恋は終身刑

eLe(エル)

享年21歳

 私八幡 美波やはた みなみは、同じ仕事の先輩である新家 宥斗にいけ ひろとに恋をしていた。


 入社して3年。馬鹿みたいな片思いだと思った。だって、


「新家さん、カッコいいよね。でも、彼女いるらしいよ。遠距離の」


 入社してすぐにそんな話を聞いて、私は勝手に落ち込んでいた。それでも好きだったんだ。


「も、申し訳ございません……」


 入社してすぐにお客さんらしき人が来て、訳もわからない私はおどおどしていた。それが気に障ったらしく、私は随分と文句を言われた。そんな時に現れたのが先輩だった。


「申し訳ありません、ただいま担当の者が参りますので」


 先輩はひたすら謝って、私の身代わりになってくれた。少女漫画みたいな展開。ベタな話かもしれない。でも、私はそれが嬉しくて、心が揺れてしまったのだ。


「あ、ありがとうございます」


「あんまり気にしないで」


 そう言って微笑んでくれた。まともに話したのはそれくらい。あとは今に至るまで、業務的なことで話すことがあったけれど、ロマンチックなロマンスには発展しなかった。


 *


 正直、男性は嫌いだ。というか、苦手だ。どう対応していいか分からない。


 学生の頃だっていろんな人と話をしたけれど、距離感が分からない。異性ってそういうものなんだって、私は引っ込み思案で、性格上しょうがないんだって。


 そうやって言い訳して、男性に免疫がないまま辿り着いたのが、この初恋だった。我ながら浅い女だと思う。


 それでも、ネットの書き込みや漫画で誰かが言っていたことが初めて分かった。恋は盲目。先輩に彼女がいても、他の女性から言い寄られていても、私はそれでもいい。ただ先輩が好きで、叶わない恋だとしても、想い続けられるなら。


 だって、諦めようとすると、心臓がはち切れてしまいそうだったから。時にそんな恋は無駄だよって気がついて、無かったことにしてしまいたくなる夜がある。それでも、私には捨てられなかった。どれだけ涙を流しても、この恋が大切だったから。


「ね、聞いた? 八幡さん」


「な、何をですか?」


 同じ部署の女性の先輩、一ノ瀬さんはゴシップ好き。私が昔から先輩に想いを寄せていることも知っている。そのせいか、妙に嬉しそうな顔をして、


「ここだけの話ね。新家くん、彼女さんと別れたらしいのよ」


「え? そ、そうなんですか」


「随分ここの所、元気がないからそれとなく聞いてみたらね。あの様子じゃ、別れたのは最近ね」


 チャンスじゃない? なんて背中を押されて、やめてくださいよ、なんて返す。するとちょうど先輩が通りかかったものだから、私は慌てて顔を背ける。その場から急いで逃げ出した。


 チャンス? 彼女がいなくなったから、私が彼女に立候補する?


 そんなの、おこがましい。とてもじゃないけれど、私には考えられなかった。


 その日の夕方、私は仕事を終えて更衣室に向かう。と、今日は週末だからか、皆早上がりでほとんど誰もいない。倉庫の鍵を締めた方がいいかと思い、引き返した。


 すると、


「え? に、新家先輩?」


「あ……八幡さん」


 私は思わず固まってしまった。あの先輩がいたこともそうだけれど、どうしてか先輩は泣いていたのだ。当然そんな姿見たこともなければ、想像したこともない。


 私は見てはいけないものを見てしまった申し訳なさと今朝の噂話の後ろめたさが相まって、パニックだった。


「あ、あの、えっと、私でよければ相談に乗りますけど!!」


 ちょっと、え?私、一体何を口走っているの?


