し前の地面の上を歩いて、叶のことを道案内しながら、二人は縦に並んで森の中を歩いていた。
すると、それからまた少しの変化が叶の見ている風景の中に訪れた。
森の中に『小さな土色の道』があらわれたのだ。
その道は、確かに森の中にあった。
さっきまでの焦げ茶色の土ではなくて、もう少しさらさらとした印象を受ける黄色い土の色をした道。
そんな小さな道が二人の前にはあった。
その道の隣にある黄緑色の草むらには灰色の毛並みをした野うさぎがいた。(野生の野うさぎを見たのは、叶は今日が初めてのことだったので、すごくびっくりした)
野うさぎはその灰色の耳をぴくぴくと動かしながら、じっと自分を見ている叶のことを見ていたのだけど、やがて、がさがさっと草むらの中を移動して、どこか森の中へと消えて行ってしまった。
叶はそんな野うさぎのいる風景を見てから、ふと視線を感じて祈のほうを見ると、祈はそんな叶のことを見て、小さくにっこりと、太陽の日差しが差し込む黄色い土色の道の上で笑っていた。
その黄色い土色の小さな道の上に叶は足を踏み入れる。
二人はその森の中にある小さな道の上で、また向かう合うような格好になった。
祈はじっと、叶のことを見ている。
夏の眩しい太陽の光が、二人のいる森の周囲にはたくさん差し込んでいる。
祈の体にも、(……きっと、叶の体にも)太陽の光は当たっている。
太陽の光の中で、祈の姿はきらきらと輝いて見える。眩しく光り輝いている。祈の長くて美しい黒髪が眩しく光を反射している。
祈は、その太陽の光の中で、その大きな黒い瞳をじっと叶に向けている。
太陽の光の中にいる祈は、ときどき、その距離が近くなりすぎることがあって、うっかりと忘れてしまうこともあるのだけど、相変わらず、とても綺麗だった。(さっきまで森の木々の間を駆け回っていた小猿のような女の子と同じ女の子だとは思えなかった)
ふと、祈がその視線を斜め上に向けた。なんだろう? と思って祈が視線を同じ方向に動かすと、そこには木の枝があって、その木の枝の上には子りすが二匹いて、じっと自分たちのことを見ている祈や叶のほうに、ちらちらとその目を向けていた。
夏の風が、森の木々の葉を揺らして、さらさらという気持ちのいい音を立てた。
二匹の子りすはそれから少しして、木の枝の上を移動して、さっきの野うさぎと同じように緑色の森の中に消えて行ってしまった。
叶が視線を祈に戻すと、祈も同じように叶のことをまたじっと見つめた。
祈はゆっくりと小さな土色の道の上を歩いて、叶のすぐ目の前のところまで移動をした。
「あのさ、手をさ、つないでもいいかな?」
ちょっとだけ恥ずかしそうな顔で祈は言った。
「手を?」
「うん。なんかさ、急に叶くんと手をつなぎたいって思ったの。……だめ、かな?」
顔を赤くして祈は言う。
「ううん。全然だめじゃないよ。むしろ僕も祈を手をつなぎたいって、さっきからずっとそう思ったから」といつも通りの顔で叶は言った。それはもちろん、叶の本心だった。
そんな叶の言葉を聞いて、祈はもっと、その顔をさらに真っ赤にさせる。
「……? どうしたの?」
なにかあったの? とでも言いたいような、そんな顔をして、自分の手を祈に向かって差し出している叶は言った。
「叶くんはさ、もう本当に、変なところで、度胸があるっていうか、鈍感っていうのかな? まあ、とにかくさっきから、たまに、そういう恥ずかしいことを平気で普通に私に言うよね」と祈は言った。
「……恥ずかしいこと?」
叶は首をかしげる。
「まあ、叶くんの場合は、鈍感なだけかな?」祈は言う。
それから二人は手をつないだ。
(二人とも、まだ手は泥だらけだったけど、あまり気にしなかった)
相変わらず、祈の手はとても冷たかった。
「……やっぱり、あったかいね。叶くんの手はさ」
と叶のことを見て、嬉しそうな顔で、祈は言った。
「叶くんはさ、背がとても高いね。どれくらいあるの?」と元気よく叶の隣を歩いている祈は言った。
二人はぎゅっとお互いの手を握りながら、ときどき、周囲の森の木々の様子を見たり、こうしてたわいのない話をしたりしながら、ゆっくりと木漏れ日の差し込む森の中の道を歩いている。(二人は今、縦に並んでではなくて、手をつなぎながら、お互いの肩を寄り添うようにして、横に並んで歩いている)
叶は祈に「180センチくらいかな?」と答える。(実際の叶の身長は178センチだった)
「へー。そんなにあるんだ」と祈は叶とつないでいないほうの手を自分の頭の上にあげて、背伸びをしながら、叶のことをちょっと見上げるようにして、二人の背を比べるようにしながら言った。
「私、167センチなんだ。結構身長高いでしょ? 女の子としてはさ」と祈は言った。(祈の身長はほぼ、叶の予想通りだった)
「叶くんは、女の子の身長も、高くても、低くても、あまり気にならない?」
「うん。ならない。その女の子の背の高さが僕の好きな女の子の背の高さだよ」叶は言う。
「ふーん」と祈は言う。
「叶くん。背も高いし、顔もまあまあだし、性格も真面目で、優しいから、きっと女の子にもてるでしょ?」
「覚えてないよ。記憶喪失だからね」叶は言う。
「本当かな? 怪しいな」楽しそうな顔で祈は言う。
そんな祈に叶は、曖昧な表情をする。
空の上で、鳥が鳴いている。
その鳥の鳴き声を聞いて、叶は一度、青色の空を見上げた。
「ねえ、叶くん。今日の晩御飯。なに食べたい?」祈は言う。
「晩御飯の献立?」
「そうだよ。今日は特別に叶くんのために、祈お姉さんがなんでも作ってあげるよ。今日は二人が出会った記念日だからね」にっこりと笑って祈は言う。
……二人が出会った記念日。と叶は思う。
「本当になんでもいいの?」叶は言う。
「もちろん。倉庫か冷蔵庫の中に食材さえあれば、どんなものでも作ってあげる」自信満々で祈は言う。(どうやら祈は料理の腕に自信があるようだった)
その祈の言葉を聞いて、少し考えてから、「じゃあ、カレー、かな?」と叶は言った。(ちょっと手間がかかるかな? と思ったけど、せっかくの記念日なのに、そっけない料理はちょっと嫌だなと思った。それに叶は料理を自分も手伝うつもりでいた)
「カレーね。わかった。任せておいて。それなら全然大丈夫。食材もちゃんとある。家に帰ったら、すぐに作ってあげるね。普段よりも、豪華なやつ」
とにっこりと笑って祈は言う。
「ありがとう」と叶は言う。
少し歩くと、風景にまた変化が訪れた。
二人の正面には小さな土色の道の先で、森の木々の葉が、大きく開いている場所がある。
そこはどうやら、森の出口のようだった。
……森が、もう直ぐ終わるのだ。(森には本当に『終わり』があった)
その場所は、太陽の光で満たされている。その先の風景がよく見えないほどに、眩しい光で満ちている。
叶はぎゅっと、祈を手を思わずちょっとだけ強く握る。(祈の手が、その叶の手を握る強さに少しだけ反応する)
……二人の手が離れることは、もう絶対に、二度とないように叶には思える。
……でも、僕の握っていた赤い紐は切れていた。『きっちりと、半分に、切れていたのだ』。そんなことを叶は思う。
叶は高校の制服のズボンのポケットの中に祈とつないでいないほうの手を入れて、その切れてしまった赤い紐を手で握ってみる。そこには確かにあの半分に切れてしまった赤い紐があった。
神様が奇跡を起こして、あるいは魔法で時間が巻き戻って、いつの間にか、祈と一緒に森の中を歩いている間に、叶の制服のズボンのポケットの中で、その赤い紐は元通りに一本の紐に戻っていたりはしなかった。
叶はその赤い紐をぎゅっと強く握りしめる。強く。……本当に、力強く。
森を抜けると、そこには美しい風景が、薄緑色の草原が永遠と地平線の果てまで、広がっていた。
……それは、本当に美しい風景だった。
思わず、その光景に、叶の目は釘付けになった。
世界は光り輝いていた。
……世界は、叶が思っている以上に、本当に綺麗だった。……美しかった。
そんな風景を見て、叶は本当に感動した。(なんだか思わず、少しだけ泣きそうになってしまったくらいだった)
心臓の鼓動が、どくどくと激しくなった。
「すごく綺麗なところでしょ?」祈が言う。
「……うん。本当に綺麗だ」叶は言う。
世界には気持ちのいい風が吹いている。
「気持ちいい」
その緑色の風の中で、自分の美しい黒髪をその風になびかせながら、鈴木祈はそう言って、村田叶の横で、にっこりと笑った。
「じゃあ、行こうか? ほら、あそこにさ、小さく小屋が見えるでしょ? あれが私の暮らしている家なんだ」と遠くのほうを指差して祈は言った。
祈の指差している方向には、小さく建物の影が見える。
あれが祈の家なのだ。
「わかった。行こう」叶は言う。
「うん。そうしよう」
おー、と手をあげて、嬉しそうな顔で祈は言う。
草原の中にも、森の中にあった小さな土色の道はそのまま続いていた。
二人は祈の住んでいる小屋のある場所まで、夏の太陽の光に照らされて輝いている薄緑色の草原の中を、その小さな土色の道の上を歩いて移動をする。
薄緑色の草原の中にはところどころに(森の中に咲いていた白い花とは違う種類の)青色の花が咲いていた。名前も知らない花。でも、その花は、とても綺麗な色をした花だった。
青色の花の近くには、白い蝶が飛んでいた。
美しい蝶だ。
「春になるとさ、この辺りは全部が花畑になるんだよ。大地がいろんな色をした花でいっぱいになるの。本当にすっごく綺麗なんだ」
草原の風景を見ながら祈は言う。
「その風景は見てみたいな」叶は言う。
「見れるよ。叶くんが来年の春まで、この場所にいたらね」にっこりと笑って、祈は言う。
「それもいいかもしれない」
冗談を言うようにして、小さく笑って、叶は言った。
二人は手をつないだまま、薄緑色の草原の中にある土色の道の上を歩き続ける。遠くに見える、祈の住んでいる小屋に向かって。
焦らずに。
ゆっくりと。
お互いの歩調を合わせながら。
……満たされた気持ちのままで。
……幸せな気持ちのままで。
「叶くんは、どこかで私と会ったことがないかな? なんていう、どうでもいいことは何度も私に聞くのに、『もっと大切なこと』は、本当になんにも私に聞かないんだね」
薄緑色の草原の風景を見ながら、祈は言う。
……二人はしばらくの間、ずっと黙ったまま、草原の中にある小さな土色の道の上を散歩をするように、穏やかな気持ちで歩いていた。(もちろん、手はずっとつないだままだった)
「もっと大切なことって?」急に口を開いた祈を見て叶が言う。
「うーん。だからさ、たとえば普通はさ、もっと、いろいろなことを私に聞くでしょ? どこかで会ったことがないかな? って言う漠然としたことじゃなくてさ、もっと具体的なこと。たとえばさ、どうしてこんな場所で一人で暮らしているの? とかとさ。あとは、こんな辺鄙なところに住んでいて、どこか学校には行ってるの? とか、一人暮らしをしているのなら両親は、とか、あとはこの辺りにほかに人は住んでいないと言っていたけど、普段遊んでいる友達はいるの? とか、毎日の生活はどうしているの? とかさ、まあ、そういうこと」祈は言う。
「そういうことは、あんまり聞かないほうがいいかなって思って」と叶は言った。
「そうこうこと?」祈は言う。
「祈の個人的なことについて」叶は言う。
「私の個人的なこと」
「うん。祈の個人的なこと。人にはさ、みんな、いろんなことがあるからさ。いろんな事情があって、いろんな人生がある。だから、そういうことを本当に必要がある時以外に、興味本位で聞くことは失礼なことかなって思ったんだ」
真面目な顔で叶は言う。
「今は記憶喪失で迷子になっていると言う、緊急事態なのに?」
「うん。今が僕の緊急事態だったとしても」
祈はその大きな目をぱちぱちとさせて、叶を見る。
「叶くんはやっぱり、ちょっとぼんやりしているね。危機感が足りないっていうか、真剣じゃないっていうか、……やっぱり、変だよ」
と口をすぼめて、祈は言った。
「そうかな? 僕、ちょっと変かな?」小さく笑って叶は言う。
「うん。そうだよ。変だよ」となぜか少し嬉しそうな顔で祈は言った。(でも、ありがとう、と心の中で祈は思った。祈はもし、叶にそれらのことを聞かれたら、『正直に本当のこと』を言うつもりでいた)
「でも、そういう祈だって、僕にそのもっと大切なことをあんまり聞いたりしていないでしょ? 同じじゃない?」叶は言う。
「それは叶くんが記憶喪失だって、わかったからだよ。そうじゃなかったら、もっと質問攻めにしているよ。どこに住んでいるの? とか、高校はどこ? とか、趣味は、部活は? 家族構成は? 動物は飼ってる? 好きな食べ物は? 好きな色は? 好きな映画や音楽はなに? とかさ、(あと、できれば、……どんな女の子が叶くんは好きなの? とかさ)もう、なんでも聞いていると思う。遠慮なんて全然しないよ。質問攻めにしちゃうよ。もう叶くんが嫌になるくらい」
うんうんとうなずいて、祈は言う。
そんな祈の言葉を聞いて、確かに祈ならそんなことを言ってきそうだけど、でも、実際にはきっと叶が記憶喪失でなかったとしても、そういうことを祈はたぶん今と同じように叶にまったく質問しなかっただろうと叶は思った。(その予想は、なぜかすごく当たっているように思えた)
……そう。そんなことは、本当は、全部どうでもいいことなのだ。(大切なのは今、僕と祈がここにいて、二人がきちんと手をつないでいる、と言う事実だけなのだと思った。それが今の叶にとっての、もっと大切なこと、だった)
「それだけじゃなくて、叶くんは『叶くん自身のこと』についても、まったく私に聞いたりしないよね。森の中でも少し言ったけどさ、自分のことなのに、叶くんはまるで他人事みたいに平然としている。本当なら、もっとたくさん疑問があるはずだよ。もっとたくさん私に質問をするはずだよ。私に、もっといろんなことを聞くはずだと思う」
薄緑色の草原の中を歩きながら、祈が言った。
叶は、祈の話にじっと、耳をかたむけている。
「たとえば、どんなこと」少しして、叶は言う。
「そうだな。えっと、たとえば、僕を見つけてまずは警察は呼ばなくていいの? とかさ、誰でもいいから、誰か一番近くにいる大人の人に連絡をしたほうがいいんじゃないか? とか、叶くんが記憶喪失ってわかったあとなら、病院に連絡して、叶くんをまずお医者さんに見せてあげないといけないな、とかさ、それに私に一番最初に聞く質問として、本当なら、君は誰なの? と言う質問じゃなくて、『ここはいったいどこなんだろう?』 ……とかさ。そういう質問をするんじゃないかな?
