秘密

火植昭

秘密

 噂というものは、つくづく恐ろしく感じられる。それは終点のない地震のようである。そこで絶えず起こる波が、人をいつの間にか支配する。その被支配状態に、人は気づかない。

 しかし、それは実際に天災ではない。ひとえに人工物である。さすれば、噂を操作することが、人にとってどれだけの脅威で、また崇高な行為なのかは論ずるに及ばない。


 その点において、田島智は類まれな才能を持っていた。

 始まりは、些細なことからだった。

 高校二年生の夏、下校の最中に田島は妙におもしろい光景を目にした。田島の眼の先には、互いの指を絡め合わせながら一緒に歩く同学年の中川と安田の姿が並んであった。人通りが少なく、通学路としては自分以外に利用する者はいないと田島が感じていたほどの道でのことであった。

 これがとるに足らないただの逢瀬ではなく、おもしろい光景だと田島に感じさせたのは、中川には彼女として別の女がいたことであった。この真相を知っているのは自分だけだと、田島は確信した。同時に、高揚と恐怖が交互に心臓をめぐるような、儚い動悸を感じた。

 彼らの行動の一部始終をしかと目に焼き付けながら、ありもしない電柱に身を隠す思いで、田島はにわかに出てきた汗をぬぐった。


 翌日、田島は友人に事のいきさつを語った。その友人は話を聞きながら見ていた動画を止めた。

「ほ、本当か?」

「嘘でこんなこと言うか」

「だ、だよな。お前が言うなら、本当だわ」

「おう」

「てか、これはやばいな。広まったら、あいつらどうなるんだろう」

 その日の放課後から、田島はその話題を違う友人から聞いた。そしてその一週間後には、その話題は学年中を取り巻く噂となっていた。

 それから間もなく、中川は彼女と破局した。彼は面目を失い、学校の廊下を歩く時にはいつも顔を隠したいと思っているようなつぶれた様子でいた。下校の際も、彼は一人になった。


 この一件は田島にある快感を与えた。

 それから田島は、噂を流すことを習慣にした。同級生についてはもちろん、教師や芸能人にまで、学校で話題となるものの隠された情報を入手し、彼らを興奮させた。


 田島が優れていた点は、その内容の独自性と、行動の秘匿性にあった。

 田島が入手した情報は、大衆の想像の域を常に超えていた。彼はあらゆる手法を駆使して、誰かの秘密を掌握した。特に同級生や教師に対しては、盗聴や尾行、Twitterの裏垢の特定まで、できることはなんでもした。いずれの分野においても、彼は卓越した才能を見せた。

 また、田島は噂の発信源として認知されることはなかった。田島が同級生の緊迫した心理空間を少しでも刺激すると、それは瞬く間に大波となり、その波源の彼は姿をくらませた。


 ただしそうはいっても、田島はそれを楽しんでいたわけではなかった。むしろ、田島は噂の内容自体には全く興味がなかった。だからこそ彼は成功した。彼は学校での居場所を自分の机から集団の輪の中に移し、発言力を高めていった。


 しだいに、田島は依頼を受けるようになった。新情報の提供の依頼である。依頼主たちはいずれも饒舌で、自らが会話の中心となることを渇望していた。より大勢の気を引く話題を生産することが、会話の中心になるのには不可欠だったのである。彼はそれらの依頼を淡々と受け入れ、彼らを十分に満足させた。


 そして田島は、ある依頼を受けた。

「なあ田島。横田って知ってる?」

「知ってるよ。横田がどうした?」

「あいつの秘密を知りたいんだ。頼めるか?」

「ああ。わかったよ。」

 そう答えた田島の顔には、一瞬の陰りが見受けられた。

 横田は隣のクラスの女子生徒で、寡黙でいて、学年の社会との連絡を絶っており、関わる者もごく少数だったので、同級生からは不思議な存在と認識されていたが、その美貌とミステリアスな雰囲気とで一部の男子から注目を浴びていた。そんな彼女に、田島は以前から恋心を抱いていたのだ。

