ハコの中の誠
垣峰仁
第1話
1.
演劇というものは嘘で構成されている。
まず舞台そのものが作り物だ。屋内なのに川が流れたり城が建っていたりする。生えている草木はもちろん、剣も宝石も偽物。起こる出来事だって脚本をなぞっていくだけの八百長である。そしてなにより、演じる役者たちが偽物なのだ。自分とは全く違う人間になりすまし、思ってもいない感情を表現して言葉を紡ぐ。その姿は演じているというよりも、嘘をついているように見えてしまう。それはどんなに演技がうまくても変わらない。アンバランスだ、無理がある、と感じてしまうことはきっと大しておかしくないはずだ。
そう、おかしくはないはずなのだが、どうにもこういった考えは少数派らしい。少なくとも私の周りに同じ考えの持ち主はいないようだ。現に今も、閉幕したばかりの劇の感想を口々に語り合っている同級生に、私はついていけないでいる。
どうしようもなくつまらない。いくら学校行事といえど、もう少し心惹かれる内容であってほしかった。どうにも劇は面白いと思えないのだ。いつになったらこの課外授業が終わってくれるのだろうかと、私は一人ため息をついた。
劇の観賞が終われば次は舞台裏の案内だった。劇を見た後に裏側を見せてもいいのか疑問が湧くが、劇の前に見せるよりはましなのだろうか。劇の余韻が覚めてしまうような気もする。生徒達は列をなしてガイドの後を雛鳥のようについていく。私はその最後尾に陣どった。ガイドの説明は生徒達の話声に紛れて耳をすり抜けていったが、視界にうつるものは見るともなしに見ていた。舞台袖に置かれた小道具、大道具、椅子に衣装。鏡の脇に置かれた小箱の中身は化粧品だろうか。それらを片付ける裏方の人々。すれ違うときに声をかけてくる演者。巨大な背景画が運ばれていったときにはさすがに目を見張った。あんなものが劇中で使われていただろうか。思い出そうとしてみたが、起きていた時間の方が短かった私には無理な話だった。
最後に役者のみなさんのお話を聞かせてもらいましょう。引率の教師が言い、私は周りを見渡した。気づけば雛鳥の列は舞台の上まで来ており、親鳥役のガイドの横には役者が何人か立っている。観客席に照明はついていなかった。残念ながらこれから始まるであろうミニ講演会にも興味が湧かず、役者達から微妙に焦点をずらし、終わるまで虚空とにらめっこを決め込むことにした。
ここでそれぞれの立ち位置を確認しておこう。役者達が舞台の中心部に立っている。教師とガイドを挟んで、生徒達は下手側から役者達と向かい合って話を聞いている。そして私はその最後尾で、舞台の淵に沿うようにして立っていた。
そんな状態でズボンのすそを引かれながら、
「君は、演劇には興味がないのかな?」
なんて囁くように声をかけられでもしたら、どうだろう。音源に向けて足を勢いよく振ってしまっても、しかたのないことではないだろうか。振られた足が、ズボンのすそを引いた張本人の顔面に直撃したのも不幸な事故といえるはずだ。舞台の下にいたその人は声も出さずに顔をおさえてしゃがみこんでしまい、私は少し迷ったが、なるべく目立たないようにして舞台から降りた。
その人の顔をおそるおそるのぞき込むと、ぱちりと目が合った。無言で出口を指し示され、頷く。なぜかお互い声を出さないままに、劇場内から廊下へと移動した。が、廊下の照明に照らされたその人を見て、思わず顔をこわばらせた。顔の下半分と、鼻を抑えている左手が血で汚れている。
私の表情を見て、彼はひらひらと手を振った。
「あー、気にしなくていいよ。大丈夫。というか、さっきのは僕が悪かった」
その言葉に、はぁ、とあいまいな返事を返す。同時に、よくわからない人物についてきてしまったという危機感が今になって芽生えてきた。
「…顔を蹴ってしまってすみませんでした。手当てした方がいいでしょうか。あと、どちら様ですか」
急に勢い込んで話し始めた私にさして驚くこともなく、彼は質問の答えを返す。
「さっきも言ったけど、気にしなくていいよ。むしろ驚かせてしまって申し訳ない。手当ては、うん、したいな。顔を洗えるところまで移動しながら話そう」
「あ、はい」
どちら様かの答えはなかったが、取りあえず頷いて彼の後をついていく。私としては謝罪がすんだので話すことは何もないし、手当てがおわったら戻りたいのだが。
「最初の質問をもう一度するけど、君は演劇に興味がないのかな?」
半歩前を歩く彼がこちらを見て尋ねてくる。そういえば、そんなことを言われた気もする。演劇に興味は欠片もないが、おそらく演劇業に携わっているであろう人の前で正直になる度胸もない。
「人並にありますよ。すごくってわけじゃないですけど」
「最前列のど真ん中で寝ていたのに?」
「見えてたんですか?」
「舞台上からは丸見えだ」
「役者さんでしたか」
「なんなら四人いる主演の内の一人だね」
「…すみません」
「それこそ謝ることじゃないよ」
彼は笑って言う。面白いと思わせられなかったこっちの責任だ、と。私も別に申し訳ないとは思っていない。当人を前にして平然としていられるほど、厚かましくないだけである。
「まあ開演する前から眠りについていたのには、一言物申したくなったけどね」
「本当にすみませんでした」
さすがにその一点についてだけは素直に謝る。一応最初の十分くらいは真面目に見るつもりでいたのだ。が、観客席の座り心地が想像よりもよかった。おかげで開演前から夢の中である。