まあ、なんでもいいんだけど、そういうことを私にもっといろいろと聞いたりするでしょ? 普通はさ。そうじゃなくても、もっと二人で真剣に記憶喪失の叶くんのことについて相談するとかさ、こうして歩いている間、時間は結構あったんだしさ。たぶん、そういう話をするんじゃないかな? でも、叶くんは私にそんな質問を全然しない。……それは、どうしてなのかな? ってちょっと思ってさ。叶くんはさ、私にもっと、聞きたいことがたくさんあるんじゃないの? 私の個人的なことじゃなくて、叶くんの、そういう、いろいろな大切なことについてさ」
「もっと大切なこと」
「そう。もっと大切なこと」
……それは、確かに普通に考えればそうだった。
きっと普通の十七歳の男子高校生であれば、自分が記憶喪失になって、見知らぬ森の中で一人で目を覚ましたりしたら、その森の中で出会った女の子である鈴木祈に、いろんな聞きたいことがたくさんあったはずだし、もっと知りたいことも(あるいは、知らなくてはならないことが)たくさんあるはずだった。
でも……。
なぜか、それらのことを、叶は本当に、『心その底から、切実に知りたいとは思わなかった』。
そんな情報は今の僕には必要のないことだと思った。(かりになにかがわかったとしても、それはあまり意味のある情報だとは思えなかった)
……僕は叶。村田叶という名前の一人の十七歳の男性である。
ということだけわかっていれば、それでいいと思っていた。
ここがどこだろうと、僕が誰であろうと、祈が誰であろうと、……『真実が、あるいは、どこかにあるのかもしれないけれど』そんなことは、あまり気にならなかった。
……いや、むしろ、『それは聞いてはいけないこと』のような気がしてならなかった。
それを聞いてしまったら、あるいは、それがきっかけになって、せっかく忘れてしまったはずの、その、なにかを思い出してしまったら、なにか大切なものが、本当に大切な気持ちが、僕の心が、壊れてしまうような気がした。(それに、なぜか、もう二度と、君に会えなくなるような気がした)
その証拠に、そんなことを考えると、叶の頭は、とてもずきずきと痛み始めた。(まるで、なにも考えな、なにも思い出すな、と叶の頭が、叶自身にそう言っているようだった)
叶はちらりと隣を歩いている、祈の顔を見る。(祈は、本当に心配そうな顔をして、叶のことをじっと見ていた)
……それを、もしかしたら祈は知っているのかもしれない。
そんなことを、叶は思った。
祈は、私にもっと大切なことは聞かないんだね、と叶に言うけれど、自分からそのもっと大切なことを積極的に叶に話そうとはしなかった。(叶が質問しない限り、自分からは話すつもりはないようだった)
まるで、『それを見つけるのは、叶くん。君自身の役目だんだよ』。とでも、君が僕に言おうとしているかのように……。
(……うまく、思考がまとまらない。僕は、混乱しているのかもしれない。あるいは、もうとっくの昔に、僕は『壊れてしまって』いるのかもしれない)
「どうかしたの?」
叶がそんなことを考えながら、じっと祈のことを見ていると、祈は言った。
「いや、なんでもないよ。祈の言葉について、自分なりに、確かにどうしてなんだろう? って、少し考えていただけだから」とにっこりと笑って、叶は言った。
「そうでしょ? もっと、考えようよ。『考えることは大事なこと』だよ」
と、にっこりと笑って祈は言った。
……祈。
……鈴木、祈。
思えば、この女の子はすごく不思議な女の子だった。
叶の失ったはずの記憶の中に存在している、誰かの面影がある、……とても綺麗な美しい、一つ年上の女の子。
この女の子の正体はいったい誰なんだろう?
そう考えると、叶の心はすごくわくわくした。(それは、叶の本当の気持ちだった。叶は不都合な自分(あるいは、世界)の真実よりも、ただこうして、自分と手をつないでくれる、一人の女の子である、祈の正体が知りたかった)
この女の子の正体を突き止めたいと思った。
なぜ、ずっと君が僕の心の中にいるのか、その理由を知りたいと思った。
僕はそれを見つけるために、その答えを知るために、森の中にやってきて、君と出会い、今、こうして、美しい薄緑色の草原の中を歩いているのだとそう思った。
(その思いが、考えが正解である、と教えてくれるかのように、そう考えると、叶の頭のずきずきとした痛みは和らいだ。痛みが消えて、気持ちがすごく優しくなれた)
……叶は今、自分とこうして手をつないでいる鈴木祈と言う名前の一人の女の子が、本当の、ずっと探していた自分の運命の相手なのではないか? と思っていた。
……赤い紐が、切れていようと関係がない。そう、それは関係がないことなのだ。
(切れた紐は、また結び直せばいいのだ。今度こそ切れたりしないようにしっかりと、結び直せばいい。もう一度、一本の紐にしてしまえばいい。もう二度と、紐が切れないようにしっかりと……)
僕と君はきっと、ずっと以前から、こうなる運命なんだと思っていた。
……この場所で。
……二人だけで、ずっと。
こうして、安心できる場所で、優しい気持ちのままで、生きていく。
それが僕たちの夢だった。
僕たちがずっと求めていた、……小さな楽園だった。
(なぜ、僕はこんなことを唐突に考えているのだろう? やっぱり、僕は少し混乱しているのかもしれない)
「どう? 私の個人的なことはともかくとして、叶くん自身の、もっと大切なこと、についてはどう思うようになった? そのことは気になるようになった?」
そんな祈りの言葉が聞こえた。
叶はその祈の言葉を頼りに、深い深海のような思考の世界から、海の上に顔を出すようにして、現実の世界の中に戻ってくる。
叶は祈の質問について考える。
せっかく、祈が自分から、叶に話を振ってくれたのだけど、……実は、あまりならなかった。
だけど、正直にそう答えると、まるで他人事みたいだ、と祈に森の中で注意されたり、それはもっと大切なことなんだよ、とさっき言われたこともあって、なんだか祈にすごく怒られそうな気がしたので、叶は「うん。確かに、まあ、やっぱり少しは気になるかな?」と祈に『嘘を言った』。
「わかった。じゃあ、あらためて質問。叶くんは、私になにか聞きたいことはある?」
その質問に、叶は言葉を止める。
「なんでもいいよ。なんでも聞いて」
祈は言う。
……。
沈黙。
「なんにもないの?」
叶は言う。
「もし、僕が祈りに質問をしたら、祈りはその質問に答えてくれるの?」
「もちろんだよ。私が知っていることならね」
……。
叶はまた沈黙する。
「どうしたの? 気になること、あるんでしょ?」
叶は無言のままだった。
「なにも、聞かないの?」
祈は、ひどく悲しそうな顔をする。祈りはぎゅっと、ずっと握っている叶の手を強く、握りしめる。
……叶は、もうごまかせないな、と思う。(それに、これ以上、祈に自分のことで、あまり悲しい思いをさせたくもなかった)
「わかった。ごめん。正直に話すよ。ちょっと情けない話なんだけど、できれば、真面目に聞いてほしい」
「いいよ。なんでも私に話して」祈は言う。
「……本当は、怖いんだ。なにかを知ることが、あるいは、なにかを思い出すことが。だから、今は聞けないのかもしれない」
……一度、思い出して仕舞えば、それは、僕の心をつかみ、やがて、必ず破壊する、と思った。
「まだ、無理をしたくない?」
「うん。まだ、もう少しだけ、今はとりあえず、休みたい」叶は言う。
「そんな自分の気持ちをきちんと受け止めることができるようになるまで?」祈は言う。
「うん。少し休めば、自然とそれはできるようになると思うんだ。きちんと休息をとって、食事をして、睡眠をとって、体力を回復すれば、きっと、もっといろんなことを話したり、思い出したり、できるようになると思う」叶は言う。
(それから、……きっと、そんなことにはならない、絶対に、と叶は思った)
「私に聞きたいこと、なにも思いつかない?」
「別にないよ」叶うは言う。
「本当になんにも?」(しつこいくらいに、祈は言った)
「うん。なんにも」
それは嘘ではない、叶の本心だった。
そんな叶の言葉を聞いて、祈は呆れたという顔をする。
「わかった。それでいいよ」
それから祈はふふっと嬉しそうな顔で笑ってから、「叶くんは本当に、ぼんやりしているね。もう逆にちょっと感心しちゃうよ」と言って、叶とつないでいないほうの手のひらを青色の空に向けて軽く上げて、わざとらしく呆れた、と言うポーズをして、明るくおどけた様子をして見せた。
「あんまり、自分のことに興味がないんだよ。記憶喪失になった今の僕と、それから、……きっと、記憶喪失になる前の、もう一人の僕もね」叶は言う。
「またそういう寂しいことを言う。だめだよ。叶くん。そんなことばかり言ってちゃ。本当に自分が誰なのかわからないままになっちゃうよ。本当の迷子になっちゃう。森の中だけじゃなくて、自分の心の中から出てこられなくなっちゃうよ」と祈は言う。
そんな祈の言葉を聞いて、叶は自分が小さな男の子になって、真っ暗な闇の中で一人で泣いている風景を想像した。
そんな自分を想像して、叶は小さく笑った。
「それに叶くん本人は、……まあよくはないんだけど、一応、それでいいとしてもさ、どこかに叶くんがいなくなってしまって、すっごく心配している人がいるかもしれないよ。家族とか、友達とか、……その、恋人とかさ」
「家族や友達っていうのはわかるけど、……恋人? 僕に恋人はいないよ」叶は言う。
「記憶喪失なのに、本当に、そう言い切れるの?」祈は言う。
「それは……」確かに、そう言われると言い切れない、かもしれない。叶は黙ってしまう。
「出会ったときからずっと叶くんが気にしている『私に似ているって言う、叶くんの見覚えのある女の子』。その女の子が叶くんの本当の恋人なんじゃないの?」
祈はじっと叶のことを見つめて言う。
「それは違うよ。僕は祈と以前にどこかで会ったことがないかな? って気になっているんだ。祈じゃない、似ているだけの違うほかの女の子のことが気になっているわけじゃないよ」叶は言う。
「それ、本当かな?」
じっと叶を見て、祈は言う。
「本当だよ。『嘘じゃない』」
と叶は言う。
「……まあ、そういうことにしておきましょう。記憶喪失の叶くんに聞いても、あんまり意味がないもんね」
と小さな赤い舌を出して、ベーをしながら、祈は言う。(まあ、一応、納得してくれたようだった)
「でもさ、もしもだよ。もし、……そんな女の子が本当にどこかにいたとしたらさ、その女の子は今、きっとすごく悲しんでいるんじゃないかな? 急に叶くんが自分のそばから、自分の目の前から、いなくなってしまって」と祈は言った。
「私だったら、すごく悲しいな。叶くんにはさ、そんな風にして、叶くんのことを『ずっと、どこかで待ってくれている大切な人』が、きっとどこかにいるんじゃないかな?」
そんな人はいないよ。と叶は思う。
……でも、同時に、確かに僕は、なにかとても大切な人のことを、……忘れてしまっているような気がした。
本当に、本当に大切ななにかを。
本当に大切な人のことを……。(叶の頭の中に、誰かの笑っている女の子の顔が一瞬だけ、見えた。それは影のように色彩を持たない顔だったのだけど、その輪郭は、その顔や形は、……鈴木祈にとてもよく似ていた。それは祈本人のように見える。でも、……そうじゃない、となぜか、同時に叶は思った)
……僕は、誰かを忘れているのか?
祈じゃない、……違う女の子のことを?