 さすがに少しは気が引けたが、田島に選択の余地はなかった。その依頼を断ることは、彼の積み上げてきた立場の揺らぎを意味していた。依頼を快諾した後、田島は自分の喉が鳴るのを聞いた。


 翌日の放課後、田島は横田の後をつけた。これまでの経験から、それはたやすいことのように思われた。横田は終礼後すぐに教室を出て帰るのが恒例になっていて、一緒に帰る者もいなかったので、尾行の終着点は横田の自宅になるだろうと田島は推理した。


 長らく時間が経ったが、横田は一向に立ち止まる気配を見せないので、田島は彼女が一体どこへ向かっているのかと疑問に思った。時計の長針は出発時から二周ほどしていた。これほどの距離を徒歩で通学するなら、自転車や電車で通学すべきではないかと単純に思った。疲労は感じていなかったが、彼の足取りは次第に重くなっていった。近頃おとなしくなったと感じていた蝉の声が、やけに彼の耳に響いた。


 ゆっくりと流れていく街の景色が少し雑然としてきたところで、横田は足を止め、近くの路地を曲がった。道が狭く尾行には適さないと判断した田島は、少し待って、時間をおいて路地に入った。もう夕日の残光は完全にその余韻をなくしていた。


 暗く薄汚い路地裏に入って少し進んだところで、遠くから黒猫がこちらをじっと見つめているのが見えた。その黒猫の側まで進むと、ある一家の会話が聞こえてきた。

「お姉ちゃん、お腹空いたよお」

「僕も。ごはんまだあ?」

「マキちゃん、ケンくん、もうちょっと待ってね。今日はお米に海苔を乗せて食べようね」

「えー、また?昨日もそうだったじゃん」

「マキ、ハンバーグが食べたいよ」

「こらこら、文句言わないの。お父さんが帰ってきたら、ごちそうしてもらおう」

 声のする方を見ると、横田と書かれた傾いた表札が朽ちた玄関の扉にぶら下げてあって、そこから目線を少しずらして見える格子の先には、赤子を背負って台所に立つ横田の姿があった。横田の家は、外から家の様子が一望できるほど、あまりにも無防備であった。彼女はそれを受け入れて、堂々としているように見えた。

 田島は全てを察した。それと同時に、たとえようのない悪寒が彼の背中を通過した。

 今、田島が目にしているのは誰も知りようのない横田の秘密であった。しかしながら、その秘密が露わになっているのは自分ではないのに、田島は自分の体の皮がゆっくりと剝がれていくような、耐え難い痛みを伴うもどかしさを感じた。彼女はこちらを向いているわけでもないのに、見られているような気がした。


 田島が横田に抱いていた神聖なものが、そうでなくなった。今までに感じたことのない感情だった。田島はすっかり放心してしまった様子で、その場に立ち尽くすしかなかった。

 田島はこれまでに自分がしてきたことを振り返った。彼はこれまで何の感情も抱かずに他人の秘密をつかみ、噂としていたが、それは聞き手によっては残酷なまでに空虚に感じられるものだということをようやく悟った。罪悪感はなく、ただ積み上げてきた自己が鮮やかに崩れていくのを快感として受け取るのみであった。

 そうこうしていると、不意に横田と目が合った。横田は少し驚いた様子でいたが、軽く会釈した。田島はそれに反応することはできなかった。横田はそのやりとりを済ませると、黙って元の作業に切り替えた。田島は何かをそこへ残し、体の向きを変えて、再び歩き出した。

 しかし、田島の行先はもうなかった。

「もう、やめだ。やめだ」

 そう言って、田島は目の前にあった小石を蹴った。それは遠くでじっと田島を見つめていた黒猫の下まで飛んで行った。黒猫は驚く素振りを見せずに、その蒲公英色の目を田島から放した。


 田島が姿を消してから数分後、悲しげな音が路地全体に響いた。その場にずっと居座っていた黒猫は、何か思い立ったように、静かにその場を去っていった。

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秘密 火植昭 @akirah_inoue

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