ここ曲がって右側ね、と彼が指し示したのは劇場内のトイレだった。洗面台で顔を洗うつもりなのだろうが、彼はぴたりと動きを止めた。
「そういえば君の名前は?」
「ザシャです」「アレクサンドラの方?それともアレクサンダー?」「アレクサンドラですね」「だよね。僕はクリストフの方のクリスだ」
暫し顔を見合わせた後、私はぺこりと頭を下げた。
「お手伝いできることがなさそうなので、私はこれで失礼します」
「いや、待って。ちょっと待ってくれ」
戻ろうとする私を彼は引き止めた。胸ポケットからペンと小さな紙を取り出し、壁を机代わりにして、器用に右手だけで何かを書いていく。はい、と手渡されたそれは、どうやら名刺のようだった。ひっくり返した裏面には、クリストフ・ジラントというサインと、『この子に演劇の楽しさを教えてあげて!』の文字。彼の顔を見れば、楽しそうな笑みが返ってくる。
「それが劇場のチケット代わりになってくれると思う。僕が前に所属していた隣国の劇団のね。名前はリエジャード劇団。ぜひ見に行ってくれ」
名刺を握る手の力と、戻りたいと思う気持ちが強くなる。深く息を吸ってから彼に聞いた。
「それはつまり、右国の劇場のってことですか」
「ああ、そうだよ。『壁の向こう側』の劇場だ。演劇に関しては右国の方が評価が高い。有名な話だと思うけど」
「お返しします」
「即決だな。そんなに興味ないのかな?」
「それもありますが、私は右国に行けません」
「どうして。パスポート持ってないの?」
「持ってます。ただ親の許可が」
「なくてもこっそり行ける。とにかくそれはもらってくれ。君に演劇の楽しさを知ってほしいんだ。そこでなら今日の百倍素晴らしい劇が見れる。居眠りさえしなければね」
一か月後の舞台にぜひ行ってくれ。その言葉を最後に、彼は男子トイレの中に入っていった。私は少しためらってから、名刺をポケットに入れて、来た道を引き返した。
後でクラスメイトに確認したところ、クリストフ・ジラントはかなり有名な俳優らしい。右国から亡命してきた俳優だと聞いて、私もようやく思い至った。少し前に新聞でそんな記事を読んだ気がする。夜の公演が終わった後、日が昇るまでに間に左国へと渡ってきたとか。秘密警察や軍の目をかいくぐって決行したのだから、まるで映画のようだと騒ぎ立てられていた。クラス内にファンも多いようで、話を聞いたクラスメイトの彼女もそうらしい。サイン入り名刺の話をするとかなり食いついてきたので、初等部学生のお小遣い程度の額で売り払った。いい臨時収入になった。
私は名刺の行く末に満足していた。だから、その後に同じ物が我が家郵送されてきたときには、予想外の方向からぶん殴られたような衝撃を覚えた。叫ばなかっただけ褒められてもいいだろうと、心の底から思った。
2.
課外授業から一か月後。私は右国に入るための入国審査の列に並んでいた。結局ジラントの言う通りに、素晴らしい劇とやらを見に行くことになっている。冬空の下、長時間突っ立っているのはかなりつらい。だが左国と右国を隔てる壁を通り抜けるためには、ここで寒さに耐えるしかない。真横にある壁は寒さなんて関係ないとでもいうように、どっしりと構えて建っていた。
二十年近く前に大規模な戦争が起こり、負けた国は勝った二つの大国に分割されて管理下に置かれた。その後大国の情勢の影響をそのまま受けていった結果、分けられた国の片方は盛え、片方は廃れていった。当然のことながら、人々は豊かな国の方へと逃れていこうとする。廃れた側の国を管理していた大国は、年々増加していった人口流出を止めるために国境に壁を建てた。どこまでもどこまでも続く壁を。それが現在の左国と右国の姿である。
私の住む左国も、壁を隔てた先にある右国も正式名称は別にある。それでも誰もが左国、右国と二つの国を呼ぶのだ。そう呼ばれるようになった理由は簡単で、世界地図を見たときに左国が左側、右国が右側に位置しているからである。私にそれを教えた父はその後に、だけどな、と続けた。
『だけどな、ザシャ。大人たちが正式な国名で呼びたがらないのは、左国、右国という呼び名を広めたのは、願ってるからなんだよ。いつかまた、元通りの一つの国に戻れたらいいと、願っているんだ』
その後すぐに病気で他界した父だが、言っていたことは未だに納得できていない。私は左国で生まれ育って、左国は右国よりも盛えている。戦争前の普通を知らない身としてはこのままでも特に困らないのだ。
母は昨今の情勢が不安定なこともあり、国外に出ることに酷く怯えている。右国を日帰りで訪れる人もいるのだが、母は当然のように私にそれを禁じた。私も遠出をしたいという意欲を持たない人間だったので特に不満もなかったが、今回だけはこのルールを恨む。母にばれないように準備するのはずいぶんと骨が折れた。
私の番がきたのは列に並び始めてから一時間後のことだった。既にかなり帰りたい。入国審査官の質問に答え、所持品チェックを受け、所持金を換金される。私の国、左国から右国への印刷物の持ち込みは禁止されている。例の名刺も、おそらく没収対象だろう。入国審査で見つかれば没収、入国後に見つかれば厳罰処分らしい。与えられる罰の内容は知らない。ジラントからの手紙には、そこまで詳しく書かれていなかった。最初の手紙を黙殺した後から、一か月間送られ続けた手紙の一部を思い出す。