「叶くん。叶くんがいいなら、気にしないで、いつまでも私の家にいてもいいんだからね。遠慮なんかしないでね」と祈は言った。
「……うん。ありがとう」叶は言う。(叶は本当に嬉しかった)
それから、二人は無言になった。
だめだよ。大切なことは、ちゃんと大切にしないと。
……もっと、自分自身を、大切にしてあげないと。
そんな優しい声が、どこかで聞こえた気がした。(……それは、祈の声じゃない。違う誰かの、『叶の知らない女の子の声』だった)
薄緑色の草原の中を歩いている途中で、叶は、ふと、自分がまだ肩に背負っている青色のスポーツバックの中身を確認していないことに気がついた。(もし、スポーツバックの中に財布や生徒手帳。あるいは、日記やメモ帳のようなものや、それに携帯電話が入っていたら、僕が誰なのか、僕はどこからこの森の中にやってきたのか、それを確認することにとても役にたつだろう)
「どうしたの、叶くん?」
ぼんやりと自分の青色のスポーツバックを見ている叶に祈は言う。
「あ、そういえば、叶くん。電話持っていないの? 携帯電話。私は携帯電話、持っていないんだけどさ、それにここは残念ながら深い森の奥にあるから電波が届かない場所なんだけどさ、もし携帯電話があるなら、その携帯電話の連絡先を見れば、それで叶くんの家族のことや友達のことがなにかわかるんじゃないの?」
と期待を込めた顔をして祈は言った。(あと、……叶くんの、どこかにいるかもしれない恋人のこととかさ? と言う言葉を祈は言いかけて、……なんとなく、言うのをやめることにした)
どうやら祈も、叶がスポーツバックを見ていたのを見て、叶と同じタイミングで、そのことに気がついたみたいだった。(祈の視線は叶の肩に背負っている青色のスポーツバックを見ていた)
「まだ、荷物の確認をしていないんだ。祈の家に着いたら、バックを開けて、どんなものが入っているのか確認してみるよ。今は手も汚れちゃっているしさ」と叶は言った。
「それもそうだね。わかった。じゃあ、家に着いたら、早速『二人で』、その叶くんのスポーツバックの中身を確認してみよう」と祈は言った。
でも、それから少し歩いたところで、「うーん」と祈は言う。
「やっぱりだめよ。我慢できない。今すぐ確認しなさい。気になるでしょ?」祈は言う。
祈の家まではもう少し距離があった。でも、それほど時間がかかるというような距離ではない。
「祈の家まで、もう直ぐだよ?」
「そうだけど、我慢できないの」わくわくした顔で、祈は言う。
「ほら。ハンカチ貸してあげるから。早く、早く」
祈は言う。
祈は自分の真っ白なハーフパンツのポケットの中から、とても綺麗な、真っ白な絹のハンカチを取り出した。
「いいの? 土で汚れちゃうよ?」叶は言う。
「いいよ。そんなの。あとで洗えばいんだからさ」祈は言う。
祈にそう言われて、久しぶりに祈と手を離した叶は、(手を離すとき、二人は少しだけ躊躇した)その真っ白な絹のハンカチで自分の手をできるだけ綺麗に拭いてから、(ハンカチはすぐに祈に返した)自分の肩に背負っていた青色のスポーツバックを土色の道の上に下ろして、そのチャックを開けて、中の荷物を確認してみた。
すると、青色のスポーツバックの中には、まず叶の着替えが入っていた。それは、下着と、靴下と、青色のパジャマと、青色のゆったりとした部屋着(ジャージ)のようだった。それに財布と生徒手帳と小さなメモ帳。……そして、携帯電話が入っていた。(叶の携帯電話は少し古いタイプの緑色をした携帯電話だった)財布の中身はからっぽで、生徒手帳には硬い顔をした叶の写真と高校の名前があった。その高校の名前に叶は聞き覚えがなかった。メモ帳は確認すると真っ白だった。
それにすべてではないけれど、勉強道具も入っていた。古典と英語と数学の教科書とノート。それに筆記用具が入っていた。(そこまで確認したところで、まだ、全部を確認したわけじゃないけど、叶は一旦、携帯電話が見つかったので、スポーツバックの中身を確認するのをそこでやめた。入ってはいないとは思ったけど、もしかしたら、そのバックの中には、『高校生のバックの中に入っていたら、おかしなものや、あるいは、絶対に祈には見られたくないもの』が入っている可能性もあったからだ)
叶はそれらを一つずつ(自分の下着以外)祈に見せてから、(祈はいちいち、うんうん、とうなずいていた)最後に緑色の携帯電話をバックの中から取り出した。
「あ、あるじゃん! 携帯電話。よかったね。これでいろんなことがわかるんじゃない!?」祈は言う。
「……うん。そうだね」スポーツバックのチャックを閉めながら、叶は言う。
でも、残念ながら、(叶は密かに、それを望んでいたのだけど)そうはならなかった。
叶が画面を覗き込もうとしている祈の視線を避けながら、携帯の中に入っているデータを確認してみると、そこには、なんの記録も入っていなかった。
携帯は、真っ白だった。
データは全部、消えていた。(あるいは、最初から、なにも登録されていなかったのかもしれないけれど、自宅や、学校、あるいは、自分の番号も登録されていなかったので、おそらく、消えたしまった、もしくは、記憶喪失になる前の叶自身が消去したのだと思った)
携帯も、叶と同じようにその記憶をなくしていた。
「なんだ。なにも登録されてないじゃん。叶くん、友達誰もいないんだね。残念な子だね」叶の肩にぽんと手をおいて、本当に残念だね、と言うような顔をして、祈は言う。
そんな祈のことを無視して、(無視されて、祈はむっとした顔をする)叶は携帯のメモリー(記憶)を一応、全部確認していく。
それは確かに、ゼロだった。
なにもない。
そう思った。
でも、そうやって、メモリーを探っていくと、その最後のところに、一つだけ、ぽつんとその『言葉』はあった。
……『さようなら』。
さようなら。
確かに叶の携帯電話の中には、そんな言葉があった。
さようなら。
……さようなら、か。
これは誰に向けてのさようなら、なんだろう?
きっと、僕自身が残した最後のメッセージだと思う。これは、僕自身に向けてのメッセージだろうか? それとも、……記憶をなくす前の僕に向けてのメッセージだろうか? それとも、そうじゃなくて、僕が忘れてしまった、あるいは失ってしまった、あらゆるものに対しての、(きっと、祈の言うもっと大切なこと、に対しての)さようなら、だろうか?
「どうしたの? やっぱり、なにか見つかったの?」
じっと真剣な顔で、携帯電話の画面を見ている叶を見て、期待をした顔で祈が聞く。
「いや、なんにもない。本当に全部消えちゃっているみたいだ」
そう言って、叶は祈を見て、小さく笑った。
それから叶は携帯電話を自分の高校の制服の(赤い紐が入っていないほうの)ズボンのポケットの中にしまった。
ズボンのポケットの中に携帯電話をしまう前に、叶はそのさようなら、のメッセージを携帯電話の記憶の中から削除した。
二人はまた手をつないで、草原の中にある小さな土色の道の上を歩き始めた。
叶の携帯の電源は、このとき、すでにもうほとんど残っていなかった。
叶が祈と一緒に、祈の家の前に到着したときには、叶のポケットの中にある緑色の携帯電話の電源は人知れず、ゼロになった。(スポーツバックの中に携帯の充電器は入っていないようだった)
そして、携帯電話は永遠に、叶のポケットの中で沈黙した。
祈の家は思っていたよりもずっと立派な家だった。(祈は小屋と言っていたけど、普通の家のように見えた。森の中にある避暑地のような、別荘のような家だ)
全部が木で作られた小さな家で、入り口の前には小さな木の階段があった。
屋根がとても綺麗な赤色をしていて、その屋根にはオレンジ色をした煉瓦造りの煙突があった。(暖炉の煙突だ。冬には、暖炉を使って、暖を取るのだろう)壁には四角い窓が幾つか見える。
薄緑色の草原の中にある小さな土色の道は、祈の小屋の前まで届いていた。(土色の道は祈の家の手前で二股にわかれていて、もう一方の道は、まだずっと先まで、薄緑色の草原の中に続いていた)
家の前には赤いポストが置かれている。
「どう? ここが私の住んでいる家なの。素敵な家でしょ?」と祈は言った。
「うん。すごく素敵な家だね」叶は言う。
叶は祈の家を見て、本当に、とてもいい家だと思った。
家の前についた二人は、その手を離れ離れにしていた。
そっと、手を離したのは、祈からだった。(手を離すときに、祈は、少し恥ずかしそうな顔をしていた。叶がそんな祈の顔を見ていると、「恥ずかしい。ずっと手をつないで、家まで歩いて帰ってきて。なんだか、子供のころにタイムマシンで戻ったみたい」と照れた顔をしながら叶に言った)
「部屋は三部屋あるんだ。私の部屋と、リビングと空き部屋。その空き部屋を使っていいよ」叶を見て、祈は言った。
「ありがとう」と叶は言う。
二人は祈の家の玄関の前まで移動をする。
祈の家の玄関は、とても綺麗な樫の木で作られた木製のドアで、そのドアにはベルのような小さな鈴が、白い紐でくっつけられていた。
その場所に立って、「私たち、泥だらけだね」と自分の家のドアの前で、二人の姿をまじまじと見て、祈は言った。
「本当だ」と叶は言う。
森の中をときには飛び跳ねたり、四つん這いになったりして、頑張って歩いてきた二人の姿は、全身がくまなく泥だらけだった。
そんな二人の姿をあらためて、二人でじっと見合ってから、二人は本当に楽しそうな顔で、自然とお腹を抱えて笑いあった。
「こっち来て。裏口から入ろう」
と祈が言った。
叶は祈はあとについて祈の家の裏口まで移動をする。
家の裏には小さな白いドアがあった。
その横には小さな水道のある、灰色の石で作られている水浴び場があった。祈は水道の蛇口をひねると、そこからは透明な水が出た。
その水で祈は自分の手を洗った。
「冷たくて気持ちいい」
叶を見て、祈はにっこりと笑って、そう言った。
祈が手を洗っている、水道から出ている透明な水は、太陽の光を浴びて、きらきらと輝いて見えた。
叶は祈の次にその水道で手を洗った。
水は、祈の言っていたように、本当に冷たくて、気持ちよかった。
よく見ると、青色の先端に真っ白なノズルのついたホースが、その水浴び場には置いてあった。
近くには、花壇があって、そこには綺麗な花が咲いていた。美しいピンク色と赤色の花だ。それから、その向こうに見えるのは、スイカだろうか? そんなものを育てているような小さな白い柵で囲まれた緑色の菜園があった。
「そのスイカ。私が育ててるんだよ。すごいでしょ?」
叶の視線に気がついて、胸を貼って、自慢するようにして、祈は言った。
「うん。本当にすごい」と叶は言った。(叶は花を育てたり、植物を栽培したりしたことは、これまでの人生の中で一度もなかった。もちろん、記憶はないので、知識として、覚えている範囲でだけど……)
「さあ、入って」
家の裏にある白いドアを開けながら、祈は言う。
「うん。お邪魔します」
そう言って、叶は祈のあとについて、家の中に入っていった。
裏口から靴を脱いで、家の中に入ると、そこはすぐにお風呂場になっていた。木の床に真っ白な壁をした、とても清潔感のある綺麗なお風呂場だった。白い洗濯機と丸い鏡の洗面台があって、その横には洗濯物を入れる麦で編まれた大きな籠があった。
「とりあえず、叶くんは先にお風呂に入っちゃっていいよ。その間に、その今着ている高校の制服は、私が洗濯しておいてあげる」と祈は言った。
「僕が先にお風呂に入ってしまってもいいの?」きょろきょろとお風呂場を見ながら、叶は言う。
「いいよ。もちろん。なんて言ったって、叶くんはお客様だからね」
にっこりと笑って祈は言った。
「わかった。ありがとう。じゃあ、先に体を洗わせてもらうよ」と叶は言った。
「どうぞ。すぐにお風呂わかすから、ちょっと待っててね」と祈は言った。
それから祈は「えっと、その前にちょっとだけ、簡単に着ている服を着替えさせてね」と叶に言って、叶に少しだけ家の外に出てもらうようにお願いをした。
叶は「わかった」と言って、そのままさっき入ってきた白いドアから一旦、外に出て、祈の着替えを白いドアの前で待った。その間、叶は夏の太陽の輝く青色の空を眺めていた。(緑色の草原に吹いている風が、とても気持ちよかった)
「もういいよ」
祈の声が聞こえる。
叶が家の中に入ると、祈は土で汚れた真っ白なパーカーと真っ白なハーフパンツから、真っ白なゆっくりとした大きめのTシャツと青色のハーフズボンという格好に変わっていた。(足元には白いふわふわのスリッパを履いていた)顔も洗面台で軽く洗ったのか、土の汚れは落ちていた。
「じゃあ、ボイラーのスイッチも入れたし、もうすぐ、お湯も出ると思うから、今からお風呂にお湯をためるね。ちょっと待っててよ」
と言って、叶の前で新しい服を着ている祈は、くるりと一回転をしてその服装を叶に見せたあとで、祈はガラスのドアを開けてお風呂場に入ると、そこにあった真っ白なバスタブに蛇口をひねって、お湯を張った。
「うん。あったかい」
白い湯気の出るお湯を手で触って、祈は言った。