「……本当?」


 *


 どういうわけか、ファミレスであの新家さんと向かい合っている。


 ちょうどいいから食事でも、という所までは覚えているけど、どうやってここに来たのか、緊張で覚えていない。


 お互い適当に注文して、いつもなら明るく爽やかな先輩の表情が暗かった。私も私で何を話せばいいか分からない。重苦しい空気の中、先輩が何か言おうとしたのを見て、


「あ、あの! 無理しなくて、いいですから。私、勝手に誘って、勝手なこと言いましたけど……言いたい時でいいです」


「八幡さん……」


「そういう時って、ありますよね。私もあるので」


 先輩は私のせいで言い留まって、まだ申し訳なさそうな顔をしている。私はきっと、聞きたくなかったのかもしれない。先輩の口から、彼女のことを。


「でも、申し訳ないな。週末にこんな時間を使わせて」


「……じゃ、じゃあその代わり」


「え?」


「その代わり、またご飯してください」


 私はほとんど、ブレーキの壊れた自転車みたいだった。コントロールが効かない。けれど、やっぱり思ってしまう。あれほどに想い続けた彼が、目の前にいる。経緯はどうあっても、二人きりで食事出来ていることが、何よりも幸せで。


 だから私の奥底にある気持ちが、本能的にそれを求めたのかもしれない。


「……うん、分かった。俺で良かったら。というか、むしろ俺の方がお願いする立場だよね」


 私は、弱みに漬け込んでいるんだという、鉛を飲み込んだみたいな後ろめたさがあった。けれど、どうせ叶わない恋ならばと言い聞かせて。


 *


 その後、何度も先輩と食事をする機会があった。核心に迫る話はなかったけれど、仕事の話やたわいのない話。それはまるで、彼女のようだとも思った。勝手に舞い上がって、こんなに恵まれてて、いいのだろうか。だって、彼にまだ彼女がいるとしたら。


 と、その時に頭に過ぎる。もしも彼が、彼女とのことで悩んでいるのなら、手助けをすることは藪蛇なのではないだろうか。と、頭を振って我に返る。そんな悪どいこと、私にできる訳が無い。心を鬼にして、必死に私に振り向いてくれって誘惑する? 恋愛なんてまるでしたことがない私に、略奪なんて。


「どうかした?」


「い、いえ!」


 それでさ、って話を続けながら笑う先輩の顔を見て、悟る。そうだ。私は、これでいいのだと。ずっとこのままでいいのだと。


 いいのだと分かって、私は家に帰ってから毎晩泣いた。彼に呼ばれて楽しく食事をすればするほど、心臓の痛みは増していく。


 なんで、どうして。諦めるって思ったのに。


 二人きりでいる時間。夢みたいな、幻みたいな、嘘みたいな時間。それがたまらなく幸せで、何度も繰り返しているうちに、私は欲張りになっていた。


「う、うぅ……先輩……やっぱり、好きなんです……」


 一人布団に蹲り、泣き伏せる。押し込めれば押し込めるほど湧き出る想い。


 私は一体、どうすればいいんだろう。身の程知らずに、彼を求めてもいいのだろうか。


 *


 泣き腫らして寝落ちた私は、朝目覚めて決心する。このままじゃ、何も変わらない。玉砕覚悟で、告白するしかない。


 それに、期待がないわけでもない。もう何回も食事をし、彼からも不満はない。誘われ方も自然になっていて、今日私から連絡を入れた時も、自然とOKが出た。すると、予約されたのは初めて個室の居酒屋だった。もしかして、彼も気がついたのかもしれない。