『所持品チェックでは、バックの中身はもちろん、上着のポケットから靴の中敷きの下まで確認される。でも、服の縫い合わせをほどいて何が隠されているかまでは調べられない。少なくとも、一般入国者相手ならね』
当たり前である。入国者全員に対してそんなことをやっていたら、いつまでたっても審査が終わらない。案の定ジャケットの中、布と布の間に隠された名刺は見つからず、私は無事に審査所を出た。そこで一気に体の力が抜ける。いくらばれないだろうと思っていても、後ろ暗いことがあると緊張してしまう。壁の門を潜り抜けるときも、同じような緊張感を感じた。
出口付近には人が多く、周りの様子もよく分からない。なんとか道の端に寄り、辺りを見回す。生まれて初めて目にする異国の風景は、想像よりも普通で静かな街並みで。左国との違いを見つけるのは難しかった。
劇の入場は午後六時半からで、開演は七時。今は五時なので、二時間は余裕がある。何もしないで待っているには長すぎるので、劇場に向かう途中にある大通りに足を向けた。土産物屋でものぞいていれば、少しは時間が潰せるだろう。そう考えて歩き出したが、そもそも土産物屋がない。一般的な雑貨屋すらも見当たらない。というよりも、店そのものの数が少ない。
見かけは左国とさして変わらないが、なるほど、それ以外は全て違う。壁から遠ざかるほどに人通りが減っていき、私は自然と足を止めた。少し迷ってから引き返し、一番近くにあった青果店に入ってざっと店内を見渡した。どうにも品数が少ない。値札をいくつか確認して、その額に思わず顔をしかめた。店主の視線を感じたのでとりあえず店から出る。
『右国に入るときに、所持金は全額換金させられる。使いきれなかったら出国するときに全部持ってかれるから、お金は本当に少ししか持っていかない方がいい』
ジラントの手紙の思い出し、その意味を理解した。左国に比べて右国は物価が安すぎるし、品質も悪い。何かを買いたいとは思えず、そもそも買うものが無いに等しい。おそらく所持金のほとんどは右国政府に回収されて終わるだろう。バッグの上から財布をなでつつ、もったいないことをしたとため息をついた。
これ以上ここですることもないだろうと思い、踵を返して劇場へ向かう。少し早いがしかたない。この国は観光のできる場所ではないのだろう。
劇場の大きさは課外授業の時のものと大差なかった。だが、明らかにこちらの方が年季の入った落ち着いた雰囲気だ。ボロくて地味だともいう。寒いのでさっさと劇場内に入ってしまいたいが、入場時刻にはまだ早いので待つしかない。だが寒いものは寒い。帰りたいという思いがむくむくと心の中にこみ上げてくる。閉じた扉を眺めながら深く吐いた息は白く曇って空気に溶けた。
「ここに何かご用ですか」
背後からかけられた声の唐突さに驚き勢いよく振り向く。肩にかけたバッグが勢い余って相手の腕にぶつかった。すみません、いえ別に、なんてやり取りをして、最近こんなことばかりだなとふと思う。
「入場時間は六時半からですし、今夜のチケットは完売済みですよ」
声をかけてきた男性は、こちらを値踏みするように私の全身をジロジロと見ながら言った。おそらく劇団の関係者なのだろう。無遠慮な視線に若干に嫌悪感を覚えつつも、私はさっさと用件を切り出した。
「クリストフ・ジラントさんから紹介状をもらって来ました。紹介状を見せれば劇を見させていただけると聞いて来たのですが、実際の所よろしいのでしょうか?」
言い切った瞬間にしまった、と思った。男性からさっと目をそらす。なにがよろしいのでしょうか、だ。よろしいわけがないだろう。妙に上から目線な言い方になってしまった気がするし、なにより、これではまるで私が演劇を見たくてしょうがない人間のように聞こえる。相手にとっては気にも留めない部分だろうが、私自身が酷く嫌だった。どうやら無意識に緊張していたらしい自分に喝を入れ、相手に顔を向けなおす。そこには酷く間の抜けた顔があった。
「紹介状?クリスの?紹介状?」
「あ、はい」
オウム返しをする彼がジラントを名前で呼んでいることに気づく。この人はジラントと仲が良かったのだろうか。手入れのされていないぼさぼさの髪を見る限り、彼が役者だとは到底思えないけれど。
オウム返しをやめた男性は少し考える素振りを見せた後、ついて来てと端的に言った。扉を開けて中に入って行く彼に、黙って言われた通りについていく。劇場内は外よりも暖かくて一息つくことができた。辺りを見回すと想像よりもきれいな空間が広がっていた。外観を見たときに感じた古臭さはなく、趣があるといった方がしっくりくる。入ってすぐの廊下でこうなら、ホールの方はどれほどのものだろう。少し興味が湧いたが、男性はホールに繋がっているであろう扉へは行かずに廊下の奥へと進んで行ってしまう。しかたなくその背を追って歩いていくが、次第に不安を覚え始めた。
よくよく考えてみれば、本当にあの名刺がチケット代わりになるのか怪しいところではあるのだ。他国に亡命した元団員の頼みなんて普通は聞き入れないだろう。むしろ一人で逃げていったことで恨まれていてもおかしくないのではないだろうか。ならジラントの紹介で来た私はどうなる?何か理不尽な目にあわされるかもしれないではないか。ああくそ、なぜ自分はその可能性を一切考えずにここまで来てしまったのか!