「じゃあ、私は家の中で、晩御飯のカレーの準備とかしているから、お風呂から出たら、着替えをして、奥の部屋に入ってきてね。そこのドアからリビングに移動できるから。あと、これは体を洗うタオルと、体を拭くバスタオルはこれを使って。じゃあ、あとは大丈夫かな?」てきぱきと動きながら、祈は言う。
「うん。大丈夫だと思う。ありがとう」叶は言う。
「いいの。いいの。遠慮しないでね。あ、お風呂のあとで、すぐに私の洗濯物と一緒に、洗濯をしちゃうから、着替えはそこにある籠の中に入れておいてね」祈は言う。
「洗濯は自分でするよ。悪いから」叶は言う。
「そんなの全然いいよ。気にしないで」祈は言う。
それから祈は叶に反論する暇も与えず、「じゃあ、またあとでね。叶くん。このあと、私もお風呂に入るから、お風呂場はそのままにしておいていいよ」とにっこりと笑いながら言って、木のドアを開けて、そのまま奥の部屋に移動をした。
そんな祈を見て、叶は笑いながら、小さくため息をついた。
一人になった叶はそれから、土で汚れた制服や下着や靴下を脱いで裸になると、ガラスのドアを開けて、祈の家のお風呂場に移動をした。
洗濯機の横にある、麦で編まれた大きな洗濯籠の中には、祈がさっきまで着ていた土で汚れた白いパーカーと白いハーフズボンがまるで祈の抜け殻のように、脱ぎ捨てられて、入っていた。叶はその洗濯籠の中に、お風呂場に入る前に、祈に言われた通りに、自分の汚れた制服をちょっとだけ遠慮しながら順番に入れていった。
青色のブレザー。赤色のネクタイ。白いワイシャツ。……灰色のズボン。(それから、下着に、靴下)
それらを順番に叶は洗濯籠の中に入れていく。
(赤い紐と電源の切れた携帯電話は、スポーツバックの中に大切にしまった)
これから叶の土で汚れた制服は、叶の下着や靴下と一緒に、祈に洗濯をしてもらうことになるのだろうけど、それを思うとすごく祈に申し訳ないと叶は思った。本当は洗濯くらいは自分でしたかったのだけど、祈が一緒に洗濯をしてくれるようなので、とりあえず叶は、夕食の手伝いを頑張ることにした。
実は叶は料理の腕には、こう見えても、結構自信があった。(もちろん、カレーも、叶はかなり上手に手作りで作ることができた)
お湯から出る白い湯気で、小さなお風呂場の中は真っ白になっていた。
叶は、本当はシャワーだけで済ませようかとも思ったのだけど、思ったよりも自分が疲れていることがわかったので、祈に申し訳ないと思いながら、お風呂の湯船に浸かることにした。
温かいシャワーを出して、そこにおいている祈のシャンプーやリンスを使って、(それは木の香りのするものだった)叶は髪の毛を念入りに洗った。
……気持ちいい。
あったかいシャワーは本当に気持ちよかった。
生き返る、と叶は思った。
(ふと、鏡を見ると、叶の顔は思わず笑顔になっていた)
それから真っ白なタオルに石鹸を泡立てて体を丁寧に洗った。汚れと一緒に、いろんなもやもやとした気持ちも、叶の心の中から落ちていくようだった。
お風呂の湯船に浸かってから、叶は、少し早めにお風呂場を出て、バスタオルで体を拭くと、青色のスポーツバックの中に入っていた自分の着替えに、着替えをした。
叶は、パジャマではなくて、部屋着のほうに着替えをする。
それはやっぱり上下青色のジャージだった。(おそらく、それは自分の通っている高校のジャージだろうと叶は思った)
「お待たせ。お風呂ありがとう」
そう言って、黒い髪をまだ少し濡らしたままにしている叶は、木のドアを開けて、祈の家のリビングに移動をした。
「あ、叶くん。もう出たんだ。遠慮しないで、もっとゆっくり入っていてもよかったのに」とばたばたとリビングの隣にある綺麗に片付いている物の少ないキッチンで、ダンボール箱のような荷物を持って、どたばたと移動をしていた祈は言った。
叶はゆっくりとリビングの中を歩いて、キッチンのところまで移動をした。
「じゃあ、私も先にお風呂入っちゃうね。体が汚れたままで、本格的に料理はできないし、先に洗濯も一緒にしちゃう。叶くんの制服や下着は、お風呂場の中に私の洗濯物と一緒に、干しちゃってもいいよね?」
「うん。もちろん。どうもありがとう」叶は言う。
「どういたしまして」にっこりと笑って、祈は言う。
祈はぱたぱたと足音を立てながら、叶と入れ替わるようにして、木のドアを開けて、お風呂場に移動をした。
一人になった叶は、キッチンから祈の家のリビングの様子を、なんとなく観察した。
祈の家のリビングはとても綺麗で、それから、置いてあるものが少なくて、そして、すごくしっかりと片付いていた。
掃除も行き届いているようで、埃っぽいところもない。
白いカーテンが開いている四角い窓から差し込んでいる太陽の光が、ぴかぴかに磨かれている楕円形をした木のテーブルの上や、木の床の上で輝いている。
壁には八角形をした時計があった。
時計の針は二つとも『12の数字』を指している。今は、お昼の十二時だということだろうか? (でも、その時間の感覚には少し違和感があった)
……今は本当にお昼の十二時なのだろうか? 祈は、森の中でも、家についてからも、晩御飯のカレーと言っていたけど……。
(お昼ご飯のカレー、ではない)
叶のいる静かなリビングの中は、窓から差し込む太陽の光で、本当に明るいのだけど、今が真昼の時間帯のようには、思えなかった。(もう少しだけ、時間がたっているような気がした。太陽も少し傾いていたようだったし、感覚としては、……三時か、あるいは、四時くらいと言ったところだろうと思った)
でも、実際に時計は12の数字を指しているのだから、今はお昼の十二時なのだろうと叶が自分の時間の感覚のずれを、それもきっと記憶喪失のせいなのだろう、と思いながら、実際に近くまで歩いて行ってみていると、その時計は『どうやら、両方とも時計の針が止まっている』時計のようだった。
……時間が止まっている。
その止まっている時計を見て、……なるほど。そういうことか、と叶は納得した。この八角形の壁掛け時計は現在の正確な時刻を指していないのだ。そう思って、叶は自分の中にある針の動いていない、時間の止まっている時計の時間と現在の本当の時間の、自分の中にある『時間の感覚のずれ』を納得することができた。
(今は、本当は何時なんだろう? 三時くらいだと思うんだけど……)
叶は、ずっと手に持っていた青色のスポーツバックを、なるべくリビングの端っこのほうにある、あまり汚れが目立たないような場所を選んで、その木の床の上に置いてから、(家に入る前に裏口のところで、できるだけ手ではたいて土の汚れは落としたのだけど、叶のスポーツバックはそれでもまだ結構、土で汚れていた)木のテーブルの周りを、ぐるりと一周、ゆっくりと歩いてリビングの中を見て回ってみた。
祈の家のリビングは、本当にとても素敵なリビングだった。
……だけど、どこか綺麗すぎて、あまりにも、置いてあるものが少なすぎて、少しさみしい感じがして、どこか眠っているような感じがして、生活感のようなものはあまり感じなかった。(森の中にある、季節外れの旅行者のための宿泊用コテージ。あるいは、主人の不在の期間の別荘の中にあるリビングの部屋、のように思えた)
木のテーブルのところには椅子が二脚だけあった。立派な背もたれのある木の椅子だ。
リビングの奥には赤い部屋の上に見えたオレンジ色の煙突から続いている立派な石造りの暖炉があった。
今は夏なので、もちろん、まだ使用されていない、炎の灯っていない、凍えるように寒い冬に使われることを待っている、眠っている暖炉だ。
暖炉の横には、お風呂場に続いているものとは違う、木のドアが一つ。
暖炉の反対側には、もう一つの木のドアがあった。あれが、位置的にきっと入り口のドアだろう。
(暖炉の横のドアからは祈の部屋と、それから空いているもう一つの部屋に移動できるようだった。外から見た感じではよくわからなかったけど、この奥にスペース的に部屋が二つあるとは思えなかったので、おそらく、祈の家には二階があるのだと思った)
リビングには、ほかに木製の大きな本棚が一つ。小物をおくための小さな棚が一つある。普通に想像するリビングにあるもので、祈の家のリビングにあるものは、ただそれだけだった。(本棚には本があまり置いてなかったし、小物をおくための小さな棚には、一つの小さな観葉植物の鉢が置いてあるだけだった。それはどうやら小さなサボテンのようだ)
だけど祈の家のリビングには、『ただ一つだけ、普通の家のリビングにはない、とても目立つもの』が置いてあった。
それは『とてもたくさんのレコードのコレクションの入ったガラスの棚と、その横にあるとても立派で高価そうなステレオ付きのレコードセット』だった。
……レコードを聞く趣味が祈にはあるのだろうか? それはわからないけど、そのレコードはかなりのレコードや古い音楽が好きな人が集めるような、そんなとても立派なものだった。
そのレコードコレクションがとても立派なコレクションだと、叶には一目でわかったので、きっと、記憶喪失になる前の自分は、古いレコードや古い音楽が好きだったんだろう、と叶は思った。
叶は次にキッチンに目を向ける。
祈の家のキッチンは、白い色を基調とした、小さくて、そしてやっぱりこの場所も、とても置いてあるものの少ないキッチンだった。
でも、ところどころに、洗剤やスポンジ、調理のあとの掃除のあとや、洗い場に洗い物が置いてあったりして、すごく綺麗にだけど、でも確かに使われている形跡があった。
(……そう。確かにリビングとは違い、キッチンにはきちんとした祈の毎日の生活のあとがあった)
真っ白なキッチンの床の端っこには、先ほど祈が持っていたダンボールの箱が置いてある。蓋は開いていたので中を覗いてみると、その中身は食材だった。野菜を中心とした、……人参、ジャガイモ、玉ねぎなどの、カレー用の食材だ。
キッチンの奥には、下に続いている木の階段のような者が見えた。
どうやら、祈の家には二階だけではなく、地下もあり、そこに食材などが貯蔵されているようだった。きっとそう行った日用品の貯蔵庫として、地下の部屋は使われているのだろう。
叶がキッチンの引き出しを開けると、そこには綺麗にしまわれている調理器具が一式あった。(包丁、まな板、鍋、おたま、皮むき器、など必要なものはなんでもあった)
ぴかぴかの流し台、二つの並んだガスコンロ。その横には大きめの真っ白な冷蔵庫が置いてあった。(勝手に開けて、悪いと思いつつ)冷蔵庫を開けると、そこには食品がびっしりと入っていた。牛乳、バター、卵、ベーコン、など、なんでもあった。(祈は一人暮らしをしていると言っていたけど、一人分の食事にしては量が多いと感じた。……祈は結構、ああ見えて、大食いなのかもしれない)
叶は、目的があるとはいえ、勝手に見て回って悪いかな、と思いながら、そんな風にしてキッチンの様子を、隅々まで見て回った。
それから、ちょっと考えごとをしてから、お風呂場に通じている木のドアを見る。
木のドアはまだ、……閉じたままだった。
今のところ、そこから、祈が「ただいま」と言って、リビングの中に入ってくる様子はない。ゆっくりとお風呂に入って森の中の土汚れを落として、それから二人分の洗濯をして、それを干したあとで、戻ってくるのだから、もちろん、それなりに時間はかかるだろう。
叶は針の動いていない時計になんとなく目を向けてから、キッチンに立って、自分の顎に手を当てながら、少しの間、上を向いて、また考えごとをした。
それから、勝手に食材や、キッチンの道具を使ってしまっていいのだろうか? (祈がリビングを出て行く前に確認すればよかった。でも、ちょっとだけ、驚かせたい気持ちもあった)とは思ったのだけど、叶は一人で、勝手に、晩御飯のカレーの料理の準備を、下ごしらえから始めることにした。
「よし。久しぶりに、料理でもやるか」
そう独り言を言ってから、叶は青色のジャージの裾をまくって、キッチンで綺麗に手を洗ってから、カレーの下ごしらへ準備を始めた。
なんだか、自分用のエプロンがないことが、ちょっと残念に思えた。
とんとんとん、と軽快なリズムで、包丁の野菜を切る音が鳴っている。
その横ではぐつぐつとお湯の沸騰する音が銀色の鍋の中からしている。
叶は同じ大きさに切り分けた野菜を、その鍋の中に、人参、ジャガイモ、と順番に入れていく。
二つあるガスコンロの上には、あと銀色のフライパンが乗っている。叶は、オリーブオイルを入れて、そこに玉ねぎを入れてあめ色になるまでいためる。
それから今度は牛肉を一口サイズのサイコロの形に切る。
叶の動きは止まらない。
手順を守り、流れるようにカレー作りの作業を続けている。
叶の片方の足はときおり、一人でにリズムをとっていた。
思わず、口笛でも吹きたいくらいに、カレー料理の作業は楽しかった。
キッチンの隅っこには炊飯器とポットがあった。
最初に見たときから、炊飯器のスイッチは入っていた。
炊きあがりまで、あと三十分の表示がある。どうやらご飯の準備はもう、祈がしてくれていたようだった。
叶はなにか陽気な音楽をかけて、その明るくて楽しい音楽を聞きながら、料理がしたいと思った。そう思って、リビングにある立派なレコードコレクションとそのレコードを聞くための高価そうな立派なレコードセットを見る。
(音楽をかけてしまおうか?)