 それとも、いよいよ彼の悩みを聞き出せるのだろうか。いや、そうだとしたら先手必勝だ。私はない勇気を振り絞って。


「あ、あの先輩」


「ごめん、八幡さん。今日は俺から言わせて欲しい」


「あ……わ、わかりました」


 今までにない、彼からの圧力。優しい先輩が、珍しいと思った。けれど、真っ直ぐ見据えてくれる視線に、心臓から血液はいつもより倍の速度で全身を駆け巡っていて。


「……ずっと話せてなくて、ごめん。でも、いい加減八幡さんには伝えなきゃ、って思って。俺の悩みのこと、それと……八幡さんのこと、どう思ってるか、ってこと」


「は、はい」


「……実は」


 心臓は激しさを増して、このまま止まってしまうんじゃないかって。


 そんな時に言われた言葉で、私は本当に凍りついてしまった。


「……え?」



「……亡くなったんだ、1ヶ月前に。楓が、俺の元婚約者が」


 彼は伏し目がちに語った。私はそれを、じっと同じ姿勢で聞いていた。


 婚約者。いや、分かってたことだ。想定してたことだ。でも。


「でも、まだ好きなんだ。指輪だって買って、その矢先だった。八幡さんに泣いているのを見られた時から、話せるようになるまで、立ち直るのも無理だって思ってた」


 まだ、好き。その言葉に、私は表情を変えぬまま、体を切り裂かれたような痛みが襲って。


「正直、死のうと思ってたんだ。どれだけ時間が経っても、受け入れられたとしても、楓は戻ってこない。なら、もうそれでいいやって。けれど、楓はそういうの、許してくれないタイプなんだ、きっと」


 彼が悲しそうに、それでも彼女のことを語ると、今まで見せないような表情で笑っていた。


 好きなんだな、って分かった。


「どうにか前を向きたい。楓の分まで生きたいって思った時、八幡さんがいたんだ。八幡さんがいなかったら、今頃どうなってたか分からない。恥ずかしいけれど、心の拠り所になってたんだ。だから、本当にありがとう」


「いえ、そんな……」


 私はほとんど抜け殻の状態で、彼に答えていて。


 目眩がする。アルコールをまだ含んでいないのに、クラクラして、座っているのに倒れそうになる。それでも私は、笑っているようだった。彼の言葉に必死に合わせて、愛想笑いをして。


 彼女さんって、どんな人だったんですか。


 彼女さんの、どこが好きなんですか。


 試すみたいに、聞いてみる。すると彼は嬉しそうに答えた。聞いて欲しかったみたいに、次々に言葉が出てきて、元婚約者の絵が私の脳内に緻密に描かれていく。無邪気な姿に、一瞬私は嬉しくなる。


 栗田楓さんという人は、先輩の一つ下。ずっと学生の頃から付き合っていて、仕事や家庭の関係で遠距離になって、ようやく同棲出来るというタイミングで事故に遭ってしまった。


 彼女はこういう映画や漫画が好きで、どんな時にどんな風に笑う。今私が食べているものは嫌いで、どちらかといえばこういうものの方が好き。でも、食べ方は男勝りだから、自分が女々しいって叱られることもあったとか。