ここにきてようやく、私は自分が右国にいるという実感が湧いてきていた。あまりにも今さらな心配に身を包まれるが、男性は止まってはくれないし私はついていくしかない。何人かとすれ違いながら、その度に不思議そうな視線を向けられる。奥へ奥へと進んでいって、関係者以外立ち入り禁止の札も越え、人が大勢動き回っている廊下に出た。課外授業のときの劇場の、楽屋があった廊下によく似ている。たくさんある扉の、その内の一つを男性は迷わずノックした。
「団長、ルイスです。少しいいですか」
「本当に少しならいいぞー」
間延びした低い声が返ってくる。私は思わずここまでついてきた男性—ルイスというらしい—を、信じられないものも見るような目で見てしまった。いきなり劇団トップはないだろう。こっちは心の準備もまだなのに。
私の視線など気にも留めずにルイスは部屋へ入った。渋々後に続けば、そこはやはり楽屋のようで、紙束や小物が雑然と机に散らばっていた。壁際には衣装らしきものがかけられている。その中に男性と女性が一人ずつ立っていた。さっき返事をした団長は男性の方だろう。きっちりとした正装に身を包み、姿勢よく立ってこちらを見ていた。同じく正装の女性に目をやるが出ていく気配はない。一緒に話を聞くつもりなのだろうか。
「なにかあったのか。というか、その子は誰だ?」
「問題が起きたわけじゃありません。ただ、この子どもがクリスの紹介で来た、と」
団長のもっともな疑問にルイスは淡々と答える。ただ、ジラントの名前を言うときだけ僅かに声が曇った。団長の方はといえば、目を見開いて硬直していた。女性も同様である。ルイスのような間抜け面ではないが、驚いていることは十分に伝わってきた。やはり不用意にここを訪ねるべきではなかったのだろうか。何かまずいことになったら全てジラントのせいにして逃げよう。そう心に決めたとき、団長がようやく声をあげた。
「…その紹介状はどこに?」
そう聞かれて私もルイスも、まだ紹介状の現物を一度も出していないことに気がついた。
「おい、お前」
「いや、待ってください。ありますちゃんと。ちょっと待って」
慌ててジャケットの縫い目をほどく。元々ほつれていた部分に名刺を押し込んで緩く縫い合わせただけなので、焦りで指先が震えていてもすぐに取り出せた。かなりしわのよった名刺を前に突き出せば、団長はどうも、と言って丁寧に受けとった。しわを伸ばし、サインの書いてある裏面にしっかりと目を通す。自分の心音が周りに聞こえるんじゃないかと考えながら、私は息をつめて大人しく待った。
検分が終わったのか、名刺を内ポケットに入れた団長が顔を上げてこちらを見る。そうして彼は、楽しげに微笑んで私に言った。
「ようこそ、我がリエジャード劇団へ。私は団長のダニエル・リエジャードです。私たちの友人であるクリストフの紹介ということなら喜んで歓迎しましょう。今夜の舞台の特等席を用意しようじゃありませんか」
柔らかな声音に力が抜ける。どうやらなんとかなったらしい。なんとかなったのに新たな問題を起こす趣味はないので、別に特等席とやらはいりません、と言うのは頭の中だけに止めておいた。
リエジャード団長にお礼を言った後、私はまたルイスに連れられて部屋を出た。ルイスは先程私の相手をするように団長に言われていたので、彼の後をついていけばいいだろう。人の間を縫って進む背を追いかける。歩調が速く、置いて行かれないようにするのが大変だった。どこに向かっているのかと問うたら、どこがいいのかと聞き返された。人の少ないところと返せば、そうかと言われてそれっきりだった。
無言で歩き続けてしばらくすると、急に人のいない場所に出た。それなりに広く、大きな扉もある。そのせいか少し肌寒かった。機材搬入口のような所だろうか。
「ここはいわゆる機材搬入口みたいな使われ方をしている場所だ。必要なものはもう全部中だし、ここに人はまず来ない」
中、のところでさっき通った通路を指しながらルイスが言う。尋ねていないのに答え合わせをしてくれた彼は、深く息を吐いて壁に寄りかかった。なんとなく、私も彼の向かいの壁に背を預ける。そういえば、とルイスの敬語が消えていたことに気がついた。普通の客ではないと分かったからだろうか。
お互いに何も言わず、目線も合わさずだったが、初対面の相手と無言でいるのはつらいので私の方から話しかけた。
「あの、案内してくださってありがとうございました」
「礼よりも世間話よりも、俺はあいつがどういうつもりなのかが知りたいんだが」
どうやら私の振った話はお気に召さなかったらしい。ルイスが鋭い口調で聞いてきた。
「あいつっていうのは」
「クリスだ」
「どういうつもりっていうのは」
「なんでお前をここによこしたかってことだよ。分かりきってることを一々聞いてくるな」