でも、さすがに勝手に音楽をかけることはためらわれたので、やめることにした。(勝手に料理をしておいてなんなのだけど、それにレコードはとても大切に保管されていたから、なにか思い入れがあるのかもしれないと思った)
そのことを叶はとても残念だと思った。
(人生には、あと料理の時間には、音楽が必要だと思った。なるべく明るい音楽が必要だった)
叶は炒めて飴色になった玉ねぎをお湯の沸騰している鍋の中に入れる。アクを取り、計量カップで水を足して、それから今度はフライパンで、サイコロ型の牛肉をオリーブオイルでいためる。
……肉の焼ける、いい匂いがする。
(……うん。すごくうまそうだ)
思わず、ぎゅーと叶のお腹が鳴った。そういえば、もうずっとなにも食べていなんだったな。僕は。とそんなことを思って、叶は笑った。
なんだか急に食欲が湧いていて、そのせいで、同時に喉の渇きを覚えた。
叶は水道の水を使用していない様子の、いつくか同じものが置いてあった透明なコップの中に入れて、それをごくごくと飲んだ。水道水を飲むことには、少し抵抗があったのだけど、その水は本当にすごく美味しかった。
キッチンには、コーヒー豆とコーヒーを入れるための道具が置いてあった。(ものが少ないように見えたけど、ちゃんとしまわれているだけで、たくさんのものがキッチンにはあった)もし、祈がいいよ、と言ってくれたから、すごく美味しいコーヒーを自分が二人分淹れよう、と叶は思った。
リビングと同じように、キッチンにも四角い窓から太陽の光が差し込んでいた。
とても気持ちのいい暖かい陽だまりが、叶の視線の先にはあった。
野菜も、肉も、洗い物の中に置かれてる包丁やまな板も、水の入った透明なコップも、なにもかもがきらきらと輝いていた。とても、生き生きとしていた。
叶は炒めた牛肉を鍋の中に入れて、また、アクをとって、それから、ダンボール箱の中にあった、カレールーを必要な分だけ鍋の中に入れた。
木のしゃもじで、鍋の様子を見ながら、ぐつぐつと音を立てるカレーをおたまです行く、小さな小皿に移して、味見をした。(我ながらだけど、カレーはすごく美味しかった。なんだかすごく懐かしい味がした)
そんなことをしていると、いつの間にかそれなりに結構、時間は経過したようで、突然、がちゃっという音がしてお風呂場に続いている木のドアが開いた。
そこから祈が「ただいま! ごめん! 叶くん。思ったよりも洗濯に時間がかかっちゃって。ちょっと遅くなっちゃた。今からすぐに、晩御飯のカレーの準備をするね。叶くんは、椅子に座ってちょっとだけ待っていて!」と言いながら、ぱたぱたと足音を立てて、慌てた様子で、リビングの中に入ってきた。
そんな祈に、後ろを振り返った叶は、片手におたまを持ちながら、「おかえり」とにっこりと笑ってそう言った。
そんな、ぐつぐつと音を立てている、白い湯気の出ている、カレーを作っている鍋の前に立って、にっこりと幸せそうに笑っている青色のジャージ姿の叶の姿を見て、まるで時間が止まったようにぴたっと動きを止めたお風呂上がりの祈は、まるで鳩が真似鉄砲を食らったような、そんな古風な、(あるいは、素直な)とても驚いた表情をして見せた。
(リビングとキッチンには、叶の作っているカレーのすごく匂いがしていた)
祈は手際よく、てきぱきと料理をしている叶の大きな背中を、ぼんやりとリビングから持ってきた背もたれのある立派な椅子に座りながら、じっと見つめていた。
祈りは椅子を前後、逆にして、背もたれのあるほうを体の前に向けて、その背もたれの上に腕と頭を乗せながら、なにも言わずに、黙ったまま、そこにおとなしく座っている。
叶はときどき、そんな背中の視線を感じて、後ろを向くと、祈と目があって、二人はお互いににっこりと幸せそうな表情で笑った。
お風呂上がりの祈は、その頭にカチューシャのようにして、青色と白色のしましまのタオルを巻いていた。動物の耳のようにも見えるタオルだ。
そんな祈を見て、叶は少し前に、森の中で見た野生のうさぎや、あるいは、木の枝の上にいた二匹のりすの姿を思い出した。
二人のいる空間には、優しい音楽が、とても耳に心地よい音量で流れている。叶が祈にお願いをして、レコードをかけてもらったのだ。
祈の家の古いレコードコレクションと、レコードセットは、やはりかなり高価なものだったらしく、その音は本当に素晴らしいものだった。(保存状態もすごくよかった)
レコードの選曲もいい。
選曲は、祈に任せた。(祈は、叶に選んで欲しかったらしく、一人で、うんうんと唸りながら、かなり悩んでいた)
祈は古いレコードにあまり詳しくなかった。このレコードセットは、この家の本来の持ち主である人が、『この場所に残していった、大切なもの』なんだそうだ。
この家の本来の持ち主は、どうやら、祈の親戚のおじさんのようだった。
その親戚のおじさんは、残念なことに、数年前に、……もう、亡くなってしまっているらしい。
つまり、このレコードは、祈の親戚のおじさんの『形見の品』のようなものだった。
「おじさん。すごくレコード好きだったの。古い音楽が大好きだったんだと思う」とどこか懐かしい人を思い出すような顔をして、祈は言った。
「いつも優しい顔をしている温和な人で、よく、この部屋でレコードを聞いていた。冬にくることが多かったから、暖炉の炎の前でさ、誰かと一緒にゆったりと大好きな古いレコードの音楽を聞きながら、やっぱり大好きな本を読んでいるおじさんの姿を今も思い出したりするんだ」
祈は言う。
叶が祈を見ると、祈りはぼんやりと、もうそこにはいなくなってしまったはずのおじさんの姿を、今もそこにおじさんがいるかのようにして、じっと、椅子の上から、リビングのもう一つの椅子が置いてある場所にその顔を向けて、なんだかすごく子供っぽい表情をしていた。
祈は、結局、悩んだ末に、運頼みのようにして、適当にレコードを選んだようだった。
でも、その曲は(偶然にも)とても、優しい声の女性の人が歌っている、静かな曲で、(まるで、静かな雨上がりの午後の森林の中を、誰かと一緒に、ゆっくりと歩いているような気分になる曲だった)僕たちの初めての夕食の時間にぴったりの曲だと叶は思った。(それは素晴らしい選曲だった)
「この家は、そのおじさんから祈がもらったの?」叶は言う。(個人的なことについては、詮索しないつもりだったのだけど、つい聞いてしまった)
「ううん。違うよ。この家は今、私は『仮の家主』として、一時的に住まわせてもらっているだけなの。この家の管理をする代わりに、少しの間なら、一人で、ここに住んでいいって言われたんだ」祈は言った。
「そうなんだ」叶は言う。(思わず、誰に? と余計なことを聞きそうになってしまった)
「でも、いくつかおじさんから、もらったものもあるんだよ。このレコードがそうなの。この古いレコードのコレクションと立派なレコードセットは、私がおじさんから正式に譲り受けたものなんだ。きちんとした私の所有物なんだよ」と叶を見て、にっこりと嬉しそうに笑いながら、少しだけ自慢そうな顔をして祈は言った。
「まあ、私は、あんまり古いレコードにも、立派なレコードセットにも、古い音楽にも、綺麗な音質にも、興味はないんだけどね」と祈は言った。
「バック。ごめん。少し床、汚しちゃったかもしれない」叶は言った。
「いいよ。そんなの。叶くんは森の中で倒れていたんだよ。しかも、記憶喪失の状態でさ。(そこまで言ったところで、祈はすごく面白そうな顔で笑った)そんな『緊急事態』だったんだから、それくらいのこと、気にしなくていいんだよ。全然さ。そんなのあとで掃除しておけばいいんだからさ」と祈は言った。
「ありがとう」叶は言う。
それから叶は、「あとで、自分の青色のスポーツバックを拭くための布のようなものを借りれないかな?」と祈に聞くと、祈は少し考えてから、「じゃあ、余っているタオルを貸してあげるよ」と叶に言った。
「汚れちゃうよ?」と叶が言うと、「そんなの洗濯すればいいだけだし、それに、結局、真っ白なタオルも、最後には雑巾にしちゃうんだから、別にいいよ」とにっこりと笑って、叶に言った。
祈はそんな風にして叶と話をしながら、ときおり、背もたれのある椅子から立ち上がって、叶の料理の様子をすぐ近くまで行って、背中越しに覗いて見たりもしていた。
「なにか、手伝おうか?」後ろから顔を覗かせて、祈が言う。
「大丈夫。晩御飯のカレーの料理は僕がやるからさ。祈はそこに座って待っていてよ」と手を止めずに叶は言った。
「本当にいいの?」祈は言う。
「もちろん。こっちは祈の家に一晩、泊めてもらっているんだからね。これくらいのことはしないとね」と祈を見て、叶は言った。
「うん。ありがとう」と祈は言った。
それから元の場所に戻った祈は、背もたれの上に顔を乗せて、黙ったまま、ぼんやりとした。(なんだか、冬眠する前の熊みたいだった)
「すごいな。叶くん。料理上手なんだね。びっくりしちゃった」
少しして、祈は言った。
(今は、こうして落ち着いているけど、最初に料理をしている叶を見たときの祈の反応は、本当にすごく大げさなものだった。まあ、祈を驚かせたいと思っていたので、叶もまんざらではなかった)
「そんなことないよ。自分で料理をしていたから、慣れているだけで、少しできるくらいだよ」叶は言う。(それから叶は、そうだ。僕は自分で料理を作っていたんだっけ。とそんなことを思い出した)
そう言いながらも、叶は料理には自信があった。
「本当に、私は手伝わないでいいの?」足をばたばたとさせて、また、祈は言った。
「もちろん。さっきも言ったけどさ、僕は祈の家に泊めてもらっているんだからさ、できることは手伝わせてよ。料理だけじゃなくて、掃除とか、あと、力仕事とかあるならさ。それは僕がやるから、遠慮しないで、どんどん、言ってくれて構わないよ」と叶は言った。
「そんなの、大丈夫だよ。叶くんはさ、この家で、ずっと楽にしてくれてて良かったのに」と口を尖らせて、祈は言った。
「……まあ、嬉しいことは、嬉しいかな? 一人だけ楽しちゃって、悪いなって、気持ちになるけど」とちょっとだけ間を置いて、嬉しそうな顔をして、祈は言う。
「でも、ちょっと、出しゃばっちゃったかな? 勝手に食材やキッチンの道具も使っちゃったし。……少し迷惑だった?」祈を見て、うーんと、悩んだ顔をして叶は言う。(やっぱり、ちゃんと聞いてから料理をしたほうがよかったかな? と今更だけど、ちょっとだけ、心配な気持ちになった)
「ううん。そんなことないよ。ありがとう。叶くん。本当に嬉しい」とにっこりと笑って、祈は言った。
それから二人は少しの間、黙ったままになった。
(それは、とても静かな時間だった)
二人はしばらくの間、じっとレコードセットの大きなステレオから聞こえてくる、素敵な古い音楽に、その耳をかたむけていた。
ぐつぐつと美味しそうな音が、カレーを煮込んでいる鍋から聞こえていた。
レコードの曲が終わって、祈は、レコードを交換した。(今度は叶くんが選ぶ? と祈は言ったけど、選曲は祈りに任せた。祈は真剣にレコードを選び、曲をかけた。今度の曲もまた、素晴らしいものだった。静かな雨の降る音をじっと聞いているような気持ちになる曲だった。男性の声の曲だった)
窓の外はいつの間にか、だんだんと暗くなってきていた。(時間は、相変わらず不明のままだった)
……祈は、そっと背もたれのある椅子から立ち上がると、リビングの四角い窓にある、白いカーテンをそっと閉めて、それから壁にあるスイッチを押して、順番にリビングとキッチンの電灯の白い明かりをつけた。
それから祈は、また背もたれのある椅子に腰掛けて、黙り込んだ。そんな祈は少し、どこか疲れているように見えた。
ぐつぐつとカレーが銀色の鍋の中で煮込まれながら、いい匂いを出していた。
炊飯器の中のご飯は、もう炊きあがっている。
「あと、カレー以外に、なにか作ろうか?」
ふと、思い出したように、叶は言う。
「あ、そうだ! そうしよう! (自分で料理をするつもりだったから、カレーだけで、まあ別にいいかなと思ってた。まあ、二人の出会いのお祝いの食事ではあるのだけど、ちょっとだけ、めんどくさかった。楽したかった)じゃあ、サラダとゆで卵。それを、作ろう。それ、私も手伝うよ!」と、ようやく仕事を見つけた、とでも言いたげな、楽しそうな顔をして祈は言った。
「わかった。じゃあ、サラダとゆで卵は一緒に作ろう」と叶は言った。(本当は全部一人で料理をするつもりだったのだけど、ずっと手伝いたそうな顔をしていたので、ここは祈に頼むことにした)
「おう!」と手を上げて祈は言った。
それから祈は手を洗ってから、張り切ってサラダを作り始めた。
祈の料理の腕は、なかなかのものだった。
毎日自分で料理をしていることが、その一切の無駄のない、あるいは、迷いのない、動きからすぐにわかった。
祈りの料理の手際の良さに感心しながら、銀色の鍋に水を入れて、叶はコンロの上に乗せて、火をつけた。
冷蔵庫から卵を取り出して、沸騰したらすぐに、鍋の中に入れられるように準備をする。
ダンボール箱の中の食材は、ほとんどなくなった。(祈はちゃんと必要な分だけ、地下から食材を持ってきていたようだった)
祈りはざくざくと綺麗に洗った新鮮な野菜を、キャベツ、レタス、きゅうり、そして、真っ赤なトマトを切っていき、それを引き出しの中から出して、用意した木の丸い深みのあるお皿の上に順番に盛り付けていった。
それは、シンプルだけど、とても美味しそうなサラダだった。
叶は卵をお湯の沸騰した鍋の中に入れて、ゆで卵を作り始めた。茹で時間は、……十分でいいだろう。そう思ってから、時計がないことに叶は気がついた。……まあ。かんで行こう。だいたい十分。と叶は思った。
待っている間に、洗い物を片付けてしまおう。
そう思って、叶は流し台の前に移動をして洗い物を始めた。
その間、祈はてきぱきと動いて、キッチンの棚にしまってあった、真っ白なお皿を二枚取り出して、それから銀色のフォークとスプーンを二人分取り出した。紙ナプキンを用意して、それに白い陶器のコップを二つ、取り出したところで、祈は叶を見る。
「叶くんは、飲み物はコーヒーでいい? それとも、ミルクのほうがいいかな? あ、あとオレンジジュースもあるよ。どれにする?」冷蔵庫の蓋を開けながら、祈が言う。