 相槌を打つたび、胸が焼かれるようだった。彼の笑いに合わせて笑うと、私は足から石化していくみたいだった。


 痛い、苦しい。けれど、残酷だ。私はまだ、彼を愛してる。まだ、好きでいるみたいだった。


 だから私は、これからもずっと、彼が求める拠り所で有り続けようと。


 慣れることのない痛み。麻酔を使わずに、皮を剥がされていくみたいな感覚。それでも彼は、私は、何かに縋りつくみたいに笑っていて。


「私は新家先輩に助けてもらったので、その恩返しが出来るなら、嬉しいです。だから、いくらでも自分を使ってください」


 ありがとう。いつもみたいに明るく笑う先輩。そうして居酒屋の前で別れる。


 あぁ、よかった。だって、彼を笑顔にできるのはもう、私だけなのだ。


 なら、仕方ない。そう在るしかないよね。


 こういうやり方でしか、彼を愛せないんだから。


 街灯の下、大通り沿いで車が走る。やがて雨が降り出すと、人々は傘を差し始めた。私はそれに数秒遅れて気がついて、立ち止まった。確か、傘は持ってたはず。だけど、


「う、うぁ……あぁあああ……」


 気づけば私は、膝から崩れ落ちていた。水溜りが出来始めるアスファルトの上で、もう耐えきれないと。すれ違う人の目も気にせず泣いていた。


 *


 翌朝。当然このことは誰にも言えぬまま、出勤する。


 すると、どこから聞きつけたのか、


「ね、どうなの? その後新家くんとは」


「あ、いや……」


 一ノ瀬さんのお節介は、今日に限ってはしんどかった。

 けれど私が照れているものと勘違いしたのか、


「え、いいのよ。うまく行ったならそれはそれで八幡さんが選ばれたってことなんだから。胸張って!」


「い、いや、違……」


「何? 付き合ったの、ついに? よかったじゃない!」


 一ノ瀬さんのグループが集まってくると、勘違いが伝播していく。このままだとマズい。必死に止めようとしていた時、また偶然のタイミングで、


「あら、噂をすれば!」


「ちょっと、新家くん。八幡さんのこと、どうなの?」


「い、一ノ瀬さん……」


 先輩は何のことかと最初戸惑っていたが、おばさま方の熱と雰囲気で察したようで。


「あぁ……そういうことですか」


「そうよ。八幡さん、一途なんだから。放りっぱなしはかわいそうだと思わない?」


 一ノ瀬さんは火がついてしまったようで、今までの気持ちも全部バラしてしまっていて。まあ、この際だからもういいかと、その点は諦めていた。新家先輩も本気にしないだろうし、先輩とはそういう関係とは別の、特殊な間柄になってしまったのだから。


 と、先輩はこちらを一瞥したかと思うと、


「付き合ってますよ、八幡さんと」


「……え?」


「や、やっぱり!!? ほら、やっぱりそうじゃないの、八幡さん、よかったわね!」


「し、新家先輩……?」


 彼は、きっと助けたつもりだったんだろう。二人だけの秘密があって、今後も密会する。であれば、確かに付き合ってるって方が違和感もない。


 けれど、その噂はあっという間に広まって、この社内恋愛は公然のものになった。ただ私自身は、その関係に違和感しかなかった。


 だって昨日のそれは、恋人とは程遠い関係だったから。


「……あ、あはは。ありがとう、ございます」


 彼は一体、どういう気持ちなのだろうか。


 私の気持ちは、いったいどこにあるのだろう。私は今、どうやって笑ってるんだろう。


 私は、見えない穴に落とされたみたいだった。この際限のない想いは、一度ガラスのコップがテーブルからこぼれ落ちるみたいにして、木っ端微塵に砕かれた。


 私の恋する男性は、死者に恋をしています。


 それでも、諦められない。私は、死者を殺すしかないの?


 なんて不謹慎な想いは、消したはずだった。私はまた今まで通り、傀儡になって彼を一目惚れする立場でいよう。そう思ったのに。


「八幡さんはすごく優しくて、それで好きになりました」


 私はその、中身のない言葉に、息苦しさを覚えた。


 粉々になったガラスを拾い集め、無理やりセロハンテープで止めて元通りにする。良かったね、念願が叶ったねって、周りは祝福する。遠距離の彼女に競り勝っただとか、一途の恋の勝利だとか。


 私の隣の”彼氏”は、そんな声を受け入れて世渡り上手に笑っている。


 終わりのない、蟻地獄みたいな恋。


『ねぇ、これでもまだ彼のこと好き?』


 私は静かに肯く。


『そうだよね。でも、ずっとこんな歪んだ片思いでいいの?』


 いいわけない。でも、どうしようも。


『どうしようもないって、言い訳ばっかり』


 分かってる、分かってるんだ。焦燥感に、汗が滲む。


 喉が乾いて、何か飲みこもうとしても、喉が降りてくれない。


 砂がどんどん口を塞いでいくみたいな感覚。そうして私は何かに飲み込まれていった。


 *


 私は目覚めると、病院にいた。


「あ、あれ……」


「気がついた?」


「先輩? どうして……」


「八幡さん、あの後倒れちゃって。すぐ救急車呼んで、貧血らしいけど、過労とかもあるだろうからって今日は休んでもらうことにした。本当は親御さんを呼ぶところだったけど、他の人があの流れでこの人が彼氏ですから、って煩くてさ」