あからさまに苛立つルイスにまたも嫌悪感を覚える。言い返してやりたい気持ちはあるが、ぐっとこらえて謝罪する。
「すみません。でもジラントが、じゃなくて、ジラントさんが私に紹介状をくれたことに深い意味はないと思って。演劇の楽しさを知ってほしい、としか言われていませんし」
この返答も気に入らなかったのか、ルイスの顔つきが曇る。数秒黙った後に彼は、私からふいと視線を外して言った。
「…役立たずかよ」
舌打ちというおまけまでつけた彼を見て、お行儀よく口を閉じたままの私は心の中で思う。
こいつマジでぶん殴ってやろうかな。
3,
搬入口の脇には左右対称になっている窓があり、薄汚れたガラス越しに外の景色を眺めることができた。私も、見てはいないからたぶんだけれどルイスも、無言のままに窓の外を眺めていた。沈黙はそれなりの時間続いていて少し気まずいけれど、むやみやたらに会話をする気もなかった。相手の不興を買いたくないし、なにより私自身が不快になるということが既に分かっているのだ。ルイスとはこれ以上やり取りをしたくなかった。あちらも同じ気持ちだろうからちょうどいい。
「…俺の仕事は大道具の準備が主で、他には小道具や演出の手伝いもしているんだが…」
ちょうどいいと思っていた矢先にルイスが一人で話し始める。自分語りはモテない男の要素の一つと知らないのだろうか。話したくないのは山々だが、年上の男性に静止の言葉をかけるだけの度胸は持ち合わせていない。私が黙ったままなのを確認してからルイスは続けた。
「その手伝いの最中にクリスとはよく話をした。というか、あいつは誰とでもよく話した。劇団員どうしは結束が固いし特別おかしなことではないんだが、劇団の顔みたいな存在の役者が周りに平等に声をかけるっていうのはあまりない。…俺は、周りから距離をとられている人間だし、仕事の用事以外ではほとんど人と話をしない。クリスは例外もいいところだ。その性格のおかげで皆から好かれてたよ、あいつは。だから左国に亡命したって聞いたときは本当に驚いた」
「…そうだったんですか」
「まあ俺はあいつのこと嫌いだったけどな」
「はい?」
「ああいうやつって腹ん中で周りのこと見下してそうだろ。実際一人で逃げてったわけだしな」
なけなしの愛想を使って相槌を打ったというのに、ただの陰口しか言うことがないのだろうか。私も別にジラントのことは好きではないし、手紙だけでも伝わってくるあのしつこさはむしろ嫌いだ。だが悪人ではないと思う。性格が私と合わないでだけで、彼はたぶんいい人だ。演劇の楽しさを学生一人に伝えるために、あそこまでするとは思わなかった。
何も言わない私をいぶかしく思ったのか、ルイスの視線を感じた。私はそれに気づかないふりをして窓の外を眺め続ける。そこからまた沈黙が続いた。だが、意外なことにルイスは数分後にもう一度口を開いた。そして先程までよりもずっと静かな声音で言う。
「クリスは、本当にどういうつもりなんだ」
私は何も言えない。ルイスがなぜ知りたがっているのかも分からない。
「亡命したことは別にいい。あんなもの個人の自由だし、俺だってできることなら豊かな国で生きていきたい」
そう思っているのならさっきの悪口はなんなのか。意地を張っての嘘や誤魔化しだったとしても、もう少しましな表現をするべきだ。
「ただ、お前をわざわざここに来させた理由が分からない。あいつはなにか言ってなかったのか?俺に限らず、劇団の皆に対して、なにか」
別れの挨拶もなしか?と懇願するような声で問われて、私はルイスに顔を向けた。
なるほど、どうやら彼は相当な天邪鬼であるらしい。ほんの少しだけ素直になった彼は、さっきまでと違い普通の青年に見えた。ずっとそうしていれば、周りから距離をとられずに済むのではとも思った。急激な印象の変化に戸惑いつつも、私は言葉を返す。
「特に何も、伝言とかは頼まれていません。えっと、でも、なんというか」
口ごもる私をルイスが目で急かす。これが別れの挨拶の代わりになるのか分からなかったが、言わないよりはいいだろうと考えて言った。
「ジラントさんは何度も、リエジャード劇団はすばらしいと言っていました。演劇を真に楽しみたいなら、リエジャード以外はありえない、と」
これはルイスに気を遣ったわけではなく、事実だった。手紙にはよくリエジャード劇団の名前が出てきたし、どんなところがいいのか詳しく書いてあるときもあった。だから、彼がこの劇団のことを今も愛しているということは嫌というほど伝わってきた。
そうルイスに話せば、彼はどこか苦しそうな様子で、そうかと言った。それきり黙って、また窓に顔を向けて動かなくなった。その勝手な様に苛立ちを覚えたが、結局私も何も言わずにルイスと同じ体勢をとった。そしてそのまま、ジラントの手紙とリエジャード劇団のことをずっと考えていた。
4,