「コーヒーでお願いしていいかな? あ、それから、コーヒーなんだけど、僕が淹れてもいいかな? 祈もコーヒーでいいなら、二人分」と叶は言った。
「もちろん。ありがとう」とにっこりと笑って祈は言った。
叶がコーヒーにフィルタをセットして、銀色のポットに水を入れて、(だいたい、十分くらい)しばらくの間、待ってから、ゆで卵の入っている鍋をどかして、その空いたコンロの上で、お湯を沸かしているときに、祈は角砂糖を引き出しの中から取り出して、それをフォークやスプーンと一緒に、リビングのテーブルの上に持っていった。
叶はそんな祈の後ろ姿を少しの間、目で追ってから、視線を戻して、お湯が沸騰するのを見ると、銀色のポットを持って、コーヒーを真剣に淹れた。
コーヒーは、とてもいい匂いを出していた。
手作りのカレーは、ちょうどいい具合にできあがった。煮込んだ時間はだいたいだけど、でも間違いなく一時間以上は煮込んでいるはずだ。いい感じにできたと思う。(もちろん、もっと煮込めば煮込むほど、美味しくなるのだけど、今はこれでいい。味も、火の通り具合もいい感じだ。上出来だった)
「いい匂い。すごく美味しそう!」
カレーの匂いを嗅いで、叶の隣で、祈は言った。
それから、祈は炊飯器の蓋を開けて、白いしゃもじで、大きな白いお皿の上に綺麗に半分だけ、ご飯を盛り付けた。
その間、茹で上がったゆで卵の殻を剥いて、叶は包丁で、それを半分に切った。それをサラダの上とそれからカレーのお皿の上に、それぞれ、綺麗に盛り付けた。
最後に、上手にできあがったカレーを鍋の中から、おたまですくって、半分だけご飯の乗っているお皿に綺麗に盛り付けた。
「よし。これで完成だね」と祈を見て、叶は言った。
「うん。できた。すごい!」と胸の前で両手を合わせて、祈は言った。
そんな会話をしていると、二人とも、なんだか自然と笑顔になった。
二人はできあがったカレー料理を持って、リビングのテーブルまで移動をした。そのあとで、サラダのお皿と、水の入った透明なコップと、それから、叶の淹れたコーヒーの入った白い陶器のカップを、テーブルの上に持って行った。
食事の用意が整ったリビングのテーブルの上は、思っていた以上になかなか見事なものだった。もし、花があるのなら、そこに彩りとして綺麗な花を飾りたいな、と叶は思った。
そこで、テーブルに向かい合うようにして座ると、二人は、一緒に「いただきます」をした。
「誰かと食事だなんて、本当に久しぶり。なんだか、すごく嬉しい」
祈は本当に嬉しそうな笑顔でそう言った。
「僕もそうかもしれない。すごく楽しい」と叶は言った。
そんな叶の言葉(冗談)を聞いて、祈は声を出して笑った。それは、これからとても楽しい夕食の時間が始まることを、予感させてくれるような、そんな素敵な明るい笑顔と笑い声だった。
二人が食事をはじめたとき、急に真っ暗な空から、ぽつぽつと雨が降ってきた。その雨はすぐに強くなって、ざーという雨の降る音が二人のいる、レコードの古い音楽が流れている、リビングの中に聞こえてきた。
「あ、……雨だね」と木の天井を見上げて、祈は言った。
「……うん。雨だね」と白いカーテンの閉じられている窓のところを見て、叶は言った。
「さっきまであんなに晴れていたのに、……こんなに強い雨が降るんだ」不思議そうな顔をして、叶は言う。
「この辺りの天気はすごく変わりやすいの。朝、雨が降っていたのに、お昼には晴れたり、今日みたいに朝からずっと晴れていたのに、夜になって急に雨が降り出したりするの」と叶を見て、祈は言った。
「そうだ。ちょっと雰囲気だそうか。ちょっと待ってね」突然、いいこと思いついた、といいたげな顔をして、祈はそんなことを言った。
……? なんだろう? と思って叶が祈の次の行動を見ていると、祈は、叶を見て微笑んでから、キッチンのほうに移動をして、そのままキッチンの奥にある階段を下りて、地下に移動をしたようだった。
それからすぐに、リビングに戻ってきた祈はその手に『古風なロウソクと、立派な銀色のロウソク立て。そして、四角いマッチ』を持っていた。
それを叶に、頭の横で別々に両手に持って、見せびらかすようにしてから、にっこりと笑って、まるで手品をするマジシャンのような手つきで、祈はロウソク立てをテーブルの上において、それからそこにロウソクを立てて、マッチを擦ってオレンジ色の火をつけた。
それから祈が、ぱたぱたという足音を立てて移動をして、リビングとキッチンの電気を順番に消すと、部屋の中は真っ暗になって、そして、ロウソクの火が灯っているテーブルの周囲は、綺麗な淡いオレンジ色の光に包まれた。
それ以外は、すべてが闇の中に沈んでいった。
それから祈は、闇の中を移動して、明るい自分の席に戻った。
「どう? 雰囲気出たかな? まるで魔法みたいでしょ?」と、にっこりと笑って、オレンジ色のロウソクの火の明かりに照らされている祈は言った。
「うん。すごくよく出てるよ。びっくりした。でも、こんな古風なロウソクなんて、よく家の中にあったね」と叶は言う。
その古風なロウソクは、中世の貴族の家にでもあるような、そんなアンティーク調の立派なロウソクとロウソク立てだった。
「うん。あのね。おじさんがね。こういう、お祝いごとが大好きな人だったの。ハロウィンとか、クリスマスパーティーとかさ。あとは、誰かのお誕生日とかね。このロウソクはね、そんなお祝いのパーティーで使った道具の一つなんだ。たしか、私が小学生のころのクリスマスパーティーのとき、だったかな? それをさっき思い出したの。今日の食事は、ささやかだけど、私と叶くんの二人の初めての出会いをお祝いするものだったから、もう、使うこともあんまりないと思うし、今、ちょっと思いついて、せっかくだから使っちゃった」とちょっとだけ舌を出して、いたずらっ子のような顔をして、祈は言った。
「そうなんだ。祈の話を聞いていると、なんだか本当に、祈のおじさんはすごく素敵なおじさんだね。僕も一度、会ってみたかったな」と叶は言った。(それは叶の本音だった。どうやら、祈の親戚のおじさんは、本当に素敵な人だったようだ。趣味も叶と合いそうだった)
「うん。私、おじさんのこと、大好きだったの。本当に素敵なおじさんだった。大好きなおじさん。……もう、死んじゃったけど」闇の中を見て、祈は言った。
……その会話のあとで、二人は沈黙して、少しの間、テーブルを挟んだままで、お互いの顔を見つめあった。
夕食の準備が整った、リビングのテーブルのところ座っている二人の姿は、周囲の真っ暗な闇の中で、ぼんやりと明るく光っている、淡く丸いオレンジ色のロウソクの火の明かりに照らされている。
……その風景は、なんだかまるで本当の魔法のようだった。
(僕は、魔法にかけられているのかもしれない、と叶は思った)
ついさっきまで、明るい太陽の光と、それから、真っ白な電灯の明かりの中にいたお風呂上がりの祈は、なんだか本当に色っぽく見えた。
肌がほんのりと赤く染まっていて、……まだ、白い湯気が体全体から立ち上っていた。長い黒髪がほんのりと濡れていた。
黒くて大きな目が叶のことをじっと見つめていた。
白い耳と、白い頬が、ほんのりと健康的な赤い色に染まっていて、すごく魅力的だった。(もともと、祈はすごく魅力的な女の子だったけど)
そして、今の古風なロウソクのぼんやりとしたオレンジ色の淡い薄明かりの中にいる祈は、そんな健康的で綺麗で、明るくて、魅力的な祈とはまた少し違う不思議な魅力を感じた。
……どこか、今までの祈とは違う、もっと大人っぽい雰囲気を持っていた。
そう。どこか、大人っぽい雰囲気だ。(祈はとても美人なのだけど、性格が子供っぽいためなのか、どこか幼い女の子がそのまま大きくなったような、そんな印象を受けていた。年は一個上だけど)
僕は十七歳で、祈は十八歳なのに、……一個しか年齢は変わらないのだけど、ロウソクの明かりの中で見る祈りは、随分と自分(叶)よりもは大人っぽく見えた。
……僕の姿も、同じように、この薄明かりの中では、こんな風に祈の目からは『本当の大人のように』見えているのだろうか? まるで、お互いに不思議な魔法にかかったみたいに、とそんなことを叶は思った。(もしそうだったら、嬉しいと思った)
……ざー、と言う強い雨の降る音が聞こえた。
その音を聞いて、叶は、一度、自分の思考をそこで中断させた。
それから叶は、その雨の降る音を聞きながら、思考のイメージを切り替えて、今度は、森の中で意識を失っていた自分のことを考えた。
もし、今日、僕が祈りと出会うことがなかったから、今頃、あの森の中で、暗い夜の中で、降り出した雨に打たれながら、孤独な一人の僕はどうしていたのだろう? とそんなことを叶は思った。
森の中で、どこかに雨宿りできる場所を見つけて、そこで雨をしのいだのだろうか?
……たった、一人で。
暗く、冷たい雨の降る、夜の中で……。
その夜の闇の中に、ひとりぼっちの僕はなにを見るのだろう?
その雨を見て、ひとりぼっちの僕はなにを思うだろう?
あるいは、その孤独な時間の中で、ひとりぼっちの僕は『どんな選択をするのだろう?』
……そんなことを、叶は思った。(僕は本当に幸運だったのかもしれない。もし、あのまま、深い森の中で、祈と出会わなければ、今頃、僕はあの暗い森の闇の中に、消えてなくなっていたのかもしれない)
「なに考えているの?」淡いオレンジ色の明かりの中で、祈が言った。
叶のことをじっと見ている、明かりの中の祈は本当に美しかった。
「君のこと。それから、自分自身のこと」と正直に叶は言った。(そう言ってから、自分でも、少し驚いた。でも、今のとても美しい魔法のかかった祈に、……嘘なんて言えるわけがなかった)
そんな叶の正直な言葉を聞いて、祈は少し驚いた顔をした。(どうやら祈も、叶がそれほど正直に自分の気持ちを言葉にするとは思っていなかったようだった)
「なんだか、私のかけた魔法が効いたみたい。嬉しい。叶くんが『素直になった』」と、本当に嬉しそうな顔をして、祈は言った。
そのとき、ずっと流れていた古いレコードの曲が終わった。
祈の灯した魔法のロウソクの淡いオレンジの光は、闇の中で、……レコードセットのある場所を辛うじて、照らし出してくれていた。
祈は一度、叶に微笑んでから、今度は自分から移動をして、すぐにレコードを新しいものに変えた。(どうやら次の曲をどの曲にするか、祈は事前に決めていたようだった)
その新しい曲は、今までのゆったりとした、静かな曲調の曲ではなくて、打って変わって、なんだか陽気で明るい音楽だった。(入り口のわかりづらい地下にある、雨の降る日の動物たちの森の中の隠れ場のような、そんな薄暗いおしゃれなバーで流れているような、古いジャズっぽい音楽だった)
「今度は、少し明るい曲にしてみた。この曲はね、おじさんの大好きだった曲なの」席に戻ってきた祈は、にっこりと笑って叶に言った。
「とても、いい曲だね」叶は言った。
「どうもありがとう。この曲を叶くんに気に入ってもらえて、本当に嬉しい」と祈は言った。
「じゃあ、あらためて、二人の森の中での素敵な出会いに乾杯!」水の入った透明なコップを持って、祈は言った。
「うん。乾杯」
同じように水の入った透明なコップを持って、叶は言った。
……私と君の、二人の出会いのお祝いに。
……僕と君の、二人の出会いに。
乾杯。
乾杯。
そう言って、二人は軽くお互いのグラスを合わせた。
すると、ちん、と小さな音が鳴った。
(なんだかそんなことを以前に、君と二人だけで、経験したことがあったような気がした。そのちん、と言う小さな鈴の鳴るような音を、以前にもどこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。それこそ、どこかのおしゃれなバーの中にある席の上で……。ずっと以前に。とても遠いところにある場所で……)
二人は淡いロウソクの明かりの中で笑いあった。
それから二人は手作りのカレーライスを食べ始めた。
……闇の中では、古いレコードの奏でる明るい音楽に混ざって、……ざーという、強い雨の降る音が聞こえた。(その音は、なぜかずっと叶の耳に聞こえていた)
その雨の降る音を聞いて、叶は、もう一人の森の中で、静かに一人で、真っ暗な夜の中で、降り続く冷たく強い雨を眺めている自分のことを、思った。
(乾杯。叶は心の中で、森の中にいて、冷たい雨を眺めているひとりぼっちの孤独な自分に向けて、そう言った。するともう一人の叶は、にっこりと笑って、その手の形を、コップを持っているような形にして、片手をあげて、乾杯、と叶に言った。もう一人の叶は、暗い夜の中で、雨の降る暗闇の中で、不敵な笑みをその顔に浮かべていた。それは、まるで『勝利者の笑み』のように、叶には見えた)
一口、大盛りのカレーをすくったスプーンを口にして、祈は「美味しい!! 叶くん! すごい! 想像していたのより、ずっと美味しい!」と目を丸くして、叶に言った。(その表情からして、どうやらお世辞ではないようだった)
「うまくできてよかった」とにっこりと笑って叶は言った。実はちょっとだけ、祈にそう言ってもらえて、ほっとした。なにせ叶は、本人は落ち着いているけれど、森の中で倒れていた記憶喪失の少年なのだ。なにかの勘違いや記憶の間違い、あるいは、変な思い込みがあっても不思議ではない。(まだ、そんな風に、どこか頭が混乱してるかもしれない)味見もしっかりとしたけど、それでも、少しだけ不安だった。
叶も一口、その手作りカレーを食べて見ると、その自分で作った手作りカレーは、本当にすごく美味しかった。(あ、このカレー本当に美味しい。と思って、自分でもすごくびっくりした)
……それはいったいどうしてだろう? と理由を考えてみる。
久しぶりだから、思っていた以上に、カレー料理を張り切ってしまったのだろうか? それとも、新鮮な野菜やお肉などの食材がいいのか? お米が美味しいのか? 水が綺麗だからなのか? あるいはキッチンの調理環境がよかったからだろうか? それとも、もしかして、こうして、祈と一緒にご飯を食べているからだろうか? この食事の雰囲気がいいからだろうか? 古いレコードが奏でる音楽が素敵だからだろうか? それとも、魔法のせいだろうか?
