主人公は、登山中、滑落してしまい、生死の境をさまよう。そんなとき、「女」の声がして――。
もはやこの地球に秘境などない。いまや、この地球のほぼすべての場所は、地図の上にその名を刻まれている。光が、科学技術の進歩や文明の発達という強烈な光が、今や我々の住む世界を包み込んでいる。闇は失せた。そんな時代だ。
だからこそ、この小説の内包する「得体のしれないぞっとする感覚」を現代人のみなさんに味わっていただきたい。
この物語を読み終えて、ぞっとする感覚にふるえたぼくの脳裏にあることばが浮かんできた。
なぜだろうか、ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という有名なことばだ。
そう、この話は山に魅了された男だけの話ではないのだ。山――人々を魅了し、理解したと思えても、人の手が及んで整備されたかに思えても、まだ我々の知らないダイナミズムがうごめく世界の話でもある。
気が付いたら見つめられていたのは、どっちなのだろう。人は自分が見ているとき、見られていることに気が付かない――そして――。
ところで、ぼくは、登山もしないし、平地生まれ平地育ちのため、山の不気味さを直に感じたことは皆無という人間だ。しかし、そう、あれは今は遠き学生時代の林間学校のときであった。とある山中のハイキング・コースにひっぱりだされたのだ。そのとき、引率の先生にこう言われたのだった。そして、今、この小説を読もうと思われるかたに、ぼくはこのことばを語ろう。
「最後まで、気を抜くな。帰ってくるまでが、山歩きだ」
決して途中で、ほっとして、手をとめないように。物語の世界から帰ってくるまで、最後まで気を抜かれぬよう。
まだお読みでないかたは、ぜひ、次はこの小説をお登くださいませ。