そろそろ時間だと言われ、私は壁から身を離した。ずっと同じ姿勢だったせいで首と背中が痛い。ルイスは首をさする私を気にすることなく歩き出す。慌てて彼についていくが、さっきよりも少しだけ歩くのが遅くなっている気がした。こちらに合わせているのか、ただ気分が落ち込んでいるだけなのかは判断がつかないがありがたい。来た道を戻り、人気の多い場所に出たところで、すぐにリエジャード団長とかち合った。三人とも驚いて一瞬固まったが、すぐに団長が話し出す。
「ああ、今から客席に行くところか?」
「はい、そろそろ入場時間になるので、もういいかと」
「そうか。ならここからは私がエスコートしよう」
「え」
思わず声を上げた私に、団長は柔らかく笑いかけた。
「できることならクリスの近況なども聞いてみたいですし、よろしいですかね?」
「あ、はい。もちろんです」
この人とも初対面なことに変わりはないが、話しているだけでストレスのたまるルイスより悪いということはないだろう。団長の提案に、私は一も二もなく頷いた。それを見て何を思ったのかは知れないが、ルイスは僅かに顔をしかめた。そして、なら俺はこれで、とだけ言ってふらりとどこかへ行ってしまった。その背を見送ってから団長が私に苦笑交じりに話しかける。
「すみません、ルイスは少し気難しいやつでして。周囲とも諍いを起こしてばかりなんです。何かご迷惑をおかけしたかもしれませんが、お許しください」
予想外の丁寧な謝罪に、いえそんなと小さく返す。ルイスの捻くれた性格は団長にまでしっかりと伝わっているようだった。というか、そこまで孤立しているのによく仕事が続けられるものだ。私だったら転職先を探す。
「…仲のいい人とかいなさそうですね」
先程溜まった鬱憤を、つい言葉にして漏らしてしまった。団長はまたも苦く笑う。
「そうですね、彼が誰かに気を許しているのを見たことがありません。ルイスと話をしていたのはそれこそクリスくらいでした」
その言葉を私はなぜか意外に感じた。もしかしたら、さっきの素直な姿のルイスはとても珍しいものだったのかもしれない。だからどうという話でもないが。
団長に促され、私たちはホールに向かって歩き始めた。ルイスのときは後ろを追うようにしていたが、団長は歩くのがかなりゆっくりだったので、私は彼の隣を歩いた。
「クリスの話を聞いても?」
団長にそう問われ、私は返事につまる。ルイスと聞き方は違うが、答えを私が持っていないことは同じだ。
「すみません、手紙で何度かやり取りをしただけなので、ジラントさんの近況とかは詳しく知らないんです」
「そうだったんですか」
特にがっかりした様子もなく、彼は再度尋ねてきた。
「では、あなたがクリスから紹介状をもらった経緯は聞かせていただけますか?」
そんなことを聞いて何になるのかと思ったが、別に減るものでもないので全て話した。
劇場で出会ったこと。クリスの顔面を蹴り飛ばしたこと。その後すぐに紹介状を渡されたこと。最初は行く気がなかったが、手紙で何度も勧められてこの劇場に来たこと。紹介状をサインとして売ったことだけは話さなかった。さすがにそこまで図太い神経はしていない。
話しながら、改めてなかなかに酷い成り行きだと考えていたが、横で聞いている団長は始終楽しそうにしていた。そうして話し終えたら、大して間を空けずに質問が飛んでくる。
「手紙が何通もきた、と言いましたね?」
「あ、はい。そうです」
「そこまでされても了承しなかったのに、なぜ最後には行く気になったのですか」
これには先程とは違う意味で返事に窮した。理由はある。だがあまり堂々と言うような内容でもない。それでも無料で席を用意してもらった負い目があるので、結局私はそれを口にした。
「…旅費を、もらったんです」
「はい?」
「ジラントさんの話では、チケット代は払わなくてもいいとのことだったんですが、それ以外にかかるお金も払いたくなかったんです。そこまでして演劇を見たいと思えなかったので。そう手紙に書いたら、なら旅費は全額負担する、と」
三拍ほど間をとってから、団長はそうでしたか、とだけ言った。私はとてもではないが団長の顔を見る気にはなれなかったので、まっすぐ前だけを見て歩いた。しかたないだろう、母に秘密という前提で動けば一番の問題は旅費だったのだ。学生のお小遣いで日帰り旅行は無理がある。本当に全額出されたのには驚いたが、そこまでされては行かないわけにもいくまい。それに余った分はこっそりもらってしまおうと画策していた。まあ、右国側の対応が予想以上で、とても余ってくれそうにないが。
何とも言えない気まずさを感じていると、団長がまたも話を振ってきた。
「ところで、演劇を楽しめないとのことでしたが、何か理由があるのでしょうか」
「あ、はい。あります」
気遣いから変えてもらった話題に食いつき、すぐさま後悔する。こちらの話もさして気まずさに違いがない。私の反応に気づいたのか、団長は無理にとは言いませんが、と付け足してくれた。少し迷ったが、もうなるようになれと思い、私は勢いで話し始めた。
「楽しめないというよりも、先に違和感を覚えてしまうというか。小説とかなら創作物として面白いと思えるんですが、作り物の舞台の上で演技をしている人を見るとどうにも、嘘をついているだけに見えてしまって。失礼なことを言ってすみません」
説明をしてからそのまま謝り、おそるおそる団長の顔を仰ぎ見る。
彼は、今までで一番楽しそうに笑っていた。肩を震わせながら、心底可笑しそうに。
どうやら私の心配は杞憂だったらしいが、なぜ今ので笑えたのかが理解できない。一人で戸惑っていると、団長の方からまた話し始めた。
「申し訳ありません、決してあなたを馬鹿にしたわけではないのです。ただ、あまりにも面白いことをおっしゃるので、つい」
笑い交じりの声で言われ、とりあえず相手が不快になっていないことに安堵する。
「面白かったですか、今の」
「はい、とても」
質問はあっさりとした肯定で返された。彼は笑顔のままに言葉を続ける。
「あなたは演劇を嘘と表現しましたが、それは違います。私たちは日々を過ごしているときに数多の嘘をつくでしょう?それは相手を騙すためだったり、その場を誤魔化すためだったり、人を傷つけないようにするためだったりします。特にこのご時世では、人々は嘘を警戒するようになる。なにせ隣人が突然亡命したり、国がそれを殺してでも止めようとする時代ですからね」
その言葉に、私はルイスといい勝負ができるであろう間抜け面を晒すことになった。この人は本気でこんなことを言っているのだろうか。ただでさえ右国は言論の弾圧が厳しいらしいのに、誰かに聞かれたらどうするつもりなのか!いや今まさに私に聞かれているのはいいと思っているのか?
動揺する私の思考を置いてけぼりにして彼は話し続ける。
「ご存じですか?右国を管理している大国の上層部は、右国のことを左国、左国のことを右国と呼んでいるんですよ」
「え?」
「豊かな方が左国、貧しい方が右国という認識が広まってきてしまったため、私たち右国民に逆の意味で覚えなおさせようとしているんです」
私はまたも呆然としてしまう。そんな話は聞いたことがない。つまりそこまで浸透していないのだ。それでもそんな馬鹿げたことをやろうとしている。まともな大人のやることとは思えなかった。
「これが私たちの生きる場所にある嘘です。では、演劇は?確かに舞台は作り物、小道具は偽物、人は役者が一時的に演じているだけでしょう。ですが、そこに嘘はない。脚本から創られた世界には誰も手を加えることができません。劇場というハコの中、その舞台の上は現実世界の介入がない分、まさしく嘘偽りのない世界です」
「…なるほど」
なんとも間の抜けた感想だと思う。それでもしっかりと納得はできていた。なるほど確かに、そうやって考えれば、舞台上に嘘なんて存在しようがないだろう。考え方を変えてみれば、私も演劇を楽しむことができるだろうか。今から見るのだから、少しくらいは肯定的に捉えられるようになっていた方が得だろう。そのとっかかりが得られたことに、少し安心した。
いつの間にか廊下からは人が減り、代わりに前方からは人がにぎわっているような音が聞こえてきた。もう入場時刻になっているのだろう、祭りの前にも似た高揚感が伝わってくる。そのとき隣を歩いていた団長が足を止めた。
「このまままっすぐ進めばホール入り口前に出ます。扉の前にいる係の者に言えば、席まで案内してもらえますよ」
どうやらここから先は一人で行けということらしい。迷いそうもないので不満もなかった。
だけれど、その前に。
「わざわざここまでありがとうございました」
「いえいえ、どうぞ楽しんで見ていってください」
「その前に、一つだけいいですか?」
「はい、なんでしょうか」
快く了承の返事をくれた団長に、ずっと気になっていたことを聞いた。
「なんで、名刺の裏面しか見なかったんですか?」
「…はい?」
笑顔のまま首をかしげる彼の目を見ずに言葉を連ねる。
「ジラントさんは名刺の裏面にサインとメッセージを書いて私に渡しました。最初はその場に書けるものが名刺しかなかったからなんだろうと思ったんですが、違いました。あの人が二回目以降から送ってきたものも、全て名刺の裏に書いてあったんです。だから私は、名刺とサインの二つ合わせてクリストフ・ジラント本人の証明になるんだと思ってました。でも、あなたは裏面しか見なかった。サインとメッセージだけです。これじゃあわざわざ名刺に書いた意味がありません」
「そんなに重要視するところでしょうか?一度目が名刺だったから、二度目もそれに合わせただけでは?」
「いえ、それは絶対にありえません」
ここだけは断言することができた。ついさっき、ことの危険性を体験したばかりなのだから。
「左国から右国への印刷物の持ち込みは禁止されています。名刺に書いても持ち主のリスクが増すだけです。私なら絶対にしない。ただの紙に書きます」
「…ええ、確かにそうですね」
団長が静かに首肯する。それを見て、ああ本当に当たっていたのかとぼんやり思う。
初めから疑問だったのだ。旅費は現金で提供してきたのに、チケットだけは紹介状という形を崩そうとしなかった。それに、出会ったばかりの学生に演劇の楽しさを教えるために、普通あそこまで尽力するだろうか?いやしない。普通はしない。他に理由がない限りは。
ジラントは亡命者だ。しかも名前も顔も売れている名俳優。もし右国に何らかの形で関与しようとしたら、右国側は警戒して絶対に受け入れないだろう。例えば手紙なんて送ろうものなら、中身を検閲されること間違いなしだ。偽名で送ったとしてもまだリスクは大きい。ならどうすればいいのか。彼は代案として、自分とは全く無関係の人間を使うことにした。おそらく人選の基準は、うまく丸め込んで制御できること、ある程度は自分で危機管理ができること。また、ジラントはメッセージを自分のものと示すためにサインをしたかったが、ファンはそれを自分のものにしたがるだろう。実際、私は彼のファンのクラスメイトに売りつけている。だから演劇や役者に過度な興味を持たない人間がよかった。
名刺を紹介状にした意味も感づかれてはならない。ただの紙に書いたら、運び手はメッセージを隠すことに全力を尽くさなくなる。もしかしたら、名刺の紙自体になにか仕込んであったのかもしれない。
右国の知識が豊富すぎるのもよろしくないだろう。これもまた名刺のことに感づく可能性を上げる要因になる。
たぶん、私はとても都合のいい人間だったのだろう。丸め込めて、ある程度は考えていて、演劇や右国の知識、興味が乏しい学生。そう考えると辻褄が合う。それでも、これらのことをこの場で口に出す気はさらさらなかった。そこまで馬鹿にはなれなかった。
考えることに疲れて小さくため息をつく。そして僅かにそらしていた目を団長に向けた。彼は困ったように笑って言う。
「正直、ため息をつきたいのはこちらですよ。…これからどうするおつもりで?」
それはもちろん決まっている。
「このままホールに行って、劇を見て、帰って寝ます」
それを聞いて、彼はそっと頷いた。
「私なら劇を見た後の帰路を、今夜は急ぎ足で進みます」
「分かりました。ご丁寧に、どうもありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。運び手があなたでよかった」
お互いにお辞儀をしあった後、背中に痛いほどの視線を感じながらも私はホールへ向かって歩き出した。
5,
日帰り小旅行から数日後、左国の新聞の一面には『リエジャード劇団、左国へ亡命』の文字が華々しく踊っていた。記事によると、元団員であり先に、亡命に成功していたクリストフ・ジラント氏が左国側から手引きし、劇団員全員での大規模な亡命を決行したらしい。数日前に行われた公演終了後に、夜間の内に逃亡という、ジラント氏のときと似たような方法だったとか。
一面にはリエジャード劇団の写真も載っており、皆が皆輝かんばかりの笑顔を浮かべている。そこには当然ジラントもいて、リエジャード団長と抱き合っていた。『感動の再会に皆心から喜び、涙していた』そうだ。
「ザシャ、朝ごはんを食べながら新聞を読むのはやめなさい。お行儀悪いわよ」
「はぁい」
母の言葉に従い、新聞から目を離してゆで卵の殻むきに集中する。
母には私が右国に行ったことはバレていないようだった。少し遠くまで散歩していたと言えばあっさりと納得してもらえた。あっさりしすぎていて拍子抜けし、逆にボロを出しそうになったほどだ。
何はともあれ、私は大量の手紙に煩わされることもなくなり、一か月前の生活に戻ることができたのだ。ゆで卵を口に押し込み席を立つ。そろそろ急ぎ始めないと遅刻してしまう。ゆで卵を咀嚼しながら上着を着替え始めた私に、母は呆れたような目を向けながらも何も言わなかった。もう諦められているのかもしれない。
ゆで卵を飲み込んでから、最後にもう一度だけ新聞を見る。写真のどこにもルイスの姿は映っていなかった。単に画面の外にいただけなのだろうか。それとも、あの性格が災いして連れて行ってもらえなかったのか、自分から行くことを拒んだのか。この写真と記事だけでは何も分からないが、まあ、私には関係のない話である。私は新聞を畳んでテーブルの端に置き、身支度を整えに洗面台へ向かった。
ハコの中の誠 垣峰仁 @TKHNIHHK
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