……結局のところ、考えてみても、その理由はよくわからなかった。(そのどれもが、正解のように思えたし、また、それだけではないような気がした)あるいは、本当に、ただ偶然、いつもよりも美味しくできただけなのかもしれないし、もっと単純に、単に僕たちのお腹がすごく減っていたからなのかもしれない。
(僕たちは、森の中を歩いて、泥だらけになって、この家のある場所までやってきたのだ)
……でも、確かに手作りカレーは本当に美味しかった。
叶は次に、サラダを口にした。
シャキシャキとした、新鮮な野菜の食感がする。味もすごくいい。サラダはとても美味しかった。
「うん。サラダも美味しい」
サラダを食べて、にっこりと笑って、祈が言った。
「本当にどれも美味しい」
叶は言う。
それから二人はまた、お互いの顔を見てにっこりと笑いあった。(ゆで卵も、半熟で、美味しかった)
叶はコーヒーを一口飲んだ。コーヒーは、いい香りがして、味も、とても美味しかった。(このコーヒー豆を好んで選んでいたのは、祈の親戚のおじさんのようだった。さすが祈のおじさんだ、と叶は思った)
祈もコーヒーを両手でカップを持って飲んだ。
叶はコーヒーに角砂糖を二つ入れて。
祈はコーヒーを、ミルクで割って、飲んでいた。(ミルクをコーヒーに入れるときに、祈は叶に「私、猫舌なんだ」と小さく舌を出してそう言った)
「この野菜。実は私が家の裏にある畑で育てた野菜なんだよ」と祈は言った。
家の裏にあったスイカが見えた畑のことを祈は言っているようだった。(あの畑にはスイカだけではないくて、もっと、いろんな種類の野菜を祈は育てているようだった)
「すごく美味しいよ。祈りは野菜を育てるのが上手なんだね」叶は言う。
「コツはね。手間をかけることと、愛情を込めることなんだよ。これはね、『すっごく大事なことなの』」とにっこりと笑って祈は言った。
祈の選んでくれた、祈の親戚のおじさんの大好きな曲だという陽気で明るいレコードの曲が、終わりを告げた。
そのころには、二人は楽しい食事を終えていた。
「美味しかったね。ありがとう、叶くん」と祈は言った。
「どういたしまして。こちらこそ、素敵な時間をありがとう」叶は言う。
それから二人は一緒に、ごちそうさまをした。
リビングの電気をつける前に、祈がテーブルの上にある古いロウソクの火をふー、と息で吹き消すと、一瞬で、世界は真っ暗闇に包まれた。
でも、それからすぐに、ぱたぱたという祈の歩くスリッパの音が聞こえて、そのあとで、すぐに明るい電気がついた。
真っ白な電灯の明かりがついて、世界はまた、真っ暗闇の世界から、いつも通りの明るい、日常の世界に戻った。(本当に、魔法がとけたようだった)
そこにはいつもの部屋があって、そこにはいつもの祈がいて、そして、(これはとても、重要なことなのだけど)……そこには、いつもの叶がいた。
……僕は、僕のよく知っている、日常の世界に戻ってきたのだ。
すごく安心できる明るい真っ白な電灯の明かりの下で、そんなことを叶は思った。
真っ暗な夜の時間は終わった。
魔法の時間は終わったのだ。
叶は席をたった。
そして、空っぽになった食器を持って、同じように食器を持っている祈と一緒にキッチンに移動をする。それは、もちろん、夕食のあとの洗い物をするためだった。
「この家、古いものばっかりでしょ?」電気をつけたあとで、夕食の後片付けを二人で一緒にキッチンでしているときに祈は言った。
「よく言えばさ、アンティークなものっていうのかな? 古いレコードや、さっきの古いロウソクもそうなんだけどさ、……おじさんが、そういうものが大好きだったんだ。古くて、歴史があって、たくさんの人の手を渡ってきたものが、大好きだった」
立派な、古いロウソクとロウソク立ては、そのままリビングのテーブルの上に置かれたままになっていた。
その火の消えて、長さが半分くらいになっている古いロウソクを叶は見る。
……確かにそう言われてみると、レコードや、ロウソクだけではなくて、この家の中にあるものは、全体的に古くて、歴史がある物、が多い気がした。(……でも、それらの品はどれも、とても丁寧に、きちんと手入れがされているようだった。畑で育てている野菜と同じだ。手間をかける。愛情を込める。おじさんも、それから祈も、そうやって、この家の中にあるものを大切に使い、保管しているのだろう)
夕食の食器の洗い物をしながら、叶はつい癖で、なんとなく時間を確認しようとして、じっと、リビングの壁にかかっている、針の止まっている八角形の時計を見た。
その八角形の動きを止めている時計を見てから、『そうだ。この家の時計の時間は、ずっと止まっているんだった』と叶は思った。
「その時計。止まっているんだ。もう、ずっと前から止まったまま。だから、この家の時間はずっと、止まっているの」と、叶の視線に気がついて、祈は言った。
「時間、わからないと不便じゃない?」祈を見て、叶は言う。
「ううん。あんまり、不便じゃないよ」
洗い物を終えて、手を白いタオルで拭きながら、にっこりと笑って祈は言う。
叶も、同じように白いタオルで手を拭いて、洗い物を終える。(夕食の後片付けは、綺麗に終わった)
「ほかに、時間を確認できるものはないの? 時計のほかにも、テレビとか、パソコンとかさ」もしかして、時間の止まっている時計のほかに、時間が確認できるものが、なにかあるかもしれないと思って叶は言った。
「あの時計のほかには、時計はないんだ。この家には、テレビもないし、『インターネットもつながっていない』し、パソコンもない。草原を歩いているときにも言ったけど、私は『携帯電話を持っていない』。だから正確な時間は誰にもわからない」
「なんだか、今時、珍しいね。携帯電話はともかく、インターネットがないと不便じゃない?」叶は言う。
「だって、私には必要のないものなの。もちろん、ずっと、このまま一生いらないってわけじゃないよ。……ただ、『今の、私には』ね。それは、きっと、いらないものなの。きっと、余計なもの。だから、今はいらないの。携帯電話も、インターネットもね」と、にっこりと笑ってから、片手を口の前に当てて、はぁー、と大きなあくびをしながら、祈は言った。
「そうなんだ」と叶は言った。
それから、叶はふと、祈の話を聞いていて、自分の携帯電話を確認したときのことを思い出した。確か、携帯電話を確認したときに、画面の表示の中に、日時と時間を見た覚えがある。……でも、それが、いつだったのか、何時を示していたのか、叶は今、なぜか、それをはっきりと思い出すことができなかった。(制服のズボンから携帯電話を出したとき、携帯電話の電源は切れてしまっていた。だからもう、日付や時間を確認することはできなかった)
「時間を気にすることなんて、なにもないんだ。今の私はさ。朝、いつまでも気の済むまで、眠っていることができるし、夜はいつまででも、気の済むまで、眠くなるまで、ずっと起きていることができる。この家には、誰もこないし、することもない。もちろん、畑の野菜を育てたり、毎日、一人で食事をしたり、家の中の掃除をしたりとかはするけれど、私がやらなければいけないことは、なにもないんだ。少なくとも、時計をもう一度動かそうって、思うようなことはない。今の私にはね、なんにもないんだ。本当になんにもない。
今の私はさ、……からっぽなんだ。なんていうのかな? きっと、空気の抜けちゃった風船みたいに……ね。しゅーって、体のどこかに開いた穴から、空気が全部抜けちゃってさ、ぺったんこになっちゃったんだよ。いつの間にか、私はね」にっこりと笑って、叶を見て、祈は言った。
「こんなに元気なのに? からっぽなの?」叶は言う。
「私が今日、こんなに元気なのは、叶くんに会ったからだよ。いつもの私は、こんなに元気じゃないの。本当はね。ずっと、ずっと泣いているの。一人ぼっちの、ほかに誰もいない家の中で、暗い部屋の中でさ」
そう言って、祈りは両手を目の下に動かして、えーんえーんと泣いている小さな子供の真似を笑顔でした。
それから、二人は、また大きな声を出して笑った。
叶はキッチンの調理道具の後片付けをして、その間に、祈はリビングのものを片付けたり、夕食を食べたテーブルの上をふきんで拭いたりした。
時間はわからないけれど、外が真っ暗な夜になってから、もうずいぶんと長い時間が経過していた。
……そろそろ、二人とも、睡眠をとらなければいけない時間だった。(その証拠に、叶は、祈に隠れて、小さくあくびをしたし、祈はまた、両手をあげて背伸びをしながら、はぁー、と大きなあくびをしていた)
「ねえ、叶くん。なにかお話しようよ。まだ眠くないよ。ゲームとかあればいいんだけどさ、なんにもないんだ。だから、もう少しだけ二人でお話をしよう」と叶の青色のジャージの裾を引っ張って、まるで小さな子供が、誰か近くにいる大人の人に、おねだりするようにして祈は言った。
「だめだよ。今日はもう寝ないと。今日は、二人とも長い間、森の中を歩いてきたんだし、祈も、もうすごく眠そうだしさ。もちろん、僕も、もう眠いし。明日のためにも、今日はもう、ちゃんと眠って、しっかりと疲れを取らないとだめだよ」と優しい顔をして、まるで本当に小さな子供にいい聞かせるような口調で、叶は言った。
「えー。もう寝るの? なんだかつまんないな」
と本当につまらなそうな顔をして祈は言った。
それから祈は、やっぱり眠たくない、とか言って、もっとわがままをいうのかと思ったのだけど、でも、祈はそれからすぐに、おとなしくなって、自分の考えを引っ込めた。
叶がそんな様子の祈の顔をじっと見ていると、祈はにっこりと一度笑ってから、それから叶の前で、まだ、はぁー、と眠たそうな顔をして、大きな、大きなあくびをした。
「叶くん。はい。これ」そう言って祈は白いタオルを叶に渡した。
それはどうやら、叶うの青色のスポーツバックの汚れを拭くための白いタオルのようだった。
「どうもありがとう」そう言って、叶はタオルを受け取った。
それから叶は、自然にお風呂場に移動をしようとする。
「あ、叶くん。もしかして、お風呂場にいくの?」とちょっとだけ慌てた様子で祈は言う。
「うん。お風呂場でバックを拭こうと思って、……いけなかった?」お風呂場に続く木のドアのドアノブに手をかけながら、後ろを振り返って、叶は言う。
「ううん。それは、いいんだけどさ。えっと、お風呂場には、……今、その、……私の、洗濯物が……」
と、顔を少し赤くしながら、叶から視線をそらして祈は言った。
その言葉を聞いて、叶うはあっと思った。
それから「あ、ごめん! すっかり忘れてた。えっと、わざとじゃないんだ。本当に」顔を赤くした叶は、慌てた様子で祈に言い訳をした。
「うん大丈夫。それはもちろんわかっているから。でも、えっと、……できれば、今は、お風呂場に入るのはやめて欲しいかな?」両手を小さく振りながら、祈は言う。
「わかった。えっと、じゃあ、玄関から出て外で拭くよ。それでいい?」一度、玄関の白いドアを見てから、叶は言う。
「うん。それでいい。ごめんね。叶くん」と申し訳ない、という顔をして祈は言った。
それから祈りは裏口に脱いである、叶の靴を玄関まで持ってきてくれた。青色のスポーツバックを持った叶は、その履き続けて、ところどころが、ぼろぼろになった高校の革靴をはいて玄関を開けて外に出る。
外に出ると、ざーという、強い雨の音がはっきりと聞こえた。(雨の音は、家の中にいる間も、ずっと叶の耳に聞こえていた)
真っ暗な夜の中で雨は今も降り続いている。
玄関には屋根があって、この場所は雨に濡れないのだけど、周囲に広がっている完全な暗闇の中には、確かに、強い雨が降り続いていた。
叶は、なぜか、その完全な暗闇の中に降っている強い雨の降る光景とその強い音に、強く心を惹かれた。
(思わず、その真っ暗な夜の中に、走り出していきたいと思った。強い、冷たい、雨を浴びて、限界まで、力つきるまで、走っていたいと思った。そして、実際に叶は、そんな自分の姿を頭の中で想像した)
叶はしばらくの間、ずっと、その完全な暗闇に、強い雨の降り続ける夜の中に、目を向けていた。
「叶くん? どうしたの?」すると、叶のすぐ後ろでそんな祈の声がした。
叶が後ろを振り向くと、いつの間にか、祈は玄関にあったサンダルをはいていて、家の外に出た叶のすぐ後ろに立っていた。玄関のドアは開いたままになっている。そこから明るい光が闇の中に溢れていた。
「どうしたの? ぼんやりしちゃって? ほら、叶くん。早くバック、綺麗にしちゃおうよ」と祈は言った。
どうやら祈は、叶の青色のスポーツバックの掃除が終わるまで、そこで叶のことを待っていてくれるようだった。
「ごめん。わかった。すぐに綺麗にするよ」にっこりと笑って叶は言う。
「うん。綺麗にしちゃおう」嬉しそうな顔で、祈は言った。
それから叶は、その場にかがみこんで、祈がじっと、前かがみになって、叶のことを見ている前で、暗い完全な真っ暗闇の前で、強い雨の降る音を聞きながら、自分の青色のスポーツバックをできるだけ綺麗に、丁寧に拭いた。
……手間をかけて、愛情を込めて、心を込めるようにして。
その自分の青色のスポーツバックを綺麗にした。
スポーツバックが綺麗になるまでの間、二人はずっと無言のままだった。
真っ暗な闇の中に、……ざーという、強い雨の降り続く音だけが聞こえていた。
青色のスポーツバックは、白いタオルで丁寧に拭くと思っていたよりも、ずっと綺麗になった。(その代わり、白いタオルは土で結構汚れてしまった)
「うん。これなら、大丈夫だね。このまま部屋の中に持って行ってもいいよ」にっこりと笑って祈は言った。
「ありがとう」と叶は言った。
それから、二人は家の中に戻った。
祈が家の玄関の白いドアをゆっくりと閉めるとき、叶はそっと、その向こう側にある真っ暗な闇にじっと目を向けていた。
……やがて、ぱたん、とドアがしまって、真っ暗な闇はどこにも見えなくなった。
「じゃあ、部屋に行こうか。案内するよ。私の部屋と、それから今日から叶くんが使うことになる空き部屋は、どっちも二階にあるんだ」と祈は言った。
「わかった」叶は言う。
それからふと、叶は玄関のドアを見て、「そういえば、玄関のドアに鍵は掛けなくていいの?」と祈に聞いてみた。(思い出してみると、玄関のドアだけではなくて、裏口から家の中に入ったときも、鍵を開けたり、閉めたりしている様子はなかった)
「あ、うん。鍵はいつも掛けてないんだ。『開けたまま』にしている。一応、鍵はあるんだけどさ、この家に来てから、鍵を掛けたことは一度もないかな?」と祈は言う。
それから祈は、「ほら。これ。一応、こうして、持ち歩いてはいるんだけどさ」と言って、青色のハーフズボンのポケットの中から『小さな鍵のたば』を取り出した。
それは、小さな二匹の白と黒のうさぎの人形と、それから、小さな鈴のアクセサリーが赤い紐で鍵に吊り下げてある、小さな鍵のたばだった。
祈がその小さな鍵束を取り出すと、その小さな鈴がちりん、と小さな音を立てて鳴った。
その小さな鍵束には、二つの鍵がくっついていた。(おそらく、入り口と裏口のドアの鍵だろう)
「ドアに鍵をかけなくて危なくないの?」と叶は言った。確かに誰も、『この家を訪れる人』はいなそうだけど……、と思いながら
「うん。危なくないよ。どうせこの家には『誰も訪ねてこない』し、大切なものはいっぱいあるけど、でも、盗まれるような価値のあるものは、なにも置いてないし、別に鍵をかける必要はないから、いつも開けっ放しなんだ。いちいち鍵をかけたり、閉めたり、めんどくさいからね」と明るい顔で祈は言った。
「そうなんだ。なるほどね」と叶は言った。
……確かに、誰も人はこないだろうと叶は思った。でも、このドアの先には、この家のまわりには、……あの完全な真っ暗な闇が永遠に広がっているのだ。
そんなことを考えると、ひどく不気味な気持ちになった。
……人はこないとしても、人ではないものが、その真っ暗な闇の中から、この家を訪れるような気がした。
あの真っ暗な闇の中から、強い雨の降る夜の中なら、『不気味で恐ろしい、なにか』が、この家を訪れるような気がしたのだ。
そのとき、ドアに鍵がかかっていないのなら、とても危険なような気がした。
「どうしたの、叶くん? ほら、早く行こうよ」と祈は言った。
「……うん。わかった。今、いくよ」そう言って、叶は祈と一緒に移動をする。
二人はキッチンで、祈は白いタオルを水で洗ってから、石鹸でごしごしと手を洗った。それから祈は一度、奥にある木のドアを開けて、お風呂場のほうに移動をした。帰ってきたときには、白いタオルを持っていなかったので、きっと、洗濯機の中に入れたのだろう。
叶は祈と一緒にリビングにある裏口やお風呂場ではないほうの、もう一つの木のドアの前まで移動する。玄関の白いドアから離れて、手を洗っている間も、お風呂場に移動をした祈をキッチンで一人で待っている間も、その間、叶はずっと、ちらちらと鍵のかかっていない玄関の白いドアを注意して見ていた。
いきなり、そのドアが急に、……勝手に開くような気がした。
……でも、もちろん、そのドアが急に開いたり、あるいは、とんとんと、誰かが、あるいは、『不気味で恐ろしい、なにか』が、そのドアをノックするようなことは、一度もなかった。
祈はもう一つの、まだ叶の入ったことのないほうの木のドアを開ける前に一度、リビングとキッチンをその場から見回して、ちゃんと夕食の後片付けが終わっているのか、最後の確認をしてから、そっと手を伸ばして、リビングとキッチンの二つの部屋の電気を両方とも消して、世界を真っ暗にしたあとで、木のドアを開けて、(闇の中に、ぎーという音がした)その後ろにあるスペースに移動をした。
それから祈は、すぐにどこかにある電気のスイッチを押したようで、世界はまた急に明るくなった。
その明かりの中で、叶は祈の代わりに木のドアを閉める。
……そこは、やはり階段のあるスペースだった。
二階に続いている小さなとてもいい木の香りのする、(おそらく)ヒノキで作られている階段があった。(それはさっき作られたばかり、と言われても信じることができるくらいに、新鮮な木の香りのする綺麗な階段だった)
その横の木の壁には、木のドアが二つある。
一つは、普通のドアで、なんのためにあるドアなのか、見ただけではわからない。
でも、もう一つの木のドアのドアノブには、『トイレ』と手書きの文字が書かれたの小あ看板がかけられていた。(手書きの、子リスとどんぐりのとても可愛らしい絵が描かれている看板だった。この文字と絵を描いたのは、もしかして祈なのかな? と叶は思った)
その部屋は、どうやらその小さなでガキの看板の文字通りに、トイレになっているようだった。
その小さなヒノキの階段と、トイレのドアの前にある空いているスペースには小さな丸い木のテーブルが置いてあった。
その丸テーブルの上には、電話が一つ置いてあった。
真っ白で、細かいところに金色の装飾がなされていて、とても、おしゃれな形をしている、ダイアルを回すタイプのとても古い電話だった。(これもきっと、この家の中におじさんが集めたアンティークの品の一つなのだろう。どこか、歴史ある古い高級なホテルのロビーや、あるいは、遊園地やアトラクションの施設の中に置いてあるような、そんな生まれる時代や場所を間違えたような、電話だった)
「ここはトイレで、それで、あっちのドアは物置になっているんだよ。掃除道具とかが入っているだ」とにっこりと笑って祈は言った。(どうやら叶が二つのドアをじっと見ていたので、説明してくれたようだった)
「あのさ、祈。トイレ、借りてもいいかな?」叶は言う。
叶は早速、トイレを借りることにした。(トイレを見たら、急に少し、トイレに寄りたい気分になった)
そのことを、そんな風にして叶が祈に告げると、「もちろん。いいよ。じゃあ、私は先に上で待ってるね」と祈は言った。
「ありがとう」
と、叶は言った。
それから叶は木のドアを開けて、トイレの中に移動をした。
祈の家のトイレは、とても綺麗に掃除がされている、ものがほとんどなにも置かれていない、小さなトイレだった。(置いてあるものは、置くタイプのカレンダーと、トイレットペーターの予備と、それから、子うさぎの陶器の置物だけだった)
その小さなトイレは、やはり削りたてのような、木のいい匂いがした。どこか、ほっと安心できるような雰囲気のある素敵なトイレだった。
そのトイレの中には、棚の上に、子うさぎの陶器の置物と並んで、一緒にカレンダーが置いてあった。
小さなカレンダーだ。
カレンダーは『八月』のページになっていた。
その青空と緑の山の絵が描かれた八月のカレンダーを見て、叶は、そうだ。今は季節は夏で、そして、……今の『月は確かに八月』だった。とそんなことをはっきりと、思い出した。
叶が祈の家のトイレのドアから外に出ると、そこに祈の姿はなかった。すると、すぐに、「叶くん? 外にでた?」と祈の声が上のほうから聞こえた。
先ほどの言った通り、祈は先に二階に移動をしているようだ。
「うん。すぐ行く」叶は言う。
みると、階段の上のところから、祈は顔を出して、階段の下にる叶のことをじっと見ていた。
叶は一人で、階段を上がって、二階にまで、ゆっくりと移動をする。
叶が足を動かすたびに、その小さなヒノキで作られている木の階段は、ぎいぎい、と音を立てた。
二階に上がると、そこには祈がいた。
叶が二階に上がってくると、祈は叶を見て、にっこりと幸せそうな顔で微笑んだ。
小さなヒノキの階段の先には、小さな通路があって、その通路の横には木のドアが二つ、並んでいた。ドアのある反対側の壁には、小さな四角い窓があった。
叶が二階まで上がってくると、祈はスイッチを押して階段のある部屋の電気を消した。
また、世界は真っ暗になった。
真っ暗な世界の中で、がちゃっとドアが開く音がした。
それから部屋の中に明かりが灯って、世界がまた、明るくなった。
そこには長方形の形をした、ものの少ない、本当に綺麗な部屋があった。
ベットが一つ、大きなタンスが一つ。そして、小さな机が一つ、青色のカーテンのかかっている窓が一つ。
ベットの上には白い毛布がきちんとたたんで置いてあった。
天井には、明かりの灯っている古い電燈が一つあった。
ほかに、ものはなにもない。
……確かに、すごく綺麗だけど、誰かが住んでいると言う感じのしない、生活の匂いのしない、抜け殻のような部屋だった。(でも、ベットや机、タンスなどが揃っているということは、この部屋にはきっと誰かが住んでいたのだろう。それはやっぱり、祈のおじさんだろうか?)
そんなことを叶は思った。
祈は、その部屋の木のドアの横に立っていた。
そこからじっと、ドアの前からその部屋の中を観察している叶のことを見つめていた。
「ここが叶くんの部屋だよ。元は、おじさんの寝室だった部屋。それで、奥のドアが私の部屋なんだ。元は、おじさんの奥さんの寝室だった部屋。簡単にだけど、もう部屋の準備はしておいたから、すぐにでも寝られるよ」と手前のドアの前で、祈は言った。(叶は顔には出さなかったけど、勝手に、なんとなくだけど、祈のおじさんは独身だと思っていたので、奥さんがいると聞いて、少し驚いた)
「本当に? ありがとう」祈を見て、叶は言う。
それから、祈はいつ、部屋の準備をしたのだろう? と叶は思った。僕がお風呂に入っているときだろうか? (時間的におそらくそうだろう、と叶は思った)
「部屋の説明とかいる?」
「ううん。大丈夫だと思う」と叶は言う。
「わかった」祈は言う。
それから、祈はゆっくりと歩いて、奥のドアの前まで移動をした。
「……じゃあ、おやすみなさい。叶くん。また明日ね」と祈は言った。
「うん。おやすみ。祈。また明日」と叶は言った。
でも、そう言っておやすみを言い終わったあとも、二人は、部屋の中に入らずに、叶の部屋から溢れるかすかな光しかない、薄暗い通路の中に立ったままだった。
……二人はじっとお互いの顔を見つめている。
家の外では、今も降り続いている、ざーという強い雨の降る音が聞こえている。
……それは、とても静かな時間だった。
「眠る前に、なにか少しだけ、お話しして」と祈は言った。
少し考えてから、叶は「おじさんは結婚をしていたんだね。夫婦でこの家で暮らしていたんだ」と祈に言った。
祈は「そうだよ。ずっと二人で暮らしていた。とても幸せそうだった。二人の間に、子供はいなかったけど、二人とも本当の子供みたいに私に優しくしてくれた」と祈は言った。
「おじさんの奥さんはどんな人だったの?」叶は言った。
「とても優しい人だったよ。美人で、笑顔が素敵で、森のこととか、草や花や動物のこととか、家の家事のことか、なんでもよく知っていて、それから、……まるで私の本当のお母さんみたいだった」と祈は言った。
「おじさんのことを愛していた?」
「うん。すごく愛していた。おじさんも奥さんのことをすごく愛していたし、奥さんもおじさんのことをすごく、愛していた。そんな理想的な夫婦だった」と祈は言った。
そこで、叶は言葉を話さなくなった。
祈も話をしなくなった。
沈黙の中で、叶は、まだ見たことのないおじさんとおじさんの奥さんが二人で仲良く、この家の中で暮らしている風景を思い浮かべていた。(それは、本当に幸せそうな風景だった。二人は叶の想像の中で、一緒に料理をしたり、炎の灯った暖炉の前で本を読んだり、古いレコードを聞いたりしていた)
やがて、祈は奥のドアを開けて、それから「おやすみなさい。今夜は、いい夢が見られるといいね」ともう一度、おやすみなさいを叶に言って、それから祈は自分の部屋の中に移動をした。
そして、奥の部屋のドアは、ぱたん、と言う音がして閉まった。
叶はそんな光景をぼんやりと見てから、「おやすみ。祈。君こそ、……幸せな夢を」と小さな声でもう一度、おやすみを祈に言ってから、祈の用意してくれた、元はおじさんの寝室である、今は自分の部屋の中に移動をした。
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