「……あぁ、そうだったんですね」


 私は真っ白な天井を見上げながら、ふとそのことを思い出していた。静かな病室、隣には最愛の男性。けれど、その人は。


「……先輩」


「どうかした? 何か欲しいものがあったら、買ってくるよ」


「いいえ……一つ、聞いてもらえますか?」


 彼は静かに肯く。


「……本当に好きになったら、ダメですか?」


「……え?」


 先輩は本当に驚いた顔で、しばらくこちらを見ていた。私はまたクラクラしてきた気がして、仰向けになったまま。


 彼は、何て言うだろうか。何と言ったら、私は報われるんだろう。どうすればこの呪縛から、逃れられるのだろう。


 そう思って、時計の針が響く。どれほどの時間が経っただろう。


「……八幡さん、はさ」


「……はい?」


「楓は、許してくれると思うかな?」


「……あはは」


 彼の言葉に、私は涙した。


 あぁ、そっか。この恋はどうやっても、叶わないんだと。


 私は死者に恋をしたのも同じなんだな、って。


 彼は何か投げかけてきていたが、ほとんど聞こえなかった。


 私はぼろぼろと涙を零しながら。


 いつぶりだろうか、心から笑って、ほっとして眠れたのは。


 *


 そうして翌日。私のスマートフォンには一つのメッセージが入っていた。


『ごめん。やっぱり昨日の話は、無かったことにして欲しい。会社に付き合ってるっていうのも。楓に悪い気がしてきて……』


 それに既読を付けて、家を出る。画鋲が足に刺さったみたいな感覚だった。


「八幡さん、もう平気? あと、メッセージの件だけど……」


「……先輩、ちょっとだけ付き合ってもらってもいいですか?」


「え? あぁ、うん」


 そう言って私はいつものおばさまたちのところへ。大体ここへ来れば、ゴシップは自然と広がるのだ。


「あら、カップルお揃いでどうしたの」


「すみません、ご報告が遅れたんですけど、私子供ができまして」


「え? そうなの!?」


「え?」


 一ノ瀬さん他、事務の人たちは大喜びだった。けれど、先輩は目を丸くして。


「けれど、先輩は認知をしてくれない、とのことなんです。なんでも、前の彼女が忘れられないとか」


「い、いや、それは違……」


「それなら……前の人のことはきれいさっぱり忘れてくれるって、誓ってくれますか? 皆さんの前で」


「あ、いや……」


 この人たちの前で強硬手段に出ることなんて、したくなかった。けれど、それが一番円滑だ。それに、彼がどんな結果を出すかなんて、もう分かってる。


「いいんです。好きなんですよね、彼女のことが。私もその気持ちわかりますから、この子は私一人で育てますね。そういうわけで……今までお世話になりました」


「あ、ちょ、ちょっと八幡さん……」


 そう言い捨てて、私は半ば無理やり会社を飛び出した。彼は何か叫んでいたが、聞こえない振り。退職の手続きは、あとで何とかすればいい。ひとまず家に帰って泣くんだ。タクシーを捕まえるために大通りで佇んだまま、心を落ち着かせる。


 別に、先輩に復讐したいわけじゃなかった。本当に、何か仕返しをしたいって気持ちがあるわけじゃなかったんだ。


 でも、やっぱり私の中のわがままが、ほんの一粒のガラスでもいいから、覚えてて欲しいって。彼のどこかに刺さったまま生涯を終えて欲しい。そういう思いから吐いた嘘。必死の報復。


「……あーあ」


 ちっともスッキリなんてしない。喉に刺さった小骨みたいな不快感。未だここ数日で、彼の為にと浮かべた笑顔と時間を思い出す度、心が軋む。無理やり笑ってみたけれど、暫くはどうにもならない。


 先輩がどうなるか、それは分からない。会社で散々噂にされて、否定しようにも彼女はもう死んでるから無実を証明することも出来ない。無責任な男というレッテルを背負って、あの会社で生きていくのだろうか。彼女を馬鹿にされることの方が、彼にとっては辛いかもしれない。


 どっちにしても、この先もずっと死者を愛していくんだろう。それくらい彼女に依存してるみたいだったから。


 私も死ぬほどに彼のことが好きだけれど、死者に許しを得なければ叶わない恋なんて続けるくらいなら、死んだ方が増しだから。


「先輩が死んでも、好きでいられたかな」


 なんて馬鹿な問いを考えて、答えを出すのを辞めた。


 今は傷心のままでも、初めてのこの気持ちを胸に歩いていこう。


 そう決めて、後ろから叫び声が迫ってくるのが聞こえた。


 衝撃。


 私は思わず、笑ってしまった。


「……楓さんには、私から言っておくよ」


 見る目ないね、って。



